スマホは辞書になりうるか

スマホは辞書になりうるか
スマホは辞書になりうるか
佐野彩子
吉甜
石黒圭
明治書院
2024年5月25日
1件の記録
  • 問題設定としては、スマホは辞書になりうるかというより、デジタルデバイスが現に辞書になっている状況下で、どのように学習をサポートできるか、という話に近い。だから議論は「学んでいる途中の外国語を検索する困難」にフォーカスする。スマホが辞書になるか、ならないかという議論ではなくて、もう検索行動自体が人間に不可欠なものになっており、この変化は不可逆的なので、その検索をどうすればより豊かなものにできるのかということに注目して進められる現実的な立場にはとても好感を覚えた。 ドイツ語話者が日本語学習のプロセスで英語を経由して検索することがある、という話の中で、日本語とドイツ語のあいだの辞書は精度が低すぎるので、という話が出てきた。ドイツ語の話はわからないけれど、フランス語と日本語のあいだの翻訳は、機械翻訳の場合、かなりあやしいところがある。一方で英仏や仏英はそれなりにきちんとした訳が出るので、英語が他言語と日本語のあいだを架橋する言葉になるというのは実感としてよくわかる。 仕事でも日常でも外国語を検索しなくてはならないことはしばしばある。よく知らない言語を検索するとき、既知の要素をつかって、検索ワードをすこしずつ集めていくことになる。英語で検索したり、英語版があるサイトを該当の言語の表示モードにしてそれらしい単語や言い回しを見つけてコピーしたりする。それらの検索はもちろんうまくいったりいかなかったりする。でも難しいのは、未知の言語や不慣れな言語は、その意味を把握しようとしたとき、たどりついた答えがどれくらい間違っているのか把握するすべがないことだ。人には自分で調べて見つけ出したことを正しいと思ってしまう(苦労を評価してしまう)バイアスがある。だから生成AIのハルシネーションのような形でなくても、人間も普通に過誤にたどりついてしまう。その誤り方は、ひとりで言葉にたどりつく検索の時代だから生まれるものでもあるだろう。 検索がどんな成功と失敗の体験を導くかという話は、新しいテクノロジーが新しい事故を生み出すというヴィリリオの議論を思い出す。そして私たちは常に新しいテクノロジーにからめとられ、新しいテクノロジーとともに生きてしまう。そのとき言葉には新しい間違い方が生まれていく。 「せいみあつみあいた過ぎる」が検索できない問題や、「甲乙」を調べたかったのに「かるめる」の読みが先に出てきてしまう問題、「taoreru」を検索しようとしたときベトナム語キーボードでは「taor」が声調記号の入力に解釈されて「tảo」になってしまう問題は、あたらしいデバイスならではのもので、とても面白かった。
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