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ジクロロ
ジクロロ
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@jirowcrew
ちゃんと読めない。それでいて なんにも読んでないんじゃない。
  • 2026年2月25日
    魔性の文化誌
    魔性の文化誌
    "それは単に推移が一つの状態でもなければ次の状態にあるわけでもなく、さだかでないからである。一つの状態から他の状態に移らなければならない人間自身危険な事態にあり、危険を他の人たちにふりまく。こういう危険は儀礼によって統御される。儀礼は若者をもとの地位から切り離し、しばらく隔離し、それから彼が新しい地位を得たことを公的に宣言するのである。 …… こういう中間的、両義的、媒介的な存在は、タブーのもとであり、神秘的な霊力をとくに強く帯びやすい。" (p.22-23) ケンドリック・ラマーはその「儀礼」を避け、賢明な道に生き抜いた。ブラッズ(Bloods)にもクリップス(Crips)にも属さなかった彼は、やがて「ゴート」(GOAT)と呼ばれることとなる。これがケンドリック・ラマーにとっての「儀礼」? GNXという4頭立ての馬車ならぬ4輪の「自動車」に乗り…… ーー読んでいてそんなことが思い浮かぶ。
  • 2026年2月25日
    中国55の少数民族を訪ねて
    中国55の少数民族を訪ねて
    外では、ギターを手にした若者が、別の楽しみに興じていた。人民解放軍での合宿生活で覚えたのだという。中国でも有名な谷村新司の「昴」や長渕剛の「乾杯」などの曲も知っていて、驚いた。兵役のために村を離れ、外の世界を知った若者が、故郷の村に帰って新しい文化をもたらすという中国農村部における文化変容のパターンの一端を見た思いがした。しかし、この民族の伝統が若い世代に確実に伝えられていくのかどうか。よそ者の私たちがどうこういう問題ではないかも知れないが、いささか不安にならざるを得ない。 (p.36) 外からやってくる真新しいものを拒むことはおろか、その新規性に虜になり、古い物は淘汰されてしまうこと。その理由が「便利だから」という理由がもっとも切なく感じる。それも我とて。人間の性。 その初端が「兵役」、というのもまた、いかにも典型的な、文化変容のプロセス。 『百年の孤独』(ガルシア=マルケス)、マコンダという街も同じような宿命を辿る。開拓者の情熱や思い入れは、同じ熱量として後世には伝わらないということ。 "しかし、彼は、世界を動き出させるために、神に一つ爪弾きをさせないわけにはいかなかった。それからさきは、もう神に用がないのだ。" (『パンセ』 パスカル 七七) 文化や街が崩壊していくというよりも、人間と世界が均質化していくということーーそれが「情報」というものの抗い難い力(拡散性)、エントロピー増大の法則であるということ。
  • 2026年2月25日
    土中環境 忘れられた共生のまなざし、蘇る古の技
    「根」、「脈」、「糸」。 これらの文字が概念を構成し、それらが土の中に広がることで、水と空気が浸透していく。 読んでいるだけで、自身の身体にやどる「根」、「脈」、「糸」を通して浄化されていく気がする。 一番驚かされたのは、土の中に「空気」を通すことの大切さ、その技術。 地中を通気するということは、土も人間と同じ生物であるからこそ。 「空気が足りてない」 ドストエフスキーの『罪と罰』で、スヴィトリガイロフが主人公のラスコーリニコフのことをそう描写していたのを思い出す。 空気が足りないと、土も人間も悪くなるということ。
  • 2026年2月24日
    新版 古今和歌集 現代語訳付き
    古歌たてまつりし時の目録の、序の長歌 ちはやぶる 神の御代より くれ竹の 世々にも絶えず 天彦の 音羽の山の 春霞 思ひ乱れて 五月雨の 空もとどろに さ夜ふけて、山ほととぎす 鳴くごとに 誰も寝ざめて 唐錦 立田の山の もみぢ葉を 見てのみしのぶ 神無月 しぐれしぐれて 冬の夜の 庭もはだれに 降る雪の なほ消えかへり 年ごとに 時につけつつ あはれてふ ことを言ひつつ 君をのみ 千代にといはふ 世の人の 思ひするがの 富士の嶺の 燃ゆる思ひも あかずして 別るる涙 藤衣 おれる心も …… (1002 紀貫之) 時が移ろい溢れて、目の前で現れては綻びていく感じ。 見たことないのに走馬燈。
  • 2026年2月23日
    本居宣長
    本居宣長
    "どれほど契沖が「やまと」を讃えても、その理論的支柱は、あくまでも「西側」を基準にし、日本書紀を参照してしまっている。では宣長にとって、「日本」の奥底に潜む原風景、太古の日本人が眼にしていた世界とはどのようなものだったのだろうか。それは「山処(やまと)」であった。 …… 古事記にある倭建命の歌を参照すると、青山に囲まれた、とてもしずかな国が見えてくる。穏やかな稜線の山々に懐深く抱かれた国こそ、「山処」という響きから吹いてくる古代の風である。" (p.297) 日本、「やまと」の語源は「山処」であったという 宣長の説。 "『坑夫』を最後に、しばらく(夏目)漱石は山登りを描かなくなった。『草枕』で山を降りる青年を書いた漱石は自然という桃源郷に見切りをつけ、都市社会のなかで生きる人間を書こうとした。『それから』、『門』、『彼岸過迄』といった作品は、そうした自然なき人間社会のなかで生きるための意識を獲得しようとする漱石の挑戦でもあった。 (『生成と消滅の精神史』(下西風澄)p.374 第6章 「夏目漱石の苦悩とユートビア」) 日本においては歴史の変わり目で「山」を失う。 山から降りて、フラットな社会に順応しようと 試みるが、神経を病み、しまいには山へ還る。 原風景を失った者の「行く末」は、原風景であるということ。
  • 2026年2月23日
  • 2026年2月22日
    生成と消滅の精神史 終わらない心を生きる
    私の心は、世界の波打つリズムの振幅に常に揺れている。私は世界の広大なリズムと呼応し、またときに抗う。私はただ独りで私なのではなく、私に訪れてくるものたちと交する存在の波である。リズムは、どんな細な揺れであろうとも、私の身体の細部、表情や行為に干渉する。 …… 知覚は「波が浜辺の漂流物をとりまくように、世界が絶え間なく主観性をおそい、そして包囲しにくる」ことを前提にしてはじめて機能する。 …… 知覚は世界のただ中で起こっている。私が世界を知覚しているのではなく、いわば世界が私を通じて、私の内部で知覚している。私が見ているのではなく、世界が私の眼を通じて見ている。 (p.269 「メルロ=ポンティーー切り結ぶ心」) ムーミンパパは、海との苦闘の末、 これを鮮やかに解決する。 「そら、海はときにはきげんがよく、 ときにはきげんがわるいが、 それがどうしてなのか、 だれにもわからないだろ。 わしたちには、水の表面だけしか見えないからね。 ところがもし、わしたちが海がすきなら、 そんなことはどうでもよくなるんだ。 あばたもえくぼってわけさ……」 「じゃ、パパは、いまは海がすきなんだね」 と、ムーミントロールはおずおずとききました。 「わしはいつだって海がすきだったよ」 ムーミンパパは、むっとしたようにいいました。 (『ムーミンパパ海へいく』第7章 南西風) 生きているもの、自然、 それらを「問題」として捉えないこと。 「問題」には所有格が伴う。 その時点で非対称性が発動する。 「持つ者」の方が上であるという傲慢。 「持つ者」としての戦いに疲弊しきったムーミンパパは、その果てに「持たざる者」を選ぶ。 海を、自身の心から解放する。 そして、海のことがすきになる。 すると、不思議なことが起こる。 パパが海(世界)を知覚しているのではなく、 いわば海がパパを通じて、パパの内部で 知覚しているーーそうやって、海は心を開く。 「島」を守ろうとするのも、「海」に抗うのも、 そもそも不可能事だということ。 "それは、ありのままに在ることを信頼することである。" (p.298)
  • 2026年2月22日
    マルテの手記
    "僕はまずここで見ることから学んでゆくつもりだ。なんのせいか知らぬが、すべてのものが僕の心の底に深く沈んでゆく。ふだんそこが行詰りになるところで決して止らぬのだ。僕には僕の知らない奥底がある。すべてのものが、いまその知らない奥底へ流れ落ちてゆく。そこでどんなことが起るかは、僕にちっともわからない。" p.10 マルテの一人称で書かれた内容に、三人称で描かれたスメルジャコフの印象が想起される。 "ところが実際、彼(スメルジャコフ)はときおり家の中や、あるいは庭や往来でさえも、立ちどまって、物思いに沈み、十分くらいそのままたたずんでいることがあった。 …… その印象は彼にとっては貴重なものであるし、きっと、意識さえせず知らぬ間にそうした印象を彼は貯えてゆくはずだ。なぜ、何のためにかは、もちろん彼にはわからない。 …… 瞑想家は民衆の中にはかなり多い。きっとスメルジャコフもそうした瞑想家の一人だったのだろうし、おそらく彼もやはり、自分ではまだ理由もほとんどわからぬまま、貪婪に印象を貯えていたのにちがいない。" (『カラマーゾフの兄弟』第三編 好色な男たち 六 スメルジャコフ) マルテは匂い(スメル)に敏感である。 "僕の目についたのは不思議に病院ばかりだった。 …… 街路がいっせいに匂いはじめた。ヨードホルムと馬鈴薯をいためる油脂と精神的な不安と、僕はどうやらこの三種の匂いをかぎ分けることができた。" (p.8) 「ヨードホルム」は「個性のない死」(管理社会)、 「馬鈴薯をいためる油脂」は「卑俗な生」(物質的な生活)のメタファーであるとすれば、 「精神的な不安」、その「匂い」こそ、 三人称で描かれたスメルジャコフの生ではないか。 「精神的な不安」という、 匂わないものが匂うマルテの嗅覚、 それを匂うものと並列にしてしまうところに 彼の内面と外面の境界の崩壊があり、 死を脅かすもの、生を汚すもの、その果てに 魂の遣り場のなさ(不安)が表現されているように思う。 "僕自身を入れる屋根がどこにもないのだ。 雨は容赦なく僕の目にしみるのだ。" (p.53) すべてを赦す、その人はもはやいない。 《すべては許される》 スメルジャコフはイワンの思想を実行する。 「赦す」はなく「許される」、 「宗教」の実践ではなく「思想」の実行。 それは人間という第三者を立てることにより 可能となることではないか。 "僕はまずここで見ることから学んでゆくつもりだ。" その匂いは消えない。だからこそ マルテは、そしてリルケは、 匂いとその影を正面から見つめる。 一人称で書かれた者の強みはそこにある。 三人称で描かれてしまえば、 すべては救われないからだ。 "かかる時、世間の人々の間に立ちまじって生きるのは、例の第三者ではなく、ただ二人きりの人間でなければならぬ。二人だけについて、あらゆることが書かれねばならぬ。 しかも、もっとも肝心なものはまだ何一つ書かれなかったのである。二人は悩み、行為し、お互いにどう生きてよいか知らぬのだから。" (p.30) イワンとスメルジャコフ、マルテとリルケ、 「二人」の対照性。 "この世の中は奇態な一種独特なものでいっぱいぎっしり詰っているのだ。それらは神のために何かある意味を言い表わそうとしているのに違いない。けれども、それがどうしてもはっきり口に出せないのだ。僕はだんだん心の中に悲しい誇りのようなものが深い根を張ってくるのを感じた。僕は隠微なものを体じゅういっぱいに詰めこんで、ただ黙々と外を歩いている人間を想像した。" (p.116) マルテは続ける。 "僕は大人に対して非常な同情を感じた。僕はつくづく大人を偉いと思い、僕のその感心の仕方を大人に告げてみたいと思った。" (p.116) そしてスメルジャコフは「大人」になれなかった。 "おそらく彼もやはり、自分ではまだ理由もほとんどわからぬまま、貪婪に印象を貯えていたのにちがいない。" 体じゅういっぱいに詰め込んだもの、 それを携えたまま、 スメルジャコフは故郷に留まった。 マルテは都会に出た。 「どうしてもはっきりと口に出せないもの」 それをどう表現するか、またはしないでいるか。 絶対的に理解のできないものたちとの 真正面からの向き合い方のサンプルが ここに記されている。 光を急いではならないということ。
  • 2026年2月21日
    文庫 地獄は克服できる (草思社文庫 ヘ 1-7)
    外的な運命は、すべての人びとと同様に私の上を避けがたく神々の定めるままに通り過ぎて行ったけれど、私の内的な運命はなんといっても私自身がつくったもので、その甘さも苦さも、当然、私に与えられたものであるから、それに対する責任は、私ひとりで引き受けようと思っている。 断章1(1909-10) ヘッセという人は、自身の義務というものをよくわきまえ、それを誰の目に触れることもなく淡々と実行に移していたのだろう、と思う。 地獄に対しても目を逸らさず、 しっかりと見る、しっかりと感じる。 そうやって、ヘッセという身の丈で、 過不足なく、十全に味わい尽くす。 『マルテの手記』がそういった内容であった そんなことを、読みながら思い出す。
  • 2026年2月21日
    知恵の樹
    知恵の樹
    他人と共存したいと思うなら、その誰かにとっての確実さ[確信]はーーそれがぼくらにはいかに望ましくないものに見えようとーーぼくら自身の確実さとおなじく有効なものなのだということを理解しなくてはならない。 …… 争う者たちが「確信」をもっているとき、争いは、生じた場所ではけっして解決されえない。争いは、ただぼくらが、共=存在が生じるようなもうひとつの場所[反対物の一致を見いだせる、より広いコンテクスト]へと移動したときにのみ、消滅する。 (p.298) 争いの消滅、それは 場所の移動によりはじまるということ。 六・五二一 生の問題の解決を、ひとは問題の消滅によって気づく。 (『論理学的論考』 ウィトゲンシュタイン) 確信とその揺らぎ。 消滅とは「共振」のことではないか。 確信という波が重ならないとき、 自身が「主旋律」と捉えているもの以外は 「ノイズ」と見做される。 確信が揺らがない限り、 その波の大きさと速さが不動である限り、 「消滅」という解決はない。 それ(確信)以外のすべては、 彼が不動である限りは 波に逆らうか、無理に合わせるか、 それともその場を去る (影響の無効化のための逃避)か、 いずれにせよ「不調和」を選択しつつ、 意識を持続(自己を消耗)せざるを得ない。 「消滅」とは、 自己という波が、生来の波形を歪めることなく 自然に(環境に)馴染むこと。馴染ませること。 更新ではなく、生成により成し得ること。 「共=存在が生じるようなもうひとつの場所[反対物の一致を見いだせる、より広いコンテクスト]」 無理して変わる必要はない、 ただ移動して、しっくりくる場所ーー 自分というものが無くなる、 その消失点を、揺らぎながら、 揺蕩いながら探すこと。
  • 2026年2月21日
    道徳の系譜学に向けて
    道徳の系譜学に向けて
    道徳における奴隷の叛乱はまず、怨恨の念そのものが創造する力をもつようになり、価値を生みだすことから始まる。このルサンチマンは、あるものに本当の意味で反応すること、すなわち行動によって反応することができないために、想像だけの復讐によって、その埋め合わせをするような人のルサンチマンである。すべての高貴な道徳は、勝ち誇るような肯定の言葉、然りで自己を肯定することから生まれるものである。ところが奴隷の道徳は最初から、「外にあるもの」を、「他なるもの」を、「自己ならざるもの」を、否定の言葉、否(いな)で否定する。この否定の言葉、否(いな)が彼らの創造的な行為なのだ。 (10 ルサンチマンの人間の特性) ニーチェの言うところのルサンチマンは、 環境により与えられた価値観(=道徳)に基づく 「現状維持」から生じる感情であるということ。 その「与えられた」価値観の外にあるものを、 感情的に否定するのではなく、 存在として肯定するーー すると、おのずと「与えられた」ものに対して 否定、つまり疑問が生じ、そこからはじめて 能動的な価値観が生成しはじめる。 否定すべきは 「与えられた」価値観に基づく「悪」ではなく、 「与えられた」価値観そのものであるということ。 「すべての高貴な道徳は、勝ち誇るような肯定の言葉、然りで自己を肯定することから生まれるものである。」 ニーチェがあっさりと片付けている、この「然り」に辿り着くための道程は、かなりしんどい。 おのずと身についた価値観の総点検からはじまる「然り」の事業。 私は私を肯定する。 その「肯定」を導き出した価値観が誤っているとすれば、私は「事物」だ。 「認識が事物に従うのではなく、事物が認識に従う」 『純粋理性批判』でカントの示した「コペルニクス的転換」は、ここにおいて別なかたちでニーチェに引き継がれているように思う。 認識が事物を動かしているのであれば、 感情もまた事物を動かしている。 認識の起源に感情があるとすれば……。 「私は「事物」ではない。」 これこそが、ニーチェの求めて止まない 「然り」の出発点だったのではないか。 彼に押し付けられてきた道徳が、 彼を「事物」に仕立てようとしていたのならば。 感情やそれに伴う想像という「反射」は、 「事物」特有の行為であるということに 気づいた日から歩き出した彼の背中は。 「アプリオリ」と「与えられた」 ーーこの受動性を能動性に変えること。 本当の「ギフテッド」とは何かを追求し、 それにより掴んだ何かを羅針盤として、 能動性に舵を切り替えること。 価値観は、いつも自身の先を行き、 贈与はいつも、遅れてやってくる。 価値観は、私の感情に敏感で、 その背中でそれに感づくと、 その歩みはさらに速くなる。 その背中はさらに遠のく。 その価値観の、冷たい背中を追い越せば、 振り返り見る価値観の表情と 彼の背負っている背景こそが、 贈与の描写そのものであるのかもしれない。 その眺めに、おのずとこぼれる言葉が 「然り」であるのかもしれない。 美しく見えたその背中の主も、 正面から眺めたら、ピカソの絵みたく 壊れて、惨めに泣き崩れているのかもしれない。 それを「然り」と眺め、笑わなければならない ーーそれもまた、こわい気がしなくはない。 しかし、私は「事物」ではない。 だから私は、私の先を行く価値観に 追い着こうと、想像に足留めされることなく 歩みを続けなければならない。 ーーなんか自分が、ツァラトゥストラの   遺伝子の「乗り物」みたくなってくる気分。   これこそが今なお健在なニーチェの生命力。
  • 2026年2月20日
    ユークリッド『原論』とは何か: 二千年読みつがれた数学の古典
    しかし、実際にテクストを見ていくと、命題の途中で「というのは」が連発されることがあります。 この場合は、後世の注釈者の解説が本文に混入した可能性をまず考えなくてはなりません。そもそも注釈とは、理解が困難な簡所につけられます。 そしてこの種の注釈はたいてい「というのは」という語で始まります。 (p.28) そもそも人生とは、自身が注釈をつける必要が ないのではという気づき。 そんなことをしているよりは、 生きたいように生きればよい。 無駄ではないかもしれないが もったいない、時々余計、それが注釈。 そもそも注釈は、 口がきけなくなった死者に対する オマージュなのだから。 「すべての哲学はプラトンの注釈にすぎない」 とホワイトヘッドに言わしめたプラトンの業績。 プラトンもまた、ソクラテスの注釈にすぎない。 つまるところ「注釈」とは、 他者(死者)の、他者という「作品」の 沈黙に対する、生者による精巧な 腹話術のスキル。 命を吹き込めば、プネウマ、 結果としてその声も後世に響くことになる。 主旋律に立体感をもたらすための 影としてのコーラス。 「相手に密着すること、つまり相手の影となることを深く突きつめると、攻守の立場が入れ替わり、着いて行くものが着いて来られるものに変化し、こんがらがった心理の中で時間が捻れたように感じられる。太極拳や合気道の偉大な使い手が、相手をブラックホールに導いたり、自ら投げ飛ばされたくなるような心理に仕向けたりするのは、こういう仕組みなのだ。」 (『習得への情熱』p.172 ジョッシュ・ウェイツキン) これはやりすぎた注釈の好事例。 そもそも「作品」に心理はない。 少なくとも、他者によりつくられた 「ブラックホール」に呑み込まれることだけは 避けなければならない。 すべての悩みというものは、自身に対する 注釈のつけ方に関する戸惑いではないのか。 自我の傷を舐めるもの、 それは死の匂いのする注釈。 自我という浅めのブラックホール。 他者との関係性において必要となる、 自己立身のための言論、それこそが生きた注釈。 注釈により、肝心な本文がそれに引っ張られ、 芯がなくなってしまう。 ユークリッドは、 それを本能的に分かっていたからこそ、 自身の論述から「というのは」という 後追いの説明の一切を省いた。 生き方としての幾何学、『原論』。 『原論』から学ぶべきことは、 そういうところにあるのかもしれない。 という本書に寄せる注釈。
  • 2026年2月19日
    信頼 (ちくま学芸文庫リ-13-1)
    信頼 (ちくま学芸文庫リ-13-1)
    「奇妙な対照だった!」とアメリカの神学者、エドワード・ロビンソンは一八三八年に記した。「ここでは時代の軽薄を好む趣味が、墓の壮麗さによって同時に満たされた。墓地のなかの娯楽であり、墳墓に囲まれた劇場だった。」目に見える形で残っているものは、すべて目に見えぬものの証拠なのである。 …… ナバテア人が苦労して彫りあげ、みごとに完成させた葬儀のための巨大なファサードを、われわれは見る。ファサードの奥には部屋も通路もなく、動かぬ岩の無限の闇があるばかりだ。われわれの視覚は表面だけを見つめつづける。その奥には、考えられないものが存在している。 (p.54『知りえぬ知性』) ないところにあるものを感じ それを生み出してみたり、 あるものをあって欲しくないからと 見猿聞か猿言わ猿、ないことにしてみたり これこそが人間だけに備わる究極の能力。 前者は感受性を全開にし、 後者はそれを完全に閉ざす (閉ざそうと自身を偽る)。 光も闇も、結局は、人間だけが 意識的に操作しているだけかもしれない。 「はじめに、光ありき」 と語りはじめた人間の闇。 気づかない、気づかれないことは 死を意味する。 だから生きようとするものは 生きているものの五感に訴えようとする。 その欲望が極大になったときに形になるもの、 それが「巨大さ」、つまり五感への威圧、 スケールアウト。そして、 生物的死による象徴的不死。 これもまた、人知からのスケールアウト。 人間ってすごい。すごいってのは「馬鹿みたい」。 それを古代遺跡から感じられることが できるということ。 そのほんんどが、ないもののために捧げられた 巨大さであるということ。 遺跡、その建設においては、 死んだ人間(王)を存在させるために 生きている人間を死物(道具)として扱う。 死者だけが、今もなお健在であるということ。 死者が生者を翻弄しているという事実が 気づけばたくさん身近にあるなと思う。 あなたが生きているとするならば、 死んだもののために何かを捧げているはずでは? 今は亡き著者の本とか。 読むことで光を生み、死者に生命を与えつつ 自身は仮死状態となっているではないか。 そんな我とて Readsをon(rea(d)son)とすDeadsの一人。 RandDに生き死にする日々。 「大事業」とは、選ばれし死者を生かすために、 無数の生者の生命を犠牲にする。 「聖戦」もまた然り。 世帯主が世帯主たらんために つまらぬ犠牲を負う家族とか。 陰影の礼賛はときに危険思想につながる? 「ファサードの奥には部屋も通路もなく、動かぬ岩の無限の闇があるばかりだ。」 ファサードをファサードたらしめるものは、 その奥行き感、立体感を想像させるための 陰影であるということ。 ファサードが、本のタイトルが 普遍的生命を得る権利をもつとすれば、 それを生かすのも殺すのも 生きているものの生命だけであるということ。 私の文章を生きさせるために、 あなたの生命を吹き込ませているという事実。
  • 2026年2月19日
    エロスの涙
    エロスの涙
    人間の本質が、性欲(セクシュアリテ)ーー人間の起源、始まりであるーーの中にあるとしても、それは人間に狂乱のほかには解決法のない問題を提起する。 この狂乱は、(小さな死)の中において与えられる。最終的な死の前-味として以外に、その《小さな死》を充分に生きることが、私にできるであろうか。 痙攣的な喜悦の激しさが、深く私の心臓の中にある。この激しさは、同時に、私はそれを語ることに戦慄するのだが、死の心臓でもあるのだ。その心臓が、私の中で開くのである! (p.13) 日常と非日常と、どちらも大事だと言うよくある話。 でも「大事」って小事あってこその大事。 バタイユが揺れているのは、性欲というテーマがどうこうというよりも、そのあたりの大事小事の見極めとその間における振舞い方ではないかと思う。 両極を知ってしまった後の、振幅の大きさへの戸惑い。 動物的な性欲と、「子供の誕生がその帰結」。 そのあわい。
  • 2026年2月17日
    エロスの涙
    エロスの涙
    「とはいえ、エロティシズムは、ただたんに、このような私の目を眩ませる目的なのではないと主張することもできよう。子供の誕生がその帰結であり得るというかぎりにおいて、エロティシズムは、そのような目的ではない。けれども、子供が必要とすることになる世話のみが、人間的な意味で効用性の価値を持つのだ。だれ一人として、エロティックな活動ーー子供の誕生がその帰結となり得るーーと、この効用的な仕事ーーそれなくしては、子供は、ついには苦しみ、死んでしまうであろうーーとを混同しはしない......。」 「子供の誕生がその帰結」と二度も繰り返さざるを得ないあたりがいかにもバタイユらしい。 バタイユのなかでは、あくまでエロティシズムが主であり、子供の誕生は従なのであるということ。 何か私情を挟んでいるのではないかという思わせぶりなレトリックでもある。 バタイユのうちにこのところをメッセージとして伝えたかった誰かがいたのかもしれない。
  • 2026年2月17日
    メキシコ
    メキシコ
    ドアが 閉まらない バスに乗って 赤く染まった市場へ行く …… もうしんだはずのものが まだいきているものより ひかりをうけとめていた (「火曜日の市場」) 市場には「しんだはずのもの」が集まり、 「いきているもの」よりも主役である。 すべての陳列物が聖なる遺物。 ドアが閉まらないバス、 というのが生者も死者も平等に受け入れる 入口も出口もつねに無造作に その口を開けて運ぶ様、 そうして「赤く染まった市場」、火の曜日。 あますことなく、詩人の身体に染み込んできた メキシコ感、ひしひしと伝わってくる。
  • 2026年2月16日
    脳の大統一理論
    脳の大統一理論
    一般に正確なモデルほど複雑になることから、正確さと複雑さの両方を同時に達成することはできず、実際には両者のバランスが重要である。 アルベルト・アインシュタインは 「何事もできる限り単純化しなければならないが、必要以上に単純化してはならない」 という言葉を残している。 フリストンは、自由エネルギー原理ではこのバランスが自動的に調整されると主張している。 (p.90) 並行して読み返している『共同幻想論(改訂新版)』の「角川文庫版のための序」に、著者である吉本隆明のちょっとした困惑が記してある。 「もともとひとつの本は、内容で読むひとを限ってしまうところがある。これはどんなにいいまわしを易しくしてもつきまとってくる。 また一方で、著者の理解がふかければふかいほど、わかりやすい表現でどんな高度な内容も語れるはずである。これには限度があるとはおもえない。 そこで著者には、この内容に固執するかぎり、どうやってもこれ以上易しいいいまわしは無理だという諦めと、この内容をもっと易しいいいまわしであらわせないのは、じぶんの理解にあいまいな個所があるからだという内省が一緒にやってくる。 この矛盾した気持のまま、いまこの本を読者のまえにさらしている。」 (p.5) そんな吉本隆明に、 「フリストンの自由エネルギー原理どおりやれてるし、アインシュタインも味方してくれてるか大丈夫だよ!」 と励ましてあげたいなと思った。
  • 2026年2月16日
    文庫 地獄は克服できる (草思社文庫 ヘ 1-7)
    まさに逆境にあっては、受動的にではなく、創造的に楽しみながら、自然に没頭することほど慰めになることはありません。 (p. 125 断章6(1961年)) まさに逆さまになるための境であるからこそ 開き直るしかないということか。 ヘッセの言いたいことは、 詩人という肩書き通りの「文字通り」だ。  楽しいことはとんとないぜ  楽しまなきゃな  (『ROBIN』 guca owl)
  • 2026年2月16日
    信頼 (ちくま学芸文庫リ-13-1)
    信頼 (ちくま学芸文庫リ-13-1)
    砂は布のように漂って東のニジェール、チャド、スーダンへ向かい、やがて紅海の沈泥となる。 (p.20「アラワーヌ」) この本に書いてあることはまさに砂のように、形を残すことなく、布のように漂って、その輪郭だけを撫ぜてゆく、そんな流麗な風のような「信頼」の置けるレトリックたち。文章すごくいい。
  • 2026年2月16日
    フォークの歯はなぜ四本になったか
    フォークの歯はなぜ四本になったか
    副題は「実用品の進化論」 うまく○○するためのもの、それが実用品であり、 それは「失敗」から進化する。 という要旨。 じゃあ「成功」から進化するものは何か? 結論の看板の裏面がふと気になる。 それは一見役に立たないものでありつつ、実用品のように、名前の通り「実の用」、つまり目的らしい目的もなく、そのものが目的であるようなもの、 「遊び(ゲーム)」と芸術なんだろう。 これらは進化という概念とは別次元で、ただただ「成功」から野放図に生成していく。 つまりフォークよりもスプーン。 刺して掴むのではなく、掬えるだけ掬う。
読み込み中...