

jirowcrew
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日に5冊ほど、
その日にあったこと、
その日の限りを
- 2025年11月24日
マクトゥーブ An Inspirational Companion to The Alchemistパウロ・コエーリョ,木下眞穂かつて読んだ「精神の道の探究とは、なによりも挑戦である。抱えている問題から逃げるためにその道を歩もうとする者は、なかなか前に進めないものだ。 友人も作れないようなひとが、世界から身を引くことにはなんの価値もない。自分の食い扶持も稼げないようなひとが清貧を誓ったところでなんの意味もない。臆病でなにも求めることができないひとが謙虚になることを誓っても無意味である。 気難しい人間になるのはなんとたやすいことか。」 きつめのボディブロー。 道を歩むならば、人目につきにくい下り坂の脇道を選んではならないということか。 - 2025年11月24日
知の編集工学 増補版松岡正剛「遊びの本質が編集にあるということは、逆に、編集の本質も遊びにあるということである。」 p.39 素材選び、配置、関係性、逸脱、偶然との戯れ。 確かにその通り(遊び)だと、ハッとさせられた。 - 2025年11月24日
はじまりクレール・マラン,藤澤秀平読んでる「「思考において始原的であるもの、それは不法侵入であり、暴力であり、敵である」。つまり、それは危険なもの、わたしを脆く、不安定にするもの、身を固く守るわたしに課せられるもの。いつもの道を外れざるをえなくするもの、わたしを回り道させるもの。はじまりとは、現実がわたしたちに切り傷を負わせ、挑発し、わたしたちを動揺させるとき、思考が「不法侵入によって、世界の偶然から生まれ出る」まさにその瞬間のこと。私の注意を否応なく集中させるものとの偶然の出会いこそ、「思考するという受難」の根源にあるものだ。」 p.95 思考のはたらきは免疫に近いのではないかとふと思う。外部からの偶然の侵入に、思わず発動してしまうところ。 しかし免疫と異なるところは、最終的に、その暴力的な偶然という裂傷を、自身の身体(記憶)に、物語として取り込もうとする受容性、その包容力ではないか、とも。 - 2025年11月24日
断絶 (叢書・ウニベルシタス 1159)クレール・マラン気になる - 2025年11月24日
なぜ人は自分を責めてしまうのか信田さよ子気になる - 2025年11月24日
免疫の意味論多田富雄気になる - 2025年11月24日
冬の夜ひとりの旅人がイタロ・カルヴィーノ,脇功ちょっと開いた「いや、あなたは一度新しくあったからには永遠にそうであり続けるような真の新しさに出会うことを望んでいるのだ。」 たった一冊の本にさえ、そんなことを求めてしまう。はっとさせられる。そこに命がかけられるということも納得ができる。 - 2025年11月24日
はじまりクレール・マラン,藤澤秀平気になる買った - 2025年11月22日
ポーラをさがしてさなともこ,杉田比呂美読み終わった「あっ、そうそう、ほとんど、なんのきまりもない「自由塾』に、たったひとつだけ、きまりがあった。帰るときに、 「今日も、また一歩、自由に近づけました」 と言わなくちゃいけないのだ。 初めて塾にきた日、そのことを平八郎(塾長)に告げられたときは、ものすごくびっくりしたし、気が重くなった。 (なに、それ…・・・・) それだけで、やっぱり、この塾はよそうかと思ったくらい。」 p.41 「今日も、また一歩、自由に近づけました」 一日の終わりに、それを声に出して 他者に言えるような生活。 「一日の終わりに、それを言う」と決められてしまえば、一日を始める前に、何をどうするか、いやでも意識するようになる。 そんな「自由塾」に、通いたかったなと思う。 探そうかなと思う。 - 2025年11月22日
生誕の災厄 〈新装版〉E.M.シオラン,出口裕弘読んでる「<幸福に>生きようというのなら、いつも心に、免れえたさまざまな災厄を描き出してみる必要がある。これは記憶力にとって償いの一助ともなるはずだ。というのも、記憶力はつねづね、免れえなかった災厄のことばかり蓄めこんで、幸福を冷遇するべく努め、みごとに成果をあげているからである。」 p.87 「「一切は幻影にすぎない」と言いきるのは、幻影の前に香を焚くことであり、幻影に高度の、いや最高度の実在性を認めることである。本当は幻影の権威を破壊せねばならぬはずなのに。 では、どうしたらいい。一番いいのは、幻影を声高に説いたり、告発したり、幻影について考えるという形で、幻影に隷従したりするのをやめることである。すべての観念を失格させる観念は、それ自体が極梏なのだ。」 p.318 2025.11.22 どんな気持ちになるのか、恐る恐る本位の興味で 自身の誕生日に読む。 表面上の期待は見事に裏切られる。 この本には、 災厄どころか希望しか書かれていない、 ように思える。 「逃れえなかった災厄」、 それの最たるものが「生誕」である。 という、 「すべての観念を失格させる観念」。 著者の言う「誕生の災厄」もまた、 著者の言う「幻影」に過ぎないということ。 それが最も著者の言いたかったことではないか ーー「桎梏」というびっくり箱から 古いスケルトンを脱皮しながら飛び出てきた 軽みを帯びた後頭部、そして 汚れた両手でキャッチする生来のインフィル。 p.318における文章の「幻影」を 「誕生の災厄」に置き換えてみる。 「一番いいのは、誕生の災厄を声高に説いたり、 告発したり、誕生の災厄について考える という形で、誕生の災厄に隷従したりするのを やめることである。 すべての観念を失格させる観念は、 それ自体が極梏なのだ。」 この本を手に取ったのは、 「誕生の災厄」というタイトルに どこか共感を得ていたからこそ。 そして、上記のような発想に至ったのは、 「誕生の災厄」という自身が抱いていた 一種の深刻な観念から逃れたいという、 無意識下の希望に動かされたからこそ。 こういった「反転の操作」を 読み手に為すところがまた、 シオランの底知れぬ創造力ではないか と思い至り、なんだか、 「ああ生きているなー」 というじんわりとした熱が 冷えた足の裏から湧いてくる。 誕生日、この日限りの惑惑が不惑。 四×四=十七の可能性をまだ残す。 「では、どうしたらいい。」 これがシオランから読者への 最高度の優しさだと感じる。 自身の合理的で右肩下がりの記憶力にさよなら。 また一つの「誕生」、 誰も知らないシンバを掲げる シオランが産婆(サンバ) その反復をこそ祝いたい。 - 2025年11月19日
真夜中のパーティーフィリパ・ピアス,猪熊葉子読んでる「ディックは、ひとり暮らしだった。人がいうには、おくさんがいたんだけど、なん年も前に逃げられちまったのだそうだ。だから、今じゃ、ディックは好きなように暮らしていた。うちのお母さんにいわせると、ブタ小屋のブタみたいな暮らしぶりというわけだ。 いつか、ぼくは母さんに、ディックがうらやましいといったことがある。そしたら、ばかなことをいうんじゃないよとしかられちまった。」 (『よごれディック』) 「のだそうだ」、「というわけだ」。 子どもは大人のいうことに流されず、ありのままを見て直感する。 そしてその直感はただしい。ことにその直感を大人がある感情を伴って否定してくる場合には。 最後には、やっぱり「ぼく」がいったことに共感する。直感というものは、そのすべてがポジティブなものかもしれないと感じた。 - 2025年11月19日
ヘーゲル読解入門(上)コジェーヴ,上妻精,今野雅方読んでる「一言で尽くせば、本質的実在は一種全能の主である。すなわち、世界を創造する、或いは少なくともそれを支配する神である。力と法則とのニュートン物理学が超越主義的神学によって必然的に補完されたように、逆にこの神学が世界の「機械論的」解釈を生み出す。(したがって、ニュートンが神学者でもあったのは偶然ではない)」 自身の行為や言説の客観性を確立するために、おのずと神の概念が生まれること。日本的に言えば「お天道様が見ている」。この自身よりもすべての面で上回る「主」の存在を自身の外に見立てることにより、より崇高な自己を生成していく反復運動。 『中世の覚醒』(ルーベンスタイン)における「信仰と理性の結合」への努力。 偉大な発見をもたらした物理学者たちがすべからく神の存在を信じていたという事実(『科学者はなぜ神を信じるのか』三田一郎)。 - 2025年11月19日
中世の覚醒リチャード・E.ルーベンスタイン,小沢千重子ちょっと開いた「科学は宗教信条との結びつきを奪われ、しだいに技術的で価値から自由なものとなった。一方、宗教への挺身はその自然主義的なよりどころから切り離され、しだいに恣意的な「本能」ないし趣味の問題になりつつあるように思われる。さらに悪いことに、世界の経済力と軍事力が前例のない速度で少数の有力エリートの手に集中するにつれて、信仰も理性も、自己の権力を露骨に拡大強化しようとする勢力の道具と化そうとしている。 (信仰と理性を)結合させるのであって、「融合」させるのではない。なぜなら、私たちが復活させたいと夢見ているのは、信仰と理性のあいだの創造的な緊張であり、偽りのアイデンティティの類ではないからだ。アリストテレス的なコンセンサスを粉砕したことが、科学と宗教の双方を変えてしまった。それと同じように、新しいポストモダンのコンセンサスが創り出されれば、科学と宗教はふたたび変わるに違いない。」 分離、そして各々の発展。 緊張関係を失った両者はどこまでもそれぞれの道を突き進む。そしてしがらみを失ったものは、しがらみがないからこそ、各々が分離した状態で権力に利用されやすくなる。 自由であるということは自由に「させられる」危険性を孕んでいる。意志により始められたと思われたことが実は使役であったということは日常生活でもままある。その境界が曖昧になり、気づかぬままにいるということは、意志の副作用としての近視と快楽という副作用が強く働いている証拠ではないか。 緊張とは、相互監視が伴うということ。その相互監視のうちに互いが放つベクトルの合成を行い推進力とすること。 - 2025年11月19日
過去と思索(第四分冊)ゲルツェン,金子幸彦,長縄光男ちょっと開いた「嫉妬を根本的に排除することは個々の人間への愛を排除し、この愛を女あるいは男への愛、すなわち一般に性愛と取り替えることを意味する。しかし個性的な、個人的なもののみがわれわれの気に入るのであって、これこそがわれわれの生活全体に色どりや〈緊張〉や情熱を与えるのである。われわれの叙情性は個人的なものであり、幸福や不幸も個人的なものである。教条主義は、いかにその論理の限りを尽くして説いても、美辞麗句を並べたローマ人の慰めの言葉と同じように、個人の悲しみを和らげてはくれない。」 (第5部 パリ,イタリア,パリ 触れられた問題についての考察) 均された言葉で宥められる経験は、「その程度」のありふれた経験、つまり個性的ではないということ。もっと言えば、言葉により宥められてしまうような経験は、経験として味わい尽くすことに失敗した出来事であったということ。目の前の出来事に、人々に、ちゃんと向かい合っていれば、激しい愛の情動が湧き上がる可能性はゼロでなくなる。 こうしてスマホに本の感想を書いている間に、そのような可能性を失っている今を嘆くべき?これは宛先のない贈与だと奮い立たせて「個人的なもの」に仕立てようとする今。 - 2025年11月18日
43歳頂点論角幡唯介ちょっと開いた「四十になると何者かになり惑わなくなる。これが中年の自由の正体だ。それまで行動を押しとどめていた様々なものからの解放。自由になった結果、二十代の頃のような自己存在証明のための行動は不必要となり、ギリギリとしたストイシズムからも解放される。 年齢を重ね、自分というものが固まってきて、自己存在証明が必要なくなると、何かに届こうとして頑張る必要がなくなる。 そのときはじめて、ただ面白いからそれをやる、という純粋行為の世界が広がる。」 「ただ面白いからそれをやる」 働いている40代の大半は、それに憧れはするがたいていは実践できないと思われる。 いつまでも惑うからこその人間ではないのか。 「ただ面白いからそれをやる」 子どもの頃は、人目を気にすることなくそれができた。 物心つくとき、それは自分や周りの大人たちが万能ではないと気づくとき。それに気づくということは、自分を外から見れるようになっているということ、つまり他者から見られていることを意識するようになっているということ。そのまなざしに、何か試されているような気がしてしまうこと。「自己存在証明」の必要性に人知れず迫られるということ。 40を過ぎると、若い頃に比較すると周囲から期待されなくなる。だから自分の好きにやれるようになる。というよりも、いい具合に鈍感になっているといったほうが正しいのかもしれない。 まなざしというものは、現代人である自分が自分自身に強いる監獄(ごっこ)のようなもの。孤独であるからこその一人二役、見張りと囚人。 それもまた、「ただ面白いからそれをやる」として捉えられたらなおのこと面白いだろうと思う。 著者の言うようなことは、当たり前にはできないからこその自分なりの抜け道。 - 2025年11月18日
ちょっと開いた「絶対者に到達することを夢みて、夢みて、夢みるけれども、それはロマンティークであって、そこに到達できない。その到達不可能なものが芸術であり、到達可能なものが行動であるというふうに考えると、ちゃんと文武両道にまとまるんです。到達可能なものは、先にあなたのおっしゃったように死ですよね。それしかないんです。」 死の対義語が生であり、生の内訳が夢と現実。 現実には手にすることができないからこその 夢の代替である芸術、 行動の有無を問わず訪れる死、 だからこそ行動から生成する現実。 エントロピーの増大と均質化 絶対的を追い求めている最中、その行為は美しい。 絶対が大義に変わり、大義が崇高を求める。 45歳、サラリーマンにして中間管理職。 肉体の衰微、周囲の行動が所帯染みてくるところに 腐敗しはじめる現実。 三島由紀夫は先を走っていたのか、 それとも置き去りにされたのか。 「それしかないんです」 エントロピー増大の断絶と先鋭化のための行動。 偶然を必然らしく演じ切るところが三島由紀夫。 - 2025年11月18日
荒野より新装版三島由紀夫ちょっと開いた「それは私の心の都会を取り囲んでいる広大な荒野である。私の心の一部にはちがいないが、地図には誌されぬ未開拓の荒れ果てた地方である。そこは見渡すかぎり荒涼としており、繁る樹木もなければ生い立つ草花もない。 …… 私はその荒野の存在を知りながら、ついぞ足を向けずにいるが、いつかそこを訪れたことがあり、又いつか再び、訪れなければならぬことを知っている。 明らかに、あいつはその荒野から来たのである。…… その意味は解せぬが、あいつは私に、本当のことを話せ、と言った。そこで私は、本当のことを話した。」 合理性の象徴である都市と、非合理の荒野と。 「あいつ」と呼び距離を置く。 そしていつかは迎えに行くからその「あいつ」。 本当のことは、都市に置き去りにされた荒野にある。 - 2025年11月18日
簡単な生活者の意見秋山駿ちょっと開いた「人間には、人間性というものがある。私はそれが嫌いだ。私は戦争中の少年だった。人間性を言う言葉は、嘘ばかりである。ところが、石ころには、石ころ性というものがある。私はそれは好きだ。人間は、割れば、嘘ばかり出てくるが、石ころは、いくら割っても砕いても、同じ石ころである。ただ、自分の存在と自分の時間とに耐えて、何一つ物も言わずに沈黙している石ころよ、お前が私の教師だった。」 (『石ころへ』) 生命の宿る「石ころ」は果たして可能だろうかと考える。 人間の目に見つめられているとき、それは可能だと思う。まなざしとともに込められる著者の石ころに対する思いは、愛であり、叶わぬ憧れであるからこそ。 - 2025年11月18日
魔法使いの弟子ジョルジュ・バタイユ,Georges Bataille,酒井健かつて読んだ「何らかの合理的な目的に関わる行為は、奴隷のように耐え忍ばれた生活の必要性に向けて打ち出された答えでしかない。逆に、幸運の魅惑的なイメージを追い求める行為こそ、唯一、炎のように生きる欲求に応えているのである。」 結局非合理が合理を引き摺り蛇行する。 魔法使いはその肩書きの謳うところの合理性に従わざるを得ないが、その弟子は、肩書きを得てない以上、魔法使いよりも「魔法」を好きなように、でたらめに使えるという特権を持つ。 - 2025年11月18日
キリスト教の修練S.キルケゴール,井上良雄読み終わった「自己自身になるということは、つまり、その場所での運動にほかならない。生成することは、その場所からの運動である、しかし、自己自身になることは、その場所での運動なのである。 …… 自己が可能性のなかをさまよい歩くのは、単に力不足なのではない。そこに欠けているものは、実は、服従する力なのである。すなわち、自分の自己のうちにある必然的なもの、これは、自己の限界とも呼ばれるべきものであるが、この必然的なものに頭をさげる力なのである。」 その場所「での」運動とは、 自己の限界を突き詰め、最終的に絶望に至ることである。 しかし絶望まで至らず、 場所「からの」運動に移ろってしまう、 人間の弱さ。 可能性に溺れる人間と、 絶望から必然を開く人間と。 「終わった」と思われたところが、 実は始まりでもなかったということがある。 そしてそういったことは、 終わらずにのうのうと生きている現在に 惨めさを感じながら眺める過去にしかない。
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