弓と竪琴 (1980年) (ラテンアメリカ文学叢書〈12〉)

弓と竪琴 (1980年) (ラテンアメリカ文学叢書〈12〉)
弓と竪琴 (1980年) (ラテンアメリカ文学叢書〈12〉)
O.パス
不明
6件の記録
  • 北米の態度は次のように要約できるーアメリカのユートピア的本質を備えていないものはすべて、厳密な意味では歴史に属していない。それは自然的事象であり、それ故、存在しない、あるいは、ただ生気のない障害として存在しているのであって、他の意識としてではない。 p.412
  • 追記 フロイト的ワンセックスモデルによる異性愛規範、またそれによるミソジニーが見受けられます。 追記終わり 稀代の碩学家が、その(ボルヘス程ではないにせよ)乱読に基づく乱知を衒学を思わせるレベルで振り回し、さらに世紀を代表する詩感でもって「詩」論を述べるという、どこをどう切り取っても読みづらい事この上無い一作。論述としての確かさや適切さについて首を捻る所も無いではなかったが、同時に語られる張り裂けそうな程の詩感による論旨としての「イメージ」が、難解さや適切さ、理解を飛び越えて強制的に流れ込んできて、その背反にやられて30分も読むと限界が来るし、読んでて何度か気が狂いそうになった。 この評論(?)を読む以前にパスの詩を読んでいて、詩や詩論についてのパスの語りを信用できていたので何とか読み通せたが、オクタビオ・パスの初読としてはおすすめしません。まずはパスの詩を体感した上で、その優れて難解な評論集を読むのが良いだろうと思う。信用の担保が無い状況でこの文章を読み通すのはあまりにもあんまりなので…。 本人も何度か言及していた様に、厳密な「詩論」というよりは本義的な意味で「エッセー」に近いのだろうと思う。しかし同時に、パスにとっての最大射程の「詩」としても書いているであろう文章は、専門詩論なのか、社会批評なのか、それとも「詩」そのものなのか、それぞれへと飛躍と越境を繰り返しながら、語られる意味以上のイメージが迸る。詩として読める、というより(最大射程の)詩としてしか表現できない、とした方が適切かも知れない。 文中、パスは詩人と読者の関係について何度も言及している。言い回しはそれぞれで異なるが、意味合いは等しいその一つを引くと 「詩人による詩の創作と読者による詩の再創造」 時として論の断続や切断を辞さない「イメージ」の鮮烈さは、信用を担保した読者への再創造の喚起とも思える。 20世紀の理性のみを基盤とする他なく、その極めて碩学な態度によりコロニアル内という知の壁を乗り越えられず壁にぶつかり続ける以外の手段を持たなかったパスを思えば、「未来」に読み、再創造を試みるとは何なのか、心を向けずにいられない。
  • オクタビオ・パスが源氏物語読んでるのは知ってたけど与謝野蕪村まで読んでるのか
  • 「あらゆる危機の時代は言語批判と共に始まるか、あるいは、それと時を同じくする。」p.35
  • 古書版で買っちゃって文庫でも出てるしそっち買った方がよかったかな〜と思ってたけど、帯の巻かれ方がカッコいいのでこれでオッケー
  • Yota Yoshida
    Yota Yoshida
    @yotayoshida
    2026年1月11日
読書のSNS&記録アプリ
hero-image
詳しく見る
©fuzkue 2025, All rights reserved