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  • 2026年6月28日
    色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年
    あとは灰田の問題もあります。 それは、多崎つくるが灰田の口に射精したことだけが問題なのではなくて、半同棲生活あたりから、えっちすぎる感じありましたし……。
  • 2026年6月28日
    色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年
    よくわからん、むずーい、という感じです。 とはいえ、おもったことをきちんと書いておこうとおもいます。 ―― ミステリ的な側面があるので以下ネタバレ注意です ―― 本当にわかってないので構造とかそういう話はしないで、雰囲気だけ書きます。 多崎つくるという人物は、調和や自律的なシステムみたいなものがどうも性に合っている或いはそういうものに惹かれているのでしょう。 それは、5人のケミストリーであり、水泳であり、駅の人流です。 このような、複数の成員が一つの全体的なダイナミクスを作り上げているような状態を統合性があるということにします。 この作品にはある一つの根本的恐怖が横たわっているようにおもえました。 それが、統合性が脅かされるということです。 これは成長に不可避的に伴っているのだということも、この作品には描きこまれているようにおもいます。 それは、多崎つくるが、死への取り憑かれから復活したとき、それまでの自分とは打って変わってしまったことに関係しているし、シロが「性的なものを嫌悪していた」というのもこのことに繋がっているように直感されます。 真っ暗な海に放り込まれるような感覚、それは、アカや多崎つくるが表明した感覚ではあるけれども、例えばシロにとって無縁のものだったとはとてもおもえません。 「……なあ、こういうのって大いなるパラドックスだと思わないか? おれたちは人生の過程で真の自分を少しずつ発見していく。そして発見すればするほど自分を喪失していく」 発見は、自分から進んで見つけるだけではなく、外側から(或いは内側から)もたらされてしまうものであるということもあるだろうとおもいます。そういった、自己の喪失のありようが描かれているように私には感じられました。
  • 2026年6月14日
    ベル・ジャー
    ベル・ジャー
    もっと直接の感想も書いておきます。 エスターが精神病になるところが本当に辛かった。特に10章。周りにいる人間のすべてが、自分に対して悪意を持っているんじゃないか、という「妄想」が出てくるのが、本当に苦しい、生きてゆけない、という感じだ。
  • 2026年6月14日
    ベル・ジャー
    ベル・ジャー
    それと、本文で明言されている以上に、『ベル・ジャー』では、「女の子」たちに対する性的な視線が文章に表れていることも特徴的です。たとえば、「パジャマのこともあった――ドリーン以外の女の子たちは、夏用のコットンのパジャマとキルトの部屋着、或いはビーチでも着られるタオル地のローブを自宅から持ってきていたけれど、ドリーンは床まで届くくらい長い、ナイロントレースのすけすけのネグリジェを持ってきていて、静電気で体にまとわりつく、肌と同じ色のガウンを着ていた。少し汗っぽい面白い匂いがして、それを嗅ぐたびにわたしは、指でつぶすとムスクの香りがする、貝殻みたいな形のシダの派を思い出した。」 「男の子」たちの描写に、こういうものは、(少なくとも私が観た限りでは)みられなかったようにおもいます。 このあたり、『仮面の告白』に近い迫力を感じます。最後の植物の描写は、『飼育』にあったものにも近いように見えます。
  • 2026年6月14日
    ベル・ジャー
    ベル・ジャー
    『ベル・ジャー』は、「I am I am I am」というシリーズの第一回配本で、シリーズ名は『ベル・ジャー』に(2回)出てくる「I am I am I am」という一文 から取られているそうです。この文は、最初に、主人公のエスターが海で自殺しようとするところにでてきて、次に、同郷のジョアンの葬儀の終わりあたりに出てきます。非常に印象的ではあるものの、作品中におけるこの文は、いまひとつ、どういう言葉なのか、その射程が判然としない感じがあります。特に、2回目に登場する、ジョアンの葬儀では唐突な感じがかなり強いです。ジョアンの死・その埋葬のイメージを、突然に自分自身に引っ張り戻してくるように「わたしは、わたしは、わたしは。」という言葉が出てくるのですが、「ジョアン」と「わたし」がいかにして結びついているのかは、よくわかりません。ただ、この結びつきは、シンプルではないかもしれません。「I am I am I am」という言葉がでてくるとき、エスターは己の胸の高鳴り・心臓の鼓動を聞いています。それは、自己の思考の行き着く先・自問の終端となる言葉としての「I am」というよりは、寧ろ、エスターが世界を受け取ったときの、エスター全体にわたる反応に対する言葉としての「I am」である、と言ってもよいでしょう。その意味では、ここで出てきている 「I」 というのは、世界を感じ取る「私」、なのかもしれません。より積極的に解釈すれば、「私」に照射してくる世界を「私」と結びつけておくための言葉が、「I am」であるようにおもえます。エスターは、いくつかの自殺試行の末、「自分の体には、瀕死な状態になると手の力が抜けるというような、幾度となく体を救おうとする小さな仕掛けがいろいろとあることを知」ります。 エスターは、自分に向けられる女性差別(尤もそれだけではなく、自分が虐げられていると感じられるようなすべてについて)に敏感で、「わたしは打ち上げられる花火から放たれる色とりどりの色とりどりの矢」でありたいと願います。その「色とりどりの矢」であることと、世界を私に結びつけておくことは、無関係ではないように感じられます。 その一方で、エスターは、今で言うところのバッドガールで(50年代にそういう言い方があったのか、私にはわからないです)、決して、何色にでも染まることのできる純白な存在でないことは明らかです。上で述べたことと、このことのバランスは、あまりよくわかりません。とはいえ、エスターのバッドガールぶりは、最悪で最高、だとしかいいようがなく、そして同時に孤独なものです。「男の子」たちを自分が自由になるための徹底的な手段とみる発言、黒人やレズビアンに対する差別、年上の・面倒をみてくれる女性たちに対する「手をかけて影響を与えた代償として、わたしを自分たちみたいにしようとしてい」るという反発などなど……。そういう一種の青春小説として読んでみてもおもしろいです。しかし、明らかに『ベル・ジャー』は、背後にある社会的な状況を意識した作りになっているので、それだけでも物足りない感じもします。
  • 2026年5月6日
    「生きるに値しない命」とは誰のことか
    積んでたので。 第1部・ビンディングとホッへの『生きるに値しない命を終わらせる行為の解禁』の全訳部分を読みました。 第2部で批判的考察が為されるということなので、先に、私がおもったことをごく簡単に述べておこうとおもいます。論点はたくさんあるとおもいますが、2点に絞ります(内容の要約のため、精神障害に対する差別的な言説を含んでいます。ご覧になる前に、注意していただきたいです。)。 1. 経済的事情と「解禁」 ビンディングとホッへのどちらも、生きるに値しない命というのは、いつも終わらせなくてはならない、ということを主張しているわけではありません。しかし、2人とも、経済的に豊かではないということを理由に、このような「解禁」が行われるべきである、ということを主張します。そこには、現代の日本において、尊厳死が法制化(或いは終末期医療の制度「変更」)が行われようとしていることの論理と通底するところがあります。もっと穿った見方をすれば、経済的な事情をオブラートに包むかのように、尊厳の概念が出てきているようにさえ、見えてしまいます。 2. 「精神的に死せる者」とは ホッへは、ビンディングが「殺害の犯罪性に対する特別減刑」を考慮すべき者として「治療不能な知的障碍者」を挙げたことを受け継ぐ形で、それを批判的に展開します。そこでは、「精神的に死せる者」という言い換えを採用したうえで、その特徴づけの本質は「内側から主観的に生きたいと要求することもできないし、何らかの別な精神的な訴えを《示す》こともできない」(p90, 《》は引用者) ことだとされます。ここでは、結局のところ、精神というものを身体表面の、表面的動きの中――おそらくは言葉や表情といったもの――に見いだしているわけであり、一種の行動・行為主義的なところがあります。ここでは、精神とはなにか、といった本質的な問いが不問に付され、ごくナイーブなイメージが語られているといえるとおもいます。もっと積極的なことを言えば、精神→行動というプロセスの統合性に裏打ちされた「人間」なるものを前提にし中心化するというレベルでの精神至上主義が、底流しているようにおもいます。 著者らが、どのようにテクストに応答するのか、気を引き締めて読みたいです。
  • 2026年5月6日
    万延元年のフットボール
    万延元年のフットボール
    でもわからないんですよ~。鷹四のような生き方 ――或いは、次のように言ってもいい、「苦痛の総量を内部にぴったりと閉じ込めて、外側から覗き込む限りでは物静かに無表情だった猫の眼。その苦悶を自分の身の所有とし、他者に対しては完全に非存在たらしめていた猫の眼。あのような眼をして、自分の内部の地獄に耐えている人間」(p440)―― は、はっきり言って鮮烈な死の美学そのものだとおもうし、抗いがたい魅力・若しくは引力を備えているとおもう。 誰だって(でかすぎの主語)、そういう人生を夢想してしまうとおもうのです。私だって例に漏れず。
  • 2026年5月5日
    万延元年のフットボール
    万延元年のフットボール
    11章から面白くなります。 【以下ネタバレです。】(通常私は、物語のネタバレについては躊躇を覚えないのですが、この作品については、ミステリー的な側面があるので、ネタバレを注意しました。) さて、最終章では、鷹四が抱いていた曽祖父の弟への印象が、決して間違ったものではなかったことを裏付けるような証拠(地下倉)が発見され、蜜三郎は、鷹四の近親相姦の告白(*)を辱めたことを悔い、「自分たちの地獄を確認し、「本当の事」を叫んでそれを乗り越えた」(p.442)、それは「自分の identity を確認し、自己統一をとげ」(同)ることにほかならないのだと理解します。そしてその一方で、蜜三郎は自分にとっての「本当の事」を見極められないのだ、として己を曖昧で無力なものに感じます。 私はこのあたりに今ひとつ納得いかない感じを持っています。というのも、鷹四の犯した「罪」というのは、司法においてどの程度裁かれるかは別にして、道徳的にかなり許されない類のことであって、蜜三郎がそれを辱めるのは、少なくとも、本文で書かれていた程度のものであれば、流石に文句は言えないでしょう。それでも鷹四を詰ったことを後悔してしまうのは、蜜三郎もやはり、歴史とその解釈・或いは物語に見立てることで現実を解釈してしまう、鷹四の持っていた傾向を共有しているからのようにおもえます。おもえば、「肉体派の娘」の死についても、蜜三郎は、自分の構成した物語を軸に解釈を重ねていくのであり、蜜三郎と鷹四の間に、「肉体派の娘」の遺体が現れることはありませんでした。ここでも、物語が先行しているようにみえます。「物語」というものの魔力が蠢いているように感じました。これは、なにかに己をなぞらえること・一定のコンテクストに倣って行動することのレベルまで抽象化すると、なかなか広い射程を持ちうるとおもいました。 もっと素朴に、蜜三郎の後悔は自殺の神秘化であり、ともすれば、自分の地獄(それはこの作品の中では他人を「殺してしまう」ような暴力の経験!)を所持し、直視し、それでもって自殺するのでなければ、自己の一貫性というものを描けないという考えにも容易に転倒しうるもので、危ういのだ、という言い方もできるとおもいます(尤も、この作品の登場人物に感情移入しきれるひとがどの程度いるのかはわかりませんが)。 妻を「寝取られる」ということについては、もう少し、歴史的な視点を導入してみると、なかなかおもしろいとおもいました。1950年、当時の蔵相池田勇人は「日本はアメリカの妾である」という発言をしています。これに代表されるように、戦後の日本には、日本という国家が女 = 妻なのであり、国民は男 = 夫で、それを寝取られているのである、という構図の言説がしばしばあるようにおもいます(小熊英二『民主と愛国』を読んでの印象なので、どの程度正当化できるのかは定かではありませんが)。すると、このような言葉の慣習に乗っかって、蜜三郎という人物は、戦後の自意識とでも言いうるものの具象化と見えなくもないです。蜜三郎やその周辺のアジア太平洋戦争前後を貫く家父長制や帝国主義(外部に侵入していく運動(それは鷹四や曽祖父の弟の冒険性に通じる)の中に自己自身・その統一性・その保存を見出すヨーロッパの心!(竹内好によるヘーゲル理解を参照))は、そのまま、日本という国家を通底する家父長制や帝国主義を間接的に描写している、と読めるのかもしれません。 もう少し小さな、個別の人間のレベルの話として、(*) のことを考えます。鷹四にとっての「本当の事」というのは、恐らく、単なる近親相姦を超えるなにか、なのでしょう。ここで注意しておきたいのは、蜜三郎に言わせれば鷹四は「本当の事」を言って自分の地獄を直視して死んだ、ということになりますが、どうも鷹四と妹の間の関係をみるとそんな冒険性みたいな話ではないようにおもえる、ということです。鷹四は確かに、妹と性行為をするのですが、それは「欲望と恐怖心とで頭がやられて」いたことによるのであって、その後の「隠蔽」もすべて欲望と特に恐怖心によるもののように見えます。当然、最低なんですけど、これは決して、冒険心とか、或いは自発的な攻撃性によるものではない。むしろ、ここで描かれるのは、そこに存在していた「力関係」を利用している小心者としての鷹四です。このことを考えてもやはり、蜜三郎は物語を先行させてしまっているようにおもいました。 とはいえ、ここに挙げたものは、作品を最後の数章を中心に読むやり方なので、実はもっと前のところを中心にしてみることで、ガラッと印象の変わる理解ができたりするのかな、とおもっています。
  • 2026年5月1日
    構造としての語り・増補版
    小森陽一の『こころ』論のところを、久しぶりに読みました。 『こころ』論争の発端となった評論であり、とても重要なものですが、それ以上にとても面白いです。 しかし、実のところ、この評論の面白さは、小森が外部から引っ張ってきた規範や考え方によっているような気がします。 具体的には次の2点です: 1. 「人は自己と他者、自己と世界との間に、真の意味での「繋がり」がなく、「余所々々しい」疎隔しか存在しないことに気づき、そのことを徹底して自覚し、疎隔された状態に耐え、自分とともに存在するようんあ他者との出会いへの希求を、切なる願いへと推し進めるなかで、はじめて脱-主我的自己を獲得し、他者との共感、〈他者―と―ともに在る〉ことに向かって開かれていくのである」(p345) 2. 「人は自分の死をたった一人で死ぬしかない。たとえ愛し合った者同士でも、親子であっても、他者の死をわれわれはどうすることもできない。人は一度生まれてしまった以上、自分のたった一人の死を死ぬために行きていくのだ。そこに「人間の何うする事も出来ない持つて生れた軽薄」がある」(p346) これらは強力な読み筋である一方で、この点の根拠を『こころ』内部に見出すことはできないようにおもいます。 このことによってこの評論の価値がなくなってしまう、ということは決してないとおもいますが、しかし、注意しておくべきだとおもいます。 また、小森はいくつかの概念を立てて論を進めるのですが、その中に、血の論理と家族の論理というものがあります。この2つの概念は、小森によれば等価なものであるとされるのですが、これは、小森自身の議論によって留保されることになるのではないかとおもいました。というのも、小森は、日本の家族においては、お互いを、子どもの視点から呼びあうことが一般的であるとして「逆に子を媒介にした呼称は、夫婦の関係を引き裂いていくことにもなる。夫と妻の、一対一の人称的関係が崩れていくのである」と論じます。この議論は、「血の繋がり」という観念に対しても、同様に展開することができるはずです。つまり、「血の論理」というものもまた、夫婦を引き裂くものにほかなりません。してみると、血の論理と家族の論理というものは同じということができるのか怪しいとおもいます。この等式のもとでは、家族の論理において、夫と妻は常に引き裂かれたものでなくては、ならなくなってしまいますから。 寧ろここでは「家族の論理」というものに期待される、無根拠で無際限な情緒的なつながり(これは、歴史上いつもあったわけではないはずですが、少なくとも70年代ごろにはあったとおもわれます)によって、「血の論理」が「無前提の信頼」と結びつけられているのではないでしょうか。意欲的な(別の言い方をすれば「危険な」)考え方ですが、寧ろ、小森の読解は次のように敷衍することもできるようにおもいます。すなわち、「血の論理」というのは、ごく親密な一部の人間関係を、子を中心としたものに整理するシステムであり、そこでは、夫婦というものは引き裂かれるものであったが、『こころ』を通じて、「血の論理」でない「家族の論理」、静と「私」の間に生じた「心臓の論理」としての「家族の論理」の可能性が開かれているだ、と。 当然この議論は、小森からすれば、家族なる概念への後退だとおもいますが、しかし、家族という概念が現代においては(おそらく80年代ほどには)強力に振る舞わないということを考えてみると、どうにも家族なる概念の再構築を模索しなくてはならないようにおもっています(というかそれは、抽象的なレベルでは私の問題意識のひとつです)。
  • 2026年4月25日
    ポラリスが降り注ぐ夜
    読み返してみると、今の私にずいぶんと影響を与えた作品だと気づきました。 群像劇の感想ってどうやって書いていいかわからない、ひとりひとりにフォーカスするなら(そもそも、そんなことできる?)、この作品が群像劇である意味は、なくなってしまうかもしれないし、全体で起きていることを「綺麗に」まとめてしまうなら、それはきっとセクマイ「史」になってしまう、とおもいます。 どちらに振り切ることもできない、ということが、この作品が群像劇でなければならなかったということを最も強力に示しているとおもいます。 最後の短編は歴史の話、個々人と歴史、の話、だとおもいますけれども、歴史と個人をいかにして結びつけるか、という問題意識を放っているように、おもいます。 暁(あきら)というひとが中心のお話です。暁は中学卒業間近で2丁目にデビューし、大学生になったいまはレズビアンバーのポラリスでアルバイトとして働いています。店長の夏子(なつこ)はたぶん50代くらいでしょうか。夜明けの2丁目・Lの小道にひっそりと佇む閉店後のポラリスで2人がお店の片付けをしながら話をします。起きていることはそれだけで、紙幅の多くは、内藤新宿まで遡る2丁目の歴史(それは暁が卒業論文として調査し、まとめたものです)について割かれています。印象的なのは、暁と2丁目の歴史の間の繋がりは、夏子が媒介している、ということです。「夏子が時々、石塀越しに墓地の卒塔婆の群れに向かって合掌していることを、暁は知っている。墓碑銘も名前もないあの女たちこそが、新宿という街を繁盛させた功労者であることを思うと、彼女たちの失われた命が、今ここにいる自分につながっているような気がした。」 一方に大きな歴史があり、もう一方に個人史があります。これらはどちらも歴史ですが、一方からもう一方を導くのは難しく、ともすれば片方を空洞化させてしまうことすら、ありえるようにおもいます。己を歴史の中に放り込めば、(自分を含む)周囲の人間は消え去ってしまい、歴史の重力を否定すれば、「明日」も「今日」も闇の中でしょう。 この作品で提示されている回路は、自然と、私の眼を世代の問題へと向けさせます。『ポラリスが降り注ぐ夜』に於いて、年長者と年少者の関係はシンプルなものではないようにおもいます。同じような立場に立ったことがあるから寛容であれる、というわけでもないです。それはどちらかというと、「深い縦穴」で、香凜(かりん)と人生相談屋がであったような、全く偶然のもののようにおもわれます。『ポラリスが降り注ぐ夜』。道標となる北極星は粉々に砕けてしまって、降り注ぎ、もはや私たちは、同じところを目指してはいないが、しかしそれでも、個々の人間の出会いの中に、役割としてではない、ひとりとひとりの関係のなかに、歴史への回路がある、そういうふうに読みたくなってしまうのは、期待のしすぎでしょうか(たぶん、しすぎですね……)。 というのは、再び読んだ私の感想ですが、初めて読んだときは、たぶん、「五つの災い」に最も心を抉られたような気がします。それから、当時の私が唯一線を引いていた箇所も、記録として、引いておこうとおもいます:「神よ、お与えください。変えられるものを変えていく勇気を。変えられないものを受け入れる冷静さを。そしてその両者を識別する知恵を。」
  • 2026年4月23日
    〈民主〉と〈愛国〉
    7章を読んでいます。 当時の記述をいろいろ並べて見れて面白いです。 さて、現代に生きる人間としては、「無気力なパンパン根性」「日本はナショナリズムについて処女性をすでに失った唯一の国」(丸山眞男)、「まだ内灘は清純な処女である」「(横須賀や横浜について)アメリカ軍に規制するアバズレ女にさせられてしまった」(清水幾太郎)、「日本はアメリカの妾である、妾であるからにはだんなに媚びなければならぬ」(池田勇人)などの記述に一貫する日本 = 女 = 犯される存在という認識の枠組みが気になるところですにゃ。 これらの記述と並べたいのは大江の『飼育』ですにゃ。この小説では、クライマックスの地下倉庫のシーンで、男(の子)が黒人兵に犯されるような描写(そういう空気の筆致・性的な緊張感に満たされている、といったほうが正しいですにゃっ)があります。この小説は、ずっと時間がたったあと、幼い頃を回想するというスタイルをとっていることも相まって、「戦後しばらくたった時点から回想して、戦後直後の性的なメタファーを同性間のものに読み替える」ようなものに、(飛躍ではありますが)感じられました。 このような妄想の先には、いろいろなものがあり得るとおもいます。それは、女性に対する所有感からくるものだ、と言えそうな一方で、それはユートピア的世界を生きる男の子、であり、単なる性そのもの(そういう機能)という理解を超えて、(このときには男の子という存在を介しての想像でしかなかったが)主体性の萌芽を備えた存在として理解しなおす一つのきっかけにもなり得るのではないか、ともおもいます。それは、60年代広範から始まるウーマンリブに連なるものとして読めるんじゃないかゃ。 早計なアイディアだとはおもいますが。
  • 2026年3月28日
    ヴェーユの哲学講義 (ちくま学芸文庫)
    感情における身体の役割のパートの、性的本能のところを読みました。 このあたりは基本的に言いすぎている感じがあって、眉を潜めたくなるような主張が多いのですが、とはいえ100年近く前の話だし、そんなものか、とおもいながら読みました。 スタンダールの『恋愛論』から引かれている概念として「結晶作用」というものがありました。 これは、枯れ枝が塩の結晶で覆われていくように、すきになったひとを次々と美化してしまうような反応を刺すのだそうです。 私はこの作品を読んだことがなかったので、初めて知ったのですが、なるほどそういうこともありそうだ、とおもいました。 さて、ヴェイユのここでの議論は最終的にスピノザを援用して、「よろこびはより大きな完璧への移行の感情であり、哀しみはより小さな完璧への移行の感情である」と書かれます。そして、どのような物事も偶然からよろこびの原因とも哀しみの原因ともなるのであって、それは、大小の完璧への移行と結びつき反射によってそのような感情が生じるのだ、と結論付けられます。 私はこれはなかなか面白い見方であるとおもったと同時に、いくつか議論から抜け落ちている場合があろうとおもいました。次の2点です: 1. バタイユ的な快 : スピノザの議論は一種の崇高さやイデアに対する愛のようなものだとおもいますが、バタイユのいうような侵犯・或いは崩れといってもよいです、そういったものへの移行が一種の喜びであることはどのように説明できるでしょうか。 2. 完璧さの比較可能性について : ここでは、状態の移行を完璧性の軸に射影できることが議論を支えています。なんらかの断絶・急激な変化によって、もはや直前の状態との完璧さの比較ができなくなってしまうような場合(それは極端な成り上がりの物語であったり、或いは事件や事故・被災の物語かもしれません)については何が言えるでしょうか。 これらの問いは、考えていきたいとおもいます。
  • 2026年3月27日
    ヴェーユの哲学講義 (ちくま学芸文庫)
    読み始めました。 身体という語が使われているのですが、これはいったいどういうものを指し示しているのかわからないです。 「身体は関係を捉える」という話自体はわかるものの、椅子の例なんかを合わせて考えるとなんともいえないです。 椅子の例については、ちょっと面白いと(自分で)おもったので、以下に書いておきます。 本書において、椅子はその素材などにかかわらず、人に、「座る」という動作を促す、という主張がなされています。 しかし、この動作を促される、というのが身体の次元で起きているのかはよくわかりません。寧ろ、意味を参照することによってそのようなことが起きているんじゃないかとおもいます。 というのも、例えば、崩壊している学級では、椅子は座るものであると同時に投げつけるものである、ということがありえ、どちらが選択されるかは思考から離れて決定されるわけでありません。
  • 2026年3月2日
    仮面の告白
    仮面の告白
    何度読んだかわからない。名作です。 名作であるがゆえに、何を感想に残せばよいかわからない・難しい作品とも言えます。私がこの作品から受ける感じというのは、だいたい高校生の頃に固まったような気がします。 主人公は現代風な言い方で言えば、ヘテロロマンティック・ホモセクシュアルだと言えるのかもしれません。もうちょっと違った見方もできるような気がします(特に、ホモセクシュアルであるといったときのセクシュアルというのは、かなり限定的な意味を――少なくともこの作品では――もっているようにみえます)が、とりあえずそうだとおもってみると、それだけでもいろいろなものがみえるなあ、とおもいます。 例えば、主人公が男の人の身体(の特に「肉体」と特別に名指すべきもの)をまなざすときの記述と、女の人の身体をまなざすときの記述を見比べると、明らかに前者のほうがねちっこく・「豊か」で・執拗なものになっています。話はちょっと変わりますが、ライトノベルとか、或いは普通の文学的な作品でも、この意味でかなりセクシュアルな記述なんだなあと私が気づくきっかけのひとつとなったのはこの作品です。 あとは、主人公は男性器をもつ男の人なわけですが、ではこれが、女性器をもつ女の人だったら、一体どんな物語になっていたのだろうか、というのは読むたびに考えてしまいます。存在しない(←本当に?)物語のことを考えて勝手に泪を流す厄介な生き物が、こうして出来上がります👀。 園子の視点でこの物語を再構成してみるのも面白いです。あまり、まとまっていないけど。
  • 2026年2月17日
    キノの旅 the Beautiful World
    キノの旅 the Beautiful World
    (承前)『キノの旅』っていい感じの世界観ですけど、その設定一つ一つや、記述の一節一節をみていくと、ひっかかるところが屡々あります。だいたいよくわからないのだけど、いつかよくわかるようになりたい☆、です。
  • 2026年2月17日
    キノの旅 the Beautiful World
    キノの旅 the Beautiful World
    久々に読みました。もう長いこと、読んでいませんでした。 何度だって読み返したくなる・読み返すたび発見がある作品を、名作、或いは古典と呼ぶのなら、『キノの旅』は間違いなく、古典であり名作だと呼ばねばなりません。 その意味で、以下にはネタバレを含みますが、これによって、この作品が毀損されることは全くといってよいほど「ない」と信じます(とはいえ、初読の楽しみを否定するものでもありませんが……!)。 ~~ 今回気になったのは、第六話「平和な国」です。一見平和に見える国。かつて隣国との戦争に明け暮れていたが、もう15年も争っていない国。その平和の正体は、自国及び隣国の間の直接の「力比べ」ではなく、その境界地域に暮らす人々「タタタ人」を虐殺し、その死体の「重量」を量ることによって「戦争」の「勝敗」を決することで、「自国民 / 敵国民」は命を落とさない、ということにほかなりません。 キノは、この「新たな戦争」の「提案者」である歴史資料館の館長に、「殺されるタタタ人達はどうなりますか? 彼らにも生活があって、家族があると思うんですけれど?」と問います。これに対して館長は「平和には犠牲が必要なのだ」等と述べたあと、「あなたがもう少し歳を取れば、今のわたしの気持ちが分かりますよ」「あなたがあなたの子供を宿して、その子のぬくもりを自分の中に感じたときにきっと」と言います。 端的に言って気持ちが悪いのですが、少しだけ堪えて、ちょっと違った見方もできるかもしれないとおもいました。おもいましたが、まとまりませんでした。 あとは、この「戦争」が、単に虐殺した人間の数を競うのではなく、重量で勝負するということにも注意が必要だとおもいます。つまり、すでにこの「戦争」の存在それ自体が、タタタ人を選別された存在として扱っているのみならず、その中にも区別を設けています。命にも「得点の高い命」と「得点の低い命」がある、すなわち、命の「軽重」を量っているのだということです。
  • 2026年2月16日
    フロレンスキイ論
    表紙があまりにも綺麗です。深いというべき色ですが、単に黒が色を深く見せているのではなく、青そのものが深いです。 第一部 フロレンスキイの生涯まで読みました。 悲劇的、というべき最期を遂げるフロレンスキイですが、その生涯をまとめたたった60ページのテクストを読んだだけですら(尤もそれは、著者の力量のなせる業にほかならないのだけど!)、かれの類まれな才覚や世界への親愛の視線が感じられる、魅力的な人間だとおもいました。
  • 2026年2月15日
    給食の歴史
    給食の歴史
    (承前) 「双方向的」と括弧付きで書いたのは、とうぜん、ここに挙げた関係性には力関係・支配関係が存在しているわけなので、対等な双方向関係でないからです。 とはいえ、構造的な力関係に注力するあまり、相対的に劣位に置かれるものの「抵抗」や「戦略」が後景化してしまうことには注意を払わないといけないとおもいます。そのような観点から書かれた本だ、とちょっと踏み込んで言ってみてもいいのかもしれない。 塚原伸治さんの祭り論とかもそんなことを言っていたような気がします。たしか、ナカニシヤ出版のやつです。
  • 2026年2月15日
    給食の歴史
    給食の歴史
    その名のとおり、給食の歴史についてです。 扱われる観点は主に5つあって、 1. 子供(及びその保護者の)貧困対策 2. 災害との関連 3. 社会運動としての側面 4. 教育・訓育としての機能 5. 国際的な覇権争いのなかでの位置づけ だとおもいます。 給食は、戦争及びそのための青年体位の向上が、直接のきっかけとなって実施されることがおおいようである。また、日本の戦後給食は、アメリカが日本国民を舌から馴致する或いは統治・治安維持の側面を持って始められたことは確かです。 一方で本書で確認されるのは、給食というものがある上位者からの一方的な押しつけとしてだけ発展してきたのではなく、「給食を食べるものと作るもの」「給食を作るものと食材を作るもの」「制度の上で給食を実現するものと制度を作るもの」「食材を輸入する(受け取る)ものと輸出する(わたす)もの」( 国家)という重層的な関係性のなかで、絶えず交渉が繰り返され、「双方向的に」給食の経験が作り出されてきた、という側面にほかなりません。 たとえば、給食を考えるものは、システムに則ってただ作るのではなく、工夫を凝らし、並々ならない努力を重ね、子どもたちに給食を届けてきたし、給食を受ける子供も、時には給食を家に持ち帰り祖父母や兄弟に分け与えるなど(それ自体がいじらしく、また、かなしいのだが)、給食の意義・その体験を創出してきました。 藤原はこのような点に注目して、給食がよりよいものに展開していく端緒を見定めているような感じがあります。それは、主体性を見出し・光をあてる試みだと言ってよい。こういってしまうにはちょっと書き方が大味ですが、給食のエスノグラフィーといいたくなるような一冊でした。
  • 2026年2月15日
    わが闘争(上)
    わが闘争(上)
    『帰ってきたヒトラー』を観て、流石にもはや尻込んでいるべきではないにゃあ、とおもい、とりあえず最初の20ページ分だけ読んでみました。
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