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ジクロロ
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@jirowcrew
ちゃんと読めない。それでいて なんにも読んでないんじゃない。
  • 2026年10月10日
    縄文時代の歴史
  • 2026年10月9日
    黛執の百句
    黛執の百句
  • 2026年10月8日
    社会が壊れるその前に
  • 2026年10月6日
    随筆集 明治の東京
    随筆集 明治の東京
     今の子供は考えもしないだろうが、私どもちいさい頃には仏家のいう前世をきっとあるものと思っていた。鏡花君の小説には「知らず前(さき)の世のことなりけむ」という文字が出てくる、私は今でもこの文句が何でもない時ふと唇頭に泛(うか)ぶことがある。夢で見たのか、幼い時の何かの印象が、かの潜在意識というので現われて来たのか、そうした現象にあうと、ああ「さきの世のことなりけむ」とすぐ思う。  どういうものか未来の方はあまり考えないが、前世はあればいいと思っている、もっとも己の前生が嫌いな人だった時は困るけれど……。 (『心のふるさと』) 今を生きていて、前世を偲ぶということ。先のことに対する不安に生きるよりも、ずっと穏やかな心持ちになれるという気づき。前世のことに思いを馳せることで、「前の世」が今の自分を見守ってくれているような気がする。 この本の内容にざっと目を通したところ、この『心のふるさと』は、うまく説明できないけどどこかぐっとくるところが全体としてある。 はじめて読んだのになつかしさを感じるあたり、著者がめいめいの読者なりの「さきの世のことなりけむ」を感じさせるために書いているのだとしたら、と考えてみるのも面白い。
  • 2026年10月6日
  • 2026年10月6日
    浅草十二階
    浅草十二階
    (望遠鏡で)見ようとして見られる。視線が合う。魅入られるとはまさにこの過程を通して行われる。しかしじつは見ているのは男の側だけだ。女の側から覗かれていると分かる距離ではない。なのに男は、こちらに向かって笑い、手招きをする女を一方的に発見する。 単に遠くのものが大きく見えるようになった、という話ではない。笑みを返しこちらを招くと見えるほどに相手が近く感じられるようになった、という話だ。望遠鏡は視線を拡大しただけでなく、遠いできごとを近くに引き寄せるメディアとして語られている。 (第3階 人のまなざし・美人へのまなざし) 「遠いできごとを近くに引き寄せるメディア」 そのメディアは「美人」という言葉だけではあきたらず、像を求める。美人そのものではなく、美人の像を引き寄せる。 幸福論では幸福そのものがつかめないのと同様、望遠鏡では美人に触れることはできない。 そこに介在するものが挟まること、「媒介」。 「十二階」とはあるものを「憧れ」として視覚化し、引き寄せているようで遠ざける、不可思議な「眺め」のことを言っているのでは。
  • 2026年10月5日
    汝の敵を愛せ
    汝の敵を愛せ
  • 2026年10月4日
    健康な悟性と病的な悟性
    健康な悟性と病的な悟性
    とはいえ、君の<私>が救いがたいのは、それがただ<君の><私>でしかあろうとしないからにすぎない。君が縛りつけられているように見える君の人格という牢獄の狭い範囲を超えて、君の<私>を高めよ。君の<私>にみずからの使命である支配への一歩を踏みださせよ。そうすれば、君だけではなく、世界が、その神々や偶像も含めた全世界が、君の臣下になるだろう。君が意志するとき、それでもなお君になにが太刀打ちできるだろうか。君がみずからの意志を君のちっぽけな我意から解放しさえすれば、君の意志は万物の意志となる。 (第七章 治療ーー第二週) 所有格はそれ自体「牢獄」であるということ。 自我が自己を支配するとき、<私の>私、私はちっぽけな自我の檻の中に閉じ込められる。 牢獄から解き放たれるためには、<私の>をはじめとするすべての所有格を「私」から取り除かなければならない。 "「誇りをもちなさい」と言いたい。でも誇りって、どこかその辺に落ちていないかしら、と拾って身につけるわけにいかないでしょう。 「誇り」というのは、自分の体にくっついている劣等感をはぎとって、あれも、これも、と剥ぎ落としていったとき、最後に残るもの。それが誇りなんです。" (『自分の眼で見て、考える』 安野光雅ーー『薪カバーになった絵』) 完全にははぎ取ることはできない自我、劣等感もまた<私の>に付随する「自分の体にくっついている」もののひとつ。
  • 2026年10月3日
    『摩訶止観』を読む
  • 2026年10月3日
    人間の性
    人間の性
    聖書や思想書、その教えを実世界に投影できているところが圧巻。この本の中に引用されている本をはじめとしてまたいろんな本を読みたくなる。
  • 2026年9月30日
    旧約聖書を読み解く
    神が人間の(バベルの塔)計画に危険を察知したのは、「天まで届く塔のある町を建てよう」という建設計画そのものではなく、むしろ、町を建てて「有名になろう」と考えたことにあると言わざるをえません。ここで「有名になろう」と訳された旬の原文を直訳すると、「我々は我々の名前を作ろう」となります。自分たちの名前を作ろうと考えたとき、そこに悪意があるわけではありません。しかし、自分たちの名前にこだわるあまり、知らず知らずのうちに神の名が忘れ去られてゆきます。 (第一章 旅立つアブラム) 自分の名に溺れるものは受信力が弱まる。そして神の召命が聞こえなくなる。 忘れ去られること、置き去りにされること、思いが届かなくなることを人間は恐れる。だからこそ、神がそんな人間の人間に対する恐れを取り払うべく、「名前をつくろう」とし、優生思想を重んじるようになりそうな人間の芽を摘んでいるとも捉えることができるのでは。
  • 2026年9月30日
    精神の生態学へ(下)
    精神の生態学へ(下)
    一定したストレスが制御の位置の求心化を促し、変動するストレスがその遠心化を促すのだとすれば、進化の図柄を決定する遠大な時間と変化のレベルで、制御が遠心的な方向へ移行していくのは理に適ったことであると思われる。 (p.48) あえて「変動するストレス」を自ら作り出したり、その中に飛び込んでいく人もある。賭博者、冒険家。「遠心化」とは、制御不能な神や自然を相手に、どこまで戦えるかという無謀とも言える試み。 逆にストレスのない(誰にも相手にされない)「無双状態」というのが一番危険な状態。これは遠心に敗れた者が見せる病的なまでの求心の果ての孤立。
  • 2026年9月30日
    パサージュ論(三)
    パサージュ論(三)
    "フーリエは、もっとも理性的な陳述に想像力に富んだ考察の衣をかぶせるのが好きである。彼の発言は、高級な花言葉に似ている。" [W15,4] 「理性的な陳述」であるとは、余計と見做された想像力を排した表現であるということ。 ベンヤミンの言う「考察の衣」とは「余計」を洗練させた「冗長」というところか。 「高級な花言葉」というフーリエの「考察の衣」超えを密かに狙うベンヤミンのいじらしさ。 この断章の前に差し挟まれている、以下のフーリエ豆知識的記述。 "フーリエにおける子どもの名前ーーニザス(Nysas〕、アンリアル(Enryale]。教育者の名前はイラリオン(Hilarion)。" [W12a, 3] こんなどうでもよさそうなことをわざわざ記すあたり、これもまた「高級な花言葉」を匂わせるような、ただならぬ記述。 ベンヤミンは、フーリエという存在そのものを「高級な花言葉」として扱おうとしているのでは。
  • 2026年9月30日
    ファンタジア
    ファンタジア
    子供は壮大なファンタジアの持ち主だと多くの人が信じている。なぜなら、現実的でないものを子供のイタズラ書きや話す内容から感じ取るからだ。あるいは、大人は、自分がずいぶん条件づけられて行き場のない状態にあるから、もう子供と同じようには発想できないと感じ、子供の壮大なファンタジアを信じ込んでいるのかもしれない。しかし実際には、子供もきわめて単純な操作をしているに過ぎない。つまり、子供はよく知らないものに知っているものを投影しているのだ。 (p.30) 大人は、ファンタジアによって「ごまかし」がきく。 「子供はよく知らないものに知っているものを投影しているのだ。」 子どもは、いつもごまかしがきかない。もっているものだけで、その場を生きなければならない。「逃げる」こともまた「ごまかし」の一手段であり、それすらもできない。 「ごまかしがきかない」、それを純粋と呼ぶのだろう。 子どもの健気さと切なさと無力さと。 『せんせいあのね』の文章に感動を覚える理由がわかった気がする。
  • 2026年9月30日
    健康な悟性と病的な悟性
    健康な悟性と病的な悟性
    しかし、世界観という言葉のうちにすでに、まったく別の、はるかに射程の長い要求が潜んでいる。つまりこの言葉は、事物や人間や出来事の流れが不断に流れていくたんなる広々とした河床ではもはやなく、驚いた観察者が落ち着いてそれを観察するためにあの流れからすくい取った、多少とも水を満たした皿になっているのである。流れではなく皿なのである。 (p.58) 「流れ」からはみ出したとき「皿」が必要となる。 皿に救われた水とは、その点における微分。 「二度と同じ川には入れない」(ヘラクレイトス)、にもかかわらず「皿」は準備される。 「皿」の大きさは気分に左右される。 「病的な悟性」とは、自分の手を「皿」として、そこに世界を汲み尽くせないと知りつつも、その器におさめようと試みるような、他者からの救いを必要とする悟性ではないか。 「掬月」という言葉が思い浮かぶ。 せめてその水面が、鏡のように平滑で澄んだものであってほしい。 「はるかに射程の長い要求」、この部分が何を訴えかけているのかは、今のところよくわからない。
  • 2026年9月29日
    哲学の慰め
    哲学の慰め
    だが私は話を人間の欲望に戻すことにする。この人間の魂というものは、おぼろげな記憶に依ってではあるが、自分の昔持っていた善を再び得ようと求めている。その魂は〔現在ではもう〕酩酊者のように、どの道を通れば再び家に帰れるのかをはっきり知らないまでなのである。 (第三 二) 「自分の昔持っていた善」が思い出せない。だからからその時期に戻ろうとする。なのに戻れない。 こんなとき、どのようにして諦めるのかを考える。 「自分の昔持っていた善」を取り戻そうとしていることもまた善である。ということ。 ということは、「自分の昔持っていた善」とは、あるのかないのかすらわからない。けど、あると信じて追い求めるその行為のことではないか、ということに気づく。 醒めている覚者よりも情熱的な酩酊者のほうが、帰るべき暖炉のある家をより明確にもっているのかもしれない。
  • 2026年9月29日
    ムソニウス・ルフス言行録
    ムソニウス・ルフス言行録
    労苦を引き受ける気がない人は、自分はいかなる善にも値しないと自分で宣告しているようなものである、と。なぜなら、私たちはあらゆる善を労苦によって得るからである。 (「7 労苦を軽く見なければならないということについて」) 「労苦」を「悪」とか「他者」とかに置き換えてみる。 自分にとって、何を引き受けることが「善」という実感につながるのかということ。
  • 2026年9月26日
    明治東京下層生活誌
    一 活地獄 木賃宿の異名 九千人のお客様 一泊六銭 柏餅の雑居 雨の日の繁昌 二 三畳の家庭 千四百五十の世帯  鉢は車輪と廻る 二銭皿の鮪  井に落とせし簪(かんざし) (『東京の木賃宿』 雲水道者談〔幸徳〕秋水生筆記) 明治時代の東京の下層社会に関する生活のルポルタージュ選集。 各章の冒頭には、以上の通り、ハッシュタグ的にパワーワードが並べられている。そしてその後の文章で一つ一つの言葉が下層社会生活の描写のうちに回収されていくという文体。 極めて現代的な構成、青田ならぬドパ狩り。 貧民層の窮状を伝えなければならないという使命感が著者の側にある。しかし読者が求めているものは、知らないものに対する好奇心、怖いもの見たさ。 そもそも、文章を読めること自体が特権的であった時代においては、下層社会生活との安全な物理的距離感と教育が、そうさせていたのではないかと思われる。 彼らの目に映らない場所への退避(周縁化)と「見てはならない」という日常的な家庭教育と。 現に自分がこの本を手に取った理由もそれに近い。そういった時代との安全な(時間的)距離感が「学び」を可能にしている、という実感。『日本残酷物語』(宮本常一 他)を手に取ったときの興奮に等しい。 この時代、社会主義思想が一部の人々なとって熱烈な支持を得ていたというのも頷けるような惨状。 描写通りの世界が当たり前に広がっていた時代では、一般市民は(文字起こしを必要とするまでもな)そんな状況を当たり前のように日常的に目にしていたが、特権階級の目には映らない。だからこそ文章化する必要があったのでは、と考える。彼らの興味を引くための工夫された文体でもって。 『東京の木賃宿』は以下の文章により結ばれている。 "書くも憂し、書かぬも憂し、恐ろしく驚かるる別世界の生活の様々は、これに尽きねどさまではとて。"
  • 2026年9月26日
    森は考える
    森は考える
    "問題になるのは、人類学は、世界が存在する仕方について一般的な事柄を主張できるのだろうか、ということではないか。一般的なものを主張することで生じる多くの問題(中略)があるにせよ、人類学にはそれができると私は考えている。さらに、人類学が世界に対して忠実であるには、そのような主張をする方法を探さなければならないのだと考えている。" (『序 ルナ・プーマ』) 驚くほど大胆な主張。 「一般的な事柄」を述べることの困難さ、人類学はそれを克服できると著者は信じている。この主張、というか熱量により、一気に引き込まれる。その人が本気で信じていることは、それだけで傾聴に値する(それが真実であるかどうかは二の次であるように思える)。 「一般的な事柄」を述べる、これは世界観の提示。ある意味で宗教であり信仰の告白であるとも言えるのでは。 「さらに、人類学が世界に対して忠実であるには、そのような主張をする方法を探さなければならないのだと考えている。」 これはある種の「天啓」ではないかと思う。著者に降りてきた純粋な使命感が伝わってくる。 "私が示してみたいのは、森が考えると私たちが主張できるという事実は、ある奇妙な仕方で森が考えるという事実から生まれている、ということである。これら二つの事柄ーーこの主張そのものと私たちがそのように主張できるという主張ーーは結びついている。私たちが人間的なるものを超えて考えることができるのは、思考が人間的なるものを超えて広がるからである。" (同上) 「事実」と「前提」の差異がここにおいて曖昧になる。 「ある奇妙な仕方で森が考えるという事実」、末尾に据えられる「事実」という言葉は、「前提」とした方が文章として無理がないように思われるが、著者はあえて「事実」という言葉を選ぶ。 それにより「命懸けの跳躍」みたいなことを果たそうとしているのではと推察すると、ゾクゾクしてくる。 中途半端な信念は傾聴するに値しない。 いや、「値」の次元ではない、と今書きながら気づく。 「読むに値する」ではなくて、シンプルに「読みたくなる」本というのは、こういった信仰告白に近いものが含まれているのではないか、とこの本そのものの内容よりもメタな方に考えが飛んでしまう。 これもまたある意味で「ある奇妙な仕方で森が考えるという事実」に類するものではないか。 森(に限らずあらゆるもの)は真剣に生きている、だからこそ森は考えているーーと捉えることに、一抹の事実は含まれているような気がする。 ゆえに、あらゆるものに備わっている「真剣さ」(信念)とそこから生まれ出る「思考」に耳を傾けたくなる。 序盤から文章は難しいし、提起される事柄も多く、考えることも多い。それでも読み進めたくなる気持ちにさせるのがこの本の魅力。
  • 2026年9月26日
    ゴッホ〈自画像〉紀行
    自画像全点をざっと見ていくと、キャンパスの左右中央付近(高さ方向でいうと上から5分の2の高さに描かれているものが多い)に描かれている側の目に、その時々のゴッホ自身を見つめるまなざしというか態度があらわれているようにもおもえる。 というような絵の見方を意識して見直すと、絵の全体が置いてけぼりになり、その片目だけが浮き彫りになってくるというか、図像そのものとして単独でこちらに迫ってくるような気がして、若干おぞましい感じがする。 この感じは、ルドンの「サイクロプス」の絵を見ている感覚に等しい。またはどんなに顔や肉体が崩れていようとまっすぐに見ている側を射抜いてくるフランシス・ベイコンの肖像画に描かれた純粋なまなざしを見ているときの感覚にも似ている。 ゴッホの目が、自分の目の中で、その他の目とのつながりを生み出していく、目から触手が延びていく、不可思議な感覚へと。
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