人狼伝説

人狼伝説
人狼伝説
サビン・バリング・グールド
ウェルズ恵子
人文書院
2009年6月1日
3件の記録
  • 高校生のころ警察で調書をとられたことがある。車にはねられて三日ほど意識をなくし、退院したあとで呼び出された。簡単な調書をとるだけ、という話だったので、親はつかず、ひとりで行った。薄暗い部屋で警官は「事故のときのことを話せる?」と訊いてきた。しかし私は事故の前後の記憶がすっかりなくなっていたので、いえ、覚えていないんですと答えた。「覚えていないじゃ困るんだよなあ」と警官は顔をしかめた。「事故のときに現場にいた人がいて、あなた、まだ信号が赤だったんだけど渡ろうとしたんだって。間違いありませんか?」「わかりません、覚えていないんです」「でも見てる人がいるんだよ」「じゃあ、そうなんだと思います」「なんでそんなことしたの?」「たぶん、バスに乗ろうとしたんじゃないでしょうか」「じゃあこういうことだ。私は信号を横断した先のバスに急いで乗ろうとして、信号がまだ赤であるにもかかわらず、横断しようとしました。これでいいですね?」「はい」 調書は一人称で書かれるんだ、ということにちょっと驚きながら、私は私の記憶していない私の行動が、私の記憶していない動機によって、私の記憶していない責任を負うべく、一人称で書かれていくのを見ていた。警官は終始責めるような口調で、すこし怖かったけれど、字はきれいだった。 昔、むしゃくしゃしてやった、誰でもよかった、という定型文が失笑をさそうものとしてひとり歩きしていたとき、高校生の私は、私もまたこのような定型文によって自分を一人称化されたのだ、ということを考えていた。そこにはもっと別の語りがあったのかもしれなかった。でも法的・社会的な規範は、逸脱の仕方をある規範に押し込めなくては、その逸脱をうまく処理できない。 証言する能力に欠けているはずの人の証言が記録されるとき、そこにはしばしば疑わしいものがある。とりわけそれがきれいに記録されているときには、そこにどんな因果関係を補足するための物語が差し込まれているのか、警戒しなくてはならない。 ヨーロッパの人狼の伝説にはいくつか種類がある。セイバイン・ベアリング゠グールドが収集している民間の事例は、自分の興奮をおさえられなくなってしまう性向や、人肉食や殺人自体への嗜癖といった性向を、狼への変身と結びつけている。ただ時代が下り、キリスト教の影響が強くなってくるにしたがって、狼への変身のプロセスに「悪魔と契約した」「悪魔がそそのかした」とする物語が忍び込んでくる。とらえられ、裁きにかけられた犯罪者としての人狼や人食いたちは、自分たちが何者であるのかを説明し、そこに悪魔の存在をほのめかす。告白を通して罪人たちは自分の罪に因果関係を肉付けし、その物語に沿って罪と向き合うのだけど、しかしその告白の前にどれだけの社会的な物語が彼らの行為を包囲していたのだろうということを、今日の視点ではつい考えてしまう。 そこにいたのは悪魔ではなく狼でもなかった。しかしそれを悪魔や狼と名づけることは必要だった。ことによると、暴力的行為の当事者である罪人たちにとってさえそうした物語化は必要だった。今、悪魔や狼は疾患になっている。疾患という物語が人を助けるように、悪魔や狼という物語が人を助けることもあるのかもしれない。でもそれはひとつの粗い語りの類型にすぎないし、あるいっときの流行にすぎないのかもしれない。悪魔でも狼でも疾患でもない、私の行為や性向についての私の語りというものを取り戻したい。そのような語りが可能な場はどこかに必要なのだということを、ときどき考える。
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