ベストSF2022

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- 山本浩貴(いぬのせなか座)@hiroki_yamamoto2025年3月12日まだ読んでる週末のイベント「./MYTH.YOU あなたの中から神話を見つけられたみたいです。」で触れてくれと言われたのと、自身のプロジェクトの企画書を書くために自作「無断と土」を再読し始める。 若いなーと思うところと、楽しいよねというところと、まだやり残したことが大量にあるというところと、これをみんなはどういう点ですごいと思ったのだろうというところが、混ざっている。 もう少し踏み込むと、個々の文章のクオリティや思弁の強さ、批評性、起こしている身体感覚などは、私のほかの仕事の平均値と同等、言い換えればもっと激しく達成を得たものはこれまでいくつも作ってきたという自負がある。 この小説の(私の仕事における)特権性、固有の良さ、は、本来つながらないとされているいくつかのジャンルや時代や文献や感覚を、ごく短い分量のなかに極度に詰め込んでいるところだと思う。その独自の関連と圧縮のてつきにこそ、この作品の固有性がある。 そして自分はこれの続編を複数作ろうとしつつはや4年が経とうとしているのだが――その間、例えばフェイクドキュメンタリーホラー的なものの流行がきて今や批評性自体が失われたという感もあるわけだが――私が一番厄介に思っているのは、「無断と土」にあるような複数の領域の局所的詰め込み(そこでこそ可能な関連を起こせる場の立ち上げ)は、擬似論文的な文体・形式だからこそ可能なものだったのかどうかというところだったと思う。 私は2015年のいぬのせなか座の立ち上げごろから、批評的文体を「小説の方法のひとつ」としてオリジナルな仕方で作り直し自らに運用可能にすることを試みてきたが――それはフェイクドキュメンタリーや私小説を肯定する流れともちろん重なっている――、「無断と土」はその成果のひとつとして書かれたものでもあった。 だが、はたしてその方法をより洗練させたり拡張させたりしていくべきなのか、2015年以前に私にあった(それぞれに訓練し発明してきた)文体らを放置していていいのかどうか、という悩みが私の筆を鈍らせるところがあったのだった。 さらにこれは続編を作るというときの姿勢にも関係してくる。文体は大幅に変えて、でも世界観は維持していくということを当初思っていたのだけれど、それはそれでかなり窮屈な思いをすることになった。批評的文体で超圧縮して書くことは、世界観の発明にあまりにむきすぎていた。そのため、それ以外の文体を用いて続編を描くことは、「無断と土」で作った枠のなかで面白いことを探すみたいなかたちになりかねず、その発明の手薄さに私が飽きてしまうのだった。 いやもちろんそこで批評的文体とは異なる文体を用いてやれることはたくさんあったし今もあると思っているのだけれど、なんかすでにある枠に私のいまの身体感覚を押し込めて整えようとしてるなと思い気持ちが薄れてしまうみたいなことが複数あったのは確かだ。 で、じゃあいまどう考えるかだが……なんとなくだけど、批評的文体でフィクションを書くというのは、これはこれでもう少し続けてみてもいいのかもという気持ちが若干生まれつつある気がする。もうすこし自分の得たこの技術につきあって、小説制作にもっと使える道具にした方が良いのでは、という。 それに、やはり上で書いたように、複数の本来つながらないとされる要素を関連させる極度に圧縮された場を発明する、ということを私はもう少しやりたいと思っているだろうな、とも思った。そしてそれに、批評的文体は都合が良い。 まあ、批評的文体、とここまで書いてきたけど、たぶん批評というより、やはりフェイクドキュメンタリー的とか、レクチャーパフォーマンス的とか、歴史記述的(非一人称的)とかといった方が良いのだろう(批評という言葉はいろんな良くないものを背負わされすぎている)。 書くことで世界をゼロから高速で立ち上げていく、そういう修辞とフィクションの生々しく密接した場所でもってこの私固有の歴史や関心のネットワークを制作化する、ということに私はやはり楽しみを覚えるし飽きたりしないし得るものがあるわけだが、一人称的なほうはいったん過去作「Puffer Train」の改稿版作成で好きなだけやれるので、「無断と土」のほうは、そこでの世界観に限らず自由に批評的/レクチャー的/歴史記述的な書き方でもって新しい短編を数本書いてみるくらいでいいのでは、というのが、今の気持ち、かもしれない。 ひとつに束ねなくていい、ふたつ並走させつつたまに往来する感じでいい、というか。 まあ思いつきかもしれないけれど、メモしておく。