

中根龍一郎
@ryo_nakane
校正の仕事をしています。
- 2025年12月30日
翻訳はおわらない野崎歓読み終わったしばらく読み進めて、なんだか知っている話だな、別のところで出した話を再録しているのかな……と思っていたら、『翻訳教育』の文庫化だった。 『翻訳教育』はけっこう好きなエッセイで、『うたかたの日々』のハツカネズミの口調を男性で訳すか女性で訳すかの話や、鷗外の孫である山田𣝣の翻訳の妙味、鷗外の文学についてまわる翻訳の影など、久しぶりに読み返せたのは嬉しかった。 読んだことのある本の文庫化ということに気づかなかったのは、年末の忙しさのなかで本をあれこれまとめて通販で買ったせいだった。書店ですこし中を見ていたら買わなかったかもしれない。でもそうしたら文庫版で追加されていた新章「AI翻訳なんか怖くない」には出会わなかったかもしれない。 「AI翻訳なんか怖くない」には実際のところそれほどAI翻訳の話は出てこない。『人間の大地(土地)』の新訳作業をめぐるかなり心楽しい記述のあと、後ろのほうに少しだけゾラの『居酒屋』のDeepLを用いた珍訳が登場し(そもそもDeepLは19世紀フランス文学を訳すようにはつくられていないので、それはそれで気の毒なのだけど)、そのうちAI翻訳が下訳に使えるようになるかもしれない、そしてAIが正確な翻訳をするようになったとしても人間の再解釈の欲望は尽きないだろう、というあるていど穏当な話に着陸する。 通販で海外メーカーの安い商品を買うと、取扱説明書が怪しげな日本語で書かれていることはもう日常のことだ。その怪しげな日本語訳を、文脈から解釈し、時に英訳を見て判断する。そういう「怪しげな翻訳」が文芸のジャンルで見られることは今のところあまりない……のだけど、ことが漫画やテレビ番組になると、けっこうアマチュアの(あるいはAIを使ったであろう)著作権的には違法な翻訳が出回っていることがある。その翻訳はしばしば日本語としてこなれていなかったり、単純に誤ったりしているが、それでも「ある芸術作品をなんとかして自分の言葉で読みたい」という欲望はけっこう強力なものだ(そもそも、外国語を学ぶモチベーションとしてわりと普通のことでもある)。 今や私たちの日常生活、消費生活はたくさんの「質の低い翻訳」に取り囲まれ、それを自分の言葉に組み換えていくものになっている。野崎は章末に書く。「少なくともフランスの十九世紀の名作を訳す局面において、AIはいわば泥酔したような足どりを見せており、手助けしてくれるという以上に、こちらが介抱しなければならない場面が多すぎる」……でも実は人間の身の回りにある多くのプロダクトは、車にせよスマホにせよ食器や調理器具にせよ、人間が世話やメンテナンスをしてやるようにできている。AI翻訳……というか機械翻訳(MT)もまたそのような、私たちの生活に加わった、面倒を見てやらないとならない新参のちびすけだ。 世界は解釈するもので満ちている、翻訳するもので満ちている。でもそれ以上に、介抱するもので満ちている。翻訳はおわらないように、世界の面倒を見ることもおわらない。そしてそれは、実のところさほど不幸なことではないだろう。機械翻訳をめぐる話からは、そういうことを考えた。 - 2025年12月26日
英米文学のわからない言葉金原瑞人読み終わった子供のころ「かぎたばこ」がなんのことかわからず、なんとなく、鍵の形のたばこかな、と思っていた。読み進めるうちにどうやら嗅ぐたばこのことらしいということはつかめるのだけど、最初のイメージはなかなか抜けない。いまでもかぎたばこ、という音からは、鍵の形をしたたばこを口にくわえたひげ面のホッツェンプロッツを連想する。 大人は調べることができる。でも児童文学はそういう能力がない子供が読む。だから、なんとなくその子供のなかにあるイメージで、作品世界が定着してしまう。衣装だんすからナルニアに入っていくルーシーのまねをしようとしたけれど、家にあるたんすと名のつくものは引き出しの並んだ和簞笥ばかりだった。ドラえもんのようにたんすの引き出しを開けて中に入るルーシーを想像して、そのせいでナルニアの衣装だんすの〈正しい〉イメージはわかっているはずなのに、和簞笥の引き出しを開けるルーシーやピーターのイメージがそれと二重写しになっていた。 砂色の髪、ブロンズの肌、そのイメージはたぶん原文の読者と日本の読者で食い違う。パイだってビスケットだってプリンだって、おそらくその言葉に結びついた現代日本の私たちのイメージと、小説の世界のイメージは食い違うだろう。そして〈正しい〉イメージを知ったあとも、ある言葉を見た時に、自然と浮かび上がってしまう〈誤った〉イメージは、なおもずっとついてまわるだろう。ハート型の顔のように……だから問題は、よくわからない言葉かあるということよりも、ある種のわかりかたをしてしまう言葉がある、ということのような気がする。 やや脱線的な文脈で、漱石の「薤露行」が紹介されているのが面白かった。漱石研究のなかでどういう読み方をされているかは知らないのだけれど、「薤露行」と「幻影の盾」は、漱石のほかの作品からするとかなり異質な筆致で、「19世紀後半のイギリス絵画っぽい情景」が描写されている。漱石のほかの作品と、あきらかに絵柄がちがう。だから個人的に、違う国の絵というものを、文筆を通じて書き表そうとする、ある種の翻訳……それも、絵画→小説、イギリス→日本という二重の翻訳……が働いているような気がしていた。それが英米文学者の目に留まる(それも、漱石の作品の中で例外的に好感をもてる、という形で目に留まる)というのはとても興味深い。 もうひとつ面白かったのは、なにかと調べ物をする金原瑞人の本棚のラインナップだ(もちろん、本棚では追いつかず図書館に行くこともあるのだけど)。 なんで満州? そこでまた、ふと気になって本棚のすみにあった『満洲小学唱歌集』を開いてみた。これは「南満洲教育会教科書編輯部」が編輯して謙光社が発行したもので(…〉 (『英米文学のわからない言葉』p.172) ふつう、本棚のすみにある本ではないと思う。どういう蔵書なんだろう。 - 2025年12月16日
海に落とした名前多和田葉子かつて読んだ読み返した名前をなくす話を読みたくなって、単行本を引っ張り出して、表題作の「海に落とした名前」を読み直した。雑誌発表時のタイトルは「レシート」だったそうだ。 レシートに痕跡として残る自分の過去を再構築して、自分はこのような人間です、と主張していくことは、(ある程度まとめてレシートの処理をする、まとめてできる仕事を後ろに回しがちな)自営業者にとっては確定申告の時期に身近な仕事だ。法的な違反なく、財務上の不都合なく成立する、無矛盾な人格を書類上で表現していくのは楽しい。でもそこで立ち上がる無矛盾な人格は、結局のところフィクショナルなもので、実のところ私の経済活動となんの関係もなくても成立してしまう。ただその経済活動に、私が私自身の名を署名し、これは私の人生だという引き受けを行うことによって、手続き的に、どうやら私と結びつけられる。 「海に落とした名前」は素人の舞台。アマチュア・ナイトのショーのレシートを手がかりにして、それらしく組み立てられた、しかし真実に触れているかはわからない、それでもひとつの物語としては矛盾なく成立する演技で終わる。そしてその演技が無限に続く示唆で終わる。名前は海に落とされたままで帰ってこない。 でも「名前を落としていない」はずの、三河の人生も後藤の人生も、結局のところそれらしく語られるだけだ。後藤は三河の人生についての証言を否定し、三河は後藤の人生についての証言を嘘だという。これなら自分のものだと宣言できるはずの自分の人生物語さえ、自分のいないところで語られ、違うものに書き換えられてしまう。 そうすると人生は増えていく。そして増えた先で見えなくなっていく。 旧姓を併記して住民票と免許証に記載したとき、名前が増えた気がした。それは少しの不安とともに喜びがあった。私はただひとつの真実よりも、どちらかというとそうした攪乱や裏切りが好きだ。本当のことがわからなくなり、現れては消えて、無数の本当のことが矛盾しながらもたれ合うような……。 - 2025年12月11日
俺はNOSAKAだ: ほか傑作撰野坂昭如読み終わった日ごろ通称で生きている。中根というのは旧姓で、法的には私は中根ではない。今は住民票も免許証も旧姓併記されているけれど、少し前は中根の姓が書かれた旧姓の免許証を持ち歩いていた。失効済みの穴が開けられたその免許証が本当に役に立つのかはわからなかったが、中根であることをやめて、それでも中根として社会的に生活していると、私が中根であることを公的に証明する書類がなにもないというのはけっこう不安なことだった。 「俺はNOSAKAだ」は記憶の小説で、その書き出しからずっと記憶の確かさの話をしている。英訳された作品(おそらく「エロ事師たち」)の映画化にともなうもろもろの手続きの最後に、サインを求められ、人まかせにしてきた手続きのなかで野坂の名前の綴りが英訳版ではNOZAKAになっていた〈俺〉≒野坂昭如が、あなたがNOZAKAであることを証明してくれと言われ、徹底して公的な手段によらずになんとか自分がNOZAKAであることを示そうとする。妻を連れてきても、父を同伴しても、私的なつながりは証明にならない。役所から促される弁護士による手続きも、良心に基づく宣誓も拒否する野坂は、自分が自分であることのありかを異様に鮮明な記憶に求めていく。でもその記憶は、それがあまりにも鮮明であるがためにかなり嘘の手触りを持っている。小説として再構築された、作り物めいた写実性がある。自分がほんとうに野坂であることの根拠のなさ、頼りなさを自覚していくうち、〈俺〉は自分が野坂ではない可能性を、ある種の偽の記憶として仮構する。面白いのは、その可能性としての世界、偽の記憶も、真実らしさという点では〈俺〉によって思いだされるほんとうの記憶とほとんど変わらないということだ。 人は記憶をつくり直してしまう。そしてつくり直された記憶のなかで生きてしまう。インタビューでもエッセイでも、記憶に基づく言葉と、実際の歴史がずれていることはいくらでもある。それに対して私たち校正者はしばしば疑問出しをする。でも、実際に直るかはわからない。時にはその間違いが書き手にとって重要であることもあり、その間違いから立ち上がる世界が大切なこともある。そしてもちろん、そのようにして間違った世界は、単に間違いとして廃棄されることもある。あるいは間違ったままで残ることもある。 私の名前は龍と書いて「りょう」と読む。子供のころからそうだった。自分の名前を書けるようになってからずっと「りょう」と書いてきた。学校で先生に「りゅう」と読まれるたびに、「りょうです」と訂正してきた。りゅうというのは誤った読み方で、私はほんとうはりょうなのだ、と思ってきた。 でもあるとき、母が「『りょう』は相性で、ほんとうは『りゅう』なのよ」と言ったことがある。母によれば、住民票の読みは「りゅう」だし、病院でも母は「りゅう」と書いていて、だから公的な場では「りゅう」と呼ばれる、という話だった。でもパスポートでもあらたにつくった戸籍でも、私はずっと、私が書けるときには必ず「りょう」と書いてきた。それで公的機関から特に修正を申請するよう言われたことはなかったし、不都合が生まれたこともなかった。私と母の記憶がどちらも正しいとするなら、私の名前はどこかで「ほんとうの読み」が変わってしまったことになる。私はRYOだ、という語りがどこかでもし疑問に付されることがあるなら、私はそのときどんな間違いの世界の中に迷い込み、どんな世界を出口にするのだろう。 - 2025年12月10日
読み終わった古井由吉の『神秘の人びと』を読んでいたとき、「〈彼は目をひらきながら何も見えなかった。そしてこの無は神であった〉というような言葉」の解釈について、古井が立ち止まり、思い悩むところをとても面白く読んだ。sah er mit offenen Augen nichts, und dieses Nichts war Gottという文を前に、古井は「無を見た時、神を見た、と私などはただちにそう取りたくなる。そう思わせるところのものが私の内に、おそらく伝統として、埋めこまれているようなのだ」と書き、その神性としての無、無としての神聖のイメージを描写してみせる。でも古井はそこで立ち止まる。「しかし戒めたほうがよいと思われる」。名詞化されたNichtsと、sahを受けるnichtsは、言ってしまえば同じく「無」でありながら、文法上の役割の違いから、そこにある緊張関係をにじませている。 無というと座りがよくなる。無という言葉は私たちの日本語の空間にそれなりの場所をもっており、私たちはなんとなく無の観念のもとに、無の諸相をとらえてしまう。でもそれは西欧語で指される無とはずれていく。 哲学は概念を言語上の操作で捉え直していく学問だけど、西洋哲学を勉強しようとすると、だいたいそのもとになる言葉が指している内容と、日本語の日常語の語感が指す内容のちがいに苦労することになる。勢い、哲学の学生は原語の持つ語感に敏感になる。でもそれは哲学というニッチなジャンルのなかの話なので、食い違いは意識しやすい。問題なのは日常語化した外来語が自然と前提していた観念を、私たちが、その前提を知らないまま、しかしそれが日常語として通用するがために、なんとなくわかっているような気になり、そして実際、日常の用はほとんどそれで足せることにある。 知らない言葉の前で立ち止まることはできる。でも知っている言葉の前で立ち止まることはむずかしい。 この本の中では六つの事例が出て、どれも興味深いのだけど、とりわけ印象的なのはsocietyの観念だった。日本では〈社会〉という言葉で一般に語られているもののなかにかなり強く〈世間〉のイメージが混入しており、われわれひとりひとりが構成員であるsocietyに対し、世間はどうしてもある主体に対する外縁的なものを指す、という話で、それはなかなか深刻な問題だ(とりわけ、個人の社会的な活動が倫理的な要請とともに重視される今日においては)。もちろんsocietyやliberty、publicやnatureといった言葉の、西欧語での概念を前提しなくても、日本語圏での議論はあるていどなんとかなる。でも言語上の壁というのはテクノロジーによるマルチリンガル化によってこれからどんどん、見かけ上はなくなっていく。そうやって見かけ上の壁がなくなったあとに、諸概念が前提する世界観のようなものが、訳し損ねられて残る。その世界観は西欧だけでなく、日本の幕末から明治期の急速に変化した言語空間、その言語空間を下支えした中国的な教養によって形作られたものだ。私たちはそうして形作られた言語を継承し、母国語とし、そして母国語について何を知らないかを知らない。私たちの言葉は私たちのものではないものとつながっている。私たちはしばしばそれを見失う。そうした言葉の外部の事例を知り、記憶することは、私たちが言葉の前でつまずき、立ち止まることを助けてくれる。なめらかに進まないことを助けてくれる。 - 2025年12月5日
自称詞〈僕〉の歴史友田健太郎読み終わったインタビュー記事や対談記事で、男性の自称詞の揺れはしばしば現れる。校正者はそうした揺れを見つけ出して疑問出しをする。直ることもあれば直らないこともある。私たちは複数の自称詞あるていどノリで使い分けていて、自称詞の揺れは、発話の生き生きとした雰囲気を映し出す効果がある。でも一方で、日本語の自称詞にはフォーマリティを表現する面もある。ここは〈僕〉という自称詞の服を着て人前に出る場面だな、という判断には基づいて、実際の談話では〈俺〉と発話した場面でも、〈僕〉でそろえたほうがよい、ということもありうる。 そうした自称詞のフォーマリティは時節に応じて変わっていく。古事記や日本書紀のような古い文献に見られる〈僕〉が中国語との意識の中で上下関係をあきらかにする謙譲表現の作用を持っているというのは面白かった。明治期の書生言葉としての〈僕〉はエリート的な言葉遣い、ある種の鼻持ちならなさをもつ言葉遣いになっていく。そして、これは本では触れられてはいないけれど、その改まった、インテリジェントな男性発話主体の自称詞は、いま〈私〉に急速にスライドしているような印象がある。男性の〈僕〉はいまの言語感覚では、やや子供っぽく、あえて言うならおじさんっぽい。20代、30代の、昔であれば〈僕〉を使っていたようなキャラクター性をもった男性のアーティストやYouTuberが〈私〉で話す場面に頻繁に出会うようになった。本の中で紹介されている、EXILEメンバーの〈僕〉使用や、矢沢永吉・清原和博の〈僕〉への一人称の変化と、より若い世代の男性の〈僕〉からの離脱は、素朴な直感で言えば実は響き合っているようにも思う。〈僕〉はあるていど丁寧な言葉だった。でも今は、実は〈僕〉は年配男性の言葉としての性格が付与されて、そこに潜む権力が匂い立つ面が 本の最後の章では女性が使う〈僕〉が紹介される。小中学生の女性が〈私〉を使うことで女性としての社会性に巻き込まれることへの抵抗感から〈僕〉を選択し、やがて〈僕〉から離脱していくというプロセスの紹介は興味深い。ただひとつ気になったのは、本の中では男性の自称詞の豊富さに対して、女性の〈私〉という自称詞の単一性の問題が強調される。実際、男性の持つ自称詞にくらべて女性が使える(ことになっている)自称詞幅は狭い。でも実際の言語空間では(私が接するような同年代の女性に限られる話としてだけれど)、女性はけっこう巧みに〈わたし〉と〈あたし〉を使い分けている。よりプライベートな場面では女性も時に〈俺〉を使う(そこには男性性を演じるという、あえての側面も、どうしてもあるのだけれど、この発話は〈俺〉で発話する内容だ、という判断が成立する機会が、ある年代、ある種のコミュニティの女性にはある)。 でも〈わたし〉と〈あたし〉は音声的な差異こそ明確にあれ、文字の上ではおそらく消去され、〈わたし〉に統合されてしまう。この音声の差異の話は意外と面白くて、女性アーティストが使う自称詞、例えばあのちゃんが使う〈僕〉は、〈ぼ↑く〉だ。でもいま仕事の場などで出会う男性が使う、つまり働き盛りの世代の、あるていどフォーマルな自称しの〈僕〉は〈ぼく↑〉だ。〈ぼ↑く〉ではちょっと子供っぽすぎて、それなりに若い男性がそこにフォーマリティを託すのは難しいだろう。この音声的な差異はそれぞれの自称詞の選択が依拠する戦略の違いによるものだろうけれど、文字の上の研究ではなかなか俎上にのりにくい。でも自称詞が託すアイデンティティの問題に、実はその音の話は意外と大事なはずだ。私たちは実際に〈ぼ↑く〉と〈ぼく↑〉をかなり敏感に聞き分け、使い分けているのだから。 - 2025年11月29日
ワントン イヌの科学ニュートンプレス読み終わった昔、たいへんお世話になったある校正者の方と飲んでいる時、そのひとが犬を飼っているという話になった。たしか三匹(四匹だったかもしれない)の小型犬がいるという話だった。小型犬は、吠えたり、大変じゃないですか、と訊くと、その人は微笑みながら首を振り、いや、しつけ次第です、と言った。 ゴールデンレトリーバーが子供のころ家にいて、優しくて、穏やかで、臆病な犬だった。犬はそういうものだと思っていたから、小型犬を飼っている人と犬の話をすると、いや、大型犬と小型犬は全然違う、と言われるのが常で、小型犬は攻撃的、大型犬は温厚、というイメージが自分のなかに強くあった。 おおむねその傾向がある、というのは正しいらしいのだけど、犬の性格は、実は遺伝的な規定性が、ヒトにくらべて低いのだという近年の研究の話は目を引かれた。麻布大の今野先生の話が紹介されている。 「(…)先ほどの論文でとくに強調されていた点が,イヌの見た目から受ける印象にわれわれが引っ張られる部分もあるという点です。つまり,偏見的な見方をせずに,犬種の中でのバリエーションよりも個体差のほうが大きいため,犬種というレッテル貼り的な見方から脱却せよ,ということをのべています」 (『ワントン』p.47) 「犬っぽい人」とか「猫っぽい人」という表現がふつうに使われるように、あるいはすこし犬について理解が深い人であれば「小型犬っぽい人」「大型犬っぽい人」という表現を使ったりもするように、犬や猫、小型犬や大型犬について、ある程度こういう性質・性格の動物である、ということの合意が、われわれの文化の中にはある。でももちろんその合意とは偏見のことでもある。ある偏見が広がり、共有され、強化されることによって、生きることの困難を科される個体が現れる。それは人間の場合とあまり変わらない。もちろん愛玩動物や使役動物と人間では、その個体の意志や権利をどれくらい考慮するかという点で一緒にはできない面がある。ただ一方で、個体としての犬(や猫)を伴侶動物、ともに生きていくパートナーとして考えた時、そこに現にいる個体をどう見るかは、すこし毛色の違った問題になってくる。 そこにパートナーとしての犬がいるとき、私たちは基本的にその犬を個別の尊厳をもった生き物として見る、というか、見てしまう。チワワだとかプードルだとか、レトリーバーだとか日本犬だとか、オオカミの傾向を残しているとか残していないとか、そういうところからはなれたひとつの個体として、個体としての性格を持った愛することができる一匹の動物がいる。でもその個体の性格の理由づけを、私たちはしばしば「まあ、大型犬だからね」「小型犬はこうだからね」というような、それ自体は愛のある許しとともに、その個体の属する種のレッテルに依拠させてしまうことがある。そこには愛があるため、愛によって有責性がぼやけてしまう。そしてそのぼやけは、犬との関係にかぎらず、他者との関係全般において、実はしばしば現れるものだ。 もうひとつ、おもしろかった話として、犬と人はけっこうゆるい絆をもち、その絆がゆるいからむしろ関係が成立するのだ、というものがあった。盲導犬や介助犬は、母犬、トレーナー、ユーザー、引退犬ボランティアと、生涯で絆をむすぶ相手が何度も変わる。一生に一度のものではない、唯一無二の相手にはしない、大切でありながらスイッチ可能な絆を犬は持つのだという(これと違い、イヌ化する前のオオカミは群れの絆が強く、固定化した関係を結びやすいのだそうだ)。 忠犬、という言葉や、尻尾を振るポチ、○○のイヌ、のような罵倒まで、犬の忠誠は私たちの言語感覚に根づいている。そしてそれもまた、犬を取り巻く偏見のひとつにすぎない。 - 2025年11月26日
読み終わった今日、盲目的という言葉は一般的に避けられている。目が見えないということを分別のなさや判断力のなさの比喩にする表現は、目が見えないということに対する旧弊な偏見を助長するからだ。視覚的能力は知的能力と関係がない。 この表現はしばしばごく普通の会話のなかに忍び込む。それが文字になったとき、私たち校正者はそれをあるていど機械的に検出し、指摘する。指摘すれば多くの場合、それは直ることになる(直らないこともある)。そうして直ることになるにもかかわらず、その表現が何度も現れるのは、光と真理、見えることと正しいこと、闇と愚かさ、見えないこととわからないことが結びつけられてきた長い比喩の歴史があるからだ。その比喩の歴史の外に出るのはむずかしい。でも、そこには外があるのだ、と知ることはできる。光が真理と絡み合う経緯をたどっていくことで、光が真理と絡み合わなかったかもしれない歴史に、ここにない闇に、もうひとつの夜に耳を澄ますことができる。 比喩は、ある事柄を別の事柄になぞらえるものだ。だから比喩にはかならず、喩えられたものからはみ出てしまう余剰の部分がある。その余剰は時にひとり歩きし、もとの事柄からずれ、あるいは事柄の解釈自体を拡張していく。洞窟の比喩の変遷や、キリスト教とギリシャ哲学が結びつくなかでの光のイメージの分裂、真理を「もたらす」媒介としての光と、真理それ自体「である」真理としての光の微妙な、でも決定的なずれなど、同じ言葉を使って違う事柄が語られている、その差異に注目して描き出していくブルーメンベルクの手法は面白い。旧約/新約聖書での聴覚優位の立場(見ることが聞くことに凌駕される)と、ギリシャ哲学における視覚優位の立場(聞くことは誤りの原因となり可視性が正しさの根拠となる)が接続されていくプロセス(というほど筋道を追っては語られないのだけど)も興味深かった。聖書の神は言葉をかける。でもその姿は見えない。にもかかわらず、光はきわめて重要な神に関わるモチーフとして、その後のキリスト教についてまわることになる。そしてまた一方で、闇のなかで出会う神、闇であるところの神、否定神学の神というのも、それはそれである種の信仰の徹底された態度として、神秘主義者たちのなかに現れることになる。このあいだ読んだ古井由吉の『神秘の人びと』は、ちょうどそんな神秘主義者たちの、絶対性を強調するあまりむしろ闇を語ることになるさまを描いていた。でも光/闇の対立というコンフリクトの物語が、そもそもキリスト教の外からもたらされたものであり、それが歴史のなかでキリスト教に食い込んできたものだとするなら、あえて闇を語るような否定神学っぽい振る舞いも、また別の見方ができるような気がしてくる。 マーティン・ジェイの『うつむく眼』という本があって、20世紀フランス思想にあらわれた「反・視覚優位」のムーブメントについて書いている。けっこう長いこと気になっているけれど、まだ読めていない。いい機会だから開いてみるのもいいかもしれない。まず、7000円という価格にちょっと尻込みするのだけど……。 - 2025年10月30日
神秘の人びと古井由吉読み終わったずいぶん時間をかけて読んだような気がするけれど、Readsの記録によると2か月だったらしい。通読にかける時間としては長く、それでも思ったよりは短かった。そういう読み始めと読み終わりを客観的に振り返れるのはこういう読書ログのいいところだ。 分量としては2か月かけて読むような本ではない。人によっては1日で読めるだろう。私も学生だったら1日で読んだかもしれない。でも古井由吉の踏みしめるような書き味にひかれて、自然と読みも落ち着いたものになった。 ある事柄をうまく説明することについて、言語化がうまいとか、解像度が高いというような表現がはやっている。そういう流行語に乗るなら、この本は、うまくわからない本を読んで、わからないところとわかるところを拾っていき、その「わかる、わからない」という判断に潜む危うさやある種の性急さ、しかしその性急さが時には必要とされることを、よく言語化し、解像度高く書いている。 わからない本を読む時に、なんとかわかる手持ちのものでひとまずの理解の格好をつけて先に進む。その理解はひとつの仮置きだけど、その仮の足場でなんとか進んでいき、どうにか読み終わりや、章の終わりにたどりつく。なんとか見晴らしはあるように思える。でもそこがほんとうに行くべき場所だったのかはわからない。ただ少なくとも、どこかにはたどりついている。読書にはしばしばそういう不安な到達がある。 古井が読んでいるのは12世紀から19世紀のキリスト教における神秘体験を記録したアンソロジーだ。ドイツ語で読んでいる。時代がちがい、文化圏がちがい、宗教がちがい、言葉がちがう。無や、神の超越ということを、ともすれば仏教的・東洋思想的に理解しようとする自身をいましめ、ドイツ語でならうまく意味がとれるところをなんとか日本語にして、そこに取り落としがあることを自覚しながら先に進み、普通に読めば時間の前後関係がうまく通らないところをとまどいながら先に進む。それはあきらかに1994年の日本の非キリスト者の小説家、ドイツ文学者が読むために書かれたものではない。自分のものではない言葉、自分のためのものではない言葉を、古井は常に読み違えながら読み進めている。こちらもその読みかたに同席するような読書になる。それはなかなか幸福な体験だった。 - 2025年9月2日
神秘の人びと古井由吉読んでるまだ読んでいる。少しずつ読んでいる。なかなか忙しい時期なのでぜんぜん進まないけれど、読み味はわりあい易しいので、読みが速いひとならたぶんするする読めるだろう。つっかえながら読むという感じではない。むしろ書いている古井由吉がずっとつっかえながら本を読んでいるところが描かれるので、話の進み自体がじっくりとしていて遅い。その遅さが自分の読み方の性に合う。 本を読んでいると、言葉につかまってしまうという経験をすることがある。うまく意味の取れない言葉や、きわめて大切な気がする(しかし一読ではその予感だけで、どのようにそうなのかをうまくつかみきれない)言葉に出くわして、その言葉にどういうふうに近づいたらいいか、ためつすがめつして検討する。置いておいて先に進んだほうがいいことは多々ある。でもすこし立ち止まればより輪郭が見えてくることもある。どれくらいを手持ちに加えてから先へ進むのが妥当かは、そのつどつどで見通しのない決め打ちだ。でもそういうふうにして言葉につかまるのは楽しい。そして楽しいからこそ、できるだけ時間をかけたい。でもいつかはその読みにけりをつけ、先に進むことになる。その後ろ髪引かれるような感じもまた楽しい。 古井由吉もそのように、意味の取れない言葉につかまり、あの手この手でその言葉のあらわすところに近づこうとして、しかしもうひとつうまくいかずに、なんとか章をひとくぎりつける。連載だからこその時間や分量の制約もおそらくそこにはあって、それがいいあんばいの有限性を課している。 言葉はしばしば私たちをつかまえる。しかし私たちの側はその言葉をつかまえることができず、ただ、あのときあの言葉が私たちをつかまえ、私たちはあの言葉をつかまえそこねたのだ、という思い出を残してものわかれになる。すこしは手のなかに残るものもあることがある。そのようにして、読めないものを読もうとする試みは楽しい。 ということをiPhoneでポチポチ書いていたら、電車をひと駅乗り過ごした。降りる駅に着く前に終えないとならない。書くことにせよ読むことにせよ、そうした有限性が無限を制し、行為を成り立たせる。 - 2025年8月27日
神秘の人びと古井由吉読み始めたいや、ほんとうに面白い。あまりにも面白くて、ほんとうに面白い、ということだけ書くために、Readsを開いた。またちゃんと書きたい。 古井由吉が本を読んでいくエッセイと言えば、つづめてそう言えるのだけど、本を読むということの面白さが詰まっている。 - 2025年8月23日
人狼伝説サビン・バリング・グールド,ウェルズ恵子読み終わった高校生のころ警察で調書をとられたことがある。車にはねられて三日ほど意識をなくし、退院したあとで呼び出された。簡単な調書をとるだけ、という話だったので、親はつかず、ひとりで行った。薄暗い部屋で警官は「事故のときのことを話せる?」と訊いてきた。しかし私は事故の前後の記憶がすっかりなくなっていたので、いえ、覚えていないんですと答えた。「覚えていないじゃ困るんだよなあ」と警官は顔をしかめた。「事故のときに現場にいた人がいて、あなた、まだ信号が赤だったんだけど渡ろうとしたんだって。間違いありませんか?」「わかりません、覚えていないんです」「でも見てる人がいるんだよ」「じゃあ、そうなんだと思います」「なんでそんなことしたの?」「たぶん、バスに乗ろうとしたんじゃないでしょうか」「じゃあこういうことだ。私は信号を横断した先のバスに急いで乗ろうとして、信号がまだ赤であるにもかかわらず、横断しようとしました。これでいいですね?」「はい」 調書は一人称で書かれるんだ、ということにちょっと驚きながら、私は私の記憶していない私の行動が、私の記憶していない動機によって、私の記憶していない責任を負うべく、一人称で書かれていくのを見ていた。警官は終始責めるような口調で、すこし怖かったけれど、字はきれいだった。 昔、むしゃくしゃしてやった、誰でもよかった、という定型文が失笑をさそうものとしてひとり歩きしていたとき、高校生の私は、私もまたこのような定型文によって自分を一人称化されたのだ、ということを考えていた。そこにはもっと別の語りがあったのかもしれなかった。でも法的・社会的な規範は、逸脱の仕方をある規範に押し込めなくては、その逸脱をうまく処理できない。 証言する能力に欠けているはずの人の証言が記録されるとき、そこにはしばしば疑わしいものがある。とりわけそれがきれいに記録されているときには、そこにどんな因果関係を補足するための物語が差し込まれているのか、警戒しなくてはならない。 ヨーロッパの人狼の伝説にはいくつか種類がある。セイバイン・ベアリング゠グールドが収集している民間の事例は、自分の興奮をおさえられなくなってしまう性向や、人肉食や殺人自体への嗜癖といった性向を、狼への変身と結びつけている。ただ時代が下り、キリスト教の影響が強くなってくるにしたがって、狼への変身のプロセスに「悪魔と契約した」「悪魔がそそのかした」とする物語が忍び込んでくる。とらえられ、裁きにかけられた犯罪者としての人狼や人食いたちは、自分たちが何者であるのかを説明し、そこに悪魔の存在をほのめかす。告白を通して罪人たちは自分の罪に因果関係を肉付けし、その物語に沿って罪と向き合うのだけど、しかしその告白の前にどれだけの社会的な物語が彼らの行為を包囲していたのだろうということを、今日の視点ではつい考えてしまう。 そこにいたのは悪魔ではなく狼でもなかった。しかしそれを悪魔や狼と名づけることは必要だった。ことによると、暴力的行為の当事者である罪人たちにとってさえそうした物語化は必要だった。今、悪魔や狼は疾患になっている。疾患という物語が人を助けるように、悪魔や狼という物語が人を助けることもあるのかもしれない。でもそれはひとつの粗い語りの類型にすぎないし、あるいっときの流行にすぎないのかもしれない。悪魔でも狼でも疾患でもない、私の行為や性向についての私の語りというものを取り戻したい。そのような語りが可能な場はどこかに必要なのだということを、ときどき考える。 - 2025年7月31日
伴侶種宣言ダナ・ハラウェイ,永野文香読み終わった読み返した『チャイニーズ・タイプライター』に頻出していた「リトリーブ」の表現から、ダナ・ハラウェイもレトリーバーについて書いていたな、と思って、読み返した。でも実際にはそれは、レトリーバーについてというより、レトリーバーではないもの、メタ・レトリーバーについての愛に満ちた小文だった。 レトリーバーというのはまるでこの二、三秒に生死がかかっているみたいに、ボールや棒を投げる人をじっと見つめるものですね。ところが、メタ・レトリーバーたちは、そのレトリーバーたちが並外れた感受性でもって投擲物の方向合図やマイクロ秒レベルの跳躍に反応するのを見つめているのです。〔中略〕レトリーバーたちが投擲物を追って走りだすと、メタ・レトリーバーたちはその強靭な視線の外側を走って忍び寄り、いかにも嬉しそうな様子で巧みに頭突きをしたり、かかとに噛みついたり、数珠つなぎになったり、割って入ったりします。上手なメタ・レトリーバーになると、一度に二頭以上のレトリーバーをさばくことさえできます。一方、上手なレトリーバーたちはメタたちをかわしたうえで、それでも目の醒めるような跳躍を決めて投擲物をキャッチしてみせます。 (『伴侶種宣言』p.86、88) ここで言及されているハラウェイの犬、〈メタ・レトリーバー〉のローランドはオーストラリアン・シェパードの遺伝子を持つ雑種で、つまり牧羊犬だ。撃ち落とされた獲物をくわえて人間のもとへ帰ってくるようその系譜に刻み込まれたレトリーバーがいるように、気ままに動こうとする動物へ一定の規律を課して群れへ誘導するようその系譜に刻まれた牧羊犬がいる。犬たちは人間によって使役され、支配され、狩猟や、牧畜や、軍事や、さまざまな役目に動員されてきた。そこには少なからず暴力や非対称性があり、しかしまた、犬たちもそうすることによって生き延び、利得してきたという共犯関係がある。 フェミニズムの理論にサイボーグを重要なタームとして持ち込んだハラウェイが、より現代にマッチしたフェミニズム理論の概念装置として、サイボーグの次に練り上げたものが伴侶動物であり、より限定的な形としては犬だった、というのに、ひとりの犬好きとして興味を惹かれて読んだ。小ぶりな本で、そこまで理論的に詰められている印象はなく、どちらかというと思弁的なエッセイ集に近い。そこには犬への愛があり、他者の存在をどのように承認するかという問題意識がある。 再生産的異性愛にくみすることのない伴侶動物との関係に、ポジティブな意味でのクィアネスを見出そうとするハラウェイは、犬と人とが互いに見つめ合い、互いのあいだで生まれていく諸世界を承認し、目の前にある他者性に反応することを愛の行為として肯定する。そのような愛の行為のチャンスはきわめて短い。目の前でじかに生成する、今・ここにいる他者への注意深く瞬間的な応答だ。ハラウェイはそうした愛の行為を〈存在論的コレオグラフィー〉と呼び、ダンスの比喩で表現する。犬と踊ること。犬のステップに対してそのステップを生かし、そのステップとともに生きる、適切なステップを踏むこと。互いにそれぞれの個体として存在しながら、ともにコレオをなすこと。 犬と人との間には歴史的・社会的に無数の問題がある。殺処分の問題や生体販売の問題、人を咬む犬の問題、人為的につくられた犬の本能の問題、交配によって生まれた健康上の問題をかかえる品種の問題、いくらでも出てくる。そうした問題について、ハラウェイはたびたび言及する。ある個体の犬と触れ合うとき、「わたしたちは、肉体のなかに、わたしたちを可能にしてくれた犬たちと人びととのつながりをすべて体現する」と彼女は書く。話は犬と人に限らない。現在の犬たちを構成する歴史的存在としてハラウェイが持ち出すのは、絶滅から種を保護するためという触れ込みでアメリカの国立公園に放たれたハイイロオオカミ(2002年の統計によればワイオミング州でそうしたオオカミによって42頭の犬が殺されたという)や、観光資源としてスロヴァキアやピレネー山脈に迎えられたヒグマ(家畜護衛犬が戦わなくてはならない相手だが、捕食動物の犠牲になった犬は保険によって補償されるため、その保険金が魅力的になってしまう——犬は「クマを追い払うよりも保険装置と戦わなければならない」とハラウェイは書く——)のような、犬にまつわる人が責任を持つすべての動物であり、それは結局ほとんど全生態系につながっていく。「わたしたちにはまるごと全部の遺産が必要だ」とハラウェイは書く。「わたしたちは、無垢なふりをせずにその遺産のなかに棲まうことで、あそびがもつ創造的な優雅さを望むことができるかもしれないのだ」 コーヒー一杯のエシカリティを考えることはむずかしい。服一着のエシカリティを考えることもむずかしい。リベラルな倫理観というのは、私たちの個体の世界観に対してすこし無理のあるスケールを要求している。でも私たちは膨大な関係性の編み目のなかで、その来歴を「実際は」知りうる環境にいて、知ることが望ましいとされる世界に生きている。目の前にいる一頭の犬は、犬好きにとって、愛さずにはいられないある切迫した存在として、意識に現象する。 そのようにして差し迫ってくる存在は、もしかするとふるくは恋人や子供の比喩で語られたのかもしれない。でも恋人や子供の比喩には、家族、子供、女、男、再生産といったまた別の問題がついてまわる。もちろんそうした比喩が有効性を持つ人や場合もあるだろうし、犬を比喩装置として使うことの、また別の問題もあるだろう。大事なのはたぶん、旧来の家族カテゴリーを離れた伴侶動物というカテゴリーの可能性をとっておくこと、その迂回路を、いわば「確保しておく」ことだ。その道が必要となる人や、その道が必要となるときのために。 わたしが犬の「ママ」と呼ばれるのが耐えられないのは、すでに成長した犬を幼児化したくないからだし、それにわたしが欲しかったのは赤ん坊ではなくて犬だったという重要な事実を誤認したくないからである。わたしの多種から成る家族は何かの代理や代替ではない。 (『伴侶種宣言』p.147) - 2025年7月29日
チャイニーズ・タイプライタートーマス・S・マラニー,比護遥読み終わった日々仕事のための連絡を打鍵する。「おつ」と打ち始めると「お疲れ様です」が予測変換にあらわれる。よろ」と打ち始めると「よろしくお願いします」があらわれる。「こち」なら「こちらで進行いたします」だし、「しょ」なら「承知いたしました」。予測変換にあらわれたらもうひとつながりの言葉を打ち切る必要はない。Tabキーを押して入力を終わらせる。業務は効率化され、メールは速くなり、文面は定型文だらけになる。 中国語タイプライターの入力効率化を大幅に推し進めたのが「頻繁に使われる熟語を構成する文字を近い場所に置く」という活字配置の実務的な改造であり、毛沢東時代の共産党当局が発する文書量の肥大化であり、そして共産党のレトリックがきわめて定番化し、語彙が限定されていったことなのだというマラニーの分析はとても面白い。 タイプライターの文字配置の法則を画数や部首といった理念的な側面から定めようとしていた理論家たちの苦労や、しかしそうしてつくられたタイプライターが実際は(初期の中国語タイプライターはキリスト教の中国語圏布教の文書作成を目的としていたため)キリスト教的語彙を構成するための文字が近接して配置されていたりする、いわば実務に「汚染」されていたことを思うと、ひとつの(非アルファベット圏の)文字が、「自分たちの文字はどのようなものであるのか」をめぐる理論と実践の引き裂かれが見えてくるようだ。理念的には、漢字はその構成要素によって秩序づけられる。しかし実務的には、それが要素として構成する文によって分布する。分布は理念によって秩序づけられるものではなく、観測によって整理されるものだ。そこには言語が「何であるか」と「いかにあるか」の緊張関係が立ち上がる。 無数の漢字を実際の空間に配置した中国語タイプライターというのは、もちろん過渡期のものであって、やがてコンピューター時代になり、中国語の入力システムはわれわれ日本人にも親しい(しかしもちろん日本語入力のものとはちがう)「変換」へと移行する。『チャイニーズ・タイプライター』はその現代的な入力システムの前史であり、コンピューター時代の入力システムについては続刊で扱うことが予告される。ちょっと気になるのは、マラニーが中国語の文字システムのうち、入力機械とは別の理念的な位相にあるものを、入力をコマンドとして再配置するシステム、つまりいわゆる「変換」のシステムについて、しばしば「リトリーブ」という表現を使うことだ。文面では「検索゠復元」と書かれ、「リトリーブ」とルビが振られる。 リトリーブという言葉を見て、一番に思い浮かぶのは、どうしてもレトリーバーだ。レトリーバーは賢い犬で、撃ち落とされた獲物や、投げられた棒やボールを、コマンド通りにとってくる。うれしそうに駆けていって得意げに戻ってくる。QWERTYキーの入力からひらがなや漢字を特定のプロトコルで出力する私たちの無茶なシステムが成り立つのは、そうした入力から私たちの求める文言を検索゠復元(リトリーブ)するレトリーバーたちがコンピューターのなかを駆けているからだ。その検索゠復元は通常の入力や変換を拡張し、やがて現在の予測変換へつながっていく。「よろ」と入力するや否や「よろしくお願いします」に飛びかかり、得意そうにくわえて戻ってくる犬。マラニーによれば、中国の代表的なIMEのひとつは「捜狗」というそうだ。 リトリーブの比喩と捜狗の関係が明示的に書かれるわけではない。でも『チャイニーズ・タイプライター』のそこここにときおり見え隠れする犬の比喩に、コンピューターを使う犬好きとして、そして子供のころレトリーバーと一緒に暮らしたものとして、なんだかしんみりしてしまうものがある。この小さな機械のなかにも犬がいる。 - 2025年7月14日
チャイニーズ・タイプライタートーマス・S・マラニー,比護遥読んでる検索のためにハングルやタイ文字を入力することがある(といっても韓国語やタイ語がわかるわけではないけれど)。ハングルはあるていど指も慣れていてなんとなく打てるのだけど、タイ文字はキーボードビューアを見ながらでないと打てない。キーボードビューアは、シフトキーを押すと、シフト後の各キーに表示が切り替わる。そして、シフトキーを押した時のタイ文字の「シフトっぷり」にはしばしばびっくりしてしまう。タイ文字は種類が多い。 タイプライターという有限の空間にあまりにも多すぎる中国語の漢字をどう配置しうるか、という問題が『チャイニーズ・タイプライター』の出発点であり、タイ文字の話はその道すがらに少し触れられるだけだ。1892年にエドウィン・マクファーランドによって発明されたシャム語タイプライター(シャムはタイの旧称)の話が、この本の頭に少しだけ紹介される。初期のタイプライターのさまざまな姿のうち、ダブル・キーボードという84のキーによってアルファベットの大文字小文字や各種の記号を打ち分ける形式が、シャム語タイプライターに採用された。44の子音と32の母音、5つの声調、10の数字、8つの句読点を持つシャム語の表記にとって、そのキー数はどうしても必要で、のみならず、それでもなお足りなかった。 シャム語の文字体系も変わる必要があった。技術言語学的交渉にあたっては、無傷で済まされることはないのだ。エドウィンの弟のジョージの回想によれば、八四ものキーがあっても、スミス・プレミア機は「シャム語アルファベットを全て書くためには二つ足りなかった。[エドウィンは]どう頑張っても、全てのアルファベットと声調符号を機械に組み込むことはできなかった。そこで彼は非常に大胆なことをした。シャム語アルファベットから二文字を削ってしまったのだ」。そして、こう書き加えている。「〔その二文字は〕今日、完全に廃れてしまった」。 (『チャイニーズ・タイプライター』p.65) なかなか手に汗握る話だ。でも日本語の字体がJIS規格の変動に伴って被った混乱や、戸籍電子化の際の文字整理の問題、住基ネット統一文字コードが一部Unicodeと衝突している問題などなど、テクノロジー化のプロセスのなかで消えていった、ないし消えていこうとしているたくさんの文字を思えば、非アルファベット文字体系の技術的なきしみは、対岸の火事とも思えない。 少しずつ読み進めていて、今は中国語タイプライターが日中戦争によって日本製のものにシェアを奪われていくあたりに入っている。不可能と思われた中国語タイプライターは、入力できる漢字数を縮減することで可能になった。とはいえそれでもアルファベットに比べれば膨大な数のキーを、中国語のタイピストたち、日本の(つまり漢字文化圏の)タイピストたちは、身体化することによってコントロールする。訓練が膨大なキーを打つことを可能にする。それはハングルのキーボードを打ち、タイ文字のキーボードを打っているときに、次第に、どこになにがあるかを指が覚えていくプロセスに似ている。ブラインドタッチがだんだん速くなっていくときのような懐かしい修練の快感がそこにはある。 - 2025年6月26日
大どろぼうホッツェンプロッツふたたびあらわる改訂トリップ,プロイスラー,オットフリート・プロイスラー,フランツ・ヨーゼフ・トリップ,中村浩三かつて読んだ読み返したザワークラウトという食べ物をはじめて知ったのは小学生のころに読んだこの本だった。カスパールのおばあさんが毎週木曜日につくる、なべいっぱいのほかほかのザワークラウトと、じゅうじゅう音をたてる焼きソーセージ……子供の私はもちろんザワークラウトを食べたい、ということを母にリクエストした。ザワークラウトって酸っぱいキャベツだよ、と母は困惑しながらも用意してくれた。でもそれは瓶詰めのしんなりしたキャベツで、ホッツェンプロッツで読んだような、なべでほかほかのゆげをたちのぼらせる食べ物ではなかった。なにかへんだな、もしかするといろいろなザワークラウトがあるのだろうか、といぶかしみながら、母のつくってくれた焼きソーセージとザワークラウトを食べた。そのあとザワークラウトが食卓に並ぶことはなかったのを思うと、あまり私の反応はかんばしくなかったのかもしれない(母は私が喜んだ食事は定番にしてくれるのが常だった)。 大きくなってから、東欧にビゴスというザワークラウトの煮込みがあることを知った。でもビゴスはザワークラウトとソーセージを一緒に煮込むものだそうだから、ザワークラウトだけをなべいっぱいに煮ているカスパールのおばあさんの料理とはすこし違う。木曜日だけザワークラウトとソーセージの料理をするというのは、なにかの宗教性を感じさせもするけれど、しっくりくるものは見当たらない。プロイセン、ハンガリー、ポーランドといった大きな文化圏にまたがり、近接していた、ドイツ語圏のどこかに由来を持ち、どこかで変形していった家庭料理ということなのかもしれない。 ホッツェンプロッツのシリーズは好きで、3冊読んだけれど、とりわけ思い出深いのが『ふたたびあらわる』で、それはザワークラウトによるところと、ホッツェンプロッツが変装をする話だというのが大きい(子供のころから、「変装」はとても好きなモチーフだった)。でもいま改めて読み返すと、当時は素通りしていた、ホッツェンプロッツの大きな鼻とひげもじゃの風貌がとても気になってくる。 ホッツェンプロッツは典型的な「悪人の顔」だ。なるほど、これは悪いやつだな、と子供心に思わせる人相をしている。でもそこで強調されている特徴は、実は、ユダヤ人的なものでもある。ただ、そこには積極的なユダヤ人差別というより、素朴な文化的図像の継承があるのかなということも思わせる。悪人として表象されるものが典型的にはどんな人相をしているのか。そしてその人相はどんな人種を代表しているのか。 読み返しているうちに、もうひとつ、子供のころ印象深かったシーンを思い出した。ホッツェンプロッツはカスパールとゼッペルへの復讐心を胸に独白する。 まず、カスパールとゼッペルだ。やつらがおれをぶちこみゃあがったのだから、ただですませるものか! あしたにでも、さっそくまちぶせしてやろう。そして、つかまえたらさいご、やつら二ひきでシチュー用の肉をつくってやる! そうだ——シチュー肉だぞ、へ、へ、へ、へへへ…… (『大どろぼうホッツェンプロッツふたたびあらわる』p.67) 邪悪な存在が人肉食をするという見方、つまり共同体の外部の存在を「人食い」として名指す文化はどこにでもある。でもホッツェンプロッツはそうした共同体の外部の、理解不能な怪物のようなものというより、子供としても感情移入できるようなキャラクターだった。そのホッツェンプロッツがとつぜん人肉食への欲望を口にするというのは、なかなかショッキングだった。 トカゲ人間が子供の生き血を飲んでいるという陰謀論でも、ユダヤ人の血の中傷でも、「コミュニケーション可能な存在が実は人間を食べている」というストーリーの類型がこの世にはある。そのフォークロア的な偏見がたまたま子供向けの作品にあらわれたのだろう。でも児童文学にはそうした「悪の典型」についての偏見が、しばしば素朴な形であらわれてしまう。すこし考えさせられた。 物語はホッツェンプロッツがきのこのスープを食べることによって終わる。ザワークラウトのなべ、人肉のシチュー、きのこのスープ、汁物をめぐるストーリーだ。読んでいるうちになにかなべでつくりたくなってくる。 - 2025年6月25日
ハイデガーとナチズム細川亮一気になる『ヒトラーと哲学者』が人間としての哲学者を描写し、個々の思想の内容についてはわりと軽めの記述だったので、ハイデガーの哲学とナチズムの関係をもうすこし読みたいなと思っていたら、よさそうな本が7月30日に出るようだ。8,250円はなかなか思い切りが必要な価格だけど……。 - 2025年6月24日
人殺しの花大貫恵美子読み終わったむかし日比谷公園に薔薇を見に行ったことがある。柵に囲われた花壇のなかに「プライムミニスターナカソネ」という白薔薇を見つけてちょっと驚いた。初めて見た名前だった。中曽根康弘は長いこと日本ばら会の会長を務めていたから、そういう薔薇があっても不思議ではない。でも薔薇が持っている花のイメージと、強い政治家、強い権力者のイメージはなかなか結びつかない(とはいえシャルル・ド・ゴールやリシュリューの名を冠した薔薇には特に違和感を覚えないわけで、それはそれでへんな話ではある)。 日比谷公園の花壇には「プリンセスミチコ」という薔薇もあった。皇族の名を冠した薔薇はけっこうある。でも知っている限り、女性皇族に限られるし、天皇の名前がつけられることはない。ヒロヒトやアキヒトという名前の薔薇は見たことがない。天皇はそういう形で表象されることはない。それは大貫恵美子の書く〈無のシニフィアン〉と近接しているような気がする。天皇の写真や肖像画を明治政府が避けようとしたような、迂回されることによって生まれる統治の形。 薔薇や桜が担わされてきた象徴性について、その象徴性(象徴するものと象徴されるものとの結びつき)が実は曖昧なものであるために多義的になり、それによって権力の支配が見えにくくなるという大貫の分析は明快だ。桜や薔薇の花には、花それ自体を超えて、桜や薔薇についてまわる無数のイメージが含まれている。そして私たちの花に対する素朴な好みが、時に抵抗であり時に抑圧でもあるイデオロギーを立ち上がらせてしまう。大貫の記述が興味深いのは、日本人のなかで桜が特別な花になっていくプロセスをさまざまな歴史的事例や文化的事例(能や狂言や花見)を引きながら調べていくところだ。稲と桜の関係は特に面白い。日本人がいかに桜を特別視してきたか、そして稲をいかに特別視してきたか。1993年の外国米輸入に伴う大変な騒動は、子供心になんとなく覚えている。タイ米は周りで不評だったが、私はそれなりにおいしく食べた覚えがある。 桜が支えるイデオロギーがあるように、稲が支えるイデオロギーもある。いまファミリーマートの店先には大谷翔平の大きな広告があって、「僕はおむすびのおいしい国に生まれた」と巨大な明朝体で書かれている。それをナショナリズム的だと言うのは言いすぎだけど、国家的な帰属意識を米によって代表させているところにはすこしどきりとさせられる。きわめて素朴な感覚として、米を食べるのは好きだ。でも稲には日本という国家のイデオロギーがどうしても忍び込んでいる。花と国家の関係に興味があって読み始めた本ながら、はじめの期待と違った面白い視点に出会えたのはとてもよかった。 - 2025年6月20日
ヒトラーと哲学者イヴォンヌ・シェラット,三ッ木道夫,大久保友博読み終わった石川県にある西田幾多郎記念哲学館に行ったことがある。コンクリートと光と経年でつくられる、硬質でどこか神さびた詩情のある安藤忠雄建築が、町を見下ろす小高い丘で静かに佇んでいる。展示は西田幾多郎の哲学というより人生録にフォーカスが当たり、手紙や日記が面白い。レコードに吹き込まれた西田幾多郎の声も聴ける。ミーハーなのでミュージアムショップで「無」と書かれたTシャツを買った。 西田幾多郎は太平洋戦争中、軍部からの要請に応えて大東亜共栄圏を理論的に補強する「世界新秩序の原理」を書いている。京都学派の弟子にあたる田辺元、三木清らもまた軍に協力し、日本の戦争を思想的に後押しした。そしてこうした戦争協力にもかかわらず、京都学派は読まれ、研究の対象になり、Tシャツが買われている。 もちろん京都学派の戦争協力は一貫して批判の対象になっている。ハイデガーやシュミットのナチス協力もずっと問題になっている。彼らが講義や一般書に現れるときにはしばしば〈彼らにはナチス協力という問題があるが〉というような留保がついてまわる。しかし、だからといってハイデガーやシュミットを消去することもまたできない。大きなものはその追放がむずかしい。 (イヴォンヌ・シェラットの本のなかではフレーゲの反ユダヤ的言説やヒトラーへ示した崇敬も批判の対象になっていたが、分析哲学や数理論理学の世界でフレーゲのそうした面が問題にされるのかはよく知らない。でもナチスへの公的な協力と、個人的な偏見を持ってそれを仲間内で披露することは、すこし性質が違うようにも思われる) この本の最終部でニュルンベルク裁判後の哲学者たちが次々に表舞台に帰っていくさまが描かれる。そしてまた追放されたユダヤ系の学者たちが結局帰っていく場所を持つことをできなかったことも描かれる。それは哲学がうまく有罪になることができなかったということでもある。ナチスの行動は哲学と哲学者に支えられていたが、哲学者はその責任を引き受けることができなかった。 責任というのはかなりフィクショナルなもので、本質的には見なしの問題だ。ある事柄の有責性について、どのような見なしを責任の関係者と共有できるかという物語の生成の問題だ。そこには複数の観点があり、時には観点同士の闘争がある。だから観点を言語操作のテクニックによって統御する哲学は、責任をずらし、逃れていくことについて、とても相性がいい面を持っている。 本の終盤に登場するアイヒマン裁判の話がある。アーレントのよく知られた「悪の凡庸さ」のストーリーが、アイヒマンの供述にある定言命法の我流の解釈を黙殺することで成立している、という話は興味深かった。職場風の書類システムが悪の実行を軽くさせ、凡庸な仕事人が大きな悪を動かすことに加担してしまうというアーレントの議論に対し、シェラットはアイヒマンがカントの定言命法に基づいて、つまりドイツ観念論伝統の道徳哲学に従って(悪の)行為をした、と供述している点を重視する。アイヒマンの供述をそのまま受け取るなら、そこに思想は不在だったのではなく、むしろ思想が行為を基礎づけたということになる。 シェラットは一貫して、たとえ誤読や無理筋の解釈であったとしても、悪の背景に〈哲学〉があり、〈哲学〉が悪を後押ししてしまったことを問題にしている。人は何も考えないのではなく、何かを考えている。あるいは、あとから自分の行為を、なんらかの考えに基づいたものだったのだと物語化する。その物語化のなかで、責任や責任の不在が、時には事後的に生成する。それは悪が知性の不在からやってくる、というような立場とはすこし違うものだ。シェラットはヒトラーやローゼンベルク、ボイムラーらの知的素養を明らかに劣ったものないし邪悪なものとして描写しているけれど、一方で、彼らの行動がある種の知的伝統の継承に基づいていることも描いている。 自分が容認できないものにも、時に自分が愛するものが紛れ込んでいる。愛するものに、時に容認できないものが紛れ込んでいるように。私はその紛れ込みにむしろ目をひかれてしまう。 - 2025年6月13日
ヒトラーと哲学者イヴォンヌ・シェラット,三ッ木道夫,大久保友博読んでる大学で倫理学の講義を受けていたとき、雑談のなかである倫理学者のエピソードを聞いた。細部はうろ覚えなのだけど、たしかその倫理学者は、私生活においてけっこう倫理にもとる、のみならず法的にさえ問題がある振る舞いを繰り返し、人に、倫理学者であるあなたがなぜそのような行為をするのかと問われた。倫理学者は答えた。「いいですか、自分の示した方向に進む道路標識というものはありません」…… 単なる開き直りを多少のユーモアで粉飾したといえばそれだけなのだけど、好きな話だった。この倫理学者の名前は講義のなかでたしかに挙げられた。でも残念なことに覚えていない。本を読んでいたらいつかこのエピソードにまたどこかで出会えるかもしれない、という期待がすこしある。 ともかく、真実や善を研究するからといって、べつに哲学者が善人であるわけではない、というのは、哲学者の伝記を多少読めばわりとわかることだ。だいたいの哲学者には利己的だったり、子供じみていたり、狭量だったり、問題のある振る舞いをしていたりするエピソードがある。哲学者は真理や道徳や、存在や認識についてのテクニカルな概念操作には長けているにせよ、そうした知的能力と一個人としての振る舞いはあるていど別のものだ(もちろん、哲学者は一般的に悪人である、というわけでもない)。 「哲学者は普通、別世界の人間、天上の霊気(エーテル)のようなものに夢中になっている僧侶のような存在だと思われている」とイヴォンヌ・シェラットは書く。そして「抽象的な思考に我を忘れ、象牙の塔に暮らすように見え、あたりまえの、利己的関心など超越しているとみられている」と続ける。 それが偏見であることを私は知っている。でも、哲学者は、自分の哲学と自分の実存に、あるていどの整合性をつけようとすることも知っている(というよりも、自分の実存から染み出てくるようなものとしてしか〈自分の哲学〉はできない、というほうが近いかもしれない)。だから哲学者のナチス協力については興味があった。 ヒトラー自身の哲学への愛好を含む、ナチスに協力した哲学者たちを扱う第一部をひとまず読み終わって、これからナチスの敵となった哲学者たち(ベンヤミン、アドルノ、アーレント)を扱う第二部に入る。文体は思っていたよりもずいぶん小説的で、19世紀末から20世紀前半のドイツの情景描写に満ちている。でも学者流の対象への冷静な距離感があって、日記や手紙のような客観的な資料がある場合を除いて、人物の内面にはほとんど立ち入らないし、分析もしない。 だからハイデガーのナチス協力が彼の哲学の必然的な帰結だったとか、シュミットによるナチスの法哲学の整備にはこんな動機があっただろうとか、そういった話への踏み込みは、豊富な情景描写と裏腹にとても淡泊だ。ナチスと哲学の共犯関係の理由は、結局のところ大きくて重々しい謎が解かれるような形では明らかにならない。むしろそこにあるのはきわめて俗に解釈されたダーウィニズムの流行、類比によって拡張されてしまった進化論、フィヒテやカントの平凡なユダヤ人嫌悪、大学のポストをめぐる出世争いといった、人間存在の凡庸な矮小さだ。それはどこか肩透かしではあるし、一方である種の真実味がある。 本文のスタイルを「ドキュメンタリー・ドラマ」仕立てだとシェラットが言うように、登場する人物たちの経歴や振る舞いはドラマティックだ。そしてドキュメンタリーフィルムに写しきれないものがあるように、それなりの謎もまた残る。するとその謎を、読者はなんとなく補完しようとしてしまう。補完は想像による。でもその想像を補強するのは、読者自身の来歴や出会ってきた人との思い出だ。そしてドラマの登場人物は、本来知らないはずなのに、どこかで読者自身の過去と響き合う、奇妙に思い入れのあるものになってしまう。 人は悪にも共感してしまう。人には悪の思い出があるからだ。権力争いで上位に立つために人種差別に加担して同僚や師を追放したと聞けば、それはきわめて悪いことだと言えるし、醜いこと、すべきでないことだと言える。でも一方で、大学にポストを持ち、自分の研究に打ち込み、そのうえで暮らしを安定させることがどれだけ困難で、どれだけ憧れることかを聞いたことがあれば、自分の欲するポストにたどりつくまでの長い順番待ちの列を飛び越えられる魅惑について、その引力に共感しないことは難しいだろう(もちろん、悪に共感することと、実際に悪をなすのは別のことだとしても)。 その共感は空想にすぎない。でもあきらかにナチスの行為を告発し、哲学者たちの協力を咎めようとしているこの本で、その当の哲学者たちへの共感が生まれてしまう。ドキュメンタリー・ドラマというスタイルが、むしろ邪悪さを描くことをむずかしくしていることは、とても興味深い。 ヒトラーのにわか哲学趣味を、シェラットはわりと嘲弄的に描く。その誤読や、稚拙な哲学的能力や、引用の失敗を描く。でもその嘲弄は、自分のような、にわか哲学趣味を持っている人間にとってそれなりにこたえるものだ。私はヒトラーではない。だれもヒトラーになってはいけない。にもかかわらず、ヒトラーの愚かさが私のなかにもあるのだということを感じて、かなりのところ苦しく思う第一部だった。 軽く目を通した感じでは、第二部はかなり読みやすい。それは第二部が犠牲者、被害者の話だからだろう。被害者のドキュメンタリーは加害者のドキュメンタリーよりも読みやすい。でもその読みやすさには、すこし警戒しなくてはならないものがあるだろう。
読み込み中...