

ジクロロ
@jirowcrew
ちゃんと読めない。それでいて
なんにも読んでないんじゃない。
- 2026年3月10日
安全に狂う方法赤坂真理読んでる最も深いアディクションにとらわれ、それに動かされてしまうのが最も危険だ。最も深いアディクションとは、思考なのだ。最初は強い「感情」なのだけれど、感情を永続的に持つには「思考」の力が必要となる。だからヘイトスピーチにしろ何にしろ、感情的なのに、とても観念的だ。 「生きづらさ」は状況そのものではなく、状況からくる不安や緊張や焦りであり、その身体感覚だろう。これを頭で解釈したものが、「自分はダメだ」「自分には価値がない」「希望がない」などの思考である。これは状況そのものとはちがう。状況に直面していることからくる感覚そのものでもない。それに関する思考である。 (p.175) "君にaddictedかも" (『Addicted to you』 宇多田ヒカル) 「君」が、自己になってしまうとき。 これが最悪で危険なアディクション。 - 2026年3月10日
時間と他者エマニュエル・レヴィナス,原田佳彦読んでる自己同一性は、自己との無害な関係ではなく、自己東縛[自己を鎖で繋ぐこと]なのである。つまり、それはもっぱら自己に関わることの必然性である。始まりは、それ自身の重みで重いものとなる。それは存在の現在なのであって、夢の現在ではないのだ。自己同一性の自由は、その責任によって直ちに制限されるのである。これは自己同一性の最大の逆説である。つまり、自由な存在は、すでに自分自身に責任があるが故に、もはや自由ではないのだ。 (p.28) 朝の目覚めが、思考から始まるようになったのはいつからか。 もっぱら「自己同一性」に関する思考から始まる 朝は重たい。 月曜日の夜明けがしんどいのは、自己とそれに纏わる束縛が、時間の経過とともに脳を起点として、思考が身体に鎧うからではないか。 子どものころの、毎日生まれ変わっているような朝が懐かしい。 この文章を読み、なぜか反動的にそれを取り戻したいと思っている自分を感じる。 それもまた、レヴィナスの言うところの〈実存すること〉なのかもしれない。 その魔術にかかっているだけなのか。 - 2026年3月10日
反穀物の人類史ジェームズ・C・スコット,立木勝気になる - 2026年3月10日
庭とエスキース奥山淳志気になる - 2026年3月10日
信頼 (ちくま学芸文庫リ-13-1)アルフォンソ・リンギス,岩本正恵読んでるシェリルをレイプしたふたりの男はすでに死んでいる。安らかに眠ってほしいわ、ときみは言う。彼らの葬儀にきみは出席した。許して忘れるの、ときみは言う。ただ忘れるの、と。生まれて捨てられたその日から、すべてを記憶し、許さなければならない。シェリルは自分を変えられないんだ、とウェイン、きみは言う。それもまた、愛しくてたまらないところなのさ。 (p.178 『ラブ・ジャンキーズ』) - 2026年3月10日
時間と他者エマニュエル・レヴィナス,原田佳彦読んでるわれわれとしては、他者との本源的な関係は前置詞 mit (と共に avec)によって表わされるべきものではない、ということを明らかにすることができればと思う。 (p.5) 「あなたとわたし」、の「と」は助詞にあたる。 「わたしとあなた」とすると、「と」のはたらきが異なるような気がする。 前置きとしての前置詞、 日本語の助詞とはまた異なるはたらきを 為していると思われる。 「他者との本源的な関係は前置詞 mit (と共に avec)によって表わされるべきものではない」 「他者」という概念が、極めて日本的な響きを持たないということは直感的にわかる。 前置詞とは、自我を前提としたときに必要となる機能なのではないか。 レヴィナスが越えようとしている地平をぼんやりと想像しながら読み進めている。 にしても難しすぎる。 足りないシナプスと糖分。 - 2026年3月9日
人類の星の時間シュテファン・ツヴァイク読んでるいまや彼の大胆不敵な振る舞いに対する刑罰から、彼を救うことのできるものは、ただ一つしかない。それは、いままでよりもさらに大きな大胆不敵の振る舞いをやることである。裁判官たちが到着して、彼らの捕吏が彼を捕えて縛らないうちに、彼が新しい大洋と新しい黄金郷とを見出すなら、彼は救われることができる。人の住む世界の果てのこの土地において、この場合彼に可能な唯一の逃亡の形は、一つの大規模な行為のなかへの逃走、不滅のなかへの逃走である。 (p.25) 大胆不敵が咎められるなら、 その大胆不敵を超える大胆不敵をやってのける。 人類の「星になる」には、そういった無数の「大胆不敵」の屍の上に立つということ。 屍なくして星なし。 敵をつくらないための自分からの逃亡。 この本は、とにかく序文の熱量がすごい。 序文の3ページだけでも、 「逃亡」のつもりで読んでほしい。 - 2026年3月8日
路傍のフジイ(6)鍋倉夫読み終わった「そうじゃないんです。 わからないんです。 鈴木さんが今言ったような人達が実際に… 本当に存在するのか、 わからないんです。 いや…実際にいたとして、 会って、話して、同じ時間を過ごしたとしても、 その人について何かを言い切るようなことが 本当にできるのか… 自分にはわからないんです。」 (第45話 鈴木とフジイ③) この「わからない」のうちに、 「認めない」と「知りたい」と「伝えたい」が 格闘しているように思える。 だから、無表情で通すフジイが 感情的になっているように見える。 - 2026年3月8日
一色一生志村ふくみ,高橋巌読んでるこの紫根液を六十度以上に熱しますと、鮮やかな色彩は消えて「滅紫」という鼠がかった色になります。「けしむらさき」とも呼ばれ、紫の滅んだあとの色香は、ふとした光線によって、底の方から紫が匂い立ってくるような、寂しげな情感をたたえて、佳人の老いた姿のようです。鈍色とまではいきませんが、紫の滅びたあとにのこる色香が、喪に服す哀しみの色としてまとわれる時、光源氏がいつもより一層なまめいて感じられたというのもわかるような気がします。 (p.28 ) 染織家である著者は色を生命として語る。 ゴッホが残した手紙にも、そのような表現が多く見られる。ゴッホが色について語るとき、その色が生きているように思えることがある。 "展覧会にピュヴィ・ドゥ・シャヴァンヌのすばらしい絵が一点出ている。 …… 人物の一人はワスレナグサの青だろう、他の一人は淡いレモン色、もう一人は和らいだピンク、もう一人は白、あとの一人は紫。地面は白と黄の小さな花が点々と咲いた草地。遠くの方は青で、白い町と川がある。全人類、全自然が単純化されている、もし、それがすでに実現されていないなら、かくあるだろうという形で。" 『ファン・ゴッホの手紙』(みすず書房) W22〔F〕〔フィンセントからヴィルへの手紙〕 〔一八九〇年六月五日ごろ] シャバンヌの『諸芸術とミューズたちの集う聖なる森』、ゴッホの目には、女神たちよりも色たちの方が主人に映っている。女神たちの一様な白い肌を活かし、動きを与えているのは、彼女たちの纏う色(布)であるという見方を教わる。 「色がものを生かしている」 これはただの比喩ではなく、事実なのだということを、著者は教えてくれる。 物語の中の光源氏もまた、文字により描写された色に生かされている。 - 2026年3月7日
瞬間を生きる哲学古東哲明買った人間は、一日に十八万七千もの思いをいだくという。 だがその九八%は、過去の記憶の再生。聞くもの、見えるもの、想うことのほとんどが、昨日 や去年や遠い昔に覚えこんだ概念とか意味づけや価値づけに、いやでも自動的にふち取られてしまう。既知の概念や解釈が、ほくたち本人の意思を超えて、暗黙理に即座に分泌され、刻一刻に新鮮であたらしく、唯一一回きりのはずの今この瞬間の光景を、「過去化する」。 だから直下のいまここの瞬間を、それ自体として「現在的に生きる」ことがない。一瞬一瞬、たえず過去の風味で味付けされてしまうから、ピュアに斬新で現在的といえるのは、ほんの二%だけということになる。 (第二章 生きられている瞬間の闇) オセロのようなことを考える。 九八パーセントが、 たったの二パーセントにより百パーセントになれる。 それが瞬間を生きるということ。 九八パーセントに悩まされることがある。 九八パーセントのすべてが黒になる、 どうしようもないときがある。 二パーセントは可能性に満ちた途轍もない可能性。 すべてを白にひっくり返し、 そのキャンパスに新たな絵を描くことも ゼロではないという、眩しすぎる事実。 瞬間を「闇」と定義しないように、気をつけて。 - 2026年3月6日
見えるものと見えないもの 新装版モーリス・メルロ=ポンティ,木田元,滝浦静雄買ったフリーレンの15巻と、書き込みのない二冊目のバガヴァッド・ギーターがほしくて、立ち寄ったブックオフにて、旧版を運良く見つける。 探していて忘れていたものが見つかる喜び。 このいきさつを書のタイトルに照らす。 ただ見えていなかっただけで、 いつも見ていたということか。 「見ていた」の目的語は「夢」に近い気がする。 今日は、この週末はついてる。 夢を手に取りレジに向かう。 見えないものよりも、 見えるものを表現するほうが難しい。 旧版の表紙はセザンヌ(新版はリ・ウファン)。 その目に見えるものを描いた絵。 自分には見えなくて、セザンヌにしか 見えないものを表現している。 「理解」ができない、説明もしないその絵に、 あらゆる人々の、 自称(したそうな)「分かりきった」人々の くだらない言葉がたくさん張り付いている。 (「分かりきった」と「イキった」は同義?) そんな状況に、感情的になっていた時期が あったなと思い出す。 「理解」ができないとは、 作品そのものを見ずに、 作品とそれを飾る言葉との間の 「断絶」を見ている、または見せられている ということではないか。 メルロ・ポンティもまた、 見えるものと見えないもの、その「見え方」を セザンヌのように、その作品で教えようとして この本を書いているのかもしれない。 漫才コンビのボケじゃないほう、 "真っ赤なりんご 椎名じゃないほう 従う本能" (『Imma Do It』 KOHH) 「断絶じゃないほう」、林檎と本能を。 「見えない」と「見えていない」の違い。 差異は、怒ったり悲しんだり、 感情で捉えるものではなくて、 驚きとして歓待するものではないか。 タイトルだけで、お腹いっぱい。 色々と考えること、止まらなくなる。 ーー本を開く前の、週末の帰り道の推論。 - 2026年3月4日
返さない借り つながる贈与岩野卓司読んでる江戸時代に、武士が罪を犯したとき、それが重罪だったときは打ち首だったが、そこまで至らないときは切腹だった。切腹の場合は、藩主や将軍からの贈死というかたちをとる。藩主や将軍が死を与えるのだ。それによって切腹は名誉ある死となるのである。権力のある者しか、贈与の権限はないのだ。このように贈与は権力や権威と結びついていて、封建遺制や古い慣習と親和的な面をもっている。 (p.13) このおののきが人間を捉えるのは、人間が人格〔=位格(ペルソナ)〕になるときである。そして人格がそのようなものになることができるのは、それがその単独性そのものにおいて、神の視線によって身をすくまされるときである。そのとき人格は他者の視線によって見られることになる。この場合に他者は、「至高の、絶対的で接近不可能な存在者であり、私たちを外的にではなく、内的に掌握する」のである。 (『死を与える』ジャック・デリダp.20) 「恥」と「おののき」は似ている。 前者は世間の目、後者は神の視線。 その抑圧の果てが、「死を与える」ーー贈与の形象としての死となるということ。 見つめられて臆病になるような行為は「盗み」に近しく、それにより与えられる死、つまり盗みの補填が「贈与」であるというよくできた話。 - 2026年3月4日
運命まかせ横尾忠則読んでる与えられた状況の中で、向こうからやってきた対象にただ黙って対処すればいいだけで、この状況の中で、必要以上の欲望を持たなければ、こんな便利なことはありません。ただその状況に余計な抵抗さえしなければ、行くべきところに流されて行きます。そして辿りついたところが、僕のやるべきことのゴールでもあるのです。 (p.156 第4章 運命のいたずらに従う) 運命がなすべきことを、「いたずら」 と形容するにふさわしい生き方をしている人の 言葉、肩の力ぬける。 - 2026年3月4日
神々との対話(ブッダ)中村元読んでるどれもすべて連れて行くことはできない。 すべてを捨てて行くのである。 ひとが身体でなし、 またことばや心でなすところのもの(=業)、 ーーそれこそ、かれ自身のものである。 人はそれを取って受けて、行くのである。 それは、かれに従うものである。 ーー影が人に従って行くように。 (第三篇第二章) かたちではなく、はたらき。 「影」がないということは、 光の下にいないということ。 「かれ」とは「影」を伴ってこその存在であるということの意味を。 "アブラハムはあらゆる意味とあらゆる所有物を放棄するーーそのときにこそ絶対的な義務としての責任が始まるのだ。アブラハムは神と非-交換の関係にある。彼は神に語ることはなく、神から応答も報酬も期待しないからこそ、秘密の中に閉じ込められている。応答すなわち責任はつねに、お返しすなわち報酬や報いなどを求める危験を冒しがちだが、それはみずからを失う危険でもある。" (『死を与える』ジャック・デリダ p.196) 「影」を伴ってこその秘密と危険。 行為の結果を期待しないこと ーー義務こそが光であり踊り(祭祀)であるということ。 - 2026年3月4日
- 2026年3月3日
あの国の本当の思惑を見抜く 地政学社會部部長読んでるアメリカが恐れていること、それは中国が自らと同じ地位を手に入れることです。「同じ地位」というのは、自らが属する大陸を支配し、他の大陸に干渉する能力のことです。 (p.131) ナショナリズムとは、 地理の語りかけに対する神経質さの度合い。 - 2026年3月3日
愛の縫い目はここ最果タヒ読み終わった買いたてのノートに、日々のことを記す。左手首では時が、刻まれていく。忘れてしまったものでさえぼくの体を作るならば、燃やされても、だれの記憶にも残らなくても、生きた、と言える気がしていた。窓の外から見える花の名をもうとっくに忘れていた。その喪失の中に、僕はいる。 (『BABY TIME』) しょうがないことと、それでいていとおしいものと、バランスよく、そのふたつのあいだを、 ひとつに縫い合わせていく感じ。 さわやかにもどかしい。 - 2026年3月3日
時間と他者エマニュエル・レヴィナス,原田佳彦買った主題と構想 この講演の目的は、時間は孤立した単独の主体に関わる事実ではなく、そうではなくて、時間はまさに主体と他者との関係そのものである、ということを明らかにすることである。 …… このような主張を強固なものにするためには、一方で、孤独という概念を深く掘り下げるとともに、他方、時間が孤独に与える数々の機会を考察しなければならない。 (p.3) この後、どのような展開になるのか、 全く想像のつかないこんな冒頭も珍しい。 - 2026年3月1日
バガヴァッド・ギーター上村勝彦読んでる祭祀の残りものを食べる善人は、すべての罪悪から解放される。しかし、自分のためにのみ調理する悪人は罪を食べる。 (三・一三) 神や祖先の霊など、目に見えない存在を 信じること。 そしてそのつながりを肯定すること。 それにより「まなざし」を得るということ。 見守られているという意識が、 安心感を与えると同時に、罪を遠ざける。 「ギーター」は、後者のことを伝えようとしている。 "わたしたちは美を食べたいと欲するであろうが、美は見つめる対象でしかなく、美はある一定の距離を保ってしかあらわれない。人間の生の大いなる痛みとは、見つめることと食べることとが、ふたつの異なる働きだということである。 …… 見つめるべき美を食べたのはイヴが最初である。果実を食べることでイヴが人間性を失ったのならば、その反対の態度である果実を食べずに見つめるということは、救うものであるはずである。「二羽のつがいの鳥が木の枝に止まっている。一羽は果実を食べ、もう一羽は果実を見つめている」、と『ウパニシャッド』は述べている。この二羽の鳥は、わたしたちの魂のふたつの部分である。" (『世界の秩序への愛』 シモーヌ・ヴェイユ) 「ウパニシャッド」は哲学。 「ギーター」は実践。 ヴェイユの「ギーダー」は、 「食べない」こと(拒食)を選んだということ。 ヴェイユのなかで、 「祭祀」を果たせていないという意識があったからこそ、その「残りもの」すらない(食べる資格がない)という認識に至ったのかもしれない。 「美を食べる」とは、人間特有の欲望であるが、 「罪を食べる」とは、人間として嫌悪すべき行為 であるということ。 ヴェイユの実践が胸に深く刺さる。 その槍には無数の「返し」がついている。 - 2026年2月28日
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