晴子情歌 下

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ni@nininice2026年9月10日読み終わった『晴子情歌』『新リア王』『太陽を曳く馬』 髙村薫の福澤三部作と呼ばれるこれら三作品が、今のところ人生で一番何度も繰り返し読んだ本で、一番影響を受けた本であることは間違いない。 『晴子情歌』は、三部作を通して登場する福澤彰之の母親である晴子の、息子に宛てた自分の半生を記した正字旧仮名遣いの美しい何通もの手紙と、それを漁船の上で読む彰之の視点が交互に描かれている。ずっと、何故晴子がこのような赤裸々な手紙を実の息子に送り続けたのかが不思議だった。もう一つ、ずっと長年わからずに考え続けてきたのが、作中象徴的に登場する〈放浪する半身〉という、伊東静雄の詩集『わがひとに与ふる哀歌』からの引用だった。 彰之にとって〈放浪する半身〉とは一体何を指すのだろう。何度も何度も繰り返し読んでもよくわからずに頭を悩ませていた。登場人物の心内を読み解くのは本当に難しい。伊東静雄全集まで買い、まずは詩の読解からはじめた。詩の方の〈半身〉は、恋人だとか友人だとか自分自身だとか、諸説あるようで、わたしもこれは特定の人物か或いはイマジナリーフレンドのようなものかと漠然と考えていた。 しかしその解釈だと、彰之の言う〈半身〉に当てはまるような人物は見当たらず、この言葉の出てくる箇所をまた何度も読んでは迷宮に迷い込む。それが先日突然、雲が晴れたようにわかったのだ。不意に、何故かわからないけれど自分なりの理解が降りてきた。彰之の〈放浪する半身〉は、自身の抱くあらゆる様々な「欲望」のことなのかもしれない。一人や一つの事物ではない。 彰之はそもそも、自分の出生を嫌悪しているのだろう。母を無理矢理孕ませた生物学上の父とその血族。代議士福澤一族。自分にもその放埒な血が流れていること。自身の激しい劣情やマゾヒズム。漁船で生活し母の手紙を読みながら振り返るのは、そのような十代二十代の自分の欲望だ。その隣には寂しさや親しみなどの柔らかな感情もあるが、それらも含めて〈放浪する半身〉なのだ。煩悩と呼ばれるものかもしれない。 私は言ひあてることが出来る 命ぜられてある人 私の放浪する半身 いつたい其処で お前の懸命に信じまいとしてゐることの 何であるかを 伊東静雄の詩のこの部分も、ぴたりと当てはまる。懸命に信じまいとしていること、しかし言いあてることが出来ること。自分の血と欲。 そして、この〈半身〉の正体を掴めた時、母晴子が何故息子に手紙を書き続けたのかもわかる気がした。出生を嫌悪し苦しむ息子に、あなたは父の子であると同時に母の子でもあると伝える為なのではないか。母はこのような少女で、このような恋をし、このような人生を歩み、あなたを産み、育て、生きていると。 わたしは十年以上、何を読んできたのだろう。『晴子情歌』の最後の場面も、ようやく腑に落ちる。彰之は〈半身〉と決別しようと漁船に乗り、ゆくゆくは出家にまで至るのだ。続編である『新リア王』では、修行生活と元凶である父との対話へ、そして『太陽を曳く馬』で若き欲望の末に生まれた息子秋道への、正字旧仮名遣いの手紙へ繋がってゆく。この手紙も、「欲望」について書かれているのだ。『晴子情歌』以外のネタバレになるので詳しくは書かないが、物語が一本となり繋がってゆく。ようやく、この三部作を読めた気がした。