構造としての語り・増補版
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くりーむ@cream2026年5月1日ちょっと開いたかつて読んだふと思い出した小森陽一の『こころ』論のところを、久しぶりに読みました。 『こころ』論争の発端となった評論であり、とても重要なものですが、それ以上にとても面白いです。 しかし、実のところ、この評論の面白さは、小森が外部から引っ張ってきた規範や考え方によっているような気がします。 具体的には次の2点です: 1. 「人は自己と他者、自己と世界との間に、真の意味での「繋がり」がなく、「余所々々しい」疎隔しか存在しないことに気づき、そのことを徹底して自覚し、疎隔された状態に耐え、自分とともに存在するようんあ他者との出会いへの希求を、切なる願いへと推し進めるなかで、はじめて脱-主我的自己を獲得し、他者との共感、〈他者―と―ともに在る〉ことに向かって開かれていくのである」(p345) 2. 「人は自分の死をたった一人で死ぬしかない。たとえ愛し合った者同士でも、親子であっても、他者の死をわれわれはどうすることもできない。人は一度生まれてしまった以上、自分のたった一人の死を死ぬために行きていくのだ。そこに「人間の何うする事も出来ない持つて生れた軽薄」がある」(p346) これらは強力な読み筋である一方で、この点の根拠を『こころ』内部に見出すことはできないようにおもいます。 このことによってこの評論の価値がなくなってしまう、ということは決してないとおもいますが、しかし、注意しておくべきだとおもいます。 また、小森はいくつかの概念を立てて論を進めるのですが、その中に、血の論理と家族の論理というものがあります。この2つの概念は、小森によれば等価なものであるとされるのですが、これは、小森自身の議論によって留保されることになるのではないかとおもいました。というのも、小森は、日本の家族においては、お互いを、子どもの視点から呼びあうことが一般的であるとして「逆に子を媒介にした呼称は、夫婦の関係を引き裂いていくことにもなる。夫と妻の、一対一の人称的関係が崩れていくのである」と論じます。この議論は、「血の繋がり」という観念に対しても、同様に展開することができるはずです。つまり、「血の論理」というものもまた、夫婦を引き裂くものにほかなりません。してみると、血の論理と家族の論理というものは同じということができるのか怪しいとおもいます。この等式のもとでは、家族の論理において、夫と妻は常に引き裂かれたものでなくては、ならなくなってしまいますから。 寧ろここでは「家族の論理」というものに期待される、無根拠で無際限な情緒的なつながり(これは、歴史上いつもあったわけではないはずですが、少なくとも70年代ごろにはあったとおもわれます)によって、「血の論理」が「無前提の信頼」と結びつけられているのではないでしょうか。意欲的な(別の言い方をすれば「危険な」)考え方ですが、寧ろ、小森の読解は次のように敷衍することもできるようにおもいます。すなわち、「血の論理」というのは、ごく親密な一部の人間関係を、子を中心としたものに整理するシステムであり、そこでは、夫婦というものは引き裂かれるものであったが、『こころ』を通じて、「血の論理」でない「家族の論理」、静と「私」の間に生じた「心臓の論理」としての「家族の論理」の可能性が開かれているだ、と。 当然この議論は、小森からすれば、家族なる概念への後退だとおもいますが、しかし、家族という概念が現代においては(おそらく80年代ほどには)強力に振る舞わないということを考えてみると、どうにも家族なる概念の再構築を模索しなくてはならないようにおもっています(というかそれは、抽象的なレベルでは私の問題意識のひとつです)。
