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@cream
にゃんにゃんもふもふ。
  • 2026年2月17日
    キノの旅 the Beautiful World(1)
    キノの旅 the Beautiful World(1)
    (承前)『キノの旅』っていい感じの世界観ですけど、その設定一つ一つや、記述の一節一節をみていくと、ひっかかるところが屡々あります。だいたいよくわからないのだけど、いつかよくわかるようになりたい☆、です。
  • 2026年2月17日
    キノの旅 the Beautiful World(1)
    キノの旅 the Beautiful World(1)
    久々に読みました。もう長いこと、読んでいませんでした。 何度だって読み返したくなる・読み返すたび発見がある作品を、名作、或いは古典と呼ぶのなら、『キノの旅』は間違いなく、古典であり名作だと呼ばねばなりません。 その意味で、以下にはネタバレを含みますが、これによって、この作品が毀損されることは全くといってよいほど「ない」と信じます(とはいえ、初読の楽しみを否定するものでもありませんが……!)。 ~~ 今回気になったのは、第六話「平和な国」です。一見平和に見える国。かつて隣国との戦争に明け暮れていたが、もう15年も争っていない国。その平和の正体は、自国及び隣国の間の直接の「力比べ」ではなく、その境界地域に暮らす人々「タタタ人」を虐殺し、その死体の「重量」を量ることによって「戦争」の「勝敗」を決することで、「自国民 / 敵国民」は命を落とさない、ということにほかなりません。 キノは、この「新たな戦争」の「提案者」である歴史資料館の館長に、「殺されるタタタ人達はどうなりますか? 彼らにも生活があって、家族があると思うんですけれど?」と問います。これに対して館長は「平和には犠牲が必要なのだ」等と述べたあと、「あなたがもう少し歳を取れば、今のわたしの気持ちが分かりますよ」「あなたがあなたの子供を宿して、その子のぬくもりを自分の中に感じたときにきっと」と言います。 端的に言って気持ちが悪いのですが、少しだけ堪えて、ちょっと違った見方もできるかもしれないとおもいました。おもいましたが、まとまりませんでした。 あとは、この「戦争」が、単に虐殺した人間の数を競うのではなく、重量で勝負するということにも注意が必要だとおもいます。つまり、すでにこの「戦争」の存在それ自体が、タタタ人を選別された存在として扱っているのみならず、その中にも区別を設けています。命にも「得点の高い命」と「得点の低い命」がある、すなわち、命の「軽重」を量っているのだということです。
  • 2026年2月16日
    フロレンスキイ論
    表紙があまりにも綺麗です。深いというべき色ですが、単に黒が色を深く見せているのではなく、青そのものが深いです。 第一部 フロレンスキイの生涯まで読みました。 悲劇的、というべき最期を遂げるフロレンスキイですが、その生涯をまとめたたった60ページのテクストを読んだだけですら(尤もそれは、著者の力量のなせる業にほかならないのだけど!)、かれの類まれな才覚や世界への親愛の視線が感じられる、魅力的な人間だとおもいました。
  • 2026年2月15日
    給食の歴史
    給食の歴史
    (承前) 「双方向的」と括弧付きで書いたのは、とうぜん、ここに挙げた関係性には力関係・支配関係が存在しているわけなので、対等な双方向関係でないからです。 とはいえ、構造的な力関係に注力するあまり、相対的に劣位に置かれるものの「抵抗」や「戦略」が後景化してしまうことには注意を払わないといけないとおもいます。そのような観点から書かれた本だ、とちょっと踏み込んで言ってみてもいいのかもしれない。 塚原伸治さんの祭り論とかもそんなことを言っていたような気がします。たしか、ナカニシヤ出版のやつです。
  • 2026年2月15日
    給食の歴史
    給食の歴史
    その名のとおり、給食の歴史についてです。 扱われる観点は主に5つあって、 1. 子供(及びその保護者の)貧困対策 2. 災害との関連 3. 社会運動としての側面 4. 教育・訓育としての機能 5. 国際的な覇権争いのなかでの位置づけ だとおもいます。 給食は、戦争及びそのための青年体位の向上が、直接のきっかけとなって実施されることがおおいようである。また、日本の戦後給食は、アメリカが日本国民を舌から馴致する或いは統治・治安維持の側面を持って始められたことは確かです。 一方で本書で確認されるのは、給食というものがある上位者からの一方的な押しつけとしてだけ発展してきたのではなく、「給食を食べるものと作るもの」「給食を作るものと食材を作るもの」「制度の上で給食を実現するものと制度を作るもの」「食材を輸入する(受け取る)ものと輸出する(わたす)もの」( 国家)という重層的な関係性のなかで、絶えず交渉が繰り返され、「双方向的に」給食の経験が作り出されてきた、という側面にほかなりません。 たとえば、給食を考えるものは、システムに則ってただ作るのではなく、工夫を凝らし、並々ならない努力を重ね、子どもたちに給食を届けてきたし、給食を受ける子供も、時には給食を家に持ち帰り祖父母や兄弟に分け与えるなど(それ自体がいじらしく、また、かなしいのだが)、給食の意義・その体験を創出してきました。 藤原はこのような点に注目して、給食がよりよいものに展開していく端緒を見定めているような感じがあります。それは、主体性を見出し・光をあてる試みだと言ってよい。こういってしまうにはちょっと書き方が大味ですが、給食のエスノグラフィーといいたくなるような一冊でした。
  • 2026年2月15日
    わが闘争(上)―民族主義的世界観(角川文庫)
    『帰ってきたヒトラー』を観て、流石にもはや尻込んでいるべきではないにゃあ、とおもい、とりあえず最初の20ページ分だけ読んでみました。
  • 2026年1月29日
    人生の短さについて 他2篇
    内容とは全然関係ないですが、光文社古典新訳文庫って、文字が大きくて読みやすいし、訳文もやさしいし、本の手触りもいい感じなので、めちゃくちゃ好きです。
  • 2026年1月29日
    人生の短さについて 他2篇
    気分の悪い文章だった。或いは、気味が悪いという言い方をしても、よいかもしれない。 人間の生き方に対する観察は非常に優れていて、なるほど、とおもわせられる記述も多い、たとえば、(人生が「短く」あるような)「彼らは、夜を願って昼を失い、朝を恐れて夜を失うのだから」「このような人たちの楽しみは、それ自体が不安に満ちており、」「楽しんでいる真っ最中に、不安な思いがよぎるのだ――「これが、いつまで続くのだろう」と」なんて言われてしまうと、唸らざるをえない。 しかし、それらの観察事項は、それ自体として吟味されるのではなく、すべて「望ましき精神的生活」 (これがまさに「生きること」の意味内容である)からの距離で断罪されてしまっているのが、気分が悪い、です。 とはいえ、このあたりについてはどうも不徹底というか、捻れている議論も多いので、真面目に読んだら意外とおもしろい可能性も、感じます。
  • 2026年1月28日
    デリダ 脱構築と正義
    2章をよみました。なかなか難しいです……。 ちょっと私の理解をまとめてみようとおもいます: まず、著者によれば、デリダは形而上学というものを、「概念を分割ししかも一方を優位に、もう一方を劣位に序していく」システム、或いはそういった欲望の体系とみています。 このような形而上学は、いくつかの特徴付け (ここでは典型的な現れ方) をもちます: 1. ロゴス中心主義 ... 論理性・概念性を重視する考え方であり、それはパロールかどうかに結びつく 2. 音声中心主義 ... 文字に対する声の優位(私には、ロゴス中心主義のひとつの実現・手段であるようにみえる) 3. 現前の形而上学 .. あるものが現前的であるかどうかによって優劣をつける考え方(当然、なにが現前的であるかどうかの意味内容は時代によって変わるが、その基本的発想は同じとされる) 4. 存在 - 神 - 目的論 ... 現前性の強度による体系(つまり神が最強に現前的であり、そこへ向かう(目的とする)ものをよしとする考え方) 5. 男根中心主義 .. 4 において神 = 父としたとき、それとの距離で優劣をつける考え方(父と近いか否かは、男らしいか、という言葉で屡々表明される) 以上の典型的な現れ方は、互いが互いを根拠付け合うようになっています。 デリダはこのような形而上学を批判します。その論拠は、「差延」という不可避的な一種の運動におかれます。差延とは、純粋な自己(だとおもわれているもの) = 優位に置かれるものには、つねにすでに、他者 = 劣位に置かれるものが入り込んでおり、決定不能な差異が絶えず生み出し続けられている、という運動・生み出(うみで)のダイナミズムのことです。 これによって、純粋性 = 疑いようもなく・いま・ここにあること = 現前性は決して実現し得ないものになる、というのがデリダの言わんとすることです。 以上が私がまとめた2章の議論です。 つねにすでに他者が入り込んできている、ということについては比較的丁寧かつ具体的に議論がなされているようにおもいます。 また、つねにすでに入り込んでいるのとは異なる、第3項というべきコーラについても注意が払われています。
  • 2026年1月26日
    デリダ 脱構築と正義
    デリダ本人が書いたものはよくわからなかったので、高橋哲哉先生の解説書を読もうとおもいます。いまプラトンの話が展開されています。
  • 2026年1月19日
    【増補決定版】「自己決定権」という罠
    著者は、いのちをどう思っているのか気になりました。基本的に、ビオス=生き方重視を批判する立場ではあるとおもうのだけど、では、ゾーエー=生きているということそのもの・生物学的生を重視する立場なのか、それとも、そのような二分法を批判しているのか。個人的な印象としては、前者なのかなあ、とおもいます。
  • 2026年1月17日
    see you again
    レポートやらセミナーやらが立て込んでいて、読む時間がない( ;꒳​; )!。早く読みたい〜泪。
  • 2026年1月16日
    イスラエル=アメリカの新植民地主義
    イスラエル=アメリカの新植民地主義
    イランにかんする論考を3編だけ読みました。 ダバシはかなり民主主義とか国民国家というものに絶望しており、その枠組みによるイスラエルについても、(一般論に依らず)厳しいだろうと考えているようです(イスラエル国家内部の矛盾がもはや修復できず、内側から壊れてしまう、という見方をしています)(たぶん)。 しかしこの議論を見ていると、日本も同じ道を歩んでいるように、見えますけども……。
  • 2026年1月15日
    デリダ、脱構築を語る シドニー・セミナーの記録
    デリダ、脱構築を語る シドニー・セミナーの記録
    デリダの思想って断片的にしか知らないです。
  • 2026年1月12日
    性的であるとはどのようなことか (光文社新書)
    一点だけ、疑問を述べます: 著者は、えっちさにおける、「距離が、根本的に埋められないことも経験する」ということについて、しかしこれは、哀しみであると同時に「知る喜び」を併せ持つのだ、と論じています。 それは確かにそうだとおもう。 著者はさらに展開して、「謎めき」をもつということが一種の徳なのではないか、というところに至ります。 たしかにこれも、説得力がある。 一方で、これらの判断を根本的に支えているのは、何かを知るということを至上の喜びとする感性なのではないか、という気もしてしまいます。つまり、謎めくということが、或いは距離が埋められないという経験がもつ喜びは、実は一般には、限定的である可能性があるのではないか、とおもっています。 この疑問は、近年の(ひょっとしたら伝統的な?)反啓蒙的な言説をみていると、真実であるということは(そして、何かを知るということは)、それほど価値あるものとしてみられていないんじゃないか、という気がしてくる、という経験に根ざしています。どうなんでしょう。
  • 2026年1月12日
    性的であるとはどのようなことか (光文社新書)
    著者はまず、えっちさに2つの根本的な分類があると論じ、一方を、崇高のえっちさ、もう一方を、崩れのえっちさ、と呼ぶ。 えっちな経験においては、両者が同時に作動していうるが、基本的には、前者は憧れの感情に結びつき・同化することを求め、後者は共苦に結びつき・ともにあることを志向する説明される。そのうえで両者は、 1. (謎をもった・理解不能な)他者との距離が経験されること 2. その距離が、根本的に埋められないことも経験すること の2点を共有しているのだと、論じる。 この関係をベースに、著者はえっちであることとエロいこと(微妙に用語法が違うのだが)の区別に言及している。以下、引用する: 「エロティックさに対して、えっちさとは、境界にとどまることだ。それは境界を超えないと願わせる力であるが、しかし、境界を飛び越えるような思い切りのよさ、身軽さはない。そこには、どうしても境界を超えることができない重さと、それゆえの影がある。ゆえにえっちであることは、連帯ではなく停滞である。それはともに手をつなぐことができないことをむしろえっちがり、祝福し、讃える態度だ。」(p.188) これには喰らってしまった。本を読んでいてパンチを喰らうことって、めったにないのだけど、あまりにも図星だとおもった(私が、エロいではなく、えっちという言葉を用いることにかんして)。とうぜん、これで両者の違いのすべてが尽くされたとはおもわないが、しかしこれは核心をついているように、私にはおもえました。
  • 2026年1月12日
    性的であるとはどのようなことか (光文社新書)
    第二部を読み始めました。 第一部は、性的なもの(例えば性的な広告)はなぜいけないか、が分節され細かく論じられており、なるほどなあとおもうところが多くありました。 しかし、第二部の面白さは、第一部のそれと比べ物にならない、です(とうぜんこれは、私の趣味が関係しているともいえるとおもいますが)。 たとえば次のような一節があります: 「そしてしばしば、オーガズムを迎えることと死は類似したものとして扱われるし、様々なポルノグラフィやフィクションでも、オーガズムは絶命になぞられられてきた。これはおかしなことではないだろう。絶頂とは死のミニチュアである。死が自他の区別を消し去る喜びなのだとしたら、死なずして死ねる機能をオーガズムが果たしてくれる。フランス語ではオーガズムを「小さな死(la petite mort)」と呼ぶそうだが、ことの次第をよく表している。」 全体的にとても饒舌で、読んでいて楽しい、です(私がそう感じるだけかもしれないが)。
  • 2026年1月12日
    性的であるとはどのようなことか (光文社新書)
    性的であることと、えっちであることが、区別されました。
  • 2026年1月12日
    ハンチバック
    ハンチバック
    印象的な2つの記述を取り上げてみます: 「気管カニューレというプラスチックの異物が喉に突っ込まれている限り、粘膜は勝手に戦うし、設計図を間違えている呼吸筋はまともな噴射力のある咳すらできない。」(p.19) 「あらかじめ手許に用意しておいた銀行員でミシン目に割印して小切手要旨を切り離す。親の遺産を馬鹿みたいなことに使う罪悪感で手が震えていた。」(p.53) 前者から考えます。気管カニューレは、端的に言って、呼吸を保つため・生きるためにつけているはずです。しかしこの記述によれば、それは異物であり、かえって痰を生じさせることになる。こうして、生きるために・或いは生きることによって、望むと望まないとにかかわらず、痰が生じ、その息苦しさは、釈華に痰の吸引をさせることになります。痰の吸引は、象徴的な一つの行動のように見えます。小説全編を通じて、釈華は、己の意思とはほとんど関係なしに、特定の行為をするようになっています。それは、粘つく痰・精液のイメージが作り上げる文学的質感と相まって、自由ではないこと・特定の状態がひっついてきて、それに引きずられること、といった、粘性のある人生、とでもいうべきもののありようを描き出しているようにおもえます。 後者についても、その手の震えは、明らかな躊躇・恐れであるにもかかわらず、そのことは一切顧みられることなく、釈華と田中の間の交渉は展開することになります。ここについても、己の意図とは一切関係なしに、特定の行為が特定の意味をもち(たとえば、小切手を取り出せば、それは契約の意志を表象する)、さらなる行為に向かって、釈華を引きずっていくことになります。ここにも、不自由さ・粘性・或いは引きずられることの実相が、描かれているように、みえます(とうぜん、罪悪を振り切って何かをするということが一種のカタルシスをうむのだ、という主張は尤もですが、『ハンチバック』については、少なくとも文章中からそれを読み取るのは困難におもわれます)。 つまり、『ハンチバック』で描かれている生というのは、粘性のある液体に絡め取られるようなものであり、しかもその粘りは、生きていることにほとんど必然的に付随しています。 小説中では、本を読むことと身体の関係についての訴えが、何度も繰り返されます。これはそれ自体として真っ当な主張であるであるとおもいますが、ある行為は、純粋にその行為ではありえない(読書は、単に頭を使うだけの行為でなく、目の・指の・肩の・腰の・腿の・膝の、行為なのである)ことを鋭く批判しているという意味で、前述した粘性と基本的なモチーフを共有しているように、私には感じられます。 こういった粘性は、「他人の人生に巻き込まれていくどうしようもなさ」という意味で、釈華と紗花の間の関係についてもいえることだとおもいます。ここで重要なのは、紗花は釈華に対し一定の距離を保ちながら(可哀想だとか、そういった感情「移入」はしていない)、しかし釈華のことを想起する、という関係にある、ということです。粘り気のある沼に一挙手一投足ととられるなかで始めて生じた、ケア = 気にかけることの関係。それはケアだということをもって、一種の徳と言えるのかもしれませんが、釈華と紗花の実際に置かれている状況を考えれば、諸手を上げて礼賛することは難しいようなケアです。沼の中、泥に足を取られているときしか覗くことのできない涅槃、といってもよいかもしれません。生を引き受けるということの重みが底に現れているということもできるでしょう。この意味での両義性が、本作の最大の文学性なんじゃないか、とおもいました。
  • 2026年1月11日
    山田わか 生と愛の条件
    ここの TL に流れて来たため。序文、のみ読みました。 序文はなかなかおもしろい主張から、始まっています。ちょっと書き抜いてみます: 「... さらには、相手のからだを求める強烈な衝動は、制約が効かない強権的な遂行を生み出し、こころとからだを時として暴力的に奪い去る。」 雰囲気としては、なかなか納得感のある一文です。 しかし、「強権的な遂行」という語は、注意して読まなければならいないように、感じられます。 強権的なという形容がなされているように、これは、〈行為者が意図するか否か・実際に何が行われているかにかかわらず、あるものが生み出される〉ということを言っているのであり、パフォーマティヴィティと、片仮名を使って名指されるような遂行にほかなりません。 ひょっとすると、行為の遂行性の様相を明らかにすること・またそれを乗り越えるにはどのような試みがあり得るか、などの観点から読んでみると、おもしろいのかもしれない、とおもいました。(この直観が実際にただし「かった」のかどうかは読み終わってから判断しようとおもいます。) また、序文には、「教訓」という言葉がおそらく3度、同じ意味をもって使われています。極めて素朴な感覚ですが、「教訓」という考えの枠組みは、それだけで、対象の生を「教訓の範疇」の中に押し込める機能をもっているんじゃないか、とおもわれます。ここでいう教訓というものがいったいどのような内実を持つのか、注意しながら考えていきたいとおもいます。
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