ウシがゆく: 植民地主義を探検し、私をさがす旅

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浅田瑠衣@ruiasada2026年2月2日読み終わった米軍基地、米軍支配とたたかっている他のアジアの民衆には、私たち沖縄人はアジアに米軍を置く日米安保を支える日本政府とそれを支える日本国民(日本人)に問題提起しているのだといおう。これは、この一世紀をはさんだ日本の植民地責任、戦争責任、戦後の日米のアジア支配、これらを支えてきた日本人問題であり、このように沖縄人が対峙している日本人と、あなた方はどのように向き合おうとしているのか、と尋ねよう。 (p286) 日本人でヤマトゥンチュで和人の私は、当然ながら、戦争や植民の被害を受けた側としてアジア諸国とつながったことはなく、自分たちとの向き合い方を相手に問うこともないので、上記の「日本語」を非常に新鮮に感じてしまった。 本書に『ウォール・ストリート・ジャーナル日本版』の記事からの引用で「米国は、在日米軍なくして、アジア地域で確固たる軍事態勢を維持することは不可能だ。かといって、たとえ他のアジア諸国が米軍のアジア駐留をどんなに望んだとしても、代わりに米軍の受け入れを申し出る国があるとは思えない」という記述があった。 私のような都市部に住む人間が、「自宅の隣に米軍基地が来るはずがない。広い敷地のある田舎に来るだろう」と知りながら基地引き取り運動に加わることは、NIMBY的な暴力の入れ子構造をもう一層増やす。もちろんその暴力よりも沖縄への暴力、基地の集中のほうが問題が大きく複雑であるということはわかるし、「基地を沖縄だけでなく日本中からなくそう」と唱え続けることがその問題を先送りするうえ、まさに今沖縄が受けている暴力への無視を正当化しているということもわかる。それでも、一層増やすことがやむを得ないとは言い切ることができないし、「引き取り運動は社会が基地問題にスポットライトを当て議論を始めるための呼び水だから、実際にどこに引き取るかという点はまだ考えなくていい」と捉えることもできない。しかしそうやって問題が複雑であることを盾にして先送りし続ける態度もまた、沖縄以外の地域に住む人間の特権性の表れであり暴力的だ。 読もうとしている沖縄関連の本がまだ2冊以上ある。これも先送りだと思いながらもひとまず読む。