ああああ "スティグリッツ 資本主義と自..." 2025年6月4日

スティグリッツ 資本主義と自由
スティグリッツ 資本主義と自由
ジョセフ・E・スティグリッツ,
山田美明
J.スティグリッツの新著。なぜこんな邦題にしたのか、いまいち図りかねるが原題は『The Road to Freedom』でおそらくF.ハイエクの『The Road to Serfdom』の向こうを張ったものだろう。 内容としては今までの集大成といったところ。『ショック・ドクトリン』で知られるN.クラインの”新自由主義に抵抗する最後の砦“との評にあるように、IMFを中心とした主流派経済学批判、日本でも良くある“将来世代にツケを残すな”といった誤解や経済主体としての政府の重要性、悪辣な金融界に対する批判の鋭さは御年82歳でも衰えていない。 全体としては同意をするところが多いのだが、いくつか同意しかねる箇所もある。 たとえばp.56やp.288、p.401はじめ本書を通して見られる啓蒙主義を拠り所に新自由主義を批判するところ。J.グレイが『ユートピア政治の終焉』で指摘しているように、新自由主義は啓蒙思想に源流を持つユートピア的イデオロギーという面がかなり大きい。 グレイはハイエクをK.マルクスに準えてこう評する。マルクスは資本主義に対して鋭い批評を発揮したが、彼の仮構した共産主義はひどくユートピア的であった。同じように、ハイエクも(ソ連に対する賛美の声が多かった時代で)計画経済に対して鋭い批評を発揮したものの、彼の仮構した自由市場経済はひどくユートピア的だった、と。こうして新自由主義批判を展開する。 同じようにスティグリッツも新自由主義に対しては鋭い批評を発揮しているが、進歩的資本主義なるものにも同じ危険性を感じないではない。というのも本書には例えばp.36やp.299-300にあるような、グレイの言い方を借りると”マニ教的二元論”のような終末論的文体が垣間見える時があり、これこそ新自由主義や真保守主義が啓蒙主義から継承したものではないのか?勿論現代には激しい分断が広がっており、本書の初めの方で言及される”オオカミとヒツジ“の喩えは適切であろうし、M.リンドやD.グッドハートはじめこれらの問題を論じている人を挙げればキリがないように重要な視点ではあるのだが、当のスティグリッツの言い分が問題の超富裕層たちや主流派経済学者の論調に似てくる時がある。 このユートピア的な傾向は氏のリーガリズム派リベラリズム的な意識にも見られ、J.ロールズを引用しながら啓蒙と合理の重要さを説くが、J.ミアシャイマーが『リベラリズムという妄想』で説明しているように、ロールズは合理性が自由主義社会でどのように開花するのかについて納得のいく答えは示していない。 さらに、科学や合理的な正しさを論拠に新自由主義を批判するのも適切とは思えない。確かに新自由主義は実証科学とは到底言えないイデオロギーで、R.スキデルスキーやスティグリッツのケチョンケチョンの非難はその通りなのだが、だからといってp.291のように宗教vs科学の構図の中で自然科学の実証性を経済にそのまますり替えるのは同意しかねる。 M.ウェーバーの理念型を挙げずともこれが問題であることはすぐに分かる。自然科学などどうでも良いというのではなく、経済学を自然科学と同じに語って一般化してしまえば新自由主義者と同じ轍を踏むことになる。 また、20世紀のアメリカの右派を連続したものとして批判しているが実は大きな断絶があり、正確では無い。代表的なのが70年代に台頭してくるネオコンで、その代表的人物であるI.クリストルはよく知られているように元はトロツキストである。反スターリン運動の中から登場したのがネオコン第一世代であり、20世紀のアメリカ保守主義は冷戦の影響で宗教保守や南部保守、さらにはリバタリアンまで様々な思想の人たちが呉越同舟の状況にいたこともあってかなり錯綜している。 そして共和党に食い込むことになるネオコンこそが新自由主義を展開することになるのは歴史にある通り。 左派のバラモン左翼的な問題についてはスティグリッツは余り言及しないが、民主党もB.サンダースが非難した意味で労働者を見捨てて企業や富裕層の味方になり仰せてしまったように、両党とも同じ穴の狢であると思う。 共和党も民主党もともにJ.ロックやA.スミスらを祖先に持つリベラリズムの系譜にあるのはミアシャイマーやP.デニーンらも論じているように明らかなのだが無視されがちのようだ。 最後にハイエクに関して少々手厳しすぎるとも思う。 ハイエクとM.フリードマンは共に新自由主義の旗手として名前が挙げられるが二人にはかなり違いがある。ハイエクには人間の能力に対する懐疑があり、人間の不完全性を説き、そうであればこそ人工的秩序より自生的秩序を重んじたのである。フリードマンにあるような自らの経済学を実証経済学と自称するような、急進的な態度は割に少ない。(無いとは言わないが) モンペルラン・ソサイエティの同志としての配慮からフリードマンの合理主義的思い上がりへの批判をほとんどしなかったが、のちにそれを悔いる姿勢も見られる。 M.サッチャーが『隷従への道』や『自由の条件』を愛読書にしていたのは有名な話だが、実際にはフリードマン的政策を実行していたのである。 私も別にハイエクが好きというわけではないのだが、しかしスティグリッツのハイエク評は少し偏りが過ぎるのではないか。 結構批判ばっかり書いてしまったが、本当にそれ以外は同意するところばかりの良書。 なお、新自由主義やネオリベという言葉は今やマジックワードと化して意味不明になってることが多いので整理したいところ。 『ネオリベラリズム概念の系譜』が参考になるか。
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