シートン動物記(2)

2件の記録
- 中根龍一郎@ryo_nakane2025年3月26日かつて読んだ小学校の3年生か4年生の頃に読んだ覚えがある、といっても、もう筋書きはあまり覚えていない。読めるところに第1巻もあったはずだが、このクマの絵のほうに引かれて、好んで読んでいた。一番記憶にあるのは「灰色大グマの伝記」だ。蟻塚を壊して、手のひらのアリを舐めとるクマの描写で、アリは酸っぱいので、クマは喉が渇いてきた、というような記述を読んで、アリは酸っぱいのか、そしてクマはアリを食べるのか、ということに大きな衝撃を受けたことだ。 信岡朝子『快楽としての動物保護』によると、このように動物の視点からの動物記を書いたというのは、当時の自然文学の世界においてそれなりに特殊なことであったらしい。同書にはシートンの文学的特徴を示す描写として「ああ、しかし熱い血が歯の間からにじみ出るのは、なんと心地よいのだろう」という、もう少し血なまぐさいものが引かれていた。 このように、シートンという作家は、野生動物の視点からしか味わえない「捕食」の甘美さを巧みな表現力で描写する。コヨーテの熱い血が歯の間からにじみ出すのを「心地よい(good to feel)」と表現するような感覚は、灰色熊の視点を通してしか決して味わうことができない至福の時である。 (信岡朝子『快楽としての動物保護』p.112) なるほど、そうなのかもしれない。なにかを食べる描写というのは子供にとって(時に大人にとっても)魅力的だ。しかし小学生の私には、実のところ、クマが食べるアリの味わいのほうがずっと身近で、おもしろく思えた。それもまた捕食者の快楽であることに変わりはない。そしてその捕食のなかに、手放しの喜びというより、「酸っぱいので喉が渇いてしまった」という、食事の「失敗」の経験が忍び込んでいたことが、とても興味深い。私は食事の「失敗」の経験の話が好きだ。なにかがおいしくなかったとか、思っていた味と違ったとか、食べられなかったとか、そういった話のほうが、美食のエピソードよりも心を引く。その淵源は、意外とシートン動物記にあったのかもしれない。 「灰色大グマの伝記」の終盤では、老いて傷ついた主人公のクマの縄張りに、若いクマが現れる。若いクマは、岩だか、木だかに乗って(記憶違いかもしれないが)、老いたクマではとても届かないような高い位置の木肌に爪痕を残す。それを見て老いたクマは、自分よりも大きなクマが来たのだと思い込む。そして老いたクマは若いクマとの対決を避け、徐々に縄張りを追われていき、やがてひっそりと死に至る(というところまで書かれていたと思う、たぶん)。 小学生の私は、そのものさびしい読後感が好きだった。古傷を温泉で慰め(ていたと思うが、これももしかすると別のクマのエピソードかもしれない)、戦うことを避け、やがて居場所を失い、死んでいく老いたクマの姿が好きだった。それはシートンによって誇張され、戯画化された動物描写であるのかもしれなかった。しかし動物の視点から、動物が何を考え、何を判断しているのかを書くというシートンの擬人法を通すと、それはクマの物語というより、自分のもうひとつの人生の物語であるように思えるのだった。 小川哲『君のクイズ』の最後に、舞城王太郎の『熊の場所』の話が出てくる。『熊の場所』はシートン動物記と関係がない。ただ、『熊の場所』が克服しなくてはならない恐怖の源泉、かつて戦うことから逃げてしまった場所なのだ、という話を読んだ時に、思い浮かべたのは「灰色大グマの伝記」だった。その最後の、戦うことを避ける老いたクマだった。 本というものは、いろいろな読書体験が、おそらくきわめて恣意的な、しかし不思議と無視しがたい連想のなかでつながっている。