
アツシ
@atsushi
▼スターリンの娘 スヴェトラーナ
娘がまだ6歳の時、ソビエト政府は10月革命15周年を祝った。
その影でスターリンの妻ナジャージダ・アリルーエワは誰にも知られず自室で頭に銃弾を撃ち込んだ。
妻の自殺は内密にすべき悲劇だった。60年もの間、公式には死因を虫垂炎とされた。
スベトラーナとワシーリー(息子)以外には、ソヴィエトの最上層部だけが事実を知っていた。
これをきっかけに、乳母はますます愛情をかけるようになり、 二人の子供はすがる思いだった。
しかし、どれほど乳母の愛情と優しさに包まれても、娘は喜びと快活さを失い、 無口で気難しい性格になった。
父親のようになろうとしたのだ。母親の絶望の末の行いを理解しようとせず、彼女は怒りを込めて拒絶した。
息子のワシーリーは、嫌々ながら空軍のパイロットになった。
同じ連隊の将校が皆そうだったように、彼もほろ酔い状態で離陸するのが常だった。
酒を飲むと飛行のストレスをごまかせた。
娘であるスヴェトラーナは初めて恋をした。 きっかけを作ったのは息子のワシーリーだった
相手は39歳の映画監督
「彼はダンスがとても上手だったのを覚えています
彼の映画は大好きでしたつまり恋をしたのです
17歳という年頃は誰でも好きになるものでしょう最初に目の前に現れた人を好きになる
まさにそれでした」
しかしスターリンは映画監督を11年近くも強制収容所に追いやった。
表向きはこの収容所送りは二人の恋愛とは何の関係もないかのように処理された。
映画監督はイギリスのスパイとして起訴された。
彼がようやく自由の身となり、汚名を注ぐことができたのは、スターリンの死後、1954年だった。
「労働キャンプから帰ってきた時、映画監督は別人になっていました。私もすっかり変わっていました。彼は人生に使い切った顔をしていました。もう50歳でしたし、心安らかに生涯を終えることしか望んでいませんでした。
私は30近くになっていて、2人の子供を連れて離婚していました。」

アツシ
@atsushi
車の免許をとった私は、一番人気のあったエムカという車がありました。父は私の隣に座り、いかにも嬉しそうでした。父の護衛が手にピストルを持って後ろの席に乗りました。どうしてピストルなど持っていたのか分かりませんが、気にしませんでした。
本当に嬉しかったからです。
父のできないことが私にできるなんて信じられないことでした。 私に運転ができて、父はできないなんて。
結局、ソビエトの最高権力者の娘ということで得することはほとんどなく、束縛の方が多かった
スターリンの死からわずか1ヶ月後ワシーリーはスターリンの腹心だったベリアおじさんの命令で逮捕された。 子供だったスヴェトラーナを膝の上に抱いたあのベリアおじさんである
お粗末な裁判に引き出されたワシーリーは、いくつもの国家反逆罪の自白を強要され、 重屏禁刑務所で8年の懲役を科された
スヴェトラーナはその後一度しか兄に会えなかった
1967年、スヴェトラーノはインドへ行くことを特別に許可された。二度とないチャンスだった。彼女はここぞとばかりにアメリカ大使館に政治的亡命の請願書を出した。
スターリンの娘が敵の軍門に下ったのだ。
当時この離脱はアメリカのイデオロギーの勝利とされた。
アメリカに行った時、私が父についての意見をはっきり述べ、共産主義を告発するのではないかと皆が期待していました。
早い話、私は共産主義から資本主義に願ったというわけなのでした。ソ連から逃亡したということは反体制派だということになると言われました。
みんなそう思いただっていたのです。 私は逃げましたが転向したわけではありません

アツシ
@atsushi
▼毛沢東の息子 毛岸英
毛沢東の息子は、許しを得なければ父と連絡を取る権利さえなかった。彼の母親は毛の2番目の妻だった。
毛沢東は息子を鍛えるために中国人民解放軍の手にゆだね、立派な軍人になることを願った。
何の特別扱いも受けていないことをはっきりさせるために、彼は名前を変えた。毛沢東の息子だと名乗ることを禁じられたのだ。
1927年、毛沢東は別の女と関係を持つようになり、2番目の妻と一方的に縁を切った。離縁された妻は3年後、共産党軍を敵とする国民党軍に捕らえられた。
彼女が毛沢東の元妻だったことを知ると、軍は取引を持ちかけた。公の場で毛沢東の罪状を認めるか、さもなくば処刑か。
彼女は夫を裏切らない選択をした。彼女は29歳で殺された。その時息子は8歳だった。
母の処刑の直前、息子は弟とも共に共産党パルチザンの助けによって逃亡し、死を免れた。
7年後の1937年、毛沢東がようやく2人の息子をモスクワに送り込んだ。
その時2人は14歳と12歳だった。親子は10年間会っていなかった。
お前は本当にスターリンに会ったのか?
1945年、息子と再会したときに毛沢東は目を丸くした。
「はい、お父様によろしくとまで言われました。
「それはよかった。お前は本当に大きくなった。 大きな戦いに参加したお前は、毛家の息子として ふさわしい
だが それは 言葉だけだった毛沢東は息子の軍人としての教育を一からやり直すことにした。 息子は中国人民解放軍の下でありえないほどの虐待を2年間受けることになる。
右よりだと責め立てられさえした。
1948年、息子は毛沢東が手がけた農地改革に加わらなければならなくなった。 それはつまり、無学の農民に混じって牛馬のごとく田畑で働くことだった
証言者によると、毛沢東は亡くなる数時間前、他の子供たちや妻たちがどうしているか知りたがったという。 それまでずっと見捨ててないがしろにしてきた妻や子供のこと。

アツシ
@atsushi
▼サダム・フセインの息子 ウダイ
サダムは反逆者の処刑方法を子供たちに語り聞かせた
1979年、サダム・フセインの陰謀と静粛に明け暮れた日々がようやく報われ、共和国大統領に就任した。
サダムはまだ42歳、息子たちは15歳と13歳だった。
こうしてイラクは後継者のウダイとクサイのものになったのである
サダムはさらに念を入れて息子たちに規範を示した。
ためらいなく自ら手を下して政敵を征服し、イランとの国境近くのイラクの町ハラブジャで5000人近いクルド人を毒ガスで殺害した。
しかも人を殺すとはどういうことかをきちんと理解できるよう、政権初期、サダムフセインは息子たちを処刑の場に立ち会わせた。
ウダイの学歴については正確なことはわからない。しかし様々な証言を突き合わせると、鵜鯛は全く外国語もできなかったらしい
2003年アメリカ軍にバグダッドが制圧された時、ウダイが5000台近い高級車を持っていたことが判明
何百人人もの女性の名前と電話番号が書かれた黒い小さな手帳も見つかった。
5頭のライオンと2頭のチーターと1頭の熊がいる動物園まであった。
ウダイは異常なほど拷問に執着した。バーストの元幹部は証言する。
棒打ちの刑に加われない時、ウダイは代わりの人間を送り込んでやらせた。
だが苦痛の声を聞く楽しみを奪われたくなかったので、電話で悲鳴を聞き見ていた。
1987年、ウダイは自分の替え玉として一人の男を選んだ。新しい替え玉の最初の仕事は、チンパンジーと言われたウダイの笑顔に似せるために、 偽の歯を作ることだった。
さらに、ウダイにしっかりなりきるために、ウダイや治安要員が反逆者や敵対者を死ぬほど痛めつけているビデオを延々と見せられた
ウダイが父親の料理人ジョジョを撲殺したのは外交関係のレセプションの最中だった。 悲劇は1988年に起こった。
この時彼ははまだ24歳だ