Reads
Reads - 読書のSNS&記録アプリ
詳しく見る
ジクロロ
ジクロロ
ジクロロ
@jirowcrew
日に5冊ほど、 その日にあったこと、 その日の限りを
  • 2026年1月9日
    なぜ人は締め切りを守れないのか
    プロジェクトの最中にいる人というものは、情動を信頼する速度が遅いのだ。 (p.127) 自己が自らの人生を語る過程で、当事者としてだけではなく、あたかも他者が自分を評価するかのような二人称的な視点を内在化する。これは一見すると自己理解の深化をもたらすかのように見えるが、同時に自己の感覚や記憶が外部の期待や社会的規範に染められるリスクがある。 (p.167) 二人称の情動におもねる物語。 自身の情動は脇に据える、物語をプロジェクトとすると、「我と汝」、その二人称を誰に据えるかが問題となる。 自分自身であれば、ただの主観。 自分自身を贔屓にする者を据えれば、茶番。 自分自身を卑下する者を据えれば、自傷。 この二人称を、完全に客観性とするには神。 手の届くかもしれない希望とするには師。 その「師」と言える人物に、生身の人間に 出会えるかどうか。 なれるかどうか。 つまるところ、物語もプロジェクトも イデオロギーありきの言語遊戯。 本来の自分の情動、それを取り戻すことが 最も困難なのかもしれない。 そしてプロジェクトに鈍らされた情動を 磨きなおすことが、一番の生き甲斐なのかもしれない。 だから締め切りを守らない。そして本を読む。
  • 2026年1月7日
    シモーヌ・ヴェイユ
    愛のないところに隔たりや別れはない。隔たりとはすなわち愛であり、隔たりの大きさは愛の大きさに比例する。別離の悲しみは再会の歓びと同じであり、伝えるメッセージも同じである。愛のないふたりが別れても別離はなく、出会っても再会はない。隣接する独房に収容されているふたりの囚人が、壁によって遮られていると同時に、壁を叩いて合図ができるように、隔絶は疎通の手段となろう。 (p.181) 隔たり、別離、そして不幸。 そういった悲観に導こうとするものから逃げず、恩寵として受け止める、ヴェイユの信仰の強さ、その純粋さに胸を打たれる。 「囚人」、そして「壁」。 それらは文字通りではなくメタファーとして、言葉では伝えきれない大事なことを伝えようとする意志を感じる。
  • 2026年1月6日
    スロー・ルッキング
    スロー・ルッキング
    ゆっくりと見ることは、複雑さに対する健全な反応です。物事の多面性を認識し、評価するためのゆとりを作り出すからです。これは自然な本性に根ざした反応でありながら、持続するためには意図的に行う必要があります。 (p.12) 判断を急ぐ、だから見ながら判断する。 あなたの「見る」は、判断のための手段と堕していないか。 そう問われている気がする。 複雑さを見ないための見る技術、これは明らかに 「自然な本性に根ざした反応」ではない。 心なしか、この本を読むスピードも落ちる。 それは自分の「読む」が、ただ読むことに、 つまりそれ自体が目的となっているから。 これがこの本のパワーじゃないか。 『マルテの手記』を再読しているような感覚。
  • 2026年1月1日
  • 2025年12月31日
    中野本町の家
    中野本町の家
    人々は家にもっと奥深い生への欲求を内在させているにちがいない。それこそが「もうひとつの家」「ヴァーチャルな家」である。建築家はこの「もうひとつの家」に関わらないかぎり、住まい手とのギャップを永遠になくすることはできないであろうー (p.160) 「にちがいない」 そんな仮説からはじまる(広義の)アーキテキチャーの創造。 ユーザーはいつも裏切る。 アーキテキチャーの意図を超えたユーザーの解釈が、涌いて出てくる「ひび」が、必ずそのアウトプットに現れる。 「どんなものにもひびがあり、そこから光が射し込む」 (レナード・コーエン) その「ひび」は、アーキテキチャーの目には映らない。 それはユーザーの日常(日々)により、徐々にあぶり出されるものである。 特殊な状況にあった住まい手が非日常的な空間の美しさを求めてつくられた家が、二十年後に今度は住まい手が日常性を求めて解体される、この状況の変化を建築家としてはどう受けとめればよいのであろうか。 (p.187) もし建築に命があったとしたら、自分はなぜ命を絶たれなくてはならないのかと悲痛な叫びをあげたにちがいない。 それは保存か解体かというたぐいの問題とはまったく関係がない。住まい手にとっていかに正当な理由があったとしても、みずからが設計した建築の死はあまりにも傷ましい。 (p.188) 「にちがいない」は、アーキテキチャーの はじまりにおける仮説であり、 失敗であり、叫びであり、 最期における祈りである。
  • 2025年12月31日
    反橋・しぐれ・たまゆら
    反橋・しぐれ・たまゆら
    「たまゆら」は生と死とのあいだに通うささやきのように聞えた。 (『たまゆら』) ひとつひとつのエピソードが、一本の糸を通して集まり、それらがたがいに擦れ合うことで、それを揺らす者の手加減により、そのときどきにさまざまな音色になるということ。「治子」という、不在の主人公がそのように語られる小説。 すべては選択でありながら、すべては自由であり不自由であるということ。 「聴こえてくる」、という言葉の深み。 読んでいると、隠喩と換喩のたまゆら、時間と空間のたまゆら、なんかいろんなたまゆらが交錯して、どこか不快でもあり心地よい治子のささやき、その声を、書かないうちに聴かせる、そんなことを著者は思いながら、描いたのかもしれない。 『イデオロギーの崇高な対象』(スラヴォイ・ジジェク)に描かれるところの「主体」の概念が、この短い小説のなかに、完結に表現されているのではないかと思う。
  • 2025年12月28日
    はじまり
    はじまり
    受動的なはじまりというものは、すでに終わりを孕んでいる。戦争、自然災害、パンデミック。しかし「受動的」であるがゆえにその終わりを見出せずにいる状態のこと。 能動的なはじまりというものは、外的な事象そのものではなく、それらを動かし、絶えず流れ続けさせているその流れの滞留を身体的に感知し、それを一旦言葉により一つの堰として設(しつら)えること、あるいは他者あるいは自己の無意識により設けられた堰に気づきそれを受け入れること、そこからはじまる。 滞留、そのボリュームに、堰を切るのに必要な力は比例する。だから少しずつ、その「少しずつ」こそが希望のはじまりであるということ。 はじめから孕んでいるその終わりを、必然として肯定することから、ほんとうの「はじまり」がはじまるということを。
  • 2025年12月27日
    ヘタレ人類学者、沙漠をゆく
    しかし、感謝をされないということは、これほど苦しいことなのか。それは裏返すと、僕は感謝という名の「見返り」を求めていた、ということなのか。あれほど感情を露わにすることに長けている人々だ。全身で、フルの感情で、救われたことへの感謝を表現してもいいじゃないか。「助かった!」「ありがとう!」と涙を流してくれてもいいではないか。 (p.241) 違和感、不満、そして怒り。 それら身体的な反応を、いかにつぶさに掬いあげ、問いに落とし込んでいくか、 その過程を学ぶ。 違和感がもとで別の環境を求めて離れ、 別の環境で違和感を求める。 後者の違和感はファースト違和感を解くための鍵となる。 怒りとは表層における身体的反応、謎解きにおけるフラグみたいなもの。 個人的な違和感は、深く潜っていくと、普遍的な違和感につながっている。 「ヘタレ」という自虐は、読書層を広げるための間口の確保のためのトラップ?であり(自分もそのトラップにかかった一人)、著者は自己を開示し、その自己をフィルターとして忠実に、わかりやすく調査のプロセスを展開していく。 文化人類学、エスノグラフィーを生業とする人たちの本を読むと、いつもそうだけれど、ただただ憧れと感謝の念が絶えない。 「よくぞここまで」、いつもそうだけれど、 この七文字に尽きる。 読んでいて、なぜだかアニメ『幽☆遊☆白書』のテーマソング『微笑みの爆弾』が頭の中に流れ出す。
  • 2025年12月27日
    ジジェク、革命を語る
    ジジェク、革命を語る
    あらゆることがメディアを通じて暴露される、 我々にはもはや私的な生活がない、と人々は 言いますが、私の主張はそれとは逆です。 我々には、もはや公的な生活がないのです。 今実際に消えつつあるのは、公的な生活そのもの、 厳密な意味での公共圏です。 公共圏とは、要するに、個人的な特徴、欲望、トラウマ、性癖の束としての私的個人には還元できないある象徴的な役割を人が果たす空間のことです。 公的領域は急速に消えつつある。 それなのに、なおも我々は公的領域を私的領域として扱うのです。 (『スキャンダルの公的使用』2013) 電車内でスマホを見ながら笑う人、涙を堪えている人、顰め面の人。自分もその一人。 「もはや公的な生活がない」とは言い過ぎな気がするが、少なくともモビリティ(移動)空間においては私的領域になっていると感じる。 ウェブ上においては公私が入り乱れる。 そこは公的領域とも私的領域とも言い切れないただただフラットな空間がただただ広がっていく感じ。 露出か匿名かの二択。 前者は後者の慰みともおもちゃともなる。 WEB、大文字の「蜘蛛の巣」。 捕らわれたものは口から紡がれる透明な糸により ぐるぐる巻きにされる。 藻掻かなければ、忘れられる。 露出と匿名と、そのポジショニングに善悪はない。 ただその空間で「善悪」を話題とするところに、 善くも悪くも、火が上がる。 火はまず「私」につく。 そして火は「私」から「公」に燃え移る。
  • 2025年12月26日
    おりこうなビル
    おりこうなビル
    今までに読んだ絵本のなかで最もインパクト大な作品。 中盤、いきなりプロレスの実況中継のような語り口、そこからの展開がビル・デイビスすぎる。
  • 2025年12月26日
    炭焼長者
    炭焼長者
    そしたら、みそ蔵やら米蔵、粟蔵やらの蔵の錠前が 「スミヤカ グウ ザエノウ ザエノウ、スミヤカ ゴウ ザエノウ、スミヤキ ゴロ ザエモン」と鳴った。鳴ったとおもったら、錠前がみなおれて、蔵のなかから、神さまが、ひとりずつでてこられたげな。 「いやあ、そば神さんがおられんとこには、わしらも、ようおりません。おったら、青竹三本の男に、けとばされるやもしれんけえ、いっしょに行きましょうわい」そういうと、神さまがたもでていかれるし、蔵のなかのものは、みんなチョンチョ(山陰地方の方言で、蛾のこと)になって、空にたっていったげな。 たくさん神様が出てくる。 そして神様たちの発言、はたらきが愉快。
  • 2025年12月26日
    わたしのて
    わたしのて
    「わたしのて」にできることたち。 いつの間にか忘れてしまっているそのはたらきを、 普段着のように、絵が教えてくれる。
  • 2025年12月26日
    ムーミンパパ海へいく [新版]
    ムーミンパパ海へいく [新版]
    八月末のある日の午後、ムーミンパパがしょんぼりと、庭を歩きまわっていました。なにをしたらいいか、わからなかったのです。なにしろ、しなければいけないことは、自分かほかのものかが、もうすっかりやってしまったように思えましたもの。  ムーミンパパは、悲しそうにしっぽをかわいた地面にひきずりながら、あてもなく庭をぶらつきました。ムーミン谷は、焼けつくような暑さで、なにもかもひっそりとして、しかもかなりほこりっぽかったのです。この八月は山火事がおきるおそれがあり、おおいに気をつけなければならないのです。 (第1章 水晶玉の中の家族 冒頭) 「もうすっかり」、「なにもかも」 何かの終わりは、何かのはじまりのフラグ。 終わりとは均質、はじまりとは流出。
  • 2025年12月25日
    ヘタレ人類学者、沙漠をゆく
    「ゆらぎ」 ゆとりがなく、ただただ周囲に合わさざるを得ない状況、即興に即興。 今年のM1グランプリのたくろうの赤木さんと重なる部分がある。「ネタ」ではあるが。 著者は元・道化で「あった」、と自ら告げている点もまた、旅の伏線というか、名乗りによる誘いというか。過去形は未然形のまま現在進行形的な生成形道化。
  • 2025年12月25日
    言葉というもの(968;968)
    「我々はそういう言葉に出会う時に心を打たれる。又それは如何にも的確に、或は微妙に、或は簡潔に或ることを言っているという印象を与えてそれはその通りなのであるがその的確も微妙も簡潔もその言葉の向うに、或は奥にあるものとの繋りによって的確でも簡潔でもあるのであってそのことも言葉が表すもののうちに入る時に言葉で表されたことはその言葉で表されたことである他ない。併しそれもその言葉をなしているものの一部で言葉は生きている。」 (「何も言うことがないこと」) 全体的に読点が少なく、読むのにとても思考を要する文章。 「そういう言葉」とは、どういう言葉か。 それは著者もうまく言い切れていない感じがする。 いろんな本を読んで、自分なりの「そういう言葉」に出会いたいと思った。
  • 2025年12月25日
    精神の生態学へ(下)
    精神の生態学へ(下)
    マップはテリトリーと違うとして、テリトリーとは一体何なのか。マップの作成者は、網膜なり測量器なりを持ってテリトリーに行き、一つの表象 representation すなわち「表し直し」を行い、結果を紙の上に描くわけです。紙に描かれるのは、その人の網膜に表し直された象(すがた)を、ふたたび表し直した象であります。表し直される前の「元のすがた」は、どこまで問いつめていっても手に入りません。無限に遡行していくばかり。限りない地図の連続ができるだけで、現地そのものは得られない。「現地」とは、一種の「ものそれ自体」だということができるでしょう。それと直接的に関わることはできない。つねに表象化のプロセスが間に入って、土地をフィルターにかける。精神の世界は、マップのマップのマップが際限なく続く世界なのです。 (『形式,実体,差異』) スナフキンが似たようなことを言っている。 (『ムーミン谷のひみつ』) 普段使いの言葉とは、「テリトリー」であり、それはマップのほんの一部を囲い込むために使用される道具。 詩で扱われる言葉は、マップを破り、「現地」から「世界」を掴みにいく。それは決して「世界」を得ることができないとわかりつつ、「世界」になろうと足掻いている。 「生きている言葉」とはそのようなもののことを言うのだろう。
  • 2025年12月23日
    選ばない仕事選び
    この仕事で僕は何を世界に付け加えるのか、僕の行動が世界をどんなふうに変えるのかを意識する。自分の行動が、最後の最後にはいったい何に繋がっていくのか。実はそう考えるだけで、仕事は一気におもしろいものになる。どんな仕事だって、おもしろがることができるのだ。 (p.91) 「世界」をどう捉えているのか。 十分に満足しているのであれば、それを変える必要性はあるのか。 「おもしろい」は「よりよい」につながっている。 ビフォーアフターを求める欲求。 「世界に付け加える必要があるのか?」 欠如と変化の関係性をもっと知りたいと思う。
  • 2025年12月23日
    ビロードうさぎ
    ビロードうさぎ
    ある日、うさぎ(のおもちゃ)と馬(木馬のおもちゃ)が、暖炉のまえにふたりっきりでいたときのことでした。うさぎは、馬にききました。 「みんな、じぶんたちはほんとうのものだって、じまんしているけれど、ほんとうのものって、どんなもの?からだのなかにブンブンいうものがはいっていて、外にネジがついてるってこと?」 「ほんとうのものというのは、からだがどんなふうにできているか、ということではないんだよ」と、馬はいいました。「わたしたちの心とからだに、なにかがおこるってことなのだ。もし、そのおもちゃをもっている子どもが、ながいながいあいだ、そのおもちゃを、ただのあそび相手でなくて、とてもながいあいだ、しんからかわいがっていたとする。すると、そのおもちゃは、ほんとうのものになるのだ」 (p.13) 「ほんとうのもの」と「ほんもの」の違い。 この絵本から考えさせられること。
  • 2025年12月22日
    ホイットマン自選日記(上)
    ホイットマン自選日記(上)
    「 「人間の奇癖の一つ」 ただ一人、このような静まり返った森の真中にやって来て、あるいは荒涼とした大草原や山の中の静けさの中にあるような、孤独の静穏さや寂しさの中にいるとき、人間が、誰かが現われはせぬか、地面の中から、あるいは木蔭、岩の蔭から飛び出しはせぬかと、あたりを見まわす本能を決して失くしてしまわないのは、どうしてだろう?(わたし自身そうだし、ほかの人たちも、それは同様だと、わたしにそっと打ち明けている。)それは野獣類からの、それともずっと昔の野蛮な先祖からの、人間の原始的な警戒心の今なお尾を曳く遺伝的名残りなのか?決して不安や恐怖ではない。まるで何か得体の知れぬものが、ひょっとしたらあの藪やさびしい場所に潜んでいるかも知れぬというような。いや、確かにいるのだーーある生命ある目に見えぬものが。」 「ある生命ある目に見えぬもの」 人気のない自然に独り包まれたときに感じるそれは、もう一人の自分ーーその自然に放り込まれ、自然人として育ったであろうもう一人の、仮初の自分の、野生の気配ではないのか。
  • 2025年12月22日
    美の法門(新編)
    美の法門(新編)
    誰が何を作ろうと皆美しくなってしまうことがあるのである。それも各々の者が優れた藝術家になり得て、かかる結果を生むというのではない。凡てがありのままの状態で救われるというのである。この事実なくして何の希望があろうか。この世にはどんなに多く下凡の性から離れ得ぬ者がいるであろう。だが有難くも、それが誰であろうとそのままで素晴らしい仕事が果せるのである。果せる道があるのである。果せないのが嘘なのである。醜いものはただの迷いに過ぎない。この真理の見届けなくして、何の光明があろうか。この一篇はその信の表明なのである。 p.114
読み込み中...