峠(下) (新潮文庫)

3件の記録
- noko@nokonoko2025年7月31日買った読み終わった心に残る一節「あなたの一生のために言うのだが、人というものはね」 と、継之助は言いかけて、あとはしばらくだまった。 ーその長ずるところのものによって身を過つものだ。 と言おうとしたが、言葉がむごすぎるとおもったのである。 一時点にかぎっていえば物事はにっちもさっちもゆかぬように見える場合でも、時が経てば世の中のことは徐々にかわり、やがて事態がまったくちがってしまう。どうにもならぬときは、いそがぬことだ、と継之助はいうのである。 一案を信じ、全藩が心を一つにして絶望の底から必死に這いあがってゆく以外にない。這い上がれるかどうかの結果をうたがったところで士気を損ずるのみで害があるだけである。 「政治というものは、そこまで考えぬいたすえでなければ、どういう小さな手も打てない」 「かわいそうに。あいつの夢がやぶれた」 と、代右衛門は、盆栽の松の手入れをしながらいう。 (たとえそこまで漕ぎつけられなくても) と、継之助は、この戦争の意義について考えつづけた。 ー美にはなる。 ということであった。人間、成敗(成功不成功)の計算をかさねつづけてついに行きづまったとき、残された唯一の道として美へ昇華しなければならない。「美ヲ済ス」それが人間が神に迫り得る道である、と継之助はおもっている。 傷が、むごいそどに痛かった。 「お城を奪って死ぬつもりではあったが、その死にぎわにこれほどの痛みがあろうとは思わなんだでや」 と、松蔵にそっとささやいた。そのくせうめき声も立てず、ときどき痛みにたえかねると、愛唱の杜子美の詩を吟じた。