

ジクロロ
@jirowcrew
ちゃんと読めない。それでいて
なんにも読んでないんじゃない。
- 2026年8月26日
精神の生態学へ(上)グレゴリー・ベイトソン,佐藤良明読んでる娘 それとね?遺伝子と染色体が、生長のメッセージを運ぶ話をしたでしょ。遺伝子や染色体も、動物や夢がするみたいに隠喩で、not は使わずにメッセージを伝えるの?それとも人間が話すみたいにして伝えるの? 父 さあ、どうだろう。それは分からんが、しかし、(本能)に当たるものが、そこでメッセージに組み込まれたりしていないということは、間違いないな。 (『本能とは何か』) 「not は使わずにメッセージを伝える」 これは、notを(都合よく)使いこなす自分に対する、限界を知りつつその限界を利用するという表現力への課題であると受け取る。 言葉とは、メッセージの一形式に過ぎない、それをnotの否定からあらためて知らなければならない。 - 2026年8月26日
生命は変換の環であるニック・レーン,斉藤隆央読んでる本書では、エネルギーと物質の流れがいかにして生命の進化や、さらには遺伝情報をも構成し,われわれ自身の生に消えないしるしを残しているのかを探ることになる。私は標準的な見方を覆したい。遺伝子や情報は、われわれの生の核心的な部分を決定してはいない。むしろ,ずっと非平衡の状態にある世界で、エネルギーと物質の絶えざる流れが遺伝子そのものを魔法のように生み出しており、情報に浸りきった現在のわれわれの生においてさえ、遺伝子の働きはそうしたフラックス(物が途中で変化するような流れ)が決定しているのだ。動きはフォルム(形)を生み出す。 (『生そのもの』) 動きがフォルムをもたらすということ。 当然と言えば当然のような気がしなくもない。 優しい身振りに包まれて育てば、優しくなる。 動き、流れ、そして受け手の感受性が流線、柔らかな輪郭を醸す。 「優しさとは」という講義(情報)を見ても、優しさそのものは伝わらない。「優しさというものを伝えたい」、その目的こそが死んだ情報とも言えるからだ。 がん細胞は、細胞呼吸の老衰に浸け込み増殖する。 「死にかけている」という情報は、死を加速させる。 これは生にかんする動的な隠喩である。 情報は、得るよりも先に生むもの。 生めば、生まれるものがきっとある。 - 2026年8月25日
意識に直接与えられたものについての試論アンリ・ベルクソン,合田正人気になる - 2026年8月25日
感情史トマス・ディクソン気になる - 2026年8月20日
私たちはどう学んでいるのか鈴木宏昭読んでる鍵となるのは冗長性と揺らぎなのだ。つまりある一つの行為を行う際に、その実行方法が複数あり、それらが場面場面で異なる仕方で現れるのである。その結果、実行に要する時間に変動が生じているのだ。プラトー期では、それまでにある部分の組み立てでもっぱら使われていた接続方法Xとは別のものYが現れてくる。つまり複数の操作方法が拮抗、多様なリソースが存在する冗長な状態なのである。 (p.101) ここで言われるXとYとは、自己のうちに内在するリソースを指す。この話はある技能のパフォーマンスに関する練習回数と上達に対する説明としての「プラトー」(停滞)期を指す。プラトー期を経て、さらなる上達へと至る。 「近代に至る文明の成果の高みを保持したままで、高度に産業化された諸社会は、これ以上の物質的な「成長」を不要なものとして完了し、永続する幸福な安定平衡の高原(プラトー)として、近代の後の見晴らしを切り開くこと。」 (『現代社会はどこに向かうか』見田宗介p.17) 「高み」としてのプラトー、「脱成長」とは、成長以外の要素に豊かさを見出すこと。高みからの見晴らしーーその地点から上に行けないことや堕ちることに不安を覚えることなく、水平方向に、踊るように、それぞれの高み、その強度と交歓すること。そのとき、XとYとは、同じ高原(高みの地平)に存在する。 「仮に人間が、累積的相互作用に走る傾向をもともと具えているとするなら、それを抑え込む学習がここでなされていくわけである。バリの生活に子供たちが組み入れられていくにつれて、彼らの行動からクライマックスのパターンが消えていき、それに代わって高原状態(プラトー)ーー強度の一定した持続ーーが現れていくとの考えは有望である。」 (『精神の生態学へ 上』 「バリ――定常型社会の価値体系」 ベイトソン) XとYが垂直方向に並べられるとき、プラトーは揺らぐ。Xは、彼が立っている地点がすでに「高み」であることを忘れ、Yという累積的相互作用に伴う「高み」を目指してしまう。 「クライマックス」という弛緩を目的とした緊張とその連続、これを悪循環とベイトソンは言う。 ベイトソンの論述をヒントに「千」にまで膨らまして新たな「面」を生み出そうとしたのが、ドゥルーズとガタリであった、というこの流れを、この本にたまたま書いてあった「プラトー」(停滞)から知ることになる。 見田さんもまた、その著書には明言されていないがおそらくベイトソンからヒントを得ている。 「持続可能性」を突き詰めたとき、ベイトソンがヒントにしたのが生態学であったということ。 「一のプラトー」が三になり、やがては千という銀河になる。プラトーとはモナドとも細胞の集合体とも言える気がする。 プラトーとは、その一つ一つは停滞しているように見えて、実は振動し、交信し合っている。 「累積的相互作用」を伴わない「高み」とは、 「モナドには窓がない」と言い切ったときの、ライプニッツのまなざし(見晴らし)であると言えそうだ。 - 2026年8月20日
- 2026年8月19日
アウステルリッツ(新装版)W・G・ゼーバルト,鈴木仁子読んでる今はもう、あのアントワープの夜行獣館でどんな動物を見たのか、はっきりと思い出せない。 …… 今くっきりと脳裡に灼きついているのは、一匹の洗い熊の姿だけだ。私はその洗い熊を長いあいだ見つめていた。真剣な面持ちで小さな川のほとりに蹴りくり返しくり返し一切れの林檎を洗う。そうやって常軌を逸して一心に洗いつづけることで、いわばおのれの意志とは無関係に引きずりこまれた、このまやかしの間違った世界(フアルシュ)から逃げ出せるとでも思っているかのようだった。 (p.3-4) 対象は何であれ、洗いつづける、磨きつづけることは、祈りに通ずるところがあるように思う。 そこに光の有無は関係ない。 考えるからこそ、そこに光と闇が現れるのかもしれない。 それがきれいになっていようが、擦り減っていようが、自分の手の感触こそが生きている証と呼べるような盲目さには。 - 2026年8月19日
ハントケ・コレクション 1ペーター・ハントケ,元吉瑞枝,服部裕読んでるクリスマス。その時には、どっちみち必要だったものがプレゼントとして包まれた。家族は互いに下着とか靴下とかハンカチとかの必需品を贈って驚かせ合い、贈られた方は、ちょうどこれを自分でも欲しいと思っていたところだったんだ、と言うのだった。このように、食事を除いて、与えられたほとんどすべてのものに対して、いかにも素晴らしいプレゼントを贈られた人のように振る舞った。私は心から、たとえば一番必要だった文房具をもらったことに対して感謝し、それをいかにもプレゼントらしくベッドの傍らに置いて寝たものだった。 (『幸せではないが、もういい』) 読んでいて、胸の苦しさの持続。 ずっと息を止めて読んでいる感じがする。 地上にもグランブルー。 この調子で最後まで続く、著者の書いているときの心境は、はかりしれない。 「必要」をギフトと呼ぶことができないからこそ、「贈与」という概念が輝く。 「余剰」こそが、やはり「幸せ」に近しいのではないかという思いは、間違いでないのではないか?というか、それが現実ではないか。あらためて考えさせられる。 「幸せではない」、 この判断には、ある程度は客観性が含まれている。それが「悲しい」の正体ではないか。 「もういい」、 その言葉の温度感こそが答えであるような気がしてならない。 - 2026年8月19日
長距離走者の孤独A.シリトー読んでるだけどおれはやらずにはいられないんだ。これこそおれにとっては唯一の冒険だし、唯一の興奮だからだ。いちばんすばらしい一瞬なのだ、なぜならそうやって飛んでいるあいだは、おれの頭には思想も言葉も情景も何一つはいってこないからだ。からっぽなんだ、生まれる前みたいにまるでからっぽなんだ、だけど気を失うことはない、きっとどこか心のずっと奥のほうには、おれを死なせたくない、おれを傷つけたくないものがあるからだろう。深く考えるなんてことはくそばかげたことなんだ、考えたってどうなるものでもないからだ。 (p.27) 走ることを忘れ、「長距離」であることに頭を悩ませている自分がいる。 距離とは、アインシュタインの発見よりも以前から感覚的なものであるにもかかわらず、頭で「長い」と決めつけている。 頭を空っぽにするために走る。 どんな映画やドラマででも見られる光景。 それができない。 走者になる、とは頭で考えられたこと。 走る、とは、「とは」という凝固剤すらも置き去りにするような、みずみずしさに溢れている。 「生まれる前みたいに」、これまで、こんな表現に出会っていたようで出会っていなかった。「生まれてから」のことで頭を振り回されていたせいかもしれない。 主人公の語り口が、走らせてくれる。 伴走ではなく背中である。 - 2026年8月19日
デュメジルとの対話: 言語・神話・叙事詩ディディエ・エリボン,ジョルジュ・デュメジル買った - 2026年8月19日
私たちはどう学んでいるのか鈴木宏昭読んでる創発という用語は専門的には、少なくとも「還元不能性」、「意図の不在」という2つの意味が含まれる。還元不能性というのは、創発されたものは、それを作り出すための要素の性質からは説明できない、つまり還元ができないという意味である。……もう一つの意図の不在というのは、創発のプロセス、メカニズムをコントロールしているような、誰か、何かは存在しないという意味である。 (はじめに) 「還元不能性」と「意図の不在」。 いずれも「不」により表現されている。 「言語化されてしまっている」(と思っている)領域を習得しようとすることが「学習」とするならば、言語化されてしまってはいるが本来的に言語化不可能な領域に、身体ごと投げ入れることが「創発」の第一歩ではないか。 先人たちの言葉により(善悪はさておき)かたちづくられてしまっている世界を、自分の身体(体温)でもって溶解させ、自分の言葉で組み立てなおすこと。 「はじめに言葉ありき」、それが他者の光から始まっているとするならば、自分の目にも光があると信じることから、そして(理想的には)自分の目に映るものは、他者の言葉よりも信じるに値すると信じることから、「創発」は始まるのかもしれない。 - 2026年8月17日
引き裂かれた自己R.D.レイン,天野衛読んでる肉化されざる自己 これは自分の自己を、多かれ少なかれ自分の肉体から分離し切り離されたものとして経験する場合である。肉体は、その人自身の存在の核としてよりも、世界における他の物体のうちのひとつといて感じられる。肉体は、真の自己の核ではなく、偽りの自己(falseself)の核として感じられる。そして肉体から分離した「内部」の「真の」自己が、あるいは優しくあるいは面白がって、ときには憎悪しながらそれを見つめているのである。 (第4章 肉化された自己と肉化されざる自己) 「肉化されざる自己」の肉化、これをドゥルーズ+ガタリは「生成」として、『差異と反復』あたりから表現し始めていたのではないかとふと思う。 肉化された自己が「である」ならば、肉化されざる自己は「なる」であり、それの表出を「肉化」と呼ぶならば。 現代における「である」の限界、というか生きづらさ。だからこそ「である」の強度と純度に猛烈に憧れつつ、「なる」で複雑で多様な場面を生き抜いていく。そこには「憎悪」も「罪悪感」も克服されている。そして「真の自己」なんていう記号的な高尚さは否定する。 「である」はシンプルな法則性を持つ、ゆえに記号として利用される。アルゴリズムは容易に解き明かされてしまう時代の、誰にでもアクセス可能な知性、その負の一面。 肉化された自己は善、肉化されざる自己は悪(分裂症の兆候)。 レインの二元論の克服、というよりも先の時代を見越し、両者を肯定的に、流動的に捉えられるように溶解した肉、再構築の結果が「なる」。冷静に考えると、この時代の、価値の移り変わり具合が凄い。 (「揺るぎない自己」とは現代においては下手をすれば否定的に捉えられる) 「虚傷を装った真理と真理を装した虚偽が同じ笑顔を浮かべ、素早く入れ替わりながら、こちらを見つめているのかもしれないぞ。ジョルジュ・デュメジルもまた、友人であるミシエル・フーコーについて語っていたではないか。「フーコーが仮面をつける、あるいは仮面を変えるのにいかに芸術的な才能があったかは、あなたもご存じのはずです。公共の場での発言で、彼はある事柄に重要性を付与しているように思わせ、裏では皮肉を込めて、突き放してそれを語ることがありました」」 『ドゥルーズを「活用」する!』第八章仮面、地図、生成) それでも、だからこそ、『イリアス』に出てくる登場人物たちの姿がより輝いて見える。古典の強度、何度でも、時代を跨いだ「差異と反復」。 - 2026年8月17日
幻のアフリカミシェル・レリス,岡谷公二,田中淳一,高橋達明読んでる三日前から髭を剃っていない。南京虫や白蟻のように生きているという感覚にうっとりする。 もっとも、今日の午後には髭を剃るつも り……。夕食はスープ一杯で我慢しても、きちんと遅れを取り戻すだろう。Zのこと、一般に愛のこと、詩のことをあれこれ考えた。 僕の長靴は泥だらけ、髪は伸び、爪は汚い。しかし僕はこうして汚物にまみれているのが嬉しい。こうしていると愛するもののすべてが、いかにも清らかな、いかにも遠いものになってゆくからだ。 (第Ⅱ部 六月十四日) 汚れる、堕落することもまた、誰かのためになっている。 綺麗になる、進歩することは、汚れたもの、堕落したものを踏み台にすることが前提である以上は。 レリスはアフリカに塗れる。そこから西洋の無意識を、ポストコロニアル思想の種を与えているように思える。 「きちんと遅れを取り戻すだろう」 これは隠喩であると読む。 - 2026年8月16日
幻のアフリカミシェル・レリス,岡谷公二,田中淳一,高橋達明買った - 2026年8月16日
自然現象と心の構造ヴォルフガング・パウリ,カール・グスタフ・ユング買った - 2026年8月16日
- 2026年8月16日
私たちはどう学んでいるのか鈴木宏昭買った - 2026年8月16日
夏の夜の夢・あらし(新潮文庫)ウィリアム・シェイクスピア買った - 2026年8月15日
心理学と錬金術 1 新装版C.G.ユング,池田紘一,鎌田道生読んでる錆がついて初めて貨幣にも本当の価値が出てくるというタレスの逆説的注釈は一種の錬金術的パラフレーズであって、その言わんとするところは結局のところ、影なくしては光は存在しない、不完全さなくしては心の全体性は存在しないということ以外の何ものでもない。生の完成のために必要なのは、終結的完全(Vollkommenheit)ではなく、持続的完全(Vollstandigkeit)なのである。そこには「苦の種」が、欠陥の悩みがなくてはならない。それなくしては前進も上昇もありえないからである。 (p.215) 「持続的完全」とはジンテーゼ(synthese)、テーゼとアンチテーゼの揺り籠、その揺れに酔いを催すのではなく、快楽を覚えること。 「苦の種」を糧に、ニーチェの「陶酔」に近づくこと。 測り(秤)の上で踊る命の絵 灰のリングに何が善 扉開けた気がしてる ここが俺の墓場 確かめてるヒマもないねHollaback (『Synthese freestyle』 JJJ) 「墓場」こそがジンテーゼ、「踊る命の絵」の舞台であり、JJJにとって、それが「音楽」であったということ。そこに赴けばいつでも彼の音楽が流れている。 彼の音楽を輝かせているのが「苦の種」であり、その事実が彼の音楽を聴く者の心をいろんな意味で「揺さぶる」。 左手流れる 千の言葉雨がふる 今あふれて止まらない 今あふれて止まらない 絶えず声は終わらない 今あふれて止まらない 今あふれて止まらない (同上) これが『MAKTUB』(それは(神によって)書かれている)のはじまりの楽曲。 よりによって、Hollabackで締め括られる歌詞。 墓碑銘は「墓場から揺籠まで」。 - 2026年8月15日
心理学と錬金術 1 新装版C.G.ユング,池田紘一,鎌田道生読んでるしかしこのような変身ないし変容が成就するには、「周回 circumambulatio」、すなわち 創造的変容の場である中心への徹底的集中が不可欠である。そしてこの「周回」の際に動物に「噛まれる」わけであるが、これは無意識の動物的本能に対して、それと同一化することもそれから「逃げ出す」こともせずに身を曝さなくてはならないということを意味している。逃げれば、「噛まれる」儀式の意味は失われ、元も子もなくなる。 (p.196) 周回する、ということは中心の存在、その力、そのエネルギーを信じているということ。 カーバ神殿の周回、車輪の回転(荘子)、地球の自転と公転(太陽と季節の巡り)、立憲君主制。 “We are such stuff as dreams are made on; and our little life is rounded with a sleep.” (『テンペスト』シェイクスピア) この台詞における「 rounded 」の意味。「sleep(眠り)」とは、無意識の別名。 中心は、突き詰めれば点であり無である。 周回の際にあらわれる「動物」とは、周回運動を行うものの視点から捉えた「混沌」、「無秩序」の象徴。 「噛まれる」ことが儀式の一様式となるためには、信念が必要となる。その「痛み」もまた点であるが、これは周回軌道の線上に存在する点であり、微分すれば逃走線のベクトルとなる。ベルトルは新たな重力、その中心点を求め、無重力地帯を彷徨う。 周回は物語を創造し、逃走は変身譚を展開する。 周回するにせよ、逃走するにせよ、大事なのはその中心点を見極める、意識しているということ。 「振り回されている」、そして「噛まれる」、それを肯定的に捉えること。「噛まれる」ことにより、絶えず「眠り」を妨げること。 そして「動物」たちの瞳の奥を、「無秩序」の奥にある中心を覗き込むこと。
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