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noko
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@nokonoko
  • 2025年8月26日
    カフネ
    カフネ
  • 2025年8月26日
    本心
    本心
    僕は、母の心を、あくまで母のものとして理解したかった。ーーつまり、最愛の他者の心として。 すっかりわかったなどと言うのは、死んでもう、声を発することが出来なくなってしまった母の口を、ニ度、塞ぐのと同じだった。僕は、母が今も生きているのと同様に、いつまでもその反論を待ちながら、問い続けるより他はないのだった。わからないからこそ、わかろうとし続けるのであり、その限りに於いて、母は僕の中に存在し続けるだろう。 それでも、生きていていいのかと、時に厳めしく、時に親身なふりをして、絶えず僕たちに問いかけてくる、この社会の冷酷な仕打ちを、忘れたわけではなかった。それは、老境に差し掛かろうとしていた母の心を、幾度となく見舞ったのではなかったか。 何のために存在しているのか?その理由を考えることで、確かに人は、自分の人生を模索する。僕だって、それを考えている。けれども、この問いかけには、言葉を見つけられずに口籠もってしまう人を燻り出し、恥じ入らせ、生を断念するように促す人殺しの考えが忍び込んでいる。勝ち誇った傲慢な人間たちが、ただ自分たちにとって都合の良い、役に立つ人間を選別しようとする意図が紛れ込んでいる!僕はそれに抵抗する。藤原亮治が、「自分は優しくなるべきだと、本心から思った」というのは、そういうことではあるまいか。 「俺は、今でもおかしいと思っているよ、この世の中。」と、また、岸谷の言葉が過った。僕はそれに、何度でも同意する。ただ、その世の中を、僕は彼とは違った方法で変えたかった。それが出来るなら、僕はせっかく良くなった社会を、大切にしたいと思うだろう。それを壊してはいけないと、心から信じられるはずだった。
  • 2025年8月24日
    仕事をつくる 私の履歴書【改訂新版】
    私には祖母という保護者はいたが、家族はいなかった。勝手気ままに育ったため、身勝手で人の意見に耳を傾けない。自分の育った環境と全く違う加藤家の温かい空気に触れて、私はうらやましいと思うと同時に、多くのことを学びもした。妻は丁寧で礼儀正しかった。それはお互いを思いやる温かい家庭の中で育ってきたからにほかならない。加藤家の人びととつき合うなかで、礼儀や思いやり、そして誇り高く生きることの大切さを知った。 本来子どもは友達と自由に、自然と戯れながら遊ぶ中で、好奇心を育み、感性を磨き、挑戦する勇気や、責任感を養うものだ。今、子どもたちは親の敷いたレールの上を走ることに精一杯で、過保護に育てられている。自分で考えるという体験が絶対的に不足しており、緊張感も、判断力も、自立心もないまま成人し、社会を支える立場に立つことになる。 子どもの未来を想うのならばまず、子どもの時に思い切り「子ども」できる当たり前の権利を、奪われた放課後や空き地を取り戻してやるべきだ。 その上での勉強である。…これからの不確実な世の中を生き抜くために必要な力を養う、未来のかかった切実な「勉強」だ。…考えるべきは次の時代を切り拓く創造力、子どもたちがさまざまなモノや人と出会い、自分なりの価値観・生きていく覚悟を養える機会づくりだ。 「人間の心の成長にとって、最高の栄養は本である」 「ないならないなりに、やっていくしかない」…建築を通じて社会とつながる緊張感こそが、私の人生の充実だ。病気くらいで人生を諦めるわけにはいかない。 人生の幸せのために必要なのは知力でも腕力でもない、挫けない心の強さと、それをいつまでも保ち続ける持続力なのだと、私は思うのである。
  • 2025年8月24日
    ケアと編集
    ケアと編集
    「手を動かすより口を動かせ」 確かに大事な話しかしちゃいけなかったら、誰の口も動かないだろうからね。 まーなんだかんだあっても、話し合えば解決するよね、となると思いきや、「ミーティングなんかで解決しない」と断言し、なおかつ「そこがいいんだわ」と結論づける、いかにもべてるらしい脱力的な話だし、実際私もその文脈でこのマンガを紹介していた。 それから二〇年。フィンランドの一病院ではじまった「オープンダイアローグ」が日本にやってくると、この潔さんの言っている意味が、鈍い私にもやっとわかってきたのだった。 一言でいえば、話す内容ではなく、話している行為そのものに価値があるということだ。話すという行為を続けているうちに、当初問題とされていたこと自体が変容してきたり、それを問うことの意味がなくなったり、どうでもよくなったりする。要するに、問題は「解決しないけれど、解消してしまった」と言う状態がしばしばやってくるのだ。 「俺はさぁ、ひとっつも変わろうと思ってないよ。治ろうとか成長しようとか。もう今で完全なんだよね」と。 その時、痺れるような感動がやってきた。多くの人はもっと謙虚に(笑)、今より少しでも良くなろう、病気だったら治そう、成長しようとか言うはずなのに、彼は今が既にして完全で、その発現を邪魔するものは払いのけるにしても、成長しようとかまったかく思っていないと。 この「すでにして完全」という発想を例えば教育現場に持っていったらどうなるか。今がゼロだから、せっせとノウハウを積み上げて、やがて社会に出ても恥ずかしくない人間に成長しなければならない、という方向にはいかないだろう。すでにして完全なのに、現実にはうまくやっていけないとしたら、その完全な発言を邪魔する要素があるわけだから、それを探して払いのけよう。同時に、その生徒に隠されている完全さを探して、それを強調しようとするのではないか。
  • 2025年8月24日
    海球小説
    海球小説
  • 2025年8月22日
  • 2025年8月21日
    先生! どうやって死んだらいいですか?
  • 2025年8月17日
    精選女性随筆集 石井桃子 高峰秀子
    精選女性随筆集 石井桃子 高峰秀子
    ある日、そのころの食事ともいえない食事のあと片づけをしながら、流しの上の窓から外をながめると、木々はみどりで、みどりをすかして見る空がほんとうに美しかった。そのとき、私は、自分のからだが、木々と私との間の空気とおなじに透明になっていくような気もちになり、その透明なからだのなかの心臓からの泉のようなものが、こんこんと流れだしているのに気づいた。私は、どのくらいかのあいだ、死んだひとや生きているひとたちをだいじにしなければもいう思いに打たれて立っていた。 二、三年まえの夏のおわり、私は姪といっしょに、山の一軒家でいく日かをすごした。そして、姪は「おばさん、気をつけてね。」といって、先に帰っていった。私は、二、三日ほど残って、家を片づけて帰る予定だった。雑巾がけをしたり、ごみを燃したり、あたりの枯れ枝をまとめたりしているうち、不意に、あのしいんとした感じが私を包みはじめた。それは、まわりの木々から、あたり一帯の森から私を目がけて迫ってきた。私の体内は生き生きとなり、そのなかで、私はひたすら、姪のしあわせーいや、そのほかのすべてのもののためをねがっていた。 私は、自分はひとりぼっちでいるほうが、いい人間になれることを考えて、おかしくも思ったが、それは、うそいつわりのない事実であった。(「ひとり旅」石井桃子) 高峰秀子さんの人生は壮絶だった💦
  • 2025年8月16日
    当事場をつくる
    当事場をつくる
  • 2025年8月16日
    女子サッカー選手です。そして、彼女がいます
    「いやだ」と言う声を「わがまま言わないの!」「女の子なんだから」と否定するのではなく、「いやだと思うこともあるよね」「どうしたらその気持ちが軽くなるかな」と肯定される社会だったら、もっと生きやすいのに。そう思いながら、私自身の経験をここに書き残しています。 たしかにドイツのチームメイトたちは、自分の容姿をわるくいったり、ネタとしてあつかったりしないなと思いました。いつも、自分とだれかの見た目をくらべたり、人の見た目を否定したりすることはなく、どこか自分の容姿に誇らしさを感じているように見えました。おたがいの容姿や服装など、自己表現にまつわるものごとを心から肯定する言葉も、いつもポンポンとびかっています。 いきなり「自分の身体や心を大切にしましょう」なんていわれても、「どうしたらいいんだ!」「むずかしい!」と思うかもしれません。 どうしたらいいか。この質問には、わたしなりのこたえがあります。それは、いたってシンプル。「目のまえのだれか(あごかれているだれかでもいいかも)のすてきだな、カッコいいなと思うところを、言葉にして伝えることからはじめてみてね」ということです。容姿や服装など、目に見えるものでも、性格や発言など、目に見えないものでもなんでも良いです。 そうしていると、ふしぎとまわりまわって自分のすてきなところやカッコいいところをだれかが肯定してくれたり、自分自身でそれに気がついたりするものです。私はこれを、肯定の連鎖とよんでいます。 目のまえのだれかの心と身体を大切にできる人がふえることは、自分の心と身体を大切にできる人がふえていくことにつながります。肯定の連鎖を、どんどんひろげていけたらいいなと思います。 I am proud of you!
  • 2025年8月16日
    いのちの政治学 リーダーは「コトバ」をもっている
    トポスとは人が「自分には役割がある」と感じられる居場所のことですが、その重要性という問題が、その後の大平の精神の非常に深いところに、ずっと根付いていたのではないかと。 これ(「内村鑑三信仰著作全集12」)がたぶん、大平の「楕円」という考え方の出所なんだろうと思われます。そして、ここで大事なのは、内村が楕円というのは宇宙的である、と述べていることです。楕円には、時間的にはもちろん、空間的にも次元的にも引っ張り合っている、ある種の緊張状態がある。その緊張状態を失った円形の時空においては、人は過去も未来も見失って、限定された意味での「今」に引っ張られるのみになる。そうではない楕円の時空を持つことが大事なんだというわけです。 (明恵上人の)あるべきようにあれ、別の言い方をするならば「中庸」ということになるのでしょうか。その感覚が現代の政治からは失われている。中庸は発達段階の途中に過ぎず、よくないものだと思われているということが、現代の一つの強い傾向としてあると思うんです。 それと反対に、中庸こそが目指すべき姿だという信念が、大平にはあったと思います。 これは私なりの解釈ですが、山岸(俊男)さんは、安心とは「想定外の行為を消した状態にあること」、信頼は「想定外のことが起きても、それを許容できる関係性をもつこと」ととらえているように思います。つまり、「安心」を実現しようとすると、「想定外の行為」が起きないように、監視カメラを増やしたりと、社会はどんどん統制型になっていく。「安心社会」といわれるのはこれです。一方「信頼社会」は、それとは違って、突拍子もない「想定外の行為」をする人がいても、「まぁ、それほどおかしなことにはならないだろう」という信頼関係があって、その元で社会を運営していこうという状態なんですね。 石牟礼さんとご一緒させていただく中では、言葉のちからについても多く考えさせられたのですが、言葉の弊害と言う問題にも直面しました。現代人は、文字をよく読めるようになるのと引き換えに、いかにたくさんのものが見えなくなったかを感じることがあったのです。言葉をよく読めるようになった一方で、コトバを感じられなくなったのではないかと思います。
  • 2025年8月14日
    おばあちゃんが、ぼけた。
    「ぼけ」ることが素晴らしいなんて思わない。素晴らしいと思えることは、人はたとえ「ぼけ」ても一生懸命に生きるということ。そのことを認めない社会を僕たちは望まない。 どんな人だって「必要のない人」などいない。ひとりひとりの存在が認められてこそ社会は構成される。人は社会を創り、その社会から人は創られる。「ぼけ」ても安心な社会を創りたい、とぼくは思っています。
  • 2025年8月14日
    「未熟さ」の系譜
  • 2025年8月13日
    月のうた
    月のうた
    異界への案内役をするらしい満月の夜をあるくかまきり(早坂類) ふところに月を盗んできたようにひとり笑いがこみあげてくる(永田和宏) どこにいても月は等しく欠けていると盗まれながら薔薇は思った(くどうれいん) 月にまつわる歌をあつめたカセットを月のひかりに曝しておいた(安田茜)
  • 2025年8月13日
    悲しみが言葉をつむぐとき
    悲しみが言葉をつむぐとき
    容易に言葉になろうとしない想いで胸が満たされたとき人は、どうにかしてそれを語ろうとしてもがく。伝えたいことがある時よりも、伝えきれないことがあるとき私たちは、言葉との関係を深めている。奇妙に聞こえるかもしれないが、言葉とは、言葉たり得ないものの顕れなのである。 人の言葉が食物を必要とするように、私たちの心は言葉を必要とする。言葉は文字通りの意味において心の糧である。言葉から離れた心は飢え、渇く。 内なる言葉は、最初、いわゆる言葉の姿をしていない。想いにとどまっていることもあれば、想いとして自覚されないこともある。無形の言葉、これをここでは「コトバ」とカタカナで書くことにする。 コトバを言葉にすること、それが想う、あるいは書くということだ。 想うだけでも心に言葉が宿ることがある。それは私たちは祈りと呼んできた。だが、どうしても書き記して、コトバを文字の姿に移し替えなければならないことが私たちの人生には何度かある。 人は、しばしば、自分が泣いていることを知らないことがある、そう思うようになりました。見えない涙が心の中に流れる時人は、そのことに気が付かない。しかし、その魂は、頬を濡らす時と同じように、また、それよりも深く悲しみを感じているのかもしれません。 昔の人は、「かなし」を、悲し、哀し、とだけではなく、愛し、あるいは、美しとすら書いて、「かなし」と読みました。悲しみは、いつも、深い情愛と結びつき、美としか呼ぶことのできない何ものかを伴って顕れることを、古の人々は、はっきりと感じていたのだと思われます。 昨年、石巻に講演に行った時のことでした。主題は、悲しみと死者でした。悲しみとは、死者と離れてしまったことを示す感情ではなく、むしろ、私たちは死者が寄り添うのを感じるとき、悲しむのではないか。悲しみとは、世に言われるような悲惨な出来事ではなく、愛しみを全身で感じる出来事なのではないかという話をしました。 多くの人にとって死者は、それが何であるかは語り得ないがしかし、実在する何ものかなのではないでしょうか。当然ながら、語り得ないことと存在しないことは、まったく関係がないのです。
  • 2025年8月12日
    野生のしっそう
  • 2025年8月12日
    障害をしゃべろう! 上
    「当事者研究」も、決して病気の人たちを回復させるプログラムじゃなく、どんなことがあっても自分を励ます態度、機嫌よく暮らすための一つの手立てとして生まれたようなものです。とにかく失敗だらけ、無駄ばかりやってきましたが、どんな経験でもちゃんと肥やしになっていく。そこでまた人は生きる。成り立つんだなと、そういう手ごたえは持てましたね。(向谷地生良) いまぼくは弱いロボットのコンセプトをいろいろな社会に実装したいなと思っているんです。やってくれる人とやってもらう人、教える人と教えてもらう人、介護をする人と介護される人にも線を引くと、相手に対する要求水準を高めてしまう。サービスを受ける側も受け身だけの存在になってしまい、不寛容の世界が出来上がる。様々な関係に「弱いロボット」を持ち込みたい。弱さで、人の関係性を取り戻したい。(岡田美智男) 衝撃的な事件が起きると、精神障害と犯罪が結びつけられる。ほとんどの精神障害と犯罪のリスクは関係ないことがもう証明されているのに。 むしろ、人の命や財産をないがしろにしてしまうモラルっていうものが犯罪に関係していると言うエビデンス(科学的根拠)がある。犯罪学でビックエイトって言う概念がありますけど、八つのリスクファクターのうちの四つがモラルと関係があり、残りのうちの三つが社会的排除に関わるもので、貧困とか差別ですね。(熊谷晋一郎) 数学は、これまで世界に存在しなかったものを生み出していく営みです。既に知っていることを数学的に表現するだけが、数学ではありません。無限とはこういうことなんじゃないかっていうのを自分で先に決めてしまうと、数学の無限を理解できないと思います。(森田真生)
  • 2025年8月8日
    自分の人生に出会うために必要ないくつかのこと
    苛烈なまでに感動しながらも岡本は、セザンヌやピカソを単純にほめたたえたりはしない。このとき出会ったのは優れた絵画ではなく、自分自身である。それが岡本の実感だった。ピカソに感動し、「自分自身の心がふき上った。ピカソをナマの眼で見て、ほんとにそれが自分じゃないかって感じがした」と述べている。 真の芸術は、人間の心をふるわせるだけではない。心の奥に眠っている魂を目覚めさせる。 西田のいう純粋経験とは、見える存在の奥に不可視な実在を感じることだといってもよい。むずかしいことではない。私たちは、ある素朴な行為のなかにその人の情愛や憐憫を感じることがある。そうしたとき、私たちの内心をうずまく何ものかを漱石は「詩」と呼ぶのである。 器用に立ち回ることのできない自分は、眼前のことを愚直にやるほかない、真にそう思えたとき、「運」の道を歩いている 会話で吉本さんが一度ならず口にし、そしてそれゆえに深く印象に残ったのが「力量」という言葉である。…親鸞にふれたときだったと思うが、「あの人のようにすごい力量があればら」と語ることもあった。 …力量と彼がいうときの「力」は、語学力、語彙力、理解力、表現力などとはまったく違う。むしろ「ちから」とひらがなで表記し、特定の方向への囚われなき働きであると表現したくなるものだった。 吉本さんは批評家、思想家として紹介されることが多いが、独創的な詩人でもあった。『詩とはなにか』と題する本で、詩を書く営みをめぐってこう書き記している。  詩とはなにか。それは、現実の社会で口に出せば全世界を凍らせるかもしれないほんとのことを、かくという行為で口に出すことである。
  • 2025年8月8日
    「違うこと」をしないこと(1)
    不思議な本だった。おそらくこんなことが書いてあった。↓ いくつも理由をつけないとやりたくないことはやらなくて良いこと。 会える人には必ず会えること。 感覚を大事にして生きて良いこと。 すんごい行き詰まったらまた読んでみてもいいかもよ。
  • 2025年8月2日
    北極男 増補版 冒険家はじめました
    ホッキョクグマのために僕たちができることなんてあるんでしょうか?別にイヌイットが乱獲しているわけでもないですし…。北極の海氷が減って、ホッキョクグマの個体数が減少しても、パンダみたいに動物園で個体を飼育して、希少生物として維持することはできるでしょうが、人間の力で北極グマの生息数を増やすなんてことは無理でしょう。すでに北極海の海氷は減少の一途をたどり始めていて、今後しばらくはこの傾向が続くと思います。何かの自然環境的要因でそれが食い止められれば別ですが、いずれにしろ、人間の力でできることには限界があるでしょう。 (記者…なんだか希望のない話ですね。) 希望うんぬんというより、今起きていることが現実なんですね。おそらくこれから先もホッキョクグマは減っていくでしょう。それが人間の活動によるものなのか、地球規模の自然環境の変化による現象なのか、どちらであっても僕たち人間は、地球に生きる一生物としての「分」みたいなものはわきまえる必要があるとは思います。僕たちは、地下からジャンジャン資源を掘り出して、それを空になるまで燃やし尽くすのがはたして正しい行為かどうかを考える必要があって、ホッキョクグマがかわいそうという感情論に終始すると、かえって考えた気になっただけで終わってしまうような気がします。 僕たち旅をする者は、行く先々で、必ず誰かのお世話になる。言い方を変えれば、必ず誰かに迷惑をかける。それは人間だけに限らず、野生動物や草花に対してもそうだ。いや、旅に限らず、生きるとは、もともとそういうものなのかもしれない。30年前にこの土地を訪れた先輩たちが築いた信頼や友情のおかげで、僕らは今ここにいることができる。誰かの世話になる、頼る、頼られる、迷惑をかける、かけられる…。そういうことを通して、人間関係はできていくのかもしれない。 「探検は知的情熱の肉体的表現である」 「俺が若者たちを北極に連れていったのは、別に冒険家を育てたいわけじゃなかったんだよ。ただ、若い人たちが自分で考えて生きていける力を得てくれればそれでよかったんだ。」(文庫解説より 大場満郎の言葉)
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