女であること

女であること
女であること
川端康成
新潮社
1992年9月1日
1件の記録
  • 浮舟
    浮舟
    @ukibune_1991
    2026年3月22日
    タイトルにもある通り、女であるとはどういう事であるか、市子、妙子、さかえを通して描かれている。 市子は子供が出来ず過去の男を思い出して懐かしみながらもその気持ちを抑えて夫と愛を育む。しかし、そこに罪の意識があり、それと同時にさかえに嫉妬しながら女という性質が顕になる。 妙子は殺人犯の子供という業の中で幸せになってはならないという罪の意識を抱えながら、それでも思い人に胸を馳せながら幸せを掴み取ろうとする。しかし、殺人犯の娘という立場に囚われ続けて葛藤し続けてしまう。そこには女であることと、殺人犯の娘という複雑な関係性が見られる。 さかえは女は嫌いと言いながら最も女らしく佐山に近づき市子や佐山を嫉妬させたり、市子に嫉妬したりと周りを掻き乱していく。自由奔放に振る舞う姿こそ魔性の女であり、1人の男性に愛されるという一種の檻に身を移す事はあまり考えられないのだろう。そのような女性らしさが分かりやすいさかえだが、素直すぎる故に周りは理解出来ずさかえも苦しんでいる。 このようにそれぞれの女性が考える内面を描いた作品である。しかし、川端康成のエッセンスが薄められているように感じられた。調べたところ大衆向けに作られたと聞いて確かにと納得した。 雪国、山の音、千羽鶴では罪と業により苦しみながら身近な人が死んでいくシーンがあるが(雪国には無い)、そこまでは描かれていない。 ただ、市子は過去の男、さかえは佐山、妙子は有田と求めるも届かない哀しさや哀愁という幽玄が宿っている事もたしかであり、それぞれに人間としての業も描かれている。川端康成らしい作品でもある。 また、この作品における市子は川端康成であり、川端康成の少年時代における同性愛の相手は清野である。それは川端作品"少年"で同性愛の相手が清野と名付けられていたからだ。それ以外にも川端は妻はあれど子供はおらず養生を迎えており非常に可愛がっていた。だからこそ市子も妙子とさかえを迎えて娘のように可愛がっていたのだろう。 おそらく川端康成は妻の秀子との愛の中に清野が混じり罪悪を感じた経験から市子にも反映させていると考える事が妥当ではないかと思う。 そんな川端康成の大衆向け作品だが面白いかどうかと問われたらどうかと悩む。川端康成が捉えた女性の内面と川端に潜む女性的にな感覚を知る事が出来る作品ではあると思う。
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