われ=われの哲学 (岩波新書)

1件の記録
- 石坂わたる@ishizakawataru2025年11月7日「いずれの場合でも、そこに人間の行為があって、行為の力がピラミッドをかたちづくる力とあらがいながら問題を噴出させ、『場』を『現場』に変える。」 「『現場』には、『他者』があまたいるゆえに、よほどしっかりと自分を持ちつづけていないと、それこそ『他者』にのみ込まれてしまうということがある。自主、自決がそこで要求されるのは当然のことだが、もうひとつ、『現場』には、さきに触れたことだが、人がそこにいっしょに何人いようと、「『現場』の壁にひとりでむきあっているようなところがある。」 「『現場』は大きく現在、過去、未来に時間的にも空間的にも開かれていると言うのだが、そうしたことのありようはふつう『場』には見られないことだ。」 「この『場』で、人は自分の存在のなかに閉じ込もることができる。たとえば、家庭の主婦は『主婦の座』に、会社員は『わが社の立』、日本人は『日本人の立場』に閉じ込もり、たてこもって、他者をすべて異分子として斥けることができる。『場』にいるのは自分ひとりだけで、たとえ、他者が万が一そこにいたとしても、それは異質の動きを示すものとしてあるのではないゆえに、『場』の一部だ。 『主婦の座』にたてこもる家庭の主婦にとって、彼女の子供は彼女の一部であって、独立した人格をそなえた他者ではない。『わが社の立場』、『日本人の立場』から見れば、わが社の人間、日本人だけがこの世界に生きる人間だろう。」 「私が日本語の『われわれ』ということばをガンチクのあることばだと思うのは、これほど個々におたがいが独立しながら、しかも結びついている『共生』のあるべき人間関係をみごとに言いあらわしていることばはないと考えるからだ。『われら」ということばが言いあらわす世界は閉じていて、自分たち以外の『他者』をきびしく咬別している感じだが、この『われ=われ』の関係のなかでは『他者』は『他者』でありつづけながら自分と結びついていて、『われ=われ」の世界は外にむかって大きく開かれた世界であるにちがいない。『われわれ」はそれを「われ=われ」ととらえるとき、そこで『われ=われ=われ=われ・・・・・・』というふうにつづいて行く連環のなかで考えて行くことができる。さっきからの例で言えば、黒人A、黒人B、黒人C・・・・・がそれぞれ自分の行為によって『われの現場』を持つことで、『われA"われB"われC"・・・・・」の連環をかたちづくれば、彼らに腕をさしのべる白人D、白人E、白人F.…・・・・&またそれぞれに『われの現場』を形成して、『われ"われの現場』の連環は『われAわれ BわれC"われD"われE"われF…・・・・』にまで拡大される。」
