
くりーむ
@cream
にゃんにゃんもふもふ。
- 2026年9月29日
愛・セックス・結婚の哲学R・ハルワニ,岡本慎平,江口聡まだ読んでる第 1 章のテーマはロマンティックラブです。ロマンティックラブがなんであるか、という問いは、この章では扱われず、代わりに「恋愛の重要な特徴をリストにし(中略)そのどれかが恋愛に本質的であるかどうかということを探求する」という方法をとります。 まずハルワニは、生物的な現象や社会的構築としてロマンティックラブを理解するやり方に触れ、それらが不満足なものであることを確認し、情動・或いはそのサブカテゴリーである欲求として、ロマンティックラブを理解するやり方を提案します。 その方法のもとで、ロマンティックラブの2つの形を導入します: ☆ RL1 ... 他方に比べて情熱的で性的なもの ☆ RL2 ... 他方に比べて愛情や友愛にかかわるもの RL2 には、「おたがいの間での情動的な親密さや愛情や、いっしょにいたいという欲求や、人生の残りをいっしょにすごしたいと欲求すること」(p25) が含まれており、また、本書では RL2 のなかでも特に「うまくいっている」ケースを指すものとして理解します。 これらの区別に関連して重要な考察は、「愛と理由」にまつわるものです。つまり、本章が最大の注意を払う問題は次のものです: なぜ人物 x は 人物 y を愛するのか?。 もしその理由が y の性質に由来するなら、同じ性質をもつ z を、 x が愛さないのはなぜか?。 ここから、対立する2つの説、「愛の理由説」 / 「愛の無理由説」 が提出されます。 前者は、愛する対象 y の性質に由来して、愛する者 x が y を愛するのだ、という考え方であり、後者は、 y の性質に依らずに x は y を愛するのだ、という考え方です。 ハルワニは、以上の対立する2説が、それぞれ、RL2 と RL1 に対応するようにみえるということを議論します。 そのあらましはこうです: 理由説からみます。理由説最大の問題は、ある性質の故に、 x が y を愛するなら、同じ性質をもつ z のことを x が愛さないのはどうしてか?というものです。これに対する回答は、「まず、 x が y を愛する理由は、x の y に対するコミットメントによる。そしてそのコミットメントを基礎づけているのは、2人の間の歴史である」ということになります。 したがって、このような議論は、RL2 についてよく振る舞います。 なお、ここでのコミットメントは大まかに、2つのものからなります。 まず1つ目は、「因果的なもの」であり、たとえば、《相手がいてハッピーだ》とか《関係をだめにするような性質がない》とかそういった事実です。 2つ目は、「愛するとはなにかという観念的なもの」であり、たとえば、《傾注やケアや配慮関心や自己犠牲の対象にすること》です。 一方の RL1 には、無理由説が適します。それは、ごく煎じ詰めて言えば、恋に落ちることに理由はなく、現に、同じような性質をもつ別のひとがいたら、そのひとと恋に落ちていただろう、ということです。 以上を見てみると、なかなか、納得感のある結論なのではないかなあとおもいます。途中の議論はかなり紆余曲折しているのですが。 - 2026年9月28日
愛・セックス・結婚の哲学R・ハルワニ,岡本慎平,江口聡読んでるタイトルの通り、愛・(行為としての)セックス・結婚という3つのテーマについて(分析)哲学の観点から論じる本です。かなり長く、また、一つ一つの議論が順を追って展開されているので、各章ごとに、内容を把握していこうとおもいます。気が向けば、全体のまとめなんかもやるかもしれません。 本書が(というよりハルワニ = 著者によれば哲学という営みが)扱う論点は、第一に諸概念を正確に定義しそれらの間の関係を明らかにすることであり、第二に特定の行為や実践が何らかの意味で良いか悪いかを判定できるようにすることです。これを念頭に置きながら読むと良さそうです。 - 2026年9月26日
死の形而上学吉沢文武,柏端達也読み終わった本書のテーマは死について、ですが、概ね、「死んだ他者」についての考察が中心になっているといって差し支えないとおもいます。 すなわち、「私が死ぬ」ことについてを考えるという目的を持って読む場合、一見すると肩透かしを食らったような感じがするかもしれません。 テーマがこうなっていることの一つの大きな理由は、本書を読む限り、現代の分析哲学の文脈で、死の悪、が一つの重大テーマとなっていることに帰せられるのだろうとおもいます。一方で、そのような議論によって汲み尽くされなかった部分として、己自身が死ぬということ、が浮かび上がってくるということは指摘しておかなければならないようにおもいます。 本書の結論は、それほど新奇なものではありません。すなわち、死によって、ひとはほんとうに、根本的な意味において「消滅」(これは本書のテクニカルタームの一つです)してしまうのだ、だから、私たちがあれこれと死者について述べるのは、その語りとは裏腹に、一種の錯誤である、たとえば、Aさんは死ぬことで不幸になってしまった、というのは、不幸になってなどいない(幸 / 不幸を論じる土台がそもそも消滅してしまっている)にもかかわらず、そう言いたくなってしまうものだ、ということになります。 しかし一方で、本書の優れた点は、広い意味で死者について語ること、についての既存の議論に注釈を加え、見通しよく整理し分析したうえで、それに対する一種の批判的展開として消滅の概念を持ち出しているところにあるようにみえます。その達成は、一つには、たとえば死の害悪といったテーマに対する鳥瞰図を与えることであり、もう一つは、消滅の概念に出どころとしての基礎付けを与える、というところにあるでしょう。著者らの述べるように、消滅概念は哲学史上散発的に表明されてきたということですが、それらに一定の構造を与えているという意味で、よいものだとおもいます。 最後に、本書の範疇の外側に逃れていってしまった点を2つ、挙げておこうとおもいます: 1. 例えば死の害悪について語ることが一種の錯誤であるとして、その錯誤はどのような性質をもつか。他の錯誤と本質的になんらか異なるだろうか、それともそういったものは見いだせないのだろうか。換言すれば次のようになります、すなわち、「Aさんは死ぬことで不幸になってしまった」と言いたくなるのはなぜか。そう言うことで、何が起きているのか。 2. 私たちは、「消滅」をどのように受け止めればよいか。本書を通じて、消滅概念に伴う、めまいであるとか衝撃であるとか、そういった感覚には言及があったが、「消滅」そのものを考えることはできるか。 また、本書にはいくつか、本書内で定義されたテクニカルタームと呼ぶべきものがあります。 私の、そしてこれから読むひとの便宜のため、これらを以下にまとめておこうとおもいます: ☆ 第一の直観 ... 「死にゆく人にとって死が悪であるのは、死によってその人が存在しなくなるからである。」(p3)という直観 ☆ 第二の直観 ... 「存在しなくなることの恐ろしさは、そのことによって悪くなったということすらありえなくなる点にある。」 (p4) という直観 ☆ 終焉テーゼ ... 「人は死ねば存在しなくなる」 或いは、「死は死にゆく当人の存在の終焉である」 (p14) という理解 ☆ 剥奪説 ... 「死ぬということの悪は、(中略)死ななければ得られていたであろう善が現実の死によって得られなくなるという悪」 (p33) という考え方。 p42 以降、ネーゲルによる剥奪説の体系(すなわち補助的なテーゼたち)の説明がある。 ☆ 生前説 / 死後説 / 無時間説 ... どれも、「死の害悪を被るのはいつであるか」 という問いに対する答えの与え方である。生前説は生きている間、死後説は死んだあとである。無時間説は類似の立場があり混同に注意する必要がある、p54 参照。ここでの無時間説とは、死の悪を世界の性質として理解するやり方のことである。 ☆ ゼロ説 / 無規定説 ... 死後説を採用した場合に、「主体不在の問題にどう答えるか」 という問いに対する答えの与え方である。ゼロ説は、死後の福利はゼロだという考え方である。ここに、ゼロとはニュートラルな、プラスとマイナスの間のゼロである。無規定説は死後の福利は undefined だという考え方。「福利」という語については p117。 - 2026年9月24日
ドン・キホーテ(前篇二)セルバンテス,セルバンテス,M.de,牛島信明前編の第2巻です。 いろいろ言えることがあるなあとおもいながら読んでいたのですが、最後の 33・34 章に全部持っていかれました。 すごく雑にいうと、ねとらせもの、であり、意味がわからない、やっぱりドン・キホーテって personal interest 博覧会だったんだ、どこのぺくしべですか?という感じになりました。 それにしても、「私が隙を見せたから」言い寄られたのだ(そう思われるかもしれない)、という考え方が基調になっているのがすごいことだなあとおもいます。とうぜん、それは男の選択とその結果を、どうしようもないものとして引き受けさせられる女、という構図にはなっていて、それはとても重要なことですが、一方で、己の理性によってすべてを判断しているわけではない、寧ろ自らは振り回されている、という物語を「「語ること」」も重要であるようにおもえます。なぜ重要におもえるかといえば、ひと(己)を、これこれなる存在であると語るとき、語られる存在は、単に語られるのではなく、変化をかけられるような形で語られるだろうとおもうからです。つまり、一方ではカミーラの自律性(ここでは、他からきちんと区別されているということ)を否定する一方で、ロターリオ自身の統御性も同時に否定されているところがおもしろいです。 - 2026年9月12日
ドン・キホーテ 前篇1セルバンテス,M.de,牛島信明読んでみると、まず、語り手の働きがかなり非自明でおもしろいです。ただ、このあたりは結構複雑で、ちょっと全部読み終わってから確認したい気分がしてきます。 あと、これは、オリエンタリズムを読んだ直後だから抱いている感想ですが、ナチュラルにオリエントに対する差別意識が働いていて、なるほどなあ、と膝をうってしまいます。(嘘吐きの)マホメッドについての数々の記述もそうだし、「肌が白いのに」どうこう、みたいにすごくナチュラルに出てきます。 こう読んでみると、ドン・キホーテとサンチョ・パンサは、仲睦まじく一緒に食事をとったり、お互いに嘔吐物をかけあったりして、なんというか、そういう特殊めな personal interest の詰まったラブコメなんじゃないか、という気がしてこなくもない、です。夢追いのだめ彼氏・ドン・キホーテと、嫌なのに厭と言い切れず振り回される彼女・サンチョ・パンサみたいな。サンチョの担い袋がもっていかれたときも、ドン・キホーテは「わしの夕飯もないんだな……」みたいなことを言ってて、すごすぎる、って感じです。 関係ないけどそ、ういえばジラールってドン・キホーテについてなんか書いていたな、という気分になります。セジウィックは多少読んだことがありますが、ジラールの方は読んだことないので、そのうち読んでみたいです。ロールモデルってやつも、詳しくないですから。 - 2026年8月24日
キャッチャー・イン・ザ・ライジェローム・デーヴィド・サリンジャー,J.D.サリンジャー,村上春樹小学生以来でしょうか、読み直しました。 前読んだときは、白水社から出ている野崎孝さんの訳だったとおもいます。 途中まで、なんか退屈な感じだなあ、とおもって読むのに時間がかかってしまいました。 最終盤、21章あたりから急に面白くなってきて、そういえば昔読んだときも途中退屈におもっていたような気がしてきました。 それでもやっぱり、そこまでの部分も昔は楽しめていたような気がすることには、私自身の感性がなんらかの意味で変性してしまったことを認めなくてはならないのかもしれません。 たとえば、昔の私は、ホールデンが感じている、インチキなもの、について、いま私がするよりももっと親しみと共感をもって、憤ったり・気分悪くなったりできていたような気もします。だから、私は、そういうホールデンなるものへの共感或いはその土壌を(感性を!)、失ってしまったのかもしれない、とちょっと残念な気分になりました。 しかしその一方で、最後の部分はいまの私にもある種の共感を齎しました。フィービーとミスタ・アントリーニとの会話は、つまるところ、ホールデンに対するこういう問いかけのように読めます: あなたが、何かを嫌っていたり・否定的な感情をもっているのは、あなたらしい価値判断の結果なのではなくて、条件反射的に起きているだけなのではないか?。 これは恐ろしいことです。私が考えるに、価値判断というのは、他から私を切り離す、アイデンティティの確認の最も基本的な手立てだからです。しかしさらに一方で、これを、思春期におけるアイデンティティの問題に還元してよいかどうかは、ちょっとわからない・もう少し見るべきものがあるような気もします。 - 2026年8月16日
太陽と鉄・私の遍歴時代三島由紀夫まだ読んでる《2つの肉体》つづき よく読んでいくと、前回の2つの肉体の理解は、普通に順当な読解に回収されるように見えてきました。 私の読む限り、このテクストの第一のブロックは、p14「そして現実と肉体に対する飢渇をますます強めた。」という一文でおわる段落までなので、ここまで考えたいとおもいます。 前回の観察に加えて注目しなくてはならない言葉は「言葉の純粋性」(p11) であるようにおもわれます。その意味内容は、「ポジティヴな腐蝕作用のみ」を働かせ、「ネガティヴな腐蝕作用を免かれる」(p11)というものです。そして、この、言葉の純粋性を保つために取られる方策というのが、「言葉によって現実に出会うことをできるだけ避ける」(p11)であり、言い換えれば「ポジティヴな腐蝕作用の触覚のみをうごかして、その腐蝕すべき対象にばったり出会わないように避けて歩くに限る」(p11)という方法です。 なぜ、現実を避けなければならないか、もっと正確に、現実を避けなければいけないと"思われたか"といえば、それは「言葉の微妙で潔癖な法則が予感されて」(p11)いたからということになります。この潔癖性については明言されないものの、普通に考えれば、"触れるものすべてをポジティヴ/ネガティヴの区別なく腐蝕してしまう"という性質だということになるでしょう。 してみると、先程の引用「ポジティヴな腐蝕作用の触角のみをうごかして」というのは不可能なことをいっているようにおもわれます。言葉は云わば"無差別に"腐蝕するので、ポジティヴな部分のみ動かすというのは土台無理な話です。しかし、私が読む限り、第一ブロックの核心は、まさにこの不可能性にあるようにおもわれます。以下このことを確認します。 続いてテクストは"私が、実際に訪れた現実 = 肉体を、現実 = 肉体として認めなかった"、つまり、言葉に蝕まれたものだったと断じた理由の説明に移ります。その理由とは端的に言うと「私の肉体の観念にはじめから或る美しい誤解が潜んでいたから」(p12)というものです。ここで、すでに観念の語が用いられていますが、これは、個々までで用いられていた言葉 = 観念よりもメタの概念を指し示しているようにみえます(が、そのために観念という語を使わなければならなかったことは、考察に値するかもしれません。)。 この誤解の意味内容を探すと、それは、"(男の)肉体が「存在」として現れるだろう"という考えのことだとわかります。三島によれば実際には、「存在することを拒否するところの存在形態」をもっているのであって、それは三島自身にも訪れ、後々、"あらゆる男という男にとってそのように現れるのだとわかった"ということです。 ともあれここで、前回導入した2つの肉体、A = 言葉に蝕まれた・言葉のサブカテゴリーとしての肉体と、B = 言葉の全く関与しない領域にある肉体 = 現実は、ある種の転倒を見せることになります。すなわち、Aは、実際には、現に訪れた肉体にほかならず、Bは、Aへの戸惑いから、三島が構築したものだ、ということです:「誤解から生まれたものながら、このような狼狽と恐怖が、他に「あるべき肉体」「あるべき現実」を仮構する」(p13)。 結果として構成されたあるべき肉体とは、「造形美と無言」を特徴とするものでした。 それだけではなく、三島は「言葉の腐蝕作用が同時に造形的作用を営むものであるなら、その造形の規範は、このような「あるべき肉体」の造形美に他ならず、言葉の芸術の理想はこのような造形美の模作に尽き、つまり、絶対に腐蝕されないような現実の探究にあると考えた」ということです。明言されているわけではありませんが、これは、肉体に対する誤解と対をなす、"言葉に対する誤解"であろうとおもわれます。 こうして、「言葉からその本質的な作用を除去し、現実からはその本質的な特徴を抹殺しようとする企て」という「一つの明らかな自己矛盾」(p14)にいたります。 先程の、「ポジティヴな腐蝕作用の触角のみをうごかす」ことの不可能性はまさにこの自己矛盾を予告するものであったといえるでしょう。 してみると、2つの肉体という枠組みはあまり有効なものではなかったように、一見するとおもわれます。 しかし、もとの B = 言葉の全く関与しない領域にある肉体 と、B' = 仮構された・言葉製の肉体が同じなのかどうかは、注意しなければならないポイントです。 B は、"言葉の純粋性"を求める運動のシンプルな裏側と理解できます。一方で、B'は、否定性として描かれた肉体の具体的な意味内容であるわけですから、これらは、一致しないこともありえます。そして、現に、一致していないはずです。つまり、言葉の関与しない領域と、その積極的内容の間にズレが生じています。想像するに、このズレは太陽と鉄全体を通じて、反復されるようにおもっています。(ひょっとすれば、頓挫するかもしれませんが。) - 2026年8月11日
太陽と鉄・私の遍歴時代三島由紀夫読み終わったまだ読んでる《2つの肉体について》 ずっと昔に手に取ってみて、意味がわからなかったので読んでいませんでした。 チャレンジしてみようとおもって開いて、とりあえず最後まで耐えて目を通した、という感じです。 とりあえず、最初の5ページ分だけ考えてみます。 いきなり第2段落からこんな調子です:「私が「私」というとき、それは厳密に私に帰属するような「私」ではなく、私から発せられた言葉のすべてが私の内面に還流するわけではなく、そこになにがしか、帰属したり還流したりすることのない残滓があって、それをこそ、私は「私」と呼ぶであろう。」(p.8) 帰属したり還流したりすることのない残滓が「私」である、これはなかなか難解な表現です。 引用文をみてみると、まず還流しているのは言葉ですから、還流しない残滓というのは non-trivial な状況下では言葉という概念のサブカテゴリーだということになります。残滓という表現にも注意しておきます。それは、滓なのであって、使用によって残ったもの・もはや元通りではなくなってしまったものにほかなりません。 さて、次のように続きます: 「そのような「私」とは何かと考えるうちに、私はその「私」が、実に私の占める肉体の領域に、ぴったり符合していることを認めざるをえなかった。私は「肉体」の言葉を探していたのである。」(p.8-p.9) 先ほど確認したように、「私」というのは、帰属せず還流しない、なんらかの滓として残った言葉のことであり、その別名が肉体だ、ということです。このことは、非常に有名な次の一節において、よく説明されています: 「私にとっては、言葉の記憶は肉体の記憶よりもはるかに遠くまで遡る。世のつねの人にとっては、肉体が先に訪れ、それから言葉が訪れるのであろうに、私にとっては、まず言葉が訪れて、ずっとあとから、甚だ気の進まぬ様子で、その時既に観念的な姿をしていたところの肉体が訪れたが、その肉体は言うまでもなく、既に言葉に蝕まれていた。」(p.9-p.10) 三島がここで肉体と呼ぶものは、「観念的な姿をしていたところの肉体」なのであって、すでに言葉の領域のなかにあります。その肉体の姿というのは、「言葉が現実を蝕むその腐蝕作用」の結果であり、言葉の持つ本性に接続しているということができます。 腐蝕作用という言葉が何を意味しているのかは、この段階では判然としません。しかし、言葉の腐食作用は、銅に対する硝酸の腐蝕作用とは異なるものであるということは説明されます: 「言葉は現実を抽象化してわれわれの悟性へつなぐ媒体であるから、それによる現実の腐蝕作用は、必然的に、言葉自体をも腐蝕してゆく危険を内包している。むしろそれは、過剰な胃液が、胃自体を消化し腐蝕してゆく作用に譬えたほうが、適切かとも思われる。」(p.10) 論理的には若干の飛躍を含んでいますが、しかし、理解できない話ではありません。三島によれば、言葉は、現実と私たちの悟性の間を媒介する、つまり、二者の間に存するものです。しかし言葉はその一端、現実の側を腐蝕してしまう。すると、言葉は自らの住処を形成していた二者のうちの一方を破壊してしまうことになる。言葉はこのとき、自らの安住の地を破壊し、不安定になってしまう。そのように考えれば筋は通ります。このとき、腐蝕された・観念的な姿をしていたところの肉体とは、まさに、言葉それ自体を腐蝕してしまう可能性そのものです。したがってここには肉体と言葉の第一の対立があるのだと理解することができます。 一方で、本作にはもう一つの肉体が登場することにも注意しなくてはいけません。それは、2つ先の段落、「私の相反する傾向」のうちの一方に登場します:「一つは、なんとか言葉の全く関与しない領域で現実に出会おうという欲求であった。」(p.11) 言葉の全く関与しない領域で出会う現実。三島において、この意味での現実もまた、肉体の語に結びつけられることになります:「私は言葉の全く関与しない領域にのみ、現実および肉体の存在を公然とみとめ、かくて現実と肉体は私にとってシノニムになり、一種のフェティッシュな興味の対象となった。」(p.11-p.12) ここに、肉体と言葉の第二の対立があるのだと言わねばなりません。 以上をまとめてみると、『太陽と鉄』においては、実のところ、2つの肉体が登場することになります。ひとつは、すでに言葉の内部に入り込んでしまった(或いは腐蝕されてしまった)肉体であり、もうひとつは、言葉の全く関与しない領域に損する肉体です。 これらの区別がいったいこのあとどのように展開されていくのか、注意しながら再び読もうとおもいます。 - 2026年6月28日
- 2026年6月28日
読み終わったよくわからん、むずーい、という感じです。 とはいえ、おもったことをきちんと書いておこうとおもいます。 ―― ミステリ的な側面があるので以下ネタバレ注意です ―― 本当にわかってないので構造とかそういう話はしないで、雰囲気だけ書きます。 多崎つくるという人物は、調和や自律的なシステムみたいなものがどうも性に合っている或いはそういうものに惹かれているのでしょう。 それは、5人のケミストリーであり、水泳であり、駅の人流です。 このような、複数の成員が一つの全体的なダイナミクスを作り上げているような状態を統合性があるということにします。 この作品にはある一つの根本的恐怖が横たわっているようにおもえました。 それが、統合性が脅かされるということです。 これは成長に不可避的に伴っているのだということも、この作品には描きこまれているようにおもいます。 それは、多崎つくるが、死への取り憑かれから復活したとき、それまでの自分とは打って変わってしまったことに関係しているし、シロが「性的なものを嫌悪していた」というのもこのことに繋がっているように直感されます。 真っ暗な海に放り込まれるような感覚、それは、アカや多崎つくるが表明した感覚ではあるけれども、例えばシロにとって無縁のものだったとはとてもおもえません。 「……なあ、こういうのって大いなるパラドックスだと思わないか? おれたちは人生の過程で真の自分を少しずつ発見していく。そして発見すればするほど自分を喪失していく」 発見は、自分から進んで見つけるだけではなく、外側から(或いは内側から)もたらされてしまうものであるということもあるだろうとおもいます。そういった、自己の喪失のありようが描かれているように私には感じられました。 - 2026年6月14日
ベル・ジャーシルヴィア・プラス,小澤身和子もっと直接の感想も書いておきます。 エスターが精神病になるところが本当に辛かった。特に10章。周りにいる人間のすべてが、自分に対して悪意を持っているんじゃないか、という「妄想」が出てくるのが、本当に苦しい、生きてゆけない、という感じだ。 - 2026年6月14日
ベル・ジャーシルヴィア・プラス,小澤身和子読み終わったそれと、本文で明言されている以上に、『ベル・ジャー』では、「女の子」たちに対する性的な視線が文章に表れていることも特徴的です。たとえば、「パジャマのこともあった――ドリーン以外の女の子たちは、夏用のコットンのパジャマとキルトの部屋着、或いはビーチでも着られるタオル地のローブを自宅から持ってきていたけれど、ドリーンは床まで届くくらい長い、ナイロントレースのすけすけのネグリジェを持ってきていて、静電気で体にまとわりつく、肌と同じ色のガウンを着ていた。少し汗っぽい面白い匂いがして、それを嗅ぐたびにわたしは、指でつぶすとムスクの香りがする、貝殻みたいな形のシダの派を思い出した。」 「男の子」たちの描写に、こういうものは、(少なくとも私が観た限りでは)みられなかったようにおもいます。 このあたり、『仮面の告白』に近い迫力を感じます。最後の植物の描写は、『飼育』にあったものにも近いように見えます。 - 2026年6月14日
ベル・ジャーシルヴィア・プラス,小澤身和子読み終わった『ベル・ジャー』は、「I am I am I am」というシリーズの第一回配本で、シリーズ名は『ベル・ジャー』に(2回)出てくる「I am I am I am」という一文 から取られているそうです。この文は、最初に、主人公のエスターが海で自殺しようとするところにでてきて、次に、同郷のジョアンの葬儀の終わりあたりに出てきます。非常に印象的ではあるものの、作品中におけるこの文は、いまひとつ、どういう言葉なのか、その射程が判然としない感じがあります。特に、2回目に登場する、ジョアンの葬儀では唐突な感じがかなり強いです。ジョアンの死・その埋葬のイメージを、突然に自分自身に引っ張り戻してくるように「わたしは、わたしは、わたしは。」という言葉が出てくるのですが、「ジョアン」と「わたし」がいかにして結びついているのかは、よくわかりません。ただ、この結びつきは、シンプルではないかもしれません。「I am I am I am」という言葉がでてくるとき、エスターは己の胸の高鳴り・心臓の鼓動を聞いています。それは、自己の思考の行き着く先・自問の終端となる言葉としての「I am」というよりは、寧ろ、エスターが世界を受け取ったときの、エスター全体にわたる反応に対する言葉としての「I am」である、と言ってもよいでしょう。その意味では、ここで出てきている 「I」 というのは、世界を感じ取る「私」、なのかもしれません。より積極的に解釈すれば、「私」に照射してくる世界を「私」と結びつけておくための言葉が、「I am」であるようにおもえます。エスターは、いくつかの自殺試行の末、「自分の体には、瀕死な状態になると手の力が抜けるというような、幾度となく体を救おうとする小さな仕掛けがいろいろとあることを知」ります。 エスターは、自分に向けられる女性差別(尤もそれだけではなく、自分が虐げられていると感じられるようなすべてについて)に敏感で、「わたしは打ち上げられる花火から放たれる色とりどりの色とりどりの矢」でありたいと願います。その「色とりどりの矢」であることと、世界を私に結びつけておくことは、無関係ではないように感じられます。 その一方で、エスターは、今で言うところのバッドガールで(50年代にそういう言い方があったのか、私にはわからないです)、決して、何色にでも染まることのできる純白な存在でないことは明らかです。上で述べたことと、このことのバランスは、あまりよくわかりません。とはいえ、エスターのバッドガールぶりは、最悪で最高、だとしかいいようがなく、そして同時に孤独なものです。「男の子」たちを自分が自由になるための徹底的な手段とみる発言、黒人やレズビアンに対する差別、年上の・面倒をみてくれる女性たちに対する「手をかけて影響を与えた代償として、わたしを自分たちみたいにしようとしてい」るという反発などなど……。そういう一種の青春小説として読んでみてもおもしろいです。しかし、明らかに『ベル・ジャー』は、背後にある社会的な状況を意識した作りになっているので、それだけでも物足りない感じもします。 - 2026年5月6日
「生きるに値しない命」とは誰のことか佐野誠,森下直貴読んでる積んでたので。 第1部・ビンディングとホッへの『生きるに値しない命を終わらせる行為の解禁』の全訳部分を読みました。 第2部で批判的考察が為されるということなので、先に、私がおもったことをごく簡単に述べておこうとおもいます。論点はたくさんあるとおもいますが、2点に絞ります(内容の要約のため、精神障害に対する差別的な言説を含んでいます。ご覧になる前に、注意していただきたいです。)。 1. 経済的事情と「解禁」 ビンディングとホッへのどちらも、生きるに値しない命というのは、いつも終わらせなくてはならない、ということを主張しているわけではありません。しかし、2人とも、経済的に豊かではないということを理由に、このような「解禁」が行われるべきである、ということを主張します。そこには、現代の日本において、尊厳死が法制化(或いは終末期医療の制度「変更」)が行われようとしていることの論理と通底するところがあります。もっと穿った見方をすれば、経済的な事情をオブラートに包むかのように、尊厳の概念が出てきているようにさえ、見えてしまいます。 2. 「精神的に死せる者」とは ホッへは、ビンディングが「殺害の犯罪性に対する特別減刑」を考慮すべき者として「治療不能な知的障碍者」を挙げたことを受け継ぐ形で、それを批判的に展開します。そこでは、「精神的に死せる者」という言い換えを採用したうえで、その特徴づけの本質は「内側から主観的に生きたいと要求することもできないし、何らかの別な精神的な訴えを《示す》こともできない」(p90, 《》は引用者) ことだとされます。ここでは、結局のところ、精神というものを身体表面の、表面的動きの中――おそらくは言葉や表情といったもの――に見いだしているわけであり、一種の行動・行為主義的なところがあります。ここでは、精神とはなにか、といった本質的な問いが不問に付され、ごくナイーブなイメージが語られているといえるとおもいます。もっと積極的なことを言えば、精神→行動というプロセスの統合性に裏打ちされた「人間」なるものを前提にし中心化するというレベルでの精神至上主義が、底流しているようにおもいます。 著者らが、どのようにテクストに応答するのか、気を引き締めて読みたいです。 - 2026年5月6日
万延元年のフットボール加藤典洋,大江健三郎でもわからないんですよ~。鷹四のような生き方 ――或いは、次のように言ってもいい、「苦痛の総量を内部にぴったりと閉じ込めて、外側から覗き込む限りでは物静かに無表情だった猫の眼。その苦悶を自分の身の所有とし、他者に対しては完全に非存在たらしめていた猫の眼。あのような眼をして、自分の内部の地獄に耐えている人間」(p440)―― は、はっきり言って鮮烈な死の美学そのものだとおもうし、抗いがたい魅力・若しくは引力を備えているとおもう。 誰だって(でかすぎの主語)、そういう人生を夢想してしまうとおもうのです。私だって例に漏れず。 - 2026年5月5日
万延元年のフットボール加藤典洋,大江健三郎読み終わった11章から面白くなります。 【以下ネタバレです。】(通常私は、物語のネタバレについては躊躇を覚えないのですが、この作品については、ミステリー的な側面があるので、ネタバレを注意しました。) さて、最終章では、鷹四が抱いていた曽祖父の弟への印象が、決して間違ったものではなかったことを裏付けるような証拠(地下倉)が発見され、蜜三郎は、鷹四の近親相姦の告白(*)を辱めたことを悔い、「自分たちの地獄を確認し、「本当の事」を叫んでそれを乗り越えた」(p.442)、それは「自分の identity を確認し、自己統一をとげ」(同)ることにほかならないのだと理解します。そしてその一方で、蜜三郎は自分にとっての「本当の事」を見極められないのだ、として己を曖昧で無力なものに感じます。 私はこのあたりに今ひとつ納得いかない感じを持っています。というのも、鷹四の犯した「罪」というのは、司法においてどの程度裁かれるかは別にして、道徳的にかなり許されない類のことであって、蜜三郎がそれを辱めるのは、少なくとも、本文で書かれていた程度のものであれば、流石に文句は言えないでしょう。それでも鷹四を詰ったことを後悔してしまうのは、蜜三郎もやはり、歴史とその解釈・或いは物語に見立てることで現実を解釈してしまう、鷹四の持っていた傾向を共有しているからのようにおもえます。おもえば、「肉体派の娘」の死についても、蜜三郎は、自分の構成した物語を軸に解釈を重ねていくのであり、蜜三郎と鷹四の間に、「肉体派の娘」の遺体が現れることはありませんでした。ここでも、物語が先行しているようにみえます。「物語」というものの魔力が蠢いているように感じました。これは、なにかに己をなぞらえること・一定のコンテクストに倣って行動することのレベルまで抽象化すると、なかなか広い射程を持ちうるとおもいました。 もっと素朴に、蜜三郎の後悔は自殺の神秘化であり、ともすれば、自分の地獄(それはこの作品の中では他人を「殺してしまう」ような暴力の経験!)を所持し、直視し、それでもって自殺するのでなければ、自己の一貫性というものを描けないという考えにも容易に転倒しうるもので、危ういのだ、という言い方もできるとおもいます(尤も、この作品の登場人物に感情移入しきれるひとがどの程度いるのかはわかりませんが)。 妻を「寝取られる」ということについては、もう少し、歴史的な視点を導入してみると、なかなかおもしろいとおもいました。1950年、当時の蔵相池田勇人は「日本はアメリカの妾である」という発言をしています。これに代表されるように、戦後の日本には、日本という国家が女 = 妻なのであり、国民は男 = 夫で、それを寝取られているのである、という構図の言説がしばしばあるようにおもいます(小熊英二『民主と愛国』を読んでの印象なので、どの程度正当化できるのかは定かではありませんが)。すると、このような言葉の慣習に乗っかって、蜜三郎という人物は、戦後の自意識とでも言いうるものの具象化と見えなくもないです。蜜三郎やその周辺のアジア太平洋戦争前後を貫く家父長制や帝国主義(外部に侵入していく運動(それは鷹四や曽祖父の弟の冒険性に通じる)の中に自己自身・その統一性・その保存を見出すヨーロッパの心!(竹内好によるヘーゲル理解を参照))は、そのまま、日本という国家を通底する家父長制や帝国主義を間接的に描写している、と読めるのかもしれません。 もう少し小さな、個別の人間のレベルの話として、(*) のことを考えます。鷹四にとっての「本当の事」というのは、恐らく、単なる近親相姦を超えるなにか、なのでしょう。ここで注意しておきたいのは、蜜三郎に言わせれば鷹四は「本当の事」を言って自分の地獄を直視して死んだ、ということになりますが、どうも鷹四と妹の間の関係をみるとそんな冒険性みたいな話ではないようにおもえる、ということです。鷹四は確かに、妹と性行為をするのですが、それは「欲望と恐怖心とで頭がやられて」いたことによるのであって、その後の「隠蔽」もすべて欲望と特に恐怖心によるもののように見えます。当然、最低なんですけど、これは決して、冒険心とか、或いは自発的な攻撃性によるものではない。むしろ、ここで描かれるのは、そこに存在していた「力関係」を利用している小心者としての鷹四です。このことを考えてもやはり、蜜三郎は物語を先行させてしまっているようにおもいました。 とはいえ、ここに挙げたものは、作品を最後の数章を中心に読むやり方なので、実はもっと前のところを中心にしてみることで、ガラッと印象の変わる理解ができたりするのかな、とおもっています。 - 2026年5月1日
構造としての語り・増補版小森陽一ちょっと開いたかつて読んだふと思い出した小森陽一の『こころ』論のところを、久しぶりに読みました。 『こころ』論争の発端となった評論であり、とても重要なものですが、それ以上にとても面白いです。 しかし、実のところ、この評論の面白さは、小森が外部から引っ張ってきた規範や考え方によっているような気がします。 具体的には次の2点です: 1. 「人は自己と他者、自己と世界との間に、真の意味での「繋がり」がなく、「余所々々しい」疎隔しか存在しないことに気づき、そのことを徹底して自覚し、疎隔された状態に耐え、自分とともに存在するようんあ他者との出会いへの希求を、切なる願いへと推し進めるなかで、はじめて脱-主我的自己を獲得し、他者との共感、〈他者―と―ともに在る〉ことに向かって開かれていくのである」(p345) 2. 「人は自分の死をたった一人で死ぬしかない。たとえ愛し合った者同士でも、親子であっても、他者の死をわれわれはどうすることもできない。人は一度生まれてしまった以上、自分のたった一人の死を死ぬために行きていくのだ。そこに「人間の何うする事も出来ない持つて生れた軽薄」がある」(p346) これらは強力な読み筋である一方で、この点の根拠を『こころ』内部に見出すことはできないようにおもいます。 このことによってこの評論の価値がなくなってしまう、ということは決してないとおもいますが、しかし、注意しておくべきだとおもいます。 また、小森はいくつかの概念を立てて論を進めるのですが、その中に、血の論理と家族の論理というものがあります。この2つの概念は、小森によれば等価なものであるとされるのですが、これは、小森自身の議論によって留保されることになるのではないかとおもいました。というのも、小森は、日本の家族においては、お互いを、子どもの視点から呼びあうことが一般的であるとして「逆に子を媒介にした呼称は、夫婦の関係を引き裂いていくことにもなる。夫と妻の、一対一の人称的関係が崩れていくのである」と論じます。この議論は、「血の繋がり」という観念に対しても、同様に展開することができるはずです。つまり、「血の論理」というものもまた、夫婦を引き裂くものにほかなりません。してみると、血の論理と家族の論理というものは同じということができるのか怪しいとおもいます。この等式のもとでは、家族の論理において、夫と妻は常に引き裂かれたものでなくては、ならなくなってしまいますから。 寧ろここでは「家族の論理」というものに期待される、無根拠で無際限な情緒的なつながり(これは、歴史上いつもあったわけではないはずですが、少なくとも70年代ごろにはあったとおもわれます)によって、「血の論理」が「無前提の信頼」と結びつけられているのではないでしょうか。意欲的な(別の言い方をすれば「危険な」)考え方ですが、寧ろ、小森の読解は次のように敷衍することもできるようにおもいます。すなわち、「血の論理」というのは、ごく親密な一部の人間関係を、子を中心としたものに整理するシステムであり、そこでは、夫婦というものは引き裂かれるものであったが、『こころ』を通じて、「血の論理」でない「家族の論理」、静と「私」の間に生じた「心臓の論理」としての「家族の論理」の可能性が開かれているだ、と。 当然この議論は、小森からすれば、家族なる概念への後退だとおもいますが、しかし、家族という概念が現代においては(おそらく80年代ほどには)強力に振る舞わないということを考えてみると、どうにも家族なる概念の再構築を模索しなくてはならないようにおもっています(というかそれは、抽象的なレベルでは私の問題意識のひとつです)。 - 2026年4月25日
ポラリスが降り注ぐ夜李琴峰読み終わったかつて読んだ読み返してみると、今の私にずいぶんと影響を与えた作品だと気づきました。 群像劇の感想ってどうやって書いていいかわからない、ひとりひとりにフォーカスするなら(そもそも、そんなことできる?)、この作品が群像劇である意味は、なくなってしまうかもしれないし、全体で起きていることを「綺麗に」まとめてしまうなら、それはきっとセクマイ「史」になってしまう、とおもいます。 どちらに振り切ることもできない、ということが、この作品が群像劇でなければならなかったということを最も強力に示しているとおもいます。 最後の短編は歴史の話、個々人と歴史、の話、だとおもいますけれども、歴史と個人をいかにして結びつけるか、という問題意識を放っているように、おもいます。 暁(あきら)というひとが中心のお話です。暁は中学卒業間近で2丁目にデビューし、大学生になったいまはレズビアンバーのポラリスでアルバイトとして働いています。店長の夏子(なつこ)はたぶん50代くらいでしょうか。夜明けの2丁目・Lの小道にひっそりと佇む閉店後のポラリスで2人がお店の片付けをしながら話をします。起きていることはそれだけで、紙幅の多くは、内藤新宿まで遡る2丁目の歴史(それは暁が卒業論文として調査し、まとめたものです)について割かれています。印象的なのは、暁と2丁目の歴史の間の繋がりは、夏子が媒介している、ということです。「夏子が時々、石塀越しに墓地の卒塔婆の群れに向かって合掌していることを、暁は知っている。墓碑銘も名前もないあの女たちこそが、新宿という街を繁盛させた功労者であることを思うと、彼女たちの失われた命が、今ここにいる自分につながっているような気がした。」 一方に大きな歴史があり、もう一方に個人史があります。これらはどちらも歴史ですが、一方からもう一方を導くのは難しく、ともすれば片方を空洞化させてしまうことすら、ありえるようにおもいます。己を歴史の中に放り込めば、(自分を含む)周囲の人間は消え去ってしまい、歴史の重力を否定すれば、「明日」も「今日」も闇の中でしょう。 この作品で提示されている回路は、自然と、私の眼を世代の問題へと向けさせます。『ポラリスが降り注ぐ夜』に於いて、年長者と年少者の関係はシンプルなものではないようにおもいます。同じような立場に立ったことがあるから寛容であれる、というわけでもないです。それはどちらかというと、「深い縦穴」で、香凜(かりん)と人生相談屋がであったような、全く偶然のもののようにおもわれます。『ポラリスが降り注ぐ夜』。道標となる北極星は粉々に砕けてしまって、降り注ぎ、もはや私たちは、同じところを目指してはいないが、しかしそれでも、個々の人間の出会いの中に、役割としてではない、ひとりとひとりの関係のなかに、歴史への回路がある、そういうふうに読みたくなってしまうのは、期待のしすぎでしょうか(たぶん、しすぎですね……)。 というのは、再び読んだ私の感想ですが、初めて読んだときは、たぶん、「五つの災い」に最も心を抉られたような気がします。それから、当時の私が唯一線を引いていた箇所も、記録として、引いておこうとおもいます:「神よ、お与えください。変えられるものを変えていく勇気を。変えられないものを受け入れる冷静さを。そしてその両者を識別する知恵を。」 - 2026年4月23日
〈民主〉と〈愛国〉小熊英二読んでる7章を読んでいます。 当時の記述をいろいろ並べて見れて面白いです。 さて、現代に生きる人間としては、「無気力なパンパン根性」「日本はナショナリズムについて処女性をすでに失った唯一の国」(丸山眞男)、「まだ内灘は清純な処女である」「(横須賀や横浜について)アメリカ軍に規制するアバズレ女にさせられてしまった」(清水幾太郎)、「日本はアメリカの妾である、妾であるからにはだんなに媚びなければならぬ」(池田勇人)などの記述に一貫する日本 = 女 = 犯される存在という認識の枠組みが気になるところですにゃ。 これらの記述と並べたいのは大江の『飼育』ですにゃ。この小説では、クライマックスの地下倉庫のシーンで、男(の子)が黒人兵に犯されるような描写(そういう空気の筆致・性的な緊張感に満たされている、といったほうが正しいですにゃっ)があります。この小説は、ずっと時間がたったあと、幼い頃を回想するというスタイルをとっていることも相まって、「戦後しばらくたった時点から回想して、戦後直後の性的なメタファーを同性間のものに読み替える」ようなものに、(飛躍ではありますが)感じられました。 このような妄想の先には、いろいろなものがあり得るとおもいます。それは、女性に対する所有感からくるものだ、と言えそうな一方で、それはユートピア的世界を生きる男の子、であり、単なる性そのもの(そういう機能)という理解を超えて、(このときには男の子という存在を介しての想像でしかなかったが)主体性の萌芽を備えた存在として理解しなおす一つのきっかけにもなり得るのではないか、ともおもいます。それは、60年代広範から始まるウーマンリブに連なるものとして読めるんじゃないかゃ。 早計なアイディアだとはおもいますが。 - 2026年3月28日
ヴェーユの哲学講義 (ちくま学芸文庫)シモーヌ・ヴェーユ読んでる感情における身体の役割のパートの、性的本能のところを読みました。 このあたりは基本的に言いすぎている感じがあって、眉を潜めたくなるような主張が多いのですが、とはいえ100年近く前の話だし、そんなものか、とおもいながら読みました。 スタンダールの『恋愛論』から引かれている概念として「結晶作用」というものがありました。 これは、枯れ枝が塩の結晶で覆われていくように、すきになったひとを次々と美化してしまうような反応を刺すのだそうです。 私はこの作品を読んだことがなかったので、初めて知ったのですが、なるほどそういうこともありそうだ、とおもいました。 さて、ヴェイユのここでの議論は最終的にスピノザを援用して、「よろこびはより大きな完璧への移行の感情であり、哀しみはより小さな完璧への移行の感情である」と書かれます。そして、どのような物事も偶然からよろこびの原因とも哀しみの原因ともなるのであって、それは、大小の完璧への移行と結びつき反射によってそのような感情が生じるのだ、と結論付けられます。 私はこれはなかなか面白い見方であるとおもったと同時に、いくつか議論から抜け落ちている場合があろうとおもいました。次の2点です: 1. バタイユ的な快 : スピノザの議論は一種の崇高さやイデアに対する愛のようなものだとおもいますが、バタイユのいうような侵犯・或いは崩れといってもよいです、そういったものへの移行が一種の喜びであることはどのように説明できるでしょうか。 2. 完璧さの比較可能性について : ここでは、状態の移行を完璧性の軸に射影できることが議論を支えています。なんらかの断絶・急激な変化によって、もはや直前の状態との完璧さの比較ができなくなってしまうような場合(それは極端な成り上がりの物語であったり、或いは事件や事故・被災の物語かもしれません)については何が言えるでしょうか。 これらの問いは、考えていきたいとおもいます。
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