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浮舟
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@ukibune_1991
34歳/INTP 泉鏡花/川端康成/坂口安吾 ゲーム/アニメ/映画/音楽/小説/ファッション/香水
  • 2026年4月6日
    堕落論・日本文化私観 他二十二篇
    堕落論だけ解釈(長すぎるため) 坂口安吾の堕落論における堕落とは一般的な定義とされる「生活の規律が乱れ、品行が悪くなること」ではない。 堕落論における堕落とは、人間が人間の本能、気質を抑え付け、人間を操る為に作られた人為的な制度や価値観という虚飾から剥がれ落ち、又は自ら剥ぎ取り、それらに頼る事なく、自らの頭で考え、自らの足で歩いていく事を堕落と定義している。虚飾に生きる人から見ると、そのような人達は本来の定義における堕落している人のように見える為に、堕落論としたのであると私は思う。 それらは天皇制と武士道を通して書かれており、日本人は天皇制という制度を通じて自身の誇りと価値観を作り上げている。そこにはお国の為、天皇陛下の為という大義名分もある。また、武士道においては、「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」という言葉から分かる通り、生きたい、逃げたいという人間本能を抑圧する美学の制度である。 天皇制、武士道という二つの制度もまた、人間が共同体として世界、又は日本で藤原氏のように自己の利益を得る為に作られた制度であり、そこには人為的に作られた虚飾がある。日本人はその虚飾に依存する事で、安心感、誇り、価値観を得て自らの意思、本能から目を逸らしている。 それは坂口安吾が破壊に見た理想郷と同じようなものである。運命に従順で考える事を放棄した泡のような理想郷である。しかし、それら理想郷を打ち砕き、虚飾を剥がして自らの意思と本能を見つめて自ら考え、自らの足で歩いていく事が救いとなる。 なぜなら人は愚かで弱い。 天皇制や武士道のような制度に頼る事は束の間の安心感、誇り、価値観が生まれる。しかし、その虚飾が何かのキッカケで剥がれ落ちたとき、人は絶望してしまうからだ。 だからこそ、虚飾に頼らず、自らの意思と本能を見つけ、自らの頭で考え、自らの足で歩くいく事で、自らの安心感、誇り、価値観を生み出していく事が救いに繋がるのだ。 生きよ、堕ちよ。
  • 2026年3月28日
  • 2026年3月28日
  • 2026年3月28日
  • 2026年3月26日
  • 2026年3月26日
    山月記・李陵 他九篇
  • 2026年3月26日
  • 2026年3月26日
    春琴抄改版
    春琴抄改版
  • 2026年3月26日
    歌行燈/高野聖改版
  • 2026年3月25日
    小僧の神様 他十篇
    小説の神様と言われた志賀直哉の短編集。 志賀直哉の文体は現代小説のように簡潔で硬質、写実的な特徴がある。それでいて幽玄、もののあはれ、余白と日本美を表現出来ている事に天賦の才がある。 たとえば「城の崎にて」に登場する蜂・鼠・蠑螈のシーンでは、それぞれが死んだ事に対して悲しい、涙が出る、怒りが湧いてくるという表現は控えめに描き、淡々と生から死の過程、生と死とは何かについて考える描写が続く。 そこに読者は考える余白が生まれる。また、蜂が死んでいる、生きている蜂は気にせず変わらぬ日常を送っている。という描写から諸行無常、もののあはれを感じる。 それだけでなく、人間の業を描く事も上手い。「范の犯罪」に登場する范が妻を恨んでいるが、それを抑えるためにキリスト教を学ぶ。しかし、妻を殺してしまう。范は罪から逃れる為に事故と偽装するが、裁判官に偽装内容まで伝えてしまう。范にも殺意の在処が分からない。これは范が倫理と業の狭間で揺れ動き、范の言葉に出来ない心理を写実的に描いている。 このように志賀直哉は日本文学の歴史において、古くから続く日本の美を装飾的な文体で表現する技巧から、硬質で写実的な文体で日本の美を表現する技巧を生み出した天才である。 また、日本の美として正統な後継者は泉鏡花、谷崎潤一郎、川端康成だが、志賀直哉も違う角度から日本の美を表現しており、彼らと美の感覚は共通している。 しかし、志賀直哉の小説は神の如く視線であり、自らの苦悩や地獄から考え抜かれた哲学ではなく、あくまで知識の探究によって考え抜かれた小説であり、そこに血が通ってはおらず虚構であると言える。ただ、前述の通り技術と表現は間違いなく天才的だ。
  • 2026年3月25日
    水晶幻想/禽獣
    水晶幻想/禽獣
    川端康成の雪国、山の音、千羽鶴からは想像が付かないくらい物語の描き方が異なる。それは川端の新感覚派、そして新心理主義に挑戦していた時代だからである。しかし、晩年に通ずる虚無と非情の原点はここにある。その中でも特に気になった3作を書いておく。 「水晶幻想」 川端は万華鏡のような世界観を構築したのが水晶幻想。外界(不妊と現実)は一切変わらないが、妻の内面は激しく揺れ動く。不妊であるにも関わらずメイクをしている自分に虚無が現れる。しかし、発生学(命の誕生科学)で行われる人工授精に希望を見出したり、キリスト教における処女受胎と女王蜂を結び付け自然における処女生殖に神聖視を見出したりしている。 かと思えば、夫に抱かれた腕に孤独を感じる事もあるが、発生学研究から連なる犬の交配ビジネスで得た金銭でメイク道具を購入しようとする。 このように不妊という現実、つまり外界は変化しないが、妻の内面には激しく感情の渦が万華鏡のように現れている。 つまり水晶幻想は妻の内面をイメージの連続として描かれており、それはシュルレアリスム的(イメージの連続)であり、キュビズム的(時間軸と多方面の心理)作品でもある。 また、川端康成が32歳の時に、新感覚派から新心理主義に移行している時に書かれているが、晩年に書いた山の音とも似ている点がある。水晶幻想は外界は静止しているが内面は激しい。しかし、山の音は外界は激しく動き、内面は静寂であり、虚無の底に沈んでいる感覚があり、そこに繋がりを感じた。 小説としては難解であり、ストーリーとして崩壊しているが、イメージは流れてくる為、映像小説的な感じで読めました。ただ、僕は普通の小説の方が好きかなと思った。 「禽獣」 人間の普遍的な心理の移ろいを描いている。 人は美しいと感じた人や動物、物に対して自由を奪い支配しながら管理下に置きたいという欲求がある。 それは恋人、ペット、購入物全てにおいて変わらない。 やがて熱狂していた心は鎮まり無関心へと移ろいでいく。生々しい打算や情愛が剥がれ落ちていく先には無機質な無関心が待っている。熱狂から興味を失う忘却へと変化する過程は心理的な殺害に等しい。 そのような人間心理にある非情を的確に表した作品が禽獣であると感じた。 「青い海黒い海」 生と死の概念を海の色として投影した作品となっている。これも情景と感覚の連なりであり、自己意識を海の色に投影する事で心中相手との世界の一致と不一致を探り、その一致しない事実に苦しむ作品となっている。それは意識は途絶えた瞬間から永遠に進まず同化する考え方であり、永遠に同化出来ないと思い込んでしまう事から現れる苦しみでもある。その生と死の意識の狭間における描写を青い海と黒い海で見事に表現しているが、川端康成にしては論理的だなと感じた。でもこの作品は好きですね。
  • 2026年3月22日
    少年
    少年
    川端康成の少年時代について日記を元に書かれた小説形式のエッセイ。 川端の青年期から現在に至るまでの美学や価値観が詰め込まれている。川端は16歳で全ての家族を失い親類に育てられた為、孤独に苦しみ愛を求めていた。 幼少から、世間並みではなく、不幸に不自然に育って来た私は、そのためにかたくななゆがんだ人間になっていじけた心を畸形(きけい)と思うのが返って私をその畸形から逃れにくくもしていたようである。114p とあるように、自身でも歪みを感じて苦しんでいた。しかし、同性愛の清野の出現によって、川端に新たな価値観が生まれる。 清野は川端を尊敬しており、川端の全てを全肯定する事で、川端は安らぎと共に自由を得た。それと同時に清野に近づく人達に激しい嫉妬と怒りを齎す事もあった。 また、清野を愛していた川端だが、19歳の時に初代も愛してしまう。そのどちらに対する愛と裏切り行為は川端作品の中で人間の業として描かれていたりもする。 このように清野との出会いにより川端康成は人間の純粋な一面、支配欲、嫉妬、怒りを学び、初代との出会いから愛と裏切り、人間の業を学びそれが作品に昇華されているのだろう。 実際に川端康成は"川端初恋小説集"で初代の事についていくつも形式を変えた小説を連続させており、清野についても"女であること"に登場させて想いを馳せている。 そのような川端康成の原点であり、価値観が詰まった一冊だと私は感じる。
  • 2026年3月22日
    女であること
    女であること
    タイトルにもある通り、女であるとはどういう事であるか、市子、妙子、さかえを通して描かれている。 市子は子供が出来ず過去の男を思い出して懐かしみながらもその気持ちを抑えて夫と愛を育む。しかし、そこに罪の意識があり、それと同時にさかえに嫉妬しながら女という性質が顕になる。 妙子は殺人犯の子供という業の中で幸せになってはならないという罪の意識を抱えながら、それでも思い人に胸を馳せながら幸せを掴み取ろうとする。しかし、殺人犯の娘という立場に囚われ続けて葛藤し続けてしまう。そこには女であることと、殺人犯の娘という複雑な関係性が見られる。 さかえは女は嫌いと言いながら最も女らしく佐山に近づき市子や佐山を嫉妬させたり、市子に嫉妬したりと周りを掻き乱していく。自由奔放に振る舞う姿こそ魔性の女であり、1人の男性に愛されるという一種の檻に身を移す事はあまり考えられないのだろう。そのような女性らしさが分かりやすいさかえだが、素直すぎる故に周りは理解出来ずさかえも苦しんでいる。 このようにそれぞれの女性が考える内面を描いた作品である。しかし、川端康成のエッセンスが薄められているように感じられた。調べたところ大衆向けに作られたと聞いて確かにと納得した。 雪国、山の音、千羽鶴では罪と業により苦しみながら身近な人が死んでいくシーンがあるが(雪国には無い)、そこまでは描かれていない。 ただ、市子は過去の男、さかえは佐山、妙子は有田と求めるも届かない哀しさや哀愁という幽玄が宿っている事もたしかであり、それぞれに人間としての業も描かれている。川端康成らしい作品でもある。 また、この作品における市子は川端康成であり、川端康成の少年時代における同性愛の相手は清野である。それは川端作品"少年"で同性愛の相手が清野と名付けられていたからだ。それ以外にも川端は妻はあれど子供はおらず養生を迎えており非常に可愛がっていた。だからこそ市子も妙子とさかえを迎えて娘のように可愛がっていたのだろう。 おそらく川端康成は妻の秀子との愛の中に清野が混じり罪悪を感じた経験から市子にも反映させていると考える事が妥当ではないかと思う。 そんな川端康成の大衆向け作品だが面白いかどうかと問われたらどうかと悩む。川端康成が捉えた女性の内面と川端に潜む女性的にな感覚を知る事が出来る作品ではあると思う。
  • 2026年3月19日
    川端康成初恋小説集
    川端康成の初恋相手伊藤初代との出会いから別れまでの間を描いた短編小説の物が大半を占めているので、同じような小説が連続しています。 川端がどれだけ初代の事が好きで引きずっていたのかよく分かります。 川端が初代に惹かれた理由として、13歳と幼く純粋性と美しさを兼ね備えていながら、初恋も孤独であり、川端の境遇と似ていた点にあると思います。 また、川端は16歳以下の女性に拘っていたようで、それは子供時代に子供らしい事が出来なかった思いから、16歳以下であれば2人で子供に戻れるのではないか、子供らしくいられるのではないかと考えていた事に起因します。川端は初代自身も子供時代を取り戻したいと考えているのではないかと推察していたが、初恋の考えは分かりません。 川端にとって初代との結婚生活は一筋の希望であり、初代も孤独な身だからこそ2人の幻想世界を夢見たのでしょう。 また、そんな子供時代を取り戻せると思っていた初代との結婚は破綻となり孤独に戻ってしまいますが、その希望から絶望への落差から孤独の闇が一層深くなり、忘れられない輝き(初代)が心に強く現れて少女の純粋性そのものを神格化したのだと思います。 川端が求めた子供回帰は果たされず、少女の純粋性に対する執着と自己の孤独を極めた結果、ただ美しい者を見つめる魔界の眼を獲得したのだと思います。仮に少女と結ばれても年老いた川端では子供に成り切る事は出来ませんからね。 その美しい思い出と純粋性への執着から伊豆の踊り子、眠れる美女、みづうみという作品に繋がったのではないでしょうか。 川端康成初恋集は面白いとは思いませんが、川端康成の原点を知るには良い作品かと思います。
  • 2026年3月11日
    顔のない裸体たち(新潮文庫)
    平野啓一郎は分人主義という概念を作り出したが、この作品にも当て嵌まる。分人主義とはあらゆる人間関係の中で、自己は相手によって対応を変化させるが、自己の中心には本心があるという考えが定説となる。しかし、分人主義という考え方において、自己の中心に本心は無く、相手によって対応を変えている自分もまた、本当の自分であり本心なのだ。という考え方である。 主人公の吉田希美子(ミッキー)は教師とネットの自分を分けて考えていたが、写真や動画を通して同一人物だと実感する。それは2つの顔がどちらも自分だという分人主義に当て嵌まる。この描写にはSNS社会に生きる者は思い当たる節があるのではないだろうか。 また、吉田は普通の人間であり、片原は歪んだ人間である。その歪みから吉田も変容していく過程が描かれている。普通と歪みという性質では歪みに引っ張られるのだろうか。 そして歪みから生まれた衝動は性に向けられているが、人によって衝動の方向性は様々である。例えば政治情報を精査せず偏見でバッシングを続ける人や、宗教にのめり込む人などあらゆる方面にいる。それら歪さも普通の人を引っ張る性質があるのだろう。 この分人主義を確立する前の実験的な作品は、写実主義の技法を用いて、分人主義というシステムから現実とネット空間、普通と歪みという対比構造を生み出し、哲学的な問いを投げかけているように私は感じた。 ただ、面白い作品かと問われたらうーんという感じではあるが、純文学とはそういうものなのだろう。
  • 2026年3月9日
    小泉八雲集(新潮文庫)
    小泉八雲ことラフカディオハーンの小説。 日本昔話でも主に怪談と小泉八雲から見た日本人について書かれており、雪女からろくろ首、耳なし芳一まで沢山書かれている。 幽霊、死霊、生霊、妖怪まで種類豊富で良い話から悪い話まで描かれており、昔の日本人がどのような美意識と価値観を持っていたのかが良くわかる。 また、上田和夫氏の翻訳は読みやすいが少し平坦な為、難しくても平気であれば岩波文庫の小泉八雲翻訳第一人者である平井呈一氏であれば幽玄的感覚を立体的に感じる事が出来ると思う。 小泉八雲さんには日本の美を再発見してくれた事に多大なる感謝を感じる。 もしこの小説が気になっているのであれば、非常におすすめ出来ますよ。
  • 2026年3月9日
    小泉八雲集(新潮文庫)
    381ページまで読んだ。残りは60ページほど。 明日には読み終わると思われる。この小説は手放す事は無いだろうし定期的人読み返すと思う。そう考えると小泉八雲さんには感謝しかない。
  • 2026年3月8日
    小泉八雲集(新潮文庫)
    もう少し読み進めた。ろくろ首に雪女、耳なし芳一まで様々。小泉八雲ことラフカディオハーンさんが伝えてきたんだなと感慨深い。生霊に死霊、幽霊に妖怪。良い話から悪い話までギッシリだ
  • 2026年3月8日
    小泉八雲集(新潮文庫)
    日本昔話をまとめた小説。 昔は文字に魂が宿り、絵から描かれている動物が出てくるという概念に確かに!となったり、その頃から生霊もあった事に驚いた。 3分の1くらい読み進めたけど続きも楽しみだ
  • 2026年3月7日
    古都
    古都
    古都のあとがきにもある通り、川端康成が睡眠薬を多用していた時期であり、病院に運ばれ生死の境を彷徨い目を覚ますと、どんな物語を書いていたのか覚えていなかったらしい。 そんな珍しい作品ではあるが、古都自体も少し風変わりであり、川端康成の特徴である見つめる行為と極めて受動的な態度が主人公には無い。 雪国の島村、山の音の信吾、千羽鶴の菊治、眠れる美女の江口、彼等はみな主体的に動かず、相手を手に入れようとしない。しかし、古都では千重子が苗子に対して複雑な感情から養子として来ないかと誘っている。この主体的な行動が川端康成の中で異質である。川端康成の虚無の中にある温かさが睡眠薬によって表れたのか、それとも女性だから自己投影しなかったのか理由は不明である。 また、生き別れの双子である千重子と苗子には身分の違いがあり、教養も異なる。苗子の希望と身分の違いから生じる絶望の狭間にいつも通りの幽玄な世界が広がっている。 古都は温かさと切なさが同居している奇妙でもあり、複雑でもある不思議な作品だ。 またいつか読み返してみたいと思う。
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