

ジクロロ
@jirowcrew
ちゃんと読めない。それでいて
なんにも読んでないんじゃない。
- 2026年4月12日
明かしえぬ共同体モリス・ブランショ,西谷修気になる - 2026年4月11日
自由より自在に生きるー愉快さと葛藤の哲学ー内田樹,近内悠太読んでる今、世界は右翼的なカオスの中にあります。でも、このトレンドもどこかで終わります。経験的に言えば、世界中の国の足並みが揃ったところでトレンドは終わる。そういうものです。どんな運動もある時点で節度を失って、暴走して、「しなくてもいいこと」をして、人々に飽きられて、疎まれて、終わるんです。 …… 人間は変化を求める生き物ですから、全体の足並みが揃ってしまうと、それを不快に感じる。それは当然なんです。そして、針が反対側に振れる。 (p.34) 日頃、電車通勤をしている。 車内、スマホを見ている人が圧倒的に多い。 スマホが乗り、スマホが降りる。 それが悪いとは思わないが、正直なところ、 その光景が気持ち悪く、不愉快だとは思う。 自分も本当はスマホを見たいと思う。 あえて本を読む。 これは、優越感からではなく、強迫観念に近い。 読みたいから読んでいる、だけではない。 決して、読みたいから読んでいるわけではない。 読んでいないのに開いているだけである時も多い。 空気を読みたくないから、読んでいる。 何を? 何も、読んでいない。読めていない。 「不毛」という、あるはずもない毛を、 社会というハゲ頭に数えているだけかもしれない。 車内の空気の悪さ、そして重たさ。 それは 人口密度と二酸化炭素量だけではない。 エントロピーの増大もまた、その一つ。 息子にスマホを買い与える。 当然ながら息子はスマホばかり見る。 それが悪いとは思わないが、 その「自然法則」を 不愉快だとは思う。 「あんま見過ぎると『スマホ人間』になるよ」 「……、『スマホ人間』てなに?」 「……、わからない。自分で考えて」 自分で言っておいて、答えがない。 「自分だけの名前」を失うよ、 本当は そう伝えたかったのかもしれない と、後から思う。 それは息子には伝えない。 自分が息子に伝えたいことは 、 息子の眺めるスマホの中にはない。 「右翼的なカオスの中」を、存分に楽しめ。 息子に託す、 「自分だけの名前」という謎と、エール。 昨日、雨と新生活で混雑する地下鉄の車内。 幸運にも席が空いている。席に着く。 いつものように本を開こうとすると、 両隣の人が本を読んでいることに気づく。 「よい変化」だと、思う自分が挟まっている。 そしてこの日、本は読まない。 本はある。 読む人は、たまにいる。 「読む人」は、つねにある。 「たまにいる」は、つねにある。 「そして、針が反対側に振れる」 地下鉄を打つ雨の音を、本に挟まれひとり聴く。 雨と新生活で混雑する車内。 列車は進む。 人はそれぞれの「画面」を見る。 人は触れるだけで、動けない。 針は振れるだけで、進まない。 何も見えていない。地下を進む。 この「トレンド」は、終わらない。 「どんな運動もある時点で節度を失って、 暴走して、『しなくてもいいこと』をして、 人々に飽きられて、疎まれて、終わるんです。」 反復して、終わらない。 - 2026年4月9日
読んでる「記号が、何ものをも意味しないでただそこにある」ということに機械は耐えることができない。機械はそれを何か既知のものに同定するか、あるいはまったく無視するか、どちらかを選ぶ。凡庸な知性はある意味で機械に似ている。というのも、凡庸な知性もまた「何も意味しない記号」に遭遇すると、既知のものと同定するか、あるいは無視するか、どちらかを選ぼうとするからである。 「記号が何ものをも意味しないでただそこにある」とき、その決定不能のものを前に、判断中止をしている「私」を維持すること、それこそすぐれて人間的な能力であり、それこそが人間の人間性を基礎づける、ラカンはそう考える。 …… 私たちは「記号が何ものをも意味しない」ことに耐えることによって、「もう一つ次数の高い思考の準位」へ進むことができる。 (p.126) 判断するとは、機械になるということ。 「ありのまま」の一面を、自己の欲望に 見合うように切り取る。 「何も意味しない記号」の豊かさは、 そうやってあっさりと失われている。 「時間がない」という思いは、そのまま 時間の否定を意味する。 極論を言えば、「時間がない」という思いが、 すでに生命のない物どもを手に入れさせようとしているということ。 手に触れるすべてが黄金と化してしまうミダス王のごとく。 「時は金なり」というダブルミーニング。 - 2026年4月9日
入門 記号論池上嘉彦読んでる植物が例えば根からある種の化学物質を分泌して、他の植物、動物の接近を許さなくするというようなことがある。この場合は<モノローグ(独話)>(mono-logue)に近い。もともと特定の<受信者>が想定されているわけでなく、たまたまその化学物質に接した者が<受信者>になる。 蜜蜂のダンスの場合も、まだこれに近い。<受信者>は同じ巣の蜂に限られるであろうが、それ以上の特定化はなく、<受信者>は不特定、多数である。しかし、<受信>の方はメッセージに偶然接するのではなく、自らは<受信者>となろうとする強い志向性を有していて、ダンスをする蜂に競って身体を触れようとしているように見える。 (p.297-298) "アブラハムは神の指示に従って、故郷を捨て、父の家を出た。なぜ、そのようなことが可能であったのか。神の言葉が人間であるアブラハムに理解可能であったからではない。神の言葉は、多くの場合、雷鳴や雲の柱や燃える柴のような非言語的な表象をまとって族長や預言者たちに開示される。だから、彼らはそれが何を意味するか分からない。だが、それがメッセージであるということは理解できた。なぜなら、そこには宛先があったからである。" (『レヴィナスの時間論』内田樹 p.54-55) 神の言葉はモノローグ。 蜜蜂のダンスも神の語彙のうちのひとつ。 だからこそ、それを受け取れる者は、 「宛先」として名乗りでることのできる者は、 限られている。 というかこれまでに、片手で数えられる数 しかいない(とされている)。 アダムとイブには届かない。 彼らは神から隠れようとする。 アブラハムには届く。 大事な息子の命も躊躇なく捧げる。 「わたしはここにいます」。 ダイアローグとは、互いにとって 「賭け」により得られる偶発物。 人間においてもまた、発話の基本は モノローグである。 と、認識を改めなければならないのかもしれない。 二人以上の人間が話を始めれば、それは 「ダイアローグ」(対話)であるという思い込みは、 傲慢そのものである、 届かない前提としての発話(発信) そして、種は蒔かれて在る。 受信者は発信者に常に遅れて現れる。 (「贈与」のしくみに同じ) それを見出し、発芽させることが<受信者>の 役割であり、何が育つのかわからない、 その可能性において対話がはじまるということ。 - 2026年4月7日
読んでる彼ら(スーザン・ソンターグとジョージ・シュタイナー)はどういうわけか恐しく傲慢で、たとえば日本人などから何一つ学ぶことはないと思いこんでいる。 …… したがって、私にとってこの本(『隠喩としての病い』スーザン・ソンターグ)の面白さは、この本に書かれていることよりも、むしろ書かれていないことにある。それは私に多くの事柄を考えさせるが、すでにいったように、ソンターグは日本人などから何一つ学ぶことがないほど優れた批評家なのである。 (「『隠喩としての病い』にふれて」 p.283) 「日本人などから何一つ学ぶことがないほど優れた批評家」ソンターグにより「書かれていないこと」、そこにこそ(日本人の批評家である著者が)学ぶべき価値のある空間が広がっている、ということ。 そして、そういうところに「面白さ」を感じているということ。 ソンターグという批評家につけられた「優れた」という修辞には、密かに致死量レベルの毒が盛られている。ソンターグ崇拝の(当時の)ムーブメントこそ「病」である、ということを文章という身体で以て隠喩として訴えているのでは。 そう考えてゾッとする。 しっかりと受け止めた上でしなやかに流す、 その背中に振り下ろす「面白さ」という一太刀。 その切れ味の凄み。 タイトルの通り、著者という健康な身体(=批評)は、「『隠喩としての病い』にふれて」みせている。 そんな流行性感冒のような「病い」には全く冒されることはないという自負。そして、「日本人などから何一つ学ぶことがないほど優れた批評家」ソンターグのような「病い」からでも反面教師的に「健康(健全)」を学べることはあるのだという矜持。 「毒を以て毒を制す」、とはまさにこのこと。 それを最後のたった二つのセンテンスだけでスパッとやってのける、必殺仕事人みたく。 批評という名を借りた(精神)衛生学。 - 2026年4月7日
バーナビー・ラッジ(上)ディケンズ,小池滋読んでるとある本を熟読しても、著者がその本を執筆した眼目を見出すことができないのは、その眼目が非常に深いかあるいは非常に浅いか、そのいずれかのためであろう。私の狙いがこの両極端の中間のいずこかにあることを願いつつ、ここではそのすべてを語ることよりも、ただ一点にのみ言及しよう。 (一八四一年版 序文) 著者の眼目、つまり「欲望」はどこにあるのか。 熱くもなく、冷たくもなく仕上げておく故、 とにかく、最後まで飲み干してほしいという 著者の願い。 「ただ一点」とは、「無料お試し」の意味合いに近いセールストーク。 "私たちが「他者」を経験するのは、ただ「欲望」を通じてのみであり、その「欲望」は私たちに「ゲームのルールを知っていると想定されている主体」のあとをひたすら「追う」ことを要求するのである。 「欲望」は主体に「解体せよ」という苛酷な要求をつきつける。" (『他者と死者』内田樹 p.106) 著者は読者をゲームに誘っている。 「欲望」という呪いを解いて欲しいと願っている? 二つの序文の最後には、それを匂わせるような「謎」を置いている。 "「きっとお前たちも見ただろう 何かを探して、老人が 長いこと彷徨い続ける姿を 見出し得ぬものが 何かも分からないものを求めて」" (『骨董屋』からの引用、一八四一年版序文) "「裕福で何不自由なく暮らしていたが、 強制徴募隊が夫を奪い去るまでのこと だった。それ以降、眠るベッドもなければ 子供に食べさせる物もなく、しかも 子供たちはほとんど裸だった。 もしかしたら悪いことをしたかもしれない。 けれど自分は、自分が何をしたか きちんと分かっていなかった」と。" (メアリー・ジョーンズ死刑囚の答弁、 一八四一年版序文) 自分一人ではわからないことを、他者に預ける。 これもまた立派な贈与であり、解けない毒(ギフト、呪い)でもあり、本の帯を見る限り、 エドガー・アラン・ポーもまた、そのやっかいな物を受け取ってしまった一人だったのだろうと思う。 『ヤンの未来』(ファン・ジョンウン)とおんなじ、 「あなたは何をしていたのか」問題。 「あなたは何をしていたのか」、これが贈与という問題に迫る鍵なのかもしれない。 - 2026年4月6日
誰でもないファン・ジョンウン,斎藤真理子読んでるそのあとで彼女は私に、あなたはそのとき何をしていたのかと問いかけた。最後にはいつも、そう訊いた。 (『ヤンの未来』p.63) 日常を生きるということは、先にも後にも、その日常に何もつけ足さないという姿勢をいうのではないか、と読みながら考える。 自分はこの物語を読みながら、何かを付け足そうとしている。 「そのとき何をしていたのか」 その問いを想定して、日常に付け足そうとしている。 ヤンの未来は、 読者である自分が、そこに付け足したいもの に違いない。 この弱さに気づかせるところが、 日常から離れらせようとする 言葉にならない内なる斥力と逃走心、 「そのとき何をしていたのか」、 答えられないことには答えられない、 問えるのは、「あの人は今」、それが この物語の力強さであると思う。 - 2026年4月4日
ニーチェ全集(12)フリードリッヒ・ニーチェ,Friedrich Nietzsche,原佑読んでるコペルニクス以来、人間は中心からXに向けて、転落し続けてきた。 (p.21) 「X」とは、 超人ニーチェにとって中心を失った虚無 超人イーロンにとってポスト真実(トゥルース) ラスコーリニコフの光(源)でもある。 ミッフィーの口でもある。 バタイユの肛門でもある。 誰かにとっての何かの徴(バッテン)。 落っこちないように、つなげてみたくなる軌跡。 - 2026年4月4日
はじまりクレール・マラン,藤澤秀平読み終わった物事がまずはじめにやって来て、 わたしたちはいつも遅れる。 思考は出会いからはじまるとしても、それは 時に何物かに捉えられる経験でもある。 …… はじまりとは、現実がわたしたちに 切り傷を負わせ、挑発し、 わたしたちを動揺させるとき、思考が 「不法侵入によって、世界の偶然から生まれ出る」 まさにその瞬間のこと。 わたしの注意を否応なく集中させるものとの 偶然の出会いこそ、「思考するという受難」の 根源にあるものだ。 (『はじまりでありたいという欲望』) 「思考するという受難」、 身を引き裂くような「受難」から、 「愛」というメタファーを送り出す宗教、 まれに哲学。これこそが「思考」、 ていう至宝? 安っぽさと崇高は紙一重。 神は”いい加減”に二物を与え給う? 「”いい加減”にして」、これは 祈りであり叫び。 質の悪い相槌、その語尾は 「デス(death)ネ」。 評価は常に手のうちの「他者」、 もどかしさに先立ってしまう物悲しさ。 「受難」とは、文字通り 「難」をその身に受け取ること。 "私たちが何者であるのかは、神に唯一無二的な 仕方で愛されることによって啓示される。 私たちが何者であるかは、「呼びかけ」に対して 「はいここにいます」と応答し得ることによって 定まる。 この「呼びかけ」には前段がない、文脈がない、 構造がない、体系がない。 それは単独者に向けて、唯一無二的に、 無文脈的に到来する。" (『レヴィナスの時間論』 内田 樹 p.378) 「受難」とは「呼びかけ」でもある。 その呼びかけを、正確に受信するために ノイズのない場所を求め彷徨う。 自身の観念、その狭い記号体系の「外に出る」 ためにはじめる、それが思考。 「なぜ?」ではなくて、「(わたしは)誰?」。 ”人間は事後的に律法を選んだのである。 始めにあったのは暴力である。” (『タルムード四講和』 レヴィナス p.82) 「不法侵入」、その暴力に 真正面から、思考で挑む。 それが「呼びかけ」であると信じる、 それが信仰であり、思考の結論が律法、 であると信じる、そんな「わたしたちは いつも遅れる」。 わたしたちが生まれる前からある律法。 愛と暴力、ムチ(無知)にもアメ(慈雨)、 貧困と富裕の間に浮遊する「アイ」。 ”掴み損ねたものすら分からない 終わりじゃない まだ始まってない リビドーすれちがう巡り合い 我要你的愛、你的你的愛 乾いたグラスに満たす愛 …… 道で騒ぐ学校帰りの中坊 俺を包む風も人の声も これは何? これは愛?” (『Ni De Ai』 Jinmenusagi feat.D3adStock) 『はじまりでありたいという欲望』、それは ウォ ヤオ ニー ディ 愛、 ニー ディ ニー ディ 愛。 しかし先立つ律法、その暴力に 『Fake it till you make it.』 「愛」よりもコスパのよい言葉、 あるなら教えてほしい。 - 2026年4月4日
はじまりクレール・マラン,藤澤秀平読み終わったそうして言葉がついに言語を絶した領域の境を越え、内面の檻に囚われた獣を解き放つことが可能となる。わたしたちの内側で、落ち着きのない神経質な獣のように、くり返し小さな円を描いていたものが、ついに偏執的な周回の輪を飛び出す。 (『すでにはじまっていること』) 直線だと思われているものをたわませること。 時間、空間、スプーン。 蝶番をあえて劣化させ、扉の軋む音により、 「オトズレ」を告げさせること。 そういった意識的な遊びにより、 「内面の檻に囚われた獣を解き放つこと」。 『すでにはじまっていること』とは、 子どものころ当たり前のようにやっていたことを 今のこの身体で反復することにより 手繰り寄せられる。 そして、獣の行きたいところに、 おそれつつも着いて行くこと。 - 2026年4月3日
おとなになるってどんなこと?吉本ばなな読んでるでも、みんなが言う「子どもの頃」っていうのは、きっと子どもだけが持っていたエネルギーや空間の広がりのことだと思うんです。 …… 私はいつも授業中ぼんやり外を見てたり寝たりしていたのですが、あの時間がもたらしてくれた頭の中の空間の広がりを今もはっきり思い出せます。 …… 確かに、しなくてはいけないことが多い大人の生活の中ではあのエネルギーを取り戻すのは困難です。旅行に行って景色でも変えない限り、目の前にあるのは自分が責任を持っている空間ばかりですからね。 子どものようなエネルギーの広がりを持って、大人の自由な決断をすることができたら……そんなふうにいつも願っています。 (『第一問 おとなになるってどんなこと?』) 興味深いのは吉本さんが「空間」と「子ども」というものを結びつけて考えているということ。 自由やゆとりというものを空間寄りに感じるという発想が自分にはなかったなと。 吉本さんにとって、時間的な自由やゆとりが生じるときには、おのずと思考してしまうことが多かったからではないか。親譲りの思考力を余計に感じていたのでは。 「旅行に行って景色でも変えない限り、目の前にあるのは自分が責任を持っている空間ばかり」 思考に陥り観念的になってしまうがゆえ、習慣的に目に映る空間に所有的な意味づけを行ってしまうのが大人ということなのだろうか。 - 2026年4月2日
成長理論 (岩波文庫 白154-1)ロバート・M.ソロー読んでるロバート・フロストの「黒い小屋」から この世にわれわれが見ると思う大方の変化は 数多の真理が容れられまた捨てられるがゆえに こそ起こる という詩句を読んだとき、これはまるで経済のことのようだとの感がすぐに浮かんだ。そのような感じのいく分かが起こるのは不可避なことで、また必ずしも慨嘆すべきこととは思われない。 …… 行き着けるところまで行き着いたかどうかは、もっと先まで行こうとしてみなければ分かるはずはない。 (p.48) 経済もまた、「気分」の問題なのかもしれない。 「行き着けるところまで」というのは、よほどの強い意志がない限り、気分により流される。 そしてまた気分によってはじめた新たな旅は、 往々にして既視感のある観光、という円環運動を為す。 気分もまた、経済においてはひとつの合理であると言えるのかもしれない。 気分なくして成長なし。 気分を支配すること、はじまる行動経済学。 「先まで行こうと」させるからこその成長。 黒い小屋の前にも撒き餌。 - 2026年4月2日
漱石日記夏目漱石,平岡敏夫読み終わった今でもうちの下女はこのひーひー(という歯を鳴らす音)をやめない。しかも妻君のいない時を択んで最も多くやる。これは妻の命令とも取れるし、また妻がいないから遠慮が要らないという意味にも解せられる。果して前者とすれば妻はけしからん、果して後者とすれば彼ら下女は主人を馬鹿にして妻だけを尊敬している事になる。この外にも自分の不愉快な事を露骨にやる時はきっと妻のいない時を択ぶ。妻はそれで自分の責任を免がれたつもりであろうか、果してそうだとすれば妻ほど浅はかな興のさめた女はない。 (1914年11月9日(月)) 妻との会話における苛立ちから始まるこの日の長い長い日記は、まるでカフカの『判決』の現実路線。 ままならない周縁が、芋蔓式に出てきては絡まりゆく(漱石)にとっての不条理どもが、漱石の神経を障り続けて止まない。 読んでいるこちらもどうにかなりそう。 - 2026年4月2日
行間を読む、行間に書くカルロ・ギンズブルグ,上村忠男読んでるわたしの場合には、全体について(作品についてであれ歴史的なコンテクストについてであれ)知らないでいるということは、研究に取りかかる最初の時点で立てられる想定ではなく、一個のまぎれもない現実なのである。言い換えるなら、わたしは多くの場合偶然に見つかった細部から出発する。そして手探りで闇の中を、期待がもてそうにおもわれる小径をたどりながら、一歩また一歩と進んでいく。これこそは、わたしが読者と分かち合うことに努めてきた、人を夢中にさせる経験にほかならない。 (『序』) 「行間」が文字通りの意味ではなく、概念または隠喩である予感。 「人を夢中にさせる経験」、これを constellate(『河合隼雄の最終講義』)だと心得て。 曼荼羅をかきわけてゆく手。 - 2026年3月31日
ライプニッツの輝ける7日間ミヒャエル・ケンペ,森内薫読んでるライプニッツは世界を可能性という観点から眺める。起こりうる可能性があるからといって、すべてが現実にならなければいけないわけではないし、すべてが現実になるわけでもない。だが少なくとも、その一部は現実になる可能性があり、ときには人々が思っている以上のことが実現できるかもしれない。もし世界のすべてのものごとが必然的に起こるのだとしたら、個人が自分の行動に責任を負うことはなくなる。そして道徳性はなくなり、自由もなくなる。起こりうる多様な世界の中から自由に選択ができるのは神だけではない。人間にもまた、世界を変え、その形成にかかわる自由が与えられているのだ。 (p.13) "神が自ら勧善懲悪の裁きを下す世界では、人間は霊的に成熟することができない。神が全能の世界では、人間は、仮に目の前で悪事や非道が行われていても、異邦人や婦や孤児が目の前で困窮していても、それを看過する。神の所轄する事業に人間が賢しらな介入をする必要はないからである。だから、神が人間に代わって善を行い、悪を罰する世界では、人間は善悪について考えることも行動することもしなくなる。これが一神教の抱える根源的なアポリアである。ユダヤ人たちはこのアポリアを、神による天上的な介入抜きでこの世界に正義と慈愛をあらしめる責任をおのれの双肩に感じる者が霊的な意味での成人であると定義することによって解消した。" (『レヴィナスの時間論』内田樹 p.295) 必然性と「誰かのせい」は似ている。 それは、善と慈愛と道徳性、それらを 自他を問わず放棄するということ。 それらをひっくるめて「可能性」と証明することが、ライプニッツの使命であったとも言えそうだ。 微分は小さな変化と差異への感受性、 積分はその過不足のない積み上げと粘菌のような経験的知性の伴う行為。 - 2026年3月30日
ライプニッツの輝ける7日間ミヒャエル・ケンペ,森内薫読んでる(ライプニッツの)その思考体系は文字通り驚くべきものであり、多くの点において今なお現代的で、場合によっては非常に挑発的ですらある。ライプニッツの思想の世界が前提としているのは、ハエも人間と同じように、はるかに低いレベルではあるものの、ある種の意識をもっていることだけにとどまらない。むしろライプニッツによるならば、宇宙の万物が何らかの形でたがいに結びついているのと同じように、人間とハエも、拡散した無限に小さな知覚状態のレベルにおいてたがいに結びついているのだ.....。 (p.52-53) 「微分と積分を類似的に扱う定式表現の基礎を築いた」ライプニッツ、「単純な数個の記号を使って無限小の値の合計を計算でき、無限の値をあたかも有限のように扱うのが可能になる」。 ヒトとショウジョウバエの遺伝子は、機能的に約60%以上が同じであるとされ、基礎的な生命活動の仕組みが共通しているという事実がある。 「無限に小さな知覚状態のレベル」、ここにおける「無限小」を身体の微分としての「遺伝子」としてみると、ライプニッツの生物学的における微分方程式は、「たがいに結びついている」という解を導く。 鳥肌でしかない。 ちなみに、ヒトとハエの遺伝子について、 ヒトの「病気」に関係する遺伝子のうち、70%以上がショウジョウバエにも存在しているという。 ヒトもハエと同じほどに「sick」で「ILL」なのだ。 そして積分したときに、その「病気」の加減が ヒトのほうが救いようがない、 なんてことを言わないライプニッツが好きだ。 「世界はいつだって最善」、 『カンディード』の主人公、そのモデルは ハエにも等しくリスペクトを寄せることで、 その「最善」のモデルに自ら名を連ねる。 - 2026年3月29日
プルーストとイカメアリアン・ウルフ,小松淳子読み終わったすべての人間が生まれた時から知っているオラリティ(声の文化)と、生まれたときから知っている者は誰もいない書く技術との相互作用は、心の深みにまで達する。口から発せられる言語によって最初に意識に光を当てるのも、主語と述語をまず分割した後、改めて相互に関連づけるのも、また、社会に生きる人間同士を結びつけるのも、話し言葉である。書くことは分裂と疎外をもたらすが、それと同時に個を高めることでもある。自意識を強め、人間間のより意識的な相互作用を促す。書くことは意識を育むのである。 (p.321) 「聞く」と「話す」は水平方向への力を育み、 「書く」は垂直方向への力を育む。 ペンを飛ぶ道具にも掘る道具に磨くのは 「読む」力を養い続ける忍耐ではないか。 「読むための遺伝子」なんてなく「読む」は後天的なスキルであるという福音に触れつつ、 共生力と孤独力、 そんなことを読みながら考える。 - 2026年3月29日
映画,わが自由の幻想ルイス・ブニュエル,矢島翠読んでるわたしは雨の音が好きだ。 記憶のなかにこの世で最も美しい音として 残っている。器具の助けを借りて聞いても、 もはや同じ音ではない。 雨は偉大な民族をつくる。 (p.366) わたしが七つの大罪のなかで、ひとつだけ、 かけ値なしに大きらいなのは、羨望の罪である。 …… 羨望は、他人の幸福がわたしたちを不幸な気に させる時、必然的にその人間の死を願う思いに 導く、唯一の罪である。 …… 羨望はすぐれてスペイン的な罪である。 (p.384) (『好きなもの、きらいなもの』) 「不毛の土地(スペイン北部)に生まれた」ブニュエルは、そこにないものに憧れる。 スペイン内戦、広がる不毛と羨望ーー 垂直方向の恵み枯れ、水平方向に蔓延する羨望、 故郷を離れ、メキシコへ。 "原初の満足が失われたので、その原状回復を 求めるのが欲求である。だから、「欲求は 本質的に郷愁であり、ホームシックである」 (『全体性と無限』レヴィナス)と言われるのだ。 これに対して「欲望」は帰る先を知らない 異郷感、満たされた状態を思い出せない 不満足感のことである。" (『他者と死者』 内田樹 p.70) 1977年、遺作のタイトルは 『欲望のあいまいな対象』。 "場所はそこを占める対象に論理的に先立つ。 …… 崇高な対象とは「〈物〉のレベルまで高められた 対象である」。 この点を最もよく例証しているのは、ブニュエルの一連の映画だろう。それらはーブニュエル自身の言葉を用いればーー「ある単純な欲望が、説明できないが、どうしても実現できない」という同じモチーフを中心にして作られている。 …… 最後に「欲望のあいまいな対象』では、女が、一連の仕掛けによって、昔の恋人との再会の決定的瞬間を繰り返し先送りする。" (『イデオロギーの崇高な対象』シジェク p.359-360) 「雨は偉大な民族をつくる。」 雨という音のカーテンの向こう側に、 ブニュエルの欲望するものがあった。 それが「メキシコ」であり、「女」であり、 「偉大な民族」であり、 そうではなかった、または、それらではなかった ということ。 それらは「ある」ものではなく 「つくられてある」ものであったということ。 ブニュエルは、映画という「場所」により、 生涯を賭けてそれらを表現したということ ーー「羨望の罪」つまり情報というノイズから 逃れるために、雨を必要としたということ。 - 2026年3月28日
村野藤吾著作集村野藤吾,神子久忠かつて読んだかつて、私は神戸でD百貨店の設計を担当した。昭和十年のころである。S社長いわく、僕の方は「箱」をつくってもらえばいいよ。注文といえば、ただそれだけであった。 S社長は当代一流の百貨店の経営者であり、キリスト教的な教養のある人格者として知られ、私などもこの人には傾倒したものである。 …… ある日、S社長は店内のアイスクリーム売り場で小さいのを売っているのを見つけた。これは小さいね。これぐらいにしないと引き合いません。そうか、損をしてもいいからもっと大きいのを売りたまえ。この話をだれからか聞いた。私はその話を聞いて、これだなあと思った。損をしてもいい合理主義が何を意味し、何を教えているか、私はこの話にたいする過当評価を慎みたいと思う。だが、そのなかには何かを越えて、人間にたいする配慮が含まれていることだけはまちがいのないことだと思った。 (『建築家十話』 五、百貨店) 施主からの要望は「箱」、のみ。 にもかかわらず、 その施主の人格、「人間にたいする配慮」を 汲みとり、それを建築としてかたちにしてしまう 建築家の人間性と力量に感服。 現存する建築家の作品については、見れる範囲で見ているが、文章にもあらわれているようなヒューマニズムが感じられる作品ばかり。 お勧めは宝塚カトリック教会と日生劇場。 胎内にいる赤子のように、身体ごと安堵感に 包まれる空間体験。 - 2026年3月28日
映画,わが自由の幻想ルイス・ブニュエル,矢島翠読んでる『アンダルシアの犬』 シナリオは、二人(ブニュエルとダリ)が意見一致で採択した、簡単きわまる規則によって、一週間足らずで書きあげられた。合理的、心理的ないし文化的な説明を成り立たせるような発想もイメージも、いっさい、うけいれぬこと。非合理的なるものに向けて、あらゆる戸口を開け放つこと。われわれに衝撃を与えるイメージのみをうけいれ、その理由について、穿鑿しないことーーである。 (『シュルレアリスム 一九二九〜一九三三』p.177) 社会が「合理的、心理的ないし文化的」に息詰まりを感じていたからこそ、反動として「非合理的なるもの」が魅力的に見える時代。合理性よりも非合理性こそに全能性を感じる時代。 「われわれに衝撃を与えるイメージのみをうけいれ、その理由について、穿鑿しないこと」 作成のプロセスが直感的、野性的、暴力的。 だからこそ、あらゆる「説明」と「物語」を拒む、「物自体」的な、暴力的な作品が出来上がる。 『アンダルシアの犬』、その映画こそ見たことはないが、フランシス・ベーコンの絵画を前にしたときのような、眼球だけが映像に釘付けにされ、身動きがとれなくなるような作品なのだろうと思う。
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