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石坂わたる
@ishizakawataru
  • 2025年11月24日
    幸福の増税論-財政はだれのために
    「二〇〇一年以降、歴史的な、いや世界史的ともいうべき金融緩和をつづけてきたが、物価の上昇もかつてのような経済成長も実現されなかった。そもそも、四%、五%というかつての経済成長率は、二〇〇〇年代以降、ほとんどの主要先進国で実現できていない数字だ。 これが現実の姿である。いくら借金してもよいのだ、将来の成長が借金をなかったことにしてくれる、そうした主張は『願望』としては理解できるが、『現実』としては受けいれられない。財政支出がまだ足りないからいけないのだ、という主張は、市場の自由化が足りないから経済が成長しないのだと繰りかえした市場原理主義者のロジックとなんらかわらない。」 「日本経済が復活するとすれば、それは劇的なイノベーションをきっかけに、活発な資金循環がおきることを期待するしかない。しかし、日本銀行が大量の国債買入れをおこなうからこそ、経済の血液ともいうべき金融システムが機能不全化した。 現在の国債価格の安定は日銀の買入れによるところが大きい。その結果、長期金利がゼロ近くにべったりとはりつき、金利の変動こそが収益の源であるのに、市場の金利メカニズムが機能しなくなってしまっている。国債増発派がその拠りどころとするのは、日銀のさらなる買入れ、そして引受けだ。だが、国債発行を可能にするその条件こそが、成長力を弱める重要なファクターなのだ。」 「事業への貸付けは、イノベーションのためには不可欠なはずである。ところが、ここまで金利がさがってしまえば、リスクの大きな事業にも低い金利で資金を貸し付けなくてはならなくなる。金融機関はそのアンバランスさにおびえ、融資を踏みとどまっている。 皮肉な話だが、国債価格が暴落しない、財政危機はやってこない、だからこそ、日本経済も復活しない、こうした悪循環にいまの僕たちはおちいっているのだ。」 「だれがムダづかいをし、どの予算から削るかという犯人さがしと袋だたきの政治が横行し、政府や政治、そして他者にたいする不感は強く、平等、自由、愛国心、人権といった普遍的な価値を共有できない分断された社会の姿も浮き彫りになった。」 「税が一九%になるといわれるとおどろく人が多いだろう。だが、これほどの大増税をしても、OECD加盟三五か国の平均に届くか、届かないかくらいの国民負担率でしかない。日本はそれだけ税が安い国、反対にいえば、自己責任でやってきた国だということである。 今後高齢化が進展し、社会保障費が伸びるといわれているが、その可能性を想定してもなお、税をあげる余裕は十分にある。第一章でも論じたようにOECDには多数の新興国がくわわった。もし、そのなかの平均ではなく、主要先進国の平均をめざしていくのであれば、たんなる無償化をこえ、サービスの質的拡充に足を踏みだすことも可能になる。 そうすれば、たとえば教育であれば、就学前教育や大学教育の無償化、義務教育の完全無償化だけではなく、職業教育や職業訓練の拡充、基礎研究の充実、教育の質の向上へとさらにあゆみをすすめていくことができることとなる。あるいは、人びとの命やくらしをささえるための雇用、のちに述べるソーシャル・ワーカーの拡充も可能になるだろう。」 「税の負担をめぐってはしばしば、低所得層の負担が問題とされる。だが、この図が示すのは、給付面を適切におこなえば、所得格差は小さくできるということだ。」 「たしかに僕たちは取られる。だが、自分が必要なときにはだれかがはらってくれる。 さらには、手元にのこったお金は、貯蓄ではなく、遠慮なく消費にまわしてよい。『貯蓄ゼロでも不安ゼロ』が頼りあえる社会のめざす究極の姿である。」 「貯蓄をすれば、資産が増えることは事実である。ただし、それが将来へのそなえであり、いま使うことのできない資産である以上、税を取られるのと同じように消費は抑えられている。」 「生活不安におびえ、権力者や他の納税者をじられず、社会のメンバーと価値を共有できない、そのような人たちが税の負担を受けいれるはずがない。」 「僕たちは、相税負担率があがれば、人びとの消費が減り、労働の意欲が減退すると肩じてきた。だが、むしろ頑健な「保障の場」があるとき、人びとは自由な発想のもとで思いきったチャレンジができるようになるのではないだろうか。」 「財政の将来の持続可能性を高めるためには、増税はさけられない。だが、それに立ちはだかるのは、痛続感による種税抵抗だ。税の痛みを緩和しないかぎり、増税の実現はむつかしい。 だからこそ、受益感にとみ、将来不安の軽減につながる増税案を示すことが不可々なのだ。 税が生活の安心につながるという成功体験が土台にあってようやく「増税の一部を財政健全化にクから可能性もひらけてくる。」 「ここで読者にいっておきたいことがある。 頼りあえる社会とは、自分はもちろんのこと、同じ社会を生きる仲間たちが苦境に立たされているいまだからこそ、税という痛みを引き取ってでも、みんなでみんなのくらしをささえあう社会を作ろうという考えかた、あえていえば社会観が根底にある。 まずしい人や腹がいのある人もあくめてだれも置き去りにしない、嫉妬や憎悪で語る政治をおわりにする、ちかいてはなく共通点に思いをはせる、分断をくいとめ、連帯の社会を次の世代の子どもたちに残していく、そういう提案だ。」 「経済が成長し、所得がふえなければみなが幸せになれない社会は、経済の停滞とともに、深刻な社会状況を過去にも、現在にももたらした。僕たちはその反省のうえにたち、あるべき社会の姿、未来を構想すべきなのである。」 「家政=オイコノミアは、経済ルエコノミーの語源だが、一家の生活にかかわるすべてのことがらを処理し、治めることを意味している。アリストテレスは、家とは、財産の望ましい状態よりも人間の望ましい状態を維持するための存在だと説いたのである。」「一部のだれかを救済するのではない、可能なかぎり多くの人たちを家族のようにささえるということだ。」 「はげしい将来不安に直面するとき、人びとは痛みを分かちあい、連帯する道をえらぶ。」 「頼りあえる社会とは、税による痛みの分かちあいで財源を獲得し、ふたつの「生の保障」、つまりベーシック・サービスによる「尊厳ある生活保障」と、生活扶助と住手当による「品位ある命の保障」を徹底しておこなう枠組みだ。勤労国家という自己責任モデルを終わらせ、「保障の場」を鋳直そうという提案である。」
  • 2025年11月8日
    万葉集の〈われ〉
    「共感と言ってもいいが、もうすこしふみこんだ読みを考えた方がよさそうである。作者と読者はいわば共犯関係をむすぶのだ。そこでカギを握るのが多分<われ>の問題なのである。 啄木という作者<われ>に読者は自分を代入する。…… 一人称でありつつ、一方で『作者未詳』『詠み人知らず』でありうるのが短歌の本質なのである。融通無碍な<われ>である。開かれた<われ>である。おそらくこれは、日本人の<われ>観の機影をなすものであり、長い時代をかけて醸成してきた日本文化の特質をなすものなのだろう。……歌が個人的なものではなく、社会に共用されていた時代の名残である。……作者がだれなのかは問題ではない。歌は共有・共用のもの。作中の<われ>は発声するその人の意味であった。……作者よりもうたう人、発声する人が主役なのである。カラオケと同じで、作者は問題にされない。」 「7世紀から8世紀にかけて……その背景には中央集権国家の成立があり、都市社会の出現があった。従来の村落共同体と個人との関係とは異なった個人と社会の関係がうまれつつあった。我を知る人が誰もいない都市社会を生きる。全く知る者がいない遠い国へ国司として赴任する。…そこではだれも<われ>を知らない。<われ>のアイデンティティは、役職とか立場だけである。 「一方、近代もまた<われ>が意識化された時代だった。……藩のため家のために生きる<われ>ではない、<われ>は<われ>自身のために生きるのだ。大正時代早期になると私小説が興隆する。」 「私たち現代人は、行き過ぎた<われ>へのこだわりにとらえられているようだ。自我や個性にとらわれ、こだわって、不自由になっている。万葉集の<われ>を書きつづけつつ、いつもそのことを思っていた。
  • 2025年11月6日
    物理学はいかに創られたか 上
    物理学はいかに創られたか 上
    「習慣によれば甘いものは甘く、苦いものは苦く、熱いものは熱く、冷たいものは冷たく、色づいたものは色づいています。しかし本当は原子と空虚とがあるだけです。すなわち感覚の対象を実在であると考えて、習慣的にそう認めてはいるが、真実ではそうではないので、ただ原子と空虚とが実在なのであります。」……「空間そのものが電磁波を伝える物理的性質をもっているということを事実として許すより外にはないので、しかもこの言葉の意味がどういうものであるかについて余り執拗に拘泥しないがよいということになるのです。」 ……  「科学的研究の結果はしばしば科学自体の局限された領域を遥かに超えて、問題の哲学的見解をも変えさせるようになることがあります。」……「哲学的に一旦完成されて広く受け容れられてしまうと、これが種々の可能な進歩の方向の中の一つを指定してしまうので、科学的思想のその後の発展にまで影響を及ぼすことになります。この認容されていた見解に対して反抗が成功すると、いつも予期しない、かつまるで異なった発展を起し、それがまた新しい哲学的見解の源となってゆきます。」……「新しい証拠、新しい事実及び理論のおかげでこれを放棄するのやむなきに至り、今度はそれらが科学の新しい背景を形づくるようになりました。」……「一見複雑な自然現象を、ある簡単な根本的な思想と関係とに帰着させようとする企てはギリシャ哲学から近代の物理学に至る科学の全歴史の上で絶えず続いて来ました。」……「過去の世紀の物理学者たちによって受け容れられたかような見解が、その後は廃れるようになったのですが、」…… 「たとえて言えば、新しい理論をつくるのは、古い納屋を取りこわして、その跡に摩天楼を建てるというのとは違います。それよりもむしろ、山に登ってゆくと、だんだんに新しい広々とした展望が開けて来て、最初の出発点からはまるで思いもよらなかった周囲のたくさんの眺めを見つけ出すというのと、よく似ています。」 …… 「場の実在性」(追記:物理学における「場」とは、空間の各点に物理量(値)が定まっている状態のことで、相互作用を記述するために使われます。例えば、磁石の周りの「磁場」や、電気量を持つ粒子の周りの「電場」は、空間全体にわたって「磁気的な力」や「電気的な力」が及んでいることを表しています。)
  • 2025年10月19日
    無理のない指のトレーニングのために 大人からはじめるハノンピアノ教本
    「指先を動かす行為は脳神経を刺激して、細胞が活性化されることがよく知られています。さらに5本の指それぞれは脳の領域を別々に支配しているため、全ての指を動かすことはとても大切なことだそうです。ハノンは5本の指をまんべんなくトレーニングしますから、脳の活性化にぴったりの教材だといえるでしょう」
  • 2025年10月1日
    古典力
    古典力
    「震災はこれからもまだ起こるだろう。低成長時代も続くことが予想される。しかし、この状況は、人類の歴史の中でそれほど絶望的なものではない。運命の理不尽さに対して、なんとか生き抜いてきた人類の精神のプロセスが、古典には詰まっている。 古典は全部読まなくても、一部をパラッとめくるだけでも、気持ちと視野を大きくしてくれる。 私たちの社会や人間性も歴史的な達成であり、まだ途上だということを教えてくれる。死を意識しつつも、暗くならず、前を向いて生きていく力を古典は与えてくれる。」
  • 2025年9月28日
    世界一簡単なフランス語の本 すぐに読める、読めれば話せる、話せれば解る!
    「一生懸命勉強しなくても、ルーヴルの絵のタイトルぐらいはいける…この本の基本線は…適度な集中た持続によって、フランス語の大体が頭に入ることです。…大がかりな暗記を矯正するようなことはしません。」 「Le Bassin aux nymphéas」("睡蓮の池" モネ作。直訳は"睡蓮のある池") 「Le Bassin aux nymphéas」("夜のカフェ・テラス" ゴッホ作) 「Le Déjeuner des canotiers」("船遊びの昼食" ルノアール作。直訳は"ボート遊びをする人々の昼食)
  • 2025年9月15日
    都市計画: 利権の構図を超えて
    都市計画: 利権の構図を超えて
    「(中野区吉田事件 東京地方裁判所 1978.9.21)『近隣住民の意思を考慮することなく建築行政を行うことはもはや不可能であり、建築確認制度のみでは対処できないこれらの問題を事実に即して妥当な解決をすることが建築行政上関係地方公共団体に強く求められ、かつ重要な機能を果している』」 「世田谷区の『住宅条例』は、まず区は『すべての区民が、地域の個性を生かした魅力的なまちづくりを進めつつ、良好な住生活を主体的に営むことができる権利を有することを確認し、その充実を図ることを、住宅及び住環境の維持及び向上についての基本理念とする』とうたい、区民が良好な住宅を持つことは権利だと述べている。」 「裁判においても、市町村の行政指導よりも、議会の議決、つまり全住民の意志によって決められる条例の方が、『正当性』をより強くもっている。」 「ひるがえって考えてみれば、都市の問題に限ってもこれだけ多数の要綱と条例ができていることは、もはや『国家高権論』による全国画一の都市法の体系が限界をこえていることを証明している。」 「共同案によれば、土地所有権は、はじめから『絶対的』なものとしてあるのではなく、その利用方法をマスタープランづくりなどを通じて、住民がみんなで決めていくのだということになる。そのプロセスのなかで、新しい所有権が生まれる。これは『絶対的』にたいしては、『相対的』ということになる。もっといえば、住民みんなで利用方法を決めてはじめて、その土地を利用できる、つまりその段階で土地所有権が生まれるといえる。つまり、欧米なみの『計画なければ開発なし』という『建築不自由』を原則とした所有権に変わるわけである。 本来の都市計画を無視してきた日本では、建築不自由の原則といえば、『損するのではないか』という誤解をあたえるおそれがある。しかし、これまで述べてきたように、建築の自由、言葉をかえれば、緩い規制を緩めに緩めて何を建ててもいいという原則をとってきたために、住宅地に中高層ビルが建ち、地価の高騰を繰り返し、住民は追い出されるという構造ができてしまった。」
  • 2025年9月15日
    免疫「超」入門 「がん」「老化」「脳」のカギも握る、すごいシステム
    「私たちの研究室にあるサイトカインの遺伝子破壊マウスに脳梗塞を実験的に起こさせたところ、ある種のサイトカインがないと脳梗塞がひどくならないことがわかりました。それがIL-1B、IL-23とIL-17でした。」 「脳梗塞という脳組織の損傷という外科的な現象にも、それが悪化したり収束したりする過程で自然免疫と獲得免疫が重要な役割を演じていることが明らかになってきました。しかも、脳という非常に特殊な環境のせいかもしれませんが、脳梗塞やアルツハイマー病など脳内で起きる病気で使われる免疫細胞や免疫分子にはほかの臓器とは異なる特殊性があることもわかります。 脳の免疫にはまだまだ知られざる大きな可能性が秘められています。」
  • 2025年9月15日
    国際人権入門
    「法改正により、女性だけでなく、男性が強制性交の被害者になる場合もカバーされた」 (学費に関して、奨学金利用者の平均では)「大学卒業生の平均借り入れ額は324.3万円にもなる」 (社会権規約委員会)「締約国が、権利の実現にとって、交代的な措置を取るとすればそれは社会権規約の趣旨に反することになる」
  • 2025年8月21日
    学問と世間
    学問と世間
    「十八世紀以降産業化が進められ、経営と家計が分離されると、」 「教養というものが『いかに生きるか』という問いに対する自らの答えであったとすると、文字などはそのひとつの手段ではあっても、すべてではないことが明らかとなる。」 「教養とは自分が社会の中でどのような位置にあり、社会のために何ができるかを知っている状態、あるいはそれを知ろうと努力している状態であると。このように教養のある人を定義すると、これまでの教養概念のように知識人だけでなく、農民や漁民、手工業者たちも含まれることになる。これまでは教養のある人というと、学歴の高い人、ブルーカラーでない人、書物などに通じている人といったイメージがあり、時には人格高潔といった言葉さえ出かねない。しかし先ほどのような定義をすれば、さまざまな人が対象になる。農民や漁民、手工業者その他の職業の人には立派な方が数多くおられ、それらの人を除外した従来の教養概念は極めて偏狭なものといわねばならない。」 「西欧ですでに個人との関係が確立されていたから、個人の意志が結集されれば社会を変えることができるという道筋は示されていた。しかし『世間』については、そのような道筋は全く示されたことがなく、『世間』は天から与えられたもののごとく個人の意志ではどうにもならないものと受けとめられていた。」 「大きな騒ぎになっている。排斥運動をしている人々は、人権という言葉や法律という言葉にも反感を示す場合がある。 論理ではなく、感情の次元での反発となっている場合が見られる。そこに働いているのは『世間』の感情なのである。」 「最近の政局のきしみに見られるものも『世間』の動きである。わが国の政治は『世間』の動きを見なければ理解できない。派閥の動静などは『世間』の典型というべきものである。」
  • 2025年8月21日
    道教思想10講
    道教思想10講
    「一には、不忠不孝、不仁不信であってはいけない。君親に尽くし、万物に対して誠を尽くすべきである。 二には、人の婦女を姪犯せず。 三には、義に非ざるの財を盗み取らず。 四には、敷きて善悪論(善悪正反対の議論)せず。 五には、酔わず、常に浄行を思う。 六には、宗親和睦し、親(親族)を非ること有る無し。 七には、人の善事を見れば、心に助して(自分も同じように)歓喜す。 八には、人の憂い有るを見れば、助けて為に福を伴す。 九には、彼来たりて我に加うるも(相手の方から私に危害を加えても)、志は報いざるに在り。 十には、一切未だ道を得ざれば、我は望みを有せず。(十戒)」 「民であっても、内に修めた徳が、家族から始まって次第にその及ぼす範囲を広げて多くの人々を感化する。まして、天子が……」 「小国宴民」  「天下統治の仕事は完成し、大きな事業は成し遂げられて、しかも人民たちは皆、私はひとりでにこうなったと言う、そんな統治こそが最高の統治であるというのが、『老子』の考え方である。」
  • 2025年8月11日
    民俗学入門 (岩波新書)
    「『生き物の時間』と『資本の時間』、2つの時間の分裂に、ヒトは『中途半端に賢い生き物』として、迷い続けるほかない。これが、私たちの現在を取り巻く根本問題なのだ。」 「伝統と、近代が拮抗する様子を描いた。『北白川こども風土記』(山口書店、1959)という作品がある。これは、1946年生まれの戦後の子たちが、小学校の課外学習で地域を調べあげたもので、世間の耳目を集めた映画化までされている。この作品を改めて見直すと、混住によりハイブリッド化する地域にあって、ネイティブとニューカマー(の師弟)が協力しあって、地域コミュニティーを再発見しようとする試みだった、ということができる。そしてそれは程度の差こそ、あれ、近代化するムラ/マチの多くが直面する課題でもあった。」
  • 2025年8月11日
    読書について
    読書について
    「どんなにたくさんあっても整理されていない蔵書より、程良い冊数で、きちんと整理されている蔵書の方が、ずっと役に立つ。同じことが知識についても言える。いかに大量にかき集めても、自分の頭で考えずに鵜呑みにした知識より、ではずっと少なくとも、じっくり考え抜いた知識の方が、はるかに価値がある。」 「学者、物知りとは、書物を読破した人のことだ。だが、思想家、天才、世界に光をもたらし、人類の進歩を流す人とは、世界と言う書物を直接読破した人のことだ。」 「読書と同じように、単なる経験も施策の代わりにはなれない。単なる経験と施策との関係は、食べることと、消化・吸収との関係に等しい。」 「議論の余地ある問題に間やる節を引用して、焼きになって早急に決着をつけようとする人々は、自分の理解力や洞察力の代わりに、他人のものを動員できるとなると、心底喜ぶ。彼らにはそもそも理解力や洞察力が欠けている。こうした人々は無数にいる。セネカが言うように『誰だって判断するよりも私を信じたい』からだ。」 (以上、「自分の頭で考える」) 「読書をしていると、ものを考える活動は、大部分、棚上げされる。」 「読んだものを全て覚えておきたがるのは、食べたものをみな身体に留めておきたがるようなものだ。私たちは食物で身体を養い、読んだ書物で精神を培う。それによって現在の私たちが出来上がっている。」  (以上、「読書について」)
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