
CandidE
@araxia
2025年3月24日

読み終わった
『異邦人』が小説としての形式美を追求しつつ不条理を体現しようとしたのに対し、『シーシュポスの神話』は不条理を説明しつつも、カミュの素顔が垣間見える哲学的エッセイである。カミュが言う不条理(absurde)とは、一般的な意味での理不尽(injustice)とは区別される哲学的概念だ。不条理は人間存在の宿命的伴侶であり、それを直視することが真の自由への第一歩となる、そういう性質のものであり、本作はその解説が主となっている。
本書は全体的に冗長さは否めないものの、カミュ自身の思想や文学への深い敬愛が直接的に表現されており、味わい深い。ドストエフスキー、カフカ、ニーチェ、キルケゴール、ヤスパース、シェイクスピアなど、多くの思想家や文学者への言及は単なる引用ではなく、彼らとの真摯な対話となっている。特に、ドストエフスキーの『悪霊』やカフカの『審判』における不条理な創造に対する批評は、一読書家の熱い魂の発露と巧みな議論が展開されており、その知的誠実さと探求の軌跡が、作品に温かみと人間味を付与し、読者に強い親近感を抱かせる。
カミュがシーシュポスの物語を通して示した不条理に対する反抗とは、終わりのない繰り返しという不条理な運命をメタ認知し、それを意識的に受け入れること自体が運命への反抗であるという逆説だ。さらに、その自覚の瞬間において人間は勝利を得、幸福に至るとカミュは主張する。「いまや、シーシュポスは幸福なのだと想わねばならぬ。」この思想が複雑な理由は、反抗による勝利が精神的・主観的なものである一方、客観的な現実としての不条理な運命そのものは決して消え去りはしないという二重性にある。
したがって、この抵抗によって到達する幸福は、一般的な意味からはかけ離れた、特殊な、あるいは超人間的な哲学的境地である。そしてその幸福は、貧困や不平等、絶望が繰り返される不条理から決して抜け出せない人間が、それでもなお自身の尊厳を保つために行う、静かで優しい抵抗に他ならない。これは一見消極的・受動的な弱者の哲学と批判されがちである。しかし、それは大きな誤解だ。
私意を差し挟むと、ニーチェとカミュの哲学には、無意味な世界への対応、という同根の核心があると考える。両者とも長く身体を煩い、高度な知性と親類の理不尽に向き合うなどの経験からその思想を発展させたが、結実の差異、すなわち、無意味性を克服すべき課題とみるか共生すべき条件とみるか、という根本的パラダイムの相違は、直面する貧困と自身と周囲の疾病の性質、家族がもたらす理不尽への対応や共存のアプローチの違いに起因すると思われる。
カミュは、不条理そのものと闘争することで、自らが不条理と同期し、同化してしまう危険性を熟知していた。ゆえに彼は、単なる反抗ではなく、反抗の意識を持ち続けることによる抵抗、すなわち不条理と同期しないように、自らを保護し続ける繊細な抵抗という道を選ぶ。
これは非常に厄介で深遠な精神操作であり、通常は理解されにくく、たとえ理解されたとて支持されにくい、そして実践も困難な生き方である。おそらくそれはカミュ自身が抱えていた深い矛盾から導き出されたものであり、彼が生涯を通じて追い求め作品に投影した理想に他ならない。
私はこの姿勢に強く共感する。それは絶望の最中にあっても、人間の尊厳と優しさを静かに守り抜こうとするその姿勢と忍耐に、普遍的な人間の美と力を見出すからだ。
運命という、自分ではどうすることもできない領分の中で、いかに自由を見出し、いかに生きるのか。私見では、その領分の限界を見定めることは極めて難しい。なぜなら、限界の閾値は自分自身だけでは決して完結せず、他者や社会との関係性によって絶えず揺れ動くからだ。そして、この領分の設定は、多くの場合、生まれた環境、時代、才能、運命といった初期条件によって左右される。
カミュが強調する反抗とは、その領分を超えて力を発揮しようとする闘争を目的とした強さではなく、あくまで自己の内面や精神性において弱さに屈服しない抵抗だ。したがって、自らの自由の領地を最大限確保しつつ、自身の領分を超えた無謀な闘争に巻き込まれないよう、注意深く境界線を引くことが求められる。
しかし、悲しいことに、この態度は時として自己犠牲へと転じやすい。そして、その自己犠牲は自己欺瞞と紙一重だ。自らの領分内における静かな抵抗と自己欺瞞に塗れた自己犠牲との差異は曖昧で常に揺らぐ。ゆえに、この哲学に共鳴する者は、自らの矛盾や欺瞞の深みに陥落する脆弱性を認識した上で、それでもなお、あえて反抗という態度を取り続けることになる。それは、各人の個別の最適化・最善の態度、すなわち銘々が限られた状況の中で自己の意識を明晰に保ち尊厳と自由を最大化する営みに準じた、弱さの受容と強さの拒絶という極めて繊細な倫理的選択の連続を、命尽きるまで丁寧に行う覚悟を突きつける。
「かれが山頂をはなれ、神々の洞穴のほうへとすこしずつ降ってゆくこのときの、どの瞬間においても、かれは自分の運命よりたち勝っている。かれは、かれを苦しめるあの岩よりも強いのだ。」
絶望や自己憐憫に囚われない精神。安易な同調を拒否し、個人の理性を保つことの信念。現実を直視しつつ、それでも連帯や手触り、生の実感を肯定し続ける姿勢。人間が生きることそのものが内包する本質的な矛盾、そして不条理といかに共存し対話し続けるのか——これらはカミュの文学が貫く主題である。この思索は以後、『ペスト』における連帯や『反抗的人間』における抵抗の概念へと発展し、不条理との共存と対話が物語や散文として描かれていくこととなる。


