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一年とぼける
一年とぼける
@firstareethe
おそらくフェミニズム・ジェンダー・クィア系の本&無理矢理にでもそちらに寄せた感想が多くなると思います
  • 2025年12月16日
    ストーリーが世界を滅ぼす
    ストーリーが世界を滅ぼす
  • 2025年12月15日
    同時代ゲーム
    同時代ゲーム
  • 2025年12月11日
    暗闇に戯れて
    暗闇に戯れて
    トニ・モリスンやアメリカ文学に全く興味ない場合は読むのはちょっと厳しいかもしれないが、アメリカの人種差別の構造を暴き立てる素晴らしい批評本。ただ、かなり高度な文化批評となっていて、本文読んだだけでは中々理解がし辛いというのが正直な感想。もし読むのなら巻末の解説から読むことをおすすめしたいです。
  • 2025年12月11日
  • 2025年12月10日
    資本主義の敵
    資本主義の敵
  • 2025年12月10日
  • 2025年12月9日
    世界99 上
    世界99 上
    作品の面白さとは別に、個人的には「失敗作」と感じた。 明らかに「ポストトゥルースによる分断」をテーマとした作品にとって、村田沙耶香という作家性が持つ都市型という特性、つまり都市外を切断された異界としてしか認識できない事との相性があまりに悪かったと言えるのかもしれない。作品内からはインターセクショナルの気配やそれへの意欲は所々で感じられはするが、それらは達成されず、むしろ結末としては分断が完全に達成される。結末から逆算するに、物語後半で突如として(軽く)言及された「見えない人」という存在そのものが、作家の作品に対する敗北宣言に思えてしかたなかった。 それでもなお、村田沙耶香という類稀な力量を持つ作家が書いた作品として、確かに魅力に映る。しかし、その力量・才能を正しく評価すれば、この程度の作品で落ち着くはずはなかったと思う。これを成功としてしまう事は、それはむしろ作者に対する読者の裏切りではないか。村田沙耶香ならば、このテーマでもって素晴らしく凄絶な作品を描けたはずだと1読者として信じている。
  • 2025年12月9日
    世界99 下
    世界99 下
  • 2025年12月5日
    部落フェミニズム
    部落フェミニズム
    ホワイトフェミニズムについては知っていたけど、日本という文脈でそれがどう機能しているかには全く気を向けていなかった事を突きつけられた。自分自身マジョリティ男性として、インターセクショナリティとして生きている人たちのそのインターセクショナルを勝手に分解して、個別として理解できてるフリができているだけだったんだな、と。 また、「被差別部落」という差別がいかに反差別内でも透明化され、無かった事とされてきたか。東北出身という言い訳をさせてもらえれば、被差別部落問題の存在は知っていても、そこに主体を持って考える事が出来ていなかったのもあって、今まで学んだフェミニズムやジェンダー論の中でどれだけ被差別部落問題が後に回されて、不可視化された論立てをされていたかについて、発想すら出来ていなかった。 被差別部落民で女性でフェミニストで障害を持っていて、というそれぞれの社会的被差別属性を同時に生きているということは、それぞれの差別要素ごとに別々に差別を受けるというのではなく、全ての差別をそれぞれの被差別内ですら積み重ねられて生きていくということ。また、その複雑さから被差別内ですら異化されて「無かったこと」にされ「後に回される」。ぜひ多くの人に読まれてほしい。
  • 2025年12月4日
    増補版 いちご戦争
    面白いという表現が正しい作品なのかは分からないけど、とにかく、素晴らしい作品である事は確か。ただ、作品の素晴らしさ以上に当時の日本で、戦後という甘受のままに描く事ができた作品を、作者自身が現状を戦前、もしくは(世界規模での)戦中と捉えている現在に増補版として再販しようという志や苦しさに目を向けてしまう。今日マチ子ファンで良かったと思える作品ではあるけど、そこで思考を止めて良いものか…
  • 2025年12月4日
    信仰
    信仰
    読む順としては巻末に載っているエッセイ 書かなかった日記 から読むのが良いのではないか。どの様な内容かは、だいぶセンシティブなエッセイなため詳細は控えるが、村田沙耶香が何に抱えられ続け、作品として書き続けているのか誠実に語られていると感じた。読者側もその作者側の誠意を抱えながら他の作品へと目を移すべきだと思う。最後に置かれた作品なので作家側の意図とはズレた提案かも知れないが、これから読む人には是非その様に読んでみてほしい。 本当は短編集故に強く感じられた、あまりに都市(都会)に限定されたモチーフと、その対比として掲げられる都市「外」という象徴の繰り返しについてうだうだ文句つけたかったのだが、それ以上に最後のエッセイに感じ入ってしまった。
  • 2025年12月4日
    ラテンアメリカ五〇〇年
    1943年生まれの著者による、2017年発刊の本。はっきりとポスト植民地主義に立ちながら、フィールドワーク含め何十年も研究を重ねてきた学術本と考えると、そのバックボーンの濃さ含めて割と貴重な視点の本かも知れない。 現代から約500年前、コロンブスによるアメリカ大陸の「発見」を基点とした「近代」から「現代」。西洋史観としてのそれら植民地主義がいかに植民地主義たるか、またそれらがいかに再演され得る構造か、そして何より西洋「中心」史がその幻想をいかに植民地主義として利用されて来たかを解体する。明治期以降の近現代日本ともちょくちょく接続させながらの語りなので、想像より読みやすい本だと思う。 2025年現在にこの本を読むと、むしろ発刊当時よりも現代性が上がってしまっている様に思えてしまう。ポスト植民地主義の次はニュー植民地主義か、と思わされるようで本の意図とは別に暗澹としてしまわされる所はある。 また、一つ大きな問題点としては、日本と植民地主義の接続として、被差別部落はほとんど触れられていない点がある。アイヌ、琉球や貧農棄民政策等には触れているが、それならば被差別部落も同列に触れるべきだろうと考える。これは『部落フェミニズム』内でも語られていた、反差別を標榜する側からも透明化させられ続けた被差別部落という存在を可視化させる為にも指摘するべきだろう。 著者はラディカルな左翼歴史家の口から 「クソ!またあのインディータ(インディオ女)は!。」(p.15) という差別的な言葉を聞きショックを受けたというエピソードを紹介している。それは内在化された植民地主義を相対化し、解消する事の難しさも表しているともいえるが、被差別部落問題に触れる事が出来ない著者の姿勢もまたそれを同等に示している。ラテンアメリカという外在的象徴には向ける事が出来る植民地主義への相対化は、著者に内在化された日本における植民地主義には同等に機能していない。これらの事から即座に著者は差別者である、と断じはしないが、いかに内在化、透明化された差別意識を認識するのは難しい事なのかを意識し続けなければ、と思わされる。
  • 2025年11月29日
    過疎ビジネス
  • 2025年11月27日
    化外のフェミニズム
  • 2025年11月27日
    日本から考えるラテンアメリカとフェミニズム
    むちゃくちゃ面白かった。序章で語られている通り、インターセクショナリティを前提としたラテンアメリカにおけるフェミニズムについてのシンポジウムの書籍化ということだが、そこで語られている以上にラテンアメリカがインターセクショナリティを通してでしか表現され得ない程混交「させられ」、それが歴史化してきたという事実が横たわっていることがヒシヒシと感じられる。フェミニズムという視点から、ここまで視野を広げられるのかという気づきを得られる、間違いなく良書。 個人的に読んでて一番ヒリヒリしたのは、第四章廣瀬純「採掘主義について」。政権の左右問わず現在の政治体制そのものがいかに資本主義にのみ屹立しているか、そしてそれがいかに家父長制の再生産へと繋がるのかという問いへの実践を紹介している。こう書くと、アメリカ批判の中国経済よりに書かれているのかと思われるかも知れないが 「中国共産党は資本主義の前衛党にほかならない」(p121) と書かれている通り、まさにそれをこそ批判している。 他の章、コラムもそれぞれ非常に魅力的で、フェミニズムを勉強してみたけどイマイチ掴みきれてない、次に読むべき本が分からないと感じている人には是非手にとって欲しい。タイトルに示されている通り、この本で語られている事はただ日本から遠く離れたラテンアメリカの紹介というだけではないから。
  • 1900年1月1日
    ミライの源氏物語
    ミライの源氏物語
    p.125 「産んだ子どもを育てられない」章内にて以下の文章があった 『あるいは、日本では共同親権が認められていないので、親たちが離婚した場合にはどちらかの親と永遠に別れる、あるいはごくたまにしか会えない関係になる、ということが、親同士の話し合いがうまくいかない場合は起こります。』 これには強い引っ掛かりを覚えた。好意的に解釈すれば、いわゆる「共同監護」の意味で共同親権という言葉を選んだのかもしれない。ただ、発刊当時の政治情勢を鑑みれば軽挙妄動の言葉選びと思わざるを得ない。安易な家族神話を前提とし、現代のDVや虐待を軽視した言説と謗られるのは避けられないと考える。 作者が現在共同親権についてどのように考えているかは分からないというエクスキューズは付けるが、ただこの一節のみによっても、批判するには十分な重みのある言葉選びだと思う。
  • 1900年1月1日
    押し付けられる結婚
  • 1900年1月1日
    アブサロム、アブサロム!
    アブサロム、アブサロム!
    まず端的に現代読解を旨とするのならば、フォークナー全般とは言わずとも「アブサロム、アブサロム!」に読む価値は一つしかないです。それは、トニ・モリスンの様な黒人作家達が自らの創作に使命を持たなければならなかったのか、その状況に思いを馳せる事ができるという事。しかし、それも黒人作家達の作品を直接読めばすむ事であって、ならわざわざこの作品を現代に読む価値はあるのか、と問われたら「無い」と答える他ないな、というのが個人的な結論となります。 ヨクナパトーファ・サーガに位置付けられる「アブサロム、アブサロム!」という作品は主に架空都市ヨクナパトーファ郡ジェファソンを舞台にした語りの作品であり、おそらく9割以上が語りによって構成されている。Wikipediaのアブサロム、アブサロム!の項から評を引用すると 「この小説は、様々な話者を使ってその解釈を表現させることで、フォークナーが考える南部の歴史的文化的時代精神を暗示している。」 とある。語り部を挙げると ローザ クエンティン クエンティンの祖父・父 シュリーヴ の五人となる。ローザのみ白人女性であり、他は白人男性。また、シュリーヴのみジェファソンの住民ではなく、カナダ出身となる。これらの語り部が時に言葉で、時に手紙で語りを重ねていく。その語りは時に重複し、時に矛盾しながら塗り替えられていく。 この語りの重複による危険性は指摘したい。語りによって進められる物語という事は、作品内において客観が殆ど存在しない事と同義であり、主観による伝聞や記憶違い、個人の感性の歪みによって事実に到達し得ないという構造となる。故に、語られる「真実」は事実と同等かの確認は作中においては不可能である。それは語られる順番とは関係の無い構造的性質だが、しかし作中においては前述の「真実」は時として後述の「真実」によって塗り替えられる印象を持ってしまう。全知の語り部の不在はしかし、後出しの「真実」を全知かの様に錯覚させてしまう。「語り」によって真実(時に事実)を塗り替えられると見られる描写は、現代における歴史修正主義と非常に近しいと言わざるを得ない。作品を毀損する程の警戒は無用だが、現代批評の視座に立てばこの歴史修正主義とのメンタリティの近似についての警戒は必要だろう。 Wikipediaの引用において「様々な話者を使って」とある。キャラクターとしてはその通りであり、五人のキャラクターが一方的、双方的に語っていく。これは本当に多声なのか?作家と作品を=で結ぶ事は必ずしも正しくない。しかし、確かに作品は作家によって書かれている。ここではその「多声」の分解を試みたい。主にアブサロム、アブサロム!における多声性の分解は二つの観点から可能だと考える。ジェンダー/人種という差別構造への批評性と(ヨクナパトーファ郡)ジェファソンという土地への「南部」という幻想性だ。 ・ジェンダー アブサロム、アブサロム!は語り部唯一の女性であるローザから始まる。中盤まではその語りが挟まるが、中盤以降は語る主体としてローザは排除される。以降のローザは語られる客体であり、また感情的とされるその人物像が強調されていく。彼女の主体が中盤以降存在しないという事は、同時に彼女の語りは作中の印象として「修正」され得る語りとして置かれ続ける事でもあり、ヒステリックとも見えるその人物像と相まって「語り」の真実性そのものが疑われる状態だと言える。そして前述の通り、ローザ以外の語り部は「白人男性」である。唯一の女性語り部は、こうして物語の「真実」から排除され、その行方は白人男性達の手に委ねられていく。それでもなお、彼女はその人種性によって語る場を排されている訳ではないのだ。 ・人種 前述の様に、語る主体として本作は白人以外を想定していない。しかしながら、本作は語られるものを客体ではなく主体として想定しているであろう場面も多い。代表は本作主人公とも呼べるサトペン(白人男性)であり、語る/語られるという主従関係を食い破らんとし、「語らせる」という行為に踏み入っている。この前提に立てば、語る主体としての異白人は存在せずとも、物語の主体としては異白人も存在し得る。では、それは行われているのだろうか? 取り上げるべきは、チャールズ・ボンだろう。ボンは白人男性の表象として表現される。サトペンの私生児であり、サトペンにとっては正式な子どもであるヘンリーとジューディスの異母兄。ヘンリーとの(やや一方的な)ホモソーシャル関係において、自身の同性/近親関係の渇望のその代替としてジューディスとの(二重の)近親姦をも望まれた人物である。最終的に彼はヘンリーによって射殺されるが、それは近親としての倫理的引き裂きによるものではなく、決定的となったのはボンに「黒人の血」が流れているという事だ。ボン自身、その死を不条理、不可解なものとして捉えている描写もなく、またそれが描写されるのはクエンティンとシュリーヴという白人男性二人の語り合いの中でだけである。 また、ボンの描写の変遷も気にかかる。序〜中盤におけるボンは、サトペンとの関係が明かされないのも相まってヘンリーを堕落し破滅に導く存在として語られる。サトペン家にとって外部の存在としてヘンリーに関わる存在だ。しかし、サトペンとの血の繋がりが示されて以降は、外部では無く内部として、また積極性を欠く流れもの的な人物として描かれ直す。 これらの描写から考えるに、ボンはその白人(父方)の血として、物語の中で語られ得る存在ではあるが、黒人(母方)の血として、その主体は語り部たる白人達によってコントロールされる存在でしかない。前述のジェンダーと共に、ここには女性性/異白人性という二重の抑圧が発生している。 また、サトペンが黒人奴隷に産ませたクライテムネストラ(クライティ)にも触れるべきだろう。ジェンダーと人種、それぞれの表象において他の人物からは半歩ズレた存在と言える彼女をどの様に解釈するか。語られはするが語られ切れない。語りに踏み込みかけるが語り切らない。クライテムネストラとはクリュタイムネストラの英語名であるから、ギリシャ悲劇に当てた解釈をすれば破滅を導く破壊者として、一種のデウス・エクス・マキナと捉えられるが、あまりにも通り一遍な解釈と思わざるを得ない。しかし、その通り一遍を否定出来る程強く語る訳でも語られる訳でも無い。「王家」としてのサトペン家を破滅させるには黒人の血が必要と考えたのだろうか。この解釈が正しいとすれば、ボンとの照応によって「人種」というファクターに埋め込まれた(無意識の?)差別コードとしてクライティを読み解く事もできるだろう。ジェンダーと人種という二重の差別を最も背負わされたキャラクターとも言え、作者の無意識の偏見が最も出やすいキャラクターだとも言える。フォークナー自身の差別への批評性の信頼性を測れないのもあって判断が難しいとしか今は言えない。 名前の通り、神話性を意図した「語り得ぬ他者」の象徴として存在したのか、神話化せねばならないほど「黒人の血」は他者であるという暗喩なのか。論ずるにはクライティへの解釈が不十分と責められても仕方ないという自覚はある。クライティへの解釈から、この論の全体が崩れる可能性はあるだろう。 上記二点により、本作において「多声」とされるものは、実質において「白人男性」に限定された声だと分解できる。異白人は主体を持ち得ず、女性は「真実」への踏み台としてしか主体を許されない。 しかし、白人男性もまた「多声」ではある。その多声性についての分解も試みたい。 Wikipediaの引用を再度引くと 「南部の歴史的文化的時代精神を暗示している。」 本作における「多声」とは白人男性の声であると分解した為、これは「南部白人男性」の歴史的〜と解釈される。 つまり、白人男性を多声足らしめている象徴は「南部」という土地にあると言える。 ここで語り部達に目を移したい。クエンティンの祖父・父に関しては出生地について詳しくないが、ジェファソンという土地に根付いた人物として描写されている。クエンティンとローザはジェファソン生まれ。翻ってシュリーヴは明確にカナダ出身とされている。 この明らかな異端はどう捉えるべきか。一般に読めば、アメリカ北部を飛び越え「カナダ」という南部とは遠く離れた異郷の外部の眼と読むべきだろう。 シュリーヴの作中における最大の役割とは何か。外部の眼として「南部」(ジェファソン)を見つめる事だっただろうか。それは明確に違う。彼の役割は終盤においてクエンティンと共にボンとヘンリーを「再演」する事だ。クエンティン/シュリーヴはボン/ヘンリーに成り変わる事によって、シュリーヴは外部の眼から内部の自己模倣へと変奏される。シュリーヴは語り部として自身を語り、その語りは、「南部」へと吸収されていく。 これは「白人男性」としての語りの土地を超えた伝播と読むべきか。はたまた外部性を許さぬヨクナパトーファというエゴと読み解くべきか。おそらくこの先は分析ではなく、こう読み取ったという判断になる。 本作にはフォークナーが作成した作中の年譜、系譜、ヨクナパトーファ郡の地図が付録されている。地図にはこう添えられている。 「ウィリアム・フォークナー、ただ一人これを所有す」 この言葉は作家としての茶目っ気であり、真正面から受け止めすぎる事はないとも言えるが、あえて真正面から受け止めよう。 ヨクナパトーファとは南部に位置する架空都市ではなく、それを仮装したフォークナーの自我の投影である。前記した通り、本来は他者たるシュリーヴもまたフォークナーの自我に吸収される。それをもって、この作品における語り部は皆フォークナーの自我の変奏と化す。つまりこの作品における「南部白人男性」の声とは、南部白人男性という多声ですらなくフォークナーの自我の鏡像達が産み出す、フォークナーという個人のみの声なのだ。自らの声を自らが吸収するという自己循環こそがこの作品の本質とも呼べるだろう。 しかしながら、歴史的な批評としては確かに「多声」として評されてきた。その矛盾を解くにはセジウィックを引くのが良いだろう。 前出してしまっているが、ホモソーシャルによってその矛盾は説明できる。ホモソーシャルとは同性同士(主に男性)の性的接触を伴わない関係性を指す言葉だが、それにはしばしば連帯感や承認欲求も付与される。連帯感やコミュニティにおける承認に使われると言われるのは、主にホモフォビア(同性愛差別)やミソジニーによって行われるコミュニティからの対象者の排除による連帯感の向上、性的対象者(女性)の「献上」によるコミュニティからの承認だ。作中のボンに対するヘンリーの態度を鑑みれば理解しやすい概念だと思う。 フォークナー存命当時の文芸界は現代よりも多様だっただろうか。いや、その場は現代以上に主として白人男性によって占められていた。そこで行われていたのは、セジウィックがイギリス文学界に見たホモソーシャルのアメリカ版である。その世界で行われた全ての批評が等しく無価値とは言えないが、そこには「白人男性」という無形化された連帯感がある。その中では「個人」は必ずしも「個人」として有形化されず、無形化された透明な網を伝って全体化される。つまり、「南部」という土地に吸収され「南部白人男性」の声としての多声とする前提とは、「白人男性」というホモソーシャルによって支えられた虚構であり、そこには「個人」を真に「個人」として認識できないままのフォークナー自身の声だけが残る。 以上によって、アブサロム、アブサロム!における多声とは白人男性に限られた多声であり、またその白人男性の多声とはホモソーシャルによる幻想が産み出したフォークナーという単声であると結論付けられる。共同体作品としての虚構を剥がす事で過去の批評軸自体への疑義を提示する。 フォークナーの単声作品としてはどの様に評せられるのか。残念ながらまだその視点での評は多くないと感じる。共同体幻想は現代批評の視座においては暴かれる。既存の批評に則って作品を解釈するのならば、すでにその寿命は尽きた。これはいかに批評が更新されないままだったのかという証左でもある。現代批評における作品の再構築を急がない限り再興される事は無く、何となく難解な作品としてフォークナーは先細り忘れられていくだろう。
  • 1900年1月1日
    ガルシア・マルケス論
    ガルシア・マルケス論
    ここ数年で書店で見かけた時、一番びっくりした本かも知れない。現代日本でまさか新翻訳・再刊行されるとは思ってもいなかった。ラテンアメリカ文学好きなら必読書の一つなので、見るからに分厚くてドープな研究・批評書だがチャレンジした。ガルシア・マルケス作品へのリョサの分析や批評の精度や質どうこうは今さら言及するまでもなく評価は定まっているかな、と思うのでそれよりもリョサの作家論の観点から自分なりにまとめたい。 ・作品至上主義 "作家がテーマを選ぶのではなく、テーマが作家を選ぶ。" この本の中で示されている(そしておそらく終生大きくは変わらなかったであろう)リョサの作家としての立場は、「作品至上主義」と呼べる。一般に呼ばれる「作家至上主義」との違いを示せば 作家・作品・テーマにおける影響(支配)関係 作家至上主義 作家→テーマ→作品 作品至上主義 テーマ→作品→作家 といった違いになる。作家至上主義においては作家は作品の基点となるが、作品至上主義においては作家は出力の最終地点でしかない。作家は主体として表現するのではなく、テーマに隷属した作品を表現する為の装置に位置付けられる。 作品至上主義における最上位「テーマ」を、本文中リョサは「悪魔」と表現する。「悪魔」とは不可視・不可避を含意すると捉え、つまり作家は「テーマ」を認知する事が本質として不可能だとする表現とし、「テーマ至上主義」ではなく「作品至上主義」と呼称する。 これはあくまで「作家」が認知でき得る範囲という意味で、読者が必ずしもその範囲に留まるものではない。これはつまり、「作家」に対して批評は常に開かれる事を意味する。作家の意図を超える可能性を、読者は常に内含する。 ・懸念点 「作品至上主義」は、作家のみならず文学好きならば一定首肯し得る感覚だと思われるが、懸念点もある。大きくは、作家至上主義以上に作品に対する作家の存在を無謬化してしまいかねない点だ。この立場にとって、作家とは作品に対する主体ではなく、テーマという悪魔に取り憑かれた客体でしかない。描けるものを選べない作家に作品に対する責任は生じない事になる。 また、最上位に置かれた「テーマ(悪魔)」は本当に「選べない」のか、という疑念もある。テーマとの接触は確かに偶然性に依拠し、個人の選択の余地は少ないだろう。しかし、このテーマ→作品→作家という構造自体に、個人の認知という歴史的・社会的・文化的バイアスを無化してしまう危険性がある。選んだ「テーマ」を正当化し、選ばなかった(選べなかった)テーマを不当に貶める結果との距離は決して遠くはないだろう。 ・反ポリティカル・コレクトネス(PC)との接続 フェルナンダ・メルチョール「ハリケーンの季節」の訳者宇野和美氏のあとがきから引用すると 二〇一八年にマリオ・バルガス=リョサがエル・バイス紙のコラムで「フェミニズムは文学の敵」と書いた とある。その後メルチョールは「文学もフェミニズムもバルガス=リョサを必要としていない」と返すのだが、引用からも明らかな様に後年のリョサは反PCに傾いた。リョサの著作から考えれば、フェミニズムに限定しても必ずしも距離のある作家ではなく、むしろ積極的に接近しようと努力した痕跡すらある。PCに積極的に関与しようとはしなくとも、反PCへと振り切るのは違和感があるかも知れない。 前段で、おそらく終生大きくは変わらなかったであろうと書いた理由はここにある。作品至上主義によって(仮想的に)自我は透明化される。十全な視野の元ならば、それでも視野に入る事によってテーマとの接触に社会性が付与され得るが、その自らの視野を問い直す機能性は弱い。視野の狭窄は矯正される事なく、新しい(とされる)価値観は、視野の外に据え置かれ、選ぶ価値のないテーマとして処理される。さらにリョサ個人の思想としては、強固な反共産主義が「神殺しの物語」やその他の著作でも見られる。それらと時流がマッチしてしまったのだろう。 ・まとめ リョサは「神殺しの物語」内において、特に「百年の孤独」の作品内における社会的完結性、円環性、そして何よりそれら全てを構築せんとする全体性を指して「神殺し」と呼び、それら途方もない計画を建てさせるテーマを「悪魔」と呼んだ。それは不可侵かつ不可能を志向させる不可避の誘惑を表現したものであり、何より作家としての立場からの作家論でもあった。しかし、その立場に固執した結果が後年の反PCに繋がったとも言える。現代における読解を志向するならば、神の不在の認識と不可視の悪魔を真正面から見つめ返す努力が必要だろう。リョサという巨大な作家が陥った錯誤から学ぶ事が、読者として出来るリョサの作品を未来へと運ぶ方法だと思う。
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