俺はNOSAKAだ: ほか傑作撰

1件の記録
中根龍一郎@ryo_nakane2025年12月11日読み終わった日ごろ通称で生きている。中根というのは旧姓で、法的には私は中根ではない。今は住民票も免許証も旧姓併記されているけれど、少し前は中根の姓が書かれた旧姓の免許証を持ち歩いていた。失効済みの穴が開けられたその免許証が本当に役に立つのかはわからなかったが、中根であることをやめて、それでも中根として社会的に生活していると、私が中根であることを公的に証明する書類がなにもないというのはけっこう不安なことだった。 「俺はNOSAKAだ」は記憶の小説で、その書き出しからずっと記憶の確かさの話をしている。英訳された作品(おそらく「エロ事師たち」)の映画化にともなうもろもろの手続きの最後に、サインを求められ、人まかせにしてきた手続きのなかで野坂の名前の綴りが英訳版ではNOZAKAになっていた〈俺〉≒野坂昭如が、あなたがNOZAKAであることを証明してくれと言われ、徹底して公的な手段によらずになんとか自分がNOZAKAであることを示そうとする。妻を連れてきても、父を同伴しても、私的なつながりは証明にならない。役所から促される弁護士による手続きも、良心に基づく宣誓も拒否する野坂は、自分が自分であることのありかを異様に鮮明な記憶に求めていく。でもその記憶は、それがあまりにも鮮明であるがためにかなり嘘の手触りを持っている。小説として再構築された、作り物めいた写実性がある。自分がほんとうに野坂であることの根拠のなさ、頼りなさを自覚していくうち、〈俺〉は自分が野坂ではない可能性を、ある種の偽の記憶として仮構する。面白いのは、その可能性としての世界、偽の記憶も、真実らしさという点では〈俺〉によって思いだされるほんとうの記憶とほとんど変わらないということだ。 人は記憶をつくり直してしまう。そしてつくり直された記憶のなかで生きてしまう。インタビューでもエッセイでも、記憶に基づく言葉と、実際の歴史がずれていることはいくらでもある。それに対して私たち校正者はしばしば疑問出しをする。でも、実際に直るかはわからない。時にはその間違いが書き手にとって重要であることもあり、その間違いから立ち上がる世界が大切なこともある。そしてもちろん、そのようにして間違った世界は、単に間違いとして廃棄されることもある。あるいは間違ったままで残ることもある。 私の名前は龍と書いて「りょう」と読む。子供のころからそうだった。自分の名前を書けるようになってからずっと「りょう」と書いてきた。学校で先生に「りゅう」と読まれるたびに、「りょうです」と訂正してきた。りゅうというのは誤った読み方で、私はほんとうはりょうなのだ、と思ってきた。 でもあるとき、母が「『りょう』は相性で、ほんとうは『りゅう』なのよ」と言ったことがある。母によれば、住民票の読みは「りゅう」だし、病院でも母は「りゅう」と書いていて、だから公的な場では「りゅう」と呼ばれる、という話だった。でもパスポートでもあらたにつくった戸籍でも、私はずっと、私が書けるときには必ず「りょう」と書いてきた。それで公的機関から特に修正を申請するよう言われたことはなかったし、不都合が生まれたこともなかった。私と母の記憶がどちらも正しいとするなら、私の名前はどこかで「ほんとうの読み」が変わってしまったことになる。私はRYOだ、という語りがどこかでもし疑問に付されることがあるなら、私はそのときどんな間違いの世界の中に迷い込み、どんな世界を出口にするのだろう。





