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ジクロロ
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@jirowcrew
ちゃんと読めない。それでいて なんにも読んでないんじゃない。
  • 2026年5月27日
    カラマーゾフの兄弟 上
    カラマーゾフの兄弟 上
    「いや、人間は広いよ、広すぎるくらいだ、俺ならもっと縮めたいね。」 (第一部 第三編 三) 「広すぎる」からこそ、人間には理性というものがOSとして与えられる。 そのOSは、あくまでも先に生まれた人間から後世へと与えられるもの。 「諸君、二二が四というのは、もう生ではなくて、死の始まりではないのだろうか」 ((『地下室の手記』) 与えられたOSの窮屈さ、 すでに答えが分かっている問い。 そのアップデートは「地下室」で実験的に始められる。 彼こそ「ニニが五」という命懸けの跳躍のために新たな問いを試みる者。 広すぎるのは不安、 しかし狭すぎれば外に飛び出したくなる。 逸脱には監視がつきまとう。 不幸なのは、その監視が自分自身の内面化されたまなざしであるということ。 荒野と方程式、いまはどっち? まなざし、それはだれの? こんな問いが、神という存在を引き寄せる。 ドストエフスキーの重力と恩寵。
  • 2026年5月26日
    現代思想入門
    現代思想入門
    この世界がこうであるということに必然性があるなら、世界には隠された存在理由があることになりますが、それ(充足理由」と言います)をメイヤスーは消去し、完全に乾き切った「ただあるだけ」のこの世界を捉えるのです。そしてそれとそが自然科学的世界像を根本的に正当化する哲学的態度である、と考えるのです。  世界の意味を言おうとするのではなく、世界の今そうである限りでの設計をただ記述するのが数理である。かつ、記述される世界は何らそれを保証する根源的意味がなく、いつ何時、まったく別のあり方に変化してしまってもおかしくない。 (p.199-200) なるほど、このように世界を解釈すると、行動そのものに翼が授けられるような気がする。 像そのものには理由はない、だからまた新しい像をつくりはじめることができる。 (ただし、理由がないからといって壊すには注意が必要。これは戦争のやり方。)
  • 2026年5月24日
    ミシェル・フーコー
    決してすべてが語られることはないという原理、すなわち、ある一つの時代において語られうることのうち、結局は比較的わずかのことが語られるにすぎないという原理に依拠しつつ、フーコーが示そうとするのは、解釈が、言説をめぐるそうした「稀少性」によってもたらされる効果であるということである。すなわち、語られたことの豊かさのうちに秘められたものを探り出すと称しながら、解釈は、実のところ、語られたことの貧しさに対して反応し、それを埋め合わせるための、一つのやり方に他ならないのだ、と。 (p.102-103) 「解釈」とは、 語られたことの「貧しさ」に対する反応、 というところに目から鱗。 解釈に、正しいも間違っているもなく、 ただそれが常に「不十分」であるということにおいて、人は平等であるということ。 他者により「語られたこと」に「豊かさ」が感じられるのであれば、自身が何らかの志向性または抑圧を内に蔵しているということ。 解釈とは、求めていたからこそたまたま現れた、ひとつの狭い「出口」に過ぎないということ。
  • 2026年5月24日
    システムの非線形論理
    竜巻や入道雲は、運動が作り出す外形的な形である。結晶化が進行したさいの結晶そのものは、結晶化のプロセスから、外に排除された産物である。プロセスそのものは活動態であるから直接見ることはできないが、プロセスから逸脱した結晶は、物として見ることができる。結晶化のプロセスから見れば、結晶そのものはプロセスから排除された物体であるので、比喩的に言えば、そのプロセスにとっての「糞」である。糞にも美しいものがある。真珠貝の真珠もプロセスから逸脱した糞である。 (p.83) 自分というモノを、両親の愛という「プロセス」から排除された「糞」と捉え直すと、不思議なことに晴れやかな気持ちになれる。 「糞にも美しいものがある」 生きるとは、「糞」が美しいものになろうとするプロセスに他ならない。
  • 2026年5月21日
    最初の哲学、最後の哲学: 形而上学と科学のあいだの西洋の知 (991) (平凡社ライブラリー 991)
    ドン・キホーテはサンチョに、「放浪の騎士たちのものは、キマイラで、愚かで、狂気のように見えるけれど、いつも裏返しになっているのだ」と明言する。それというのも、「大勢の魔法使いたちが全員、助けようと望むのか滅ぼそうと望むのかに応じて、自分たちの意のままにものごとを変化させ、交換し、破壊させているからである。そのため、お前には床屋の盥(たらい)に見えたものが、わしにはマンブリーノの兜に見え、ほかの者にはまた別物に見えるというわけだ」。 (p.179-180) 議論となる対象が抽象度の高いものであればあるほど、「神」だの「愛」だの「国家」だの、かたちのないものほど、多くの「魔法使い」が参加する、それだけ悲劇も大きくなる。 セルバンテスは、卑近な事例を物語として、誰も傷つけず、余計な偶像をつくらず、それを成し遂げる。 「形而上学的な郷士」の偉大さに気づく。
  • 2026年5月21日
    武士道
    武士道
    死を軽んずるは勇気の行為である。 しかしながら生が死よりもなお怖しき場合には、 あえて生くることこそ真の勇気である。 (p.116) 死を恐れるのは生理的であるが、 生を恐れるのは経験的であるということ。 経験を覆すための勇気は、 自らが有限であるからこそ、「生きる」という 馬に乗り、鞭を打つ。 その痛みこそ力。
  • 2026年5月20日
    はずれ者が進化をつくる
    「個性って作るものとか、伸ばすものじゃないんだよね。個性は出てきちゃうものだから」 (p.188) その芽が出てくる土壌は、人工的に「均された」地平にあるということ。
  • 2026年5月19日
    立衛散考
    立衛散考
    風土が「風」と「土」の合体でできているのは面白いと思う。「土」は大地とか土地とか、その場所性のことで、「風」は外からやってくるもので、地域の中に収まるものではなく、地域を超えていく流れです。 なので風土は、土地のものと外からやってくるものの二つ、両方とも必要ということだと思います。 (p.373) そうやって感じていることをかたちにできている西沢さんはすごいと思う。 載っている写真から、「両方とも必要」という思いが感じられる。 「散考」というタイトルにある言葉自体が、この人の建築の「ものとなり」をあらわしているようにも思える。 力はないが、流れを感じる空間と時間の内包と開放。
  • 2026年5月19日
    都市を飼い慣らす
    彼らは、異質で外来の「キズングーニ」という都市世界に飲み込まれ押し流されながらも、その世界を自分たちの側に奪い返すべく創意工夫を凝らしたユニークな営みを続けてきたのである。それは巨大で異質な都市を飼い慣らし、自分たちの生活世界へと変換していく彼ら自身の微細な闘いでもあった。人々が「田舎」から切断されることなく都市を内から飼い慣らしていくこのユニークなプロセスこそは都市人類学のフィールドワークの醍醐味でもある。 (p.39) 「都市」を「力」の象徴だとすると、 その力に刃向かうことは死を予感させ、 絶望することもまた死を意味する。 そうではない第三の立場が「飼い慣らす」という中動的な態度。 生活を守るために外的なシステムと「うまく」付き合っていくこと。 現実は苦しい、でもその現実を「捨てたものではない」と他者に思わせる生き方こそが、「力」の本来の力を無効にする。むしろそのリズムを利用して踊る。 重力と戯れる紙飛行機のごとく。
  • 2026年5月18日
    批判的日常美学について
    私たちは、道徳的な価値の観点からみれば、「生まれてこないでもよかった」。だが美的な価値の観点からみれば、「生まれてこないより、生まれてきたほうが明らかにおもしろい」。それゆえ、私たちは、美的価値の観点からいって生まれてきてよかったのである。 (p.232) 道徳は外側から内側へのまなざし、袋小路。 美は内側から外側へのまなざし、ひろがり。 前者が否定的に走り、後者が肯定に赴くのは感覚的にわかる。 でも、それらが「生まれてこないでもよかった」「生まれてきたほうがよかった」の切実な二極に短絡に結びつけてられしまうところは疑問に感じる。 袋小路の先にも光はある。 ひろがりの過剰にも不安はある。 同じ夕日を何気なく見つめていても、 感動する日もあれば泣きたくなる日もある。 1ミリの感動は、すべてのマイナスが相対的に働くからこそ。 その1ミリの側に目をやれ、ということ? 「美的」は、ときどきにより、文字通りの意味にも滑稽にもなりうる(外側からの醒めたまなざしによる)もの、ということはわかる。
  • 2026年5月18日
    言葉と音
    言葉と音
    フーコーはその際、哲学者フランシス・ベーコンの考察を引き合いに出している。  人間の精神はその固有の性質から、事物の  うちに、実際にそこに見出される以上に、  より多くの秩序と類似を仮定する傾向を  備えている。  そして、自然が例外と差異に満ちている  一方で、精神はあらゆるところに調和、  一致、そして相似を見出そうとする。  そこから、あらゆる天体の運動が完全な円  を描くというあの虚構が生まれてくるので  ある。  (p.80) 各々の「完全な円」を求めてしまうその習性は、悲しくもある。
  • 2026年5月18日
    ピエール・リヴィエール---殺人・狂気・エクリチュール
    ピエール・リヴィエール---殺人・狂気・エクリチュール
    驚嘆に値する記憶力に恵まれているリヴィエールは、彼が読んだ本のなかからいくつか模範となる例を引き出したようなのですが、しかしそれらは自分の行為を正当化するか、あるいは自分が人々の目に栄光に包まれた者として映るために好都合なものばかりでした。彼が殺人を体系的に考案し、犯罪実行のために一つの論理的な筋道をこしらえるまでになったのも、その知性の目に余る堕落によるものなのです。 (p.85) 「都合のよさ」とは、ある意味で「美」なのかもしれない。 歪めることで、主観的な「美」となる場合。
  • 2026年5月17日
    からだに従う ベストエッセイ集
    大人たちはいつも若さのもつ非人間的な秩序というものに気づいていなければいけない。そして青年を動かすものはコスモスであって、決して大人たちではないということにも。大人たちはただ自分たちの人間的な秩序というものを、正しいと信ずる形で見せるだけでいい。青年はいつかはそれを受けつがざるを得ないのだから。だが大人たちが青年に人間を強制すると、青年は本能的に自らの非人間的な秩序でそれに対抗しようとする。非人間性が本当におそろしくなるのはこのような時である。だがそうでない時には、青年という獣は、その非人間性によって、かえってコスモスの中の人間の位置を正しくするとぼくは思う。 (『青年という獣』) ここに書かれている「コスモス」が もっとも美しく、最も切なく描写された作品が 自分にとっては『Sunny』(松本大洋)。 「コスモス」と「生活」の調和とは、 実現はおろか、描くことすら難しいと あらためて噛みしめさせられる文章。
  • 2026年5月17日
    デッドライン
    デッドライン
    『千のプラトー』によれば、人間/動物という対立は、マジョリティ/マイノリティという対立を合意している。人間とは、支配的なマジョリティである。西洋の言語では、しばしば人間を表す単語は「男性」も意味する。人間の支配から逃れて動物になる。それがひとつ。そしてまた、男性の支配から逃れる「女性への生成変化」がある。それがもうひとつ。 人間=男性に対するマイノリティとしての、動物と女性。 「ドウルーズは、生成変化を言祝(ことほ)いだわけです」 (p.106) 自分にとっての「デッドライン」と、その線との現在の距離感を再考させられる。   誰にもなれないし   自分の普通をやる毎日   仲間外れじゃなくて   そこに居なかっただけ だろ?   (『大衆』 OMSB) 修論が進まない主人公に、 リリックが進まないOSMBの楽曲が重なる。 そのタイトルが『大衆』なのである。 マイノリティの不可能性は、 マジョリティに包含されてこそ 生きた可能性として生きる。 時間だけが過ぎていく。 そのラインは消えたりなくなったり、 たまにそれになってみたり。
  • 2026年5月17日
    涙と聖者〈新装版〉
    涙と聖者〈新装版〉
    哲学者たちは冷静である。熱気は神の近くにしか存在しない。私たち人間の本性は、その内部にある一切のシベリア的なものゆえに、聖者たちを求めているのだ。 (p.60) 冷(醒)まさないためには、 焚べ続けなければならない。 放っておけば、熱はいつかは広がりのうちに消えてしまう。「情報」もまたしかり。 その熱の持続性に必要なものが、 聖者という「不可能性」であるということ。 しかしそれは「熱源」ではなく、 「熱気」にすぎないということ。 つまるところ「熱」とは生命そのものに過ぎず、 焚きつけるきっかけがなければ、 冷めたままであるということ。 燃え種は、嘘でも偽りでも構わない。ないよりも。 自分にとって、今、 聖者の位置を占めいているものは何か。
  • 2026年5月17日
    武士道
    武士道
    何かをなさんとする時は、それをなすに最善の道があるに違いない。しかして最善の道は最も経済的であると同時に最も優美なる道である。 (第六章 礼) 「経済的」という言葉の使われ方が、これまで見てきた本の中で最も清らか。
  • 2026年5月17日
    技法以前
    技法以前
    その逆転は、西宮さんに”苦労の移動”をもたらした。彼女はそれを砂時計にたとえて紹介している。彼女という存在に対する肯定的な雰囲気が《場》に満ちたとき、「病気の苦労」がいっぱい詰まった砂時計がひっくり返り、「現実の苦労」の方に向かって砂が落ちて移動するというのである。病気の苦労の反対は「健康で安心」ではない。あくまでも「現実の苦労」である。 (p.198) 砂時計をひっくり返す手、それは神のそれではなく自分自身の脳、いや、心であるということ。 「デッドライン」はおのずとやってくる。 新たな生成の完了は、新たな惰性の始まりでもある。 成長が線形に見えるのは、前に見えるような時間を意図的に切り取って微分しているに過ぎない。 ほんとうは、非線形の積分、溜まって、減らして、ひっくり返すタイミング、と砂の落とし方(孔の絞り具合)にこそ、経験を活かさねばならないということ。
  • 2026年5月13日
    最初の哲学、最後の哲学: 形而上学と科学のあいだの西洋の知 (991) (平凡社ライブラリー 991)
    「もの」は存在者とは異なる。なぜなら、「もの」においては二つの意味が両義的に共存しているからである。すなわち、思考されるかぎりでのものと、実在するかぎりでのものとである。「〈何性(quidditas)〉は、霊魂の外にある個物のなかにもあれば、知性によって理解されるかぎりで霊魂のなかにもありうる。この点において〈もの(res)〉という語は、reor[わたしは思う]と reris [君は思う]から由来する意味で霊魂のうちにあるものと、自然のなかに認められ確かめられる何かが〈もの〉と呼ばれるという意味で、霊魂の外にあるものとのどちらともさし示しているのである」。 87 難しすぎて頭が痛い。 「もの(res)」に対する理解の補助線として(合っているかどうかはわからないが)、『古代から来た未来人 折口信夫』(中沢新一)の説明の枠組みをあてがうと、「もの」の意味として 可能性の内に変容しつづける「タマ」(霊力)と、 ひとつのまとまったかたち(力、権力)をまとう「神」、というような二つの共存があるということか。 「reor[わたしは思う]と reris [君は思う]から由来する意味で霊魂のうちにあるもの」 この表現がどこか神秘的で心惹かれる。 今まで出会ったことのない叙事と叙情を混ぜ合わせたような、どうにも捉えがたくも生命力に満ちた表現。
  • 2026年5月13日
    システムの非線形論理
    ひとたび新たなプロセスが現存するようになれば、既存のさまざまなプロセスを巻き込み、再編が起きる。過去の記憶が別様に再編されることに似ており、運動の履歴が新たな運動のモードへと再編される。こうした再編をつうじて、自己組織化のプロセスは自分自身の由来を消してしまい、なぜそうした現実性が成立しているのかについて、由来から問うことができなくなる。この局面で自己組織化は、自分の由来を消してしまい、出現した変数は独立変数となり、それじたいとして完結した新たな現実性となる。 (p.67) そういったことを期待して、この本を読んでいる次第。
  • 2026年5月12日
    システムの非線形論理
    システムを捉えるさいには、言葉をつうじて言葉の向こう側に触れていかなければならない。言葉をつうじて言葉の向こう側に触れるという仕方は、数学や物理学や論理学では自明のことであるが、システムの場合も、言葉を理解し、言葉で物事を捉えれば、ただちに誤ってしまう。言葉はシステムの一面を切り取るようにしてしか理解できない。 (p.47-48) 言葉は輪郭をつかさどる。 ならば、その輪郭の肌触りは間違いなく硬い。 「触れる」、システムの扱い方とはそのようなものなのかもしれない。 その輪郭は、ただ硬いのではなく、繊細であるからこその硬さであるということを。
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