ユークリッド『原論』とは何か: 二千年読みつがれた数学の古典

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ジクロロ@jirowcrew2026年2月20日買った読んでるしかし、実際にテクストを見ていくと、命題の途中で「というのは」が連発されることがあります。 この場合は、後世の注釈者の解説が本文に混入した可能性をまず考えなくてはなりません。そもそも注釈とは、理解が困難な簡所につけられます。 そしてこの種の注釈はたいてい「というのは」という語で始まります。 (p.28) そもそも人生とは、自身が注釈をつける必要が ないのではという気づき。 そんなことをしているよりは、 生きたいように生きればよい。 無駄ではないかもしれないが もったいない、時々余計、それが注釈。 そもそも注釈は、 口がきけなくなった死者に対する オマージュなのだから。 「すべての哲学はプラトンの注釈にすぎない」 とホワイトヘッドに言わしめたプラトンの業績。 プラトンもまた、ソクラテスの注釈にすぎない。 つまるところ「注釈」とは、 他者(死者)の、他者という「作品」の 沈黙に対する、生者による精巧な 腹話術のスキル。 命を吹き込めば、プネウマ、 結果としてその声も後世に響くことになる。 主旋律に立体感をもたらすための 影としてのコーラス。 「相手に密着すること、つまり相手の影となることを深く突きつめると、攻守の立場が入れ替わり、着いて行くものが着いて来られるものに変化し、こんがらがった心理の中で時間が捻れたように感じられる。太極拳や合気道の偉大な使い手が、相手をブラックホールに導いたり、自ら投げ飛ばされたくなるような心理に仕向けたりするのは、こういう仕組みなのだ。」 (『習得への情熱』p.172 ジョッシュ・ウェイツキン) これはやりすぎた注釈の好事例。 そもそも「作品」に心理はない。 少なくとも、他者によりつくられた 「ブラックホール」に呑み込まれることだけは 避けなければならない。 すべての悩みというものは、自身に対する 注釈のつけ方に関する戸惑いではないのか。 自我の傷を舐めるもの、 それは死の匂いのする注釈。 自我という浅めのブラックホール。 他者との関係性において必要となる、 自己立身のための言論、それこそが生きた注釈。 注釈により、肝心な本文がそれに引っ張られ、 芯がなくなってしまう。 ユークリッドは、 それを本能的に分かっていたからこそ、 自身の論述から「というのは」という 後追いの説明の一切を省いた。 生き方としての幾何学、『原論』。 『原論』から学ぶべきことは、 そういうところにあるのかもしれない。 という本書に寄せる注釈。