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@nininice
- 2025年6月26日マーダーボット・ダイアリー 下マーサ・ウェルズ,中原尚哉読み終わったApple TV+のドラマ版を少し見て、面白そうなので原作を読んでみました。『マーダーボット・ダイアリー』は上下巻だけど、別のタイトルで物語は進んでいるみたい。ただ、続きを読みたいかというと否。 ⚠️ネタバレになります ハッキングによって自我が芽生えた警備ユニット(ロボット+クローンみたいなもの?)が、人間社会に受け入れられる様子がどうしても気持ち悪くて、人間の傲慢さを見せつけられているような、居た堪れなさも感じている。楽しいエンターテイメント作品として素直に読むことのできない自分の面倒なところが出てしまった。 宇宙が舞台の未来世界で、人間が現代と比べても何一つ成長していないのも絶望的。主人公である「弊機」が人間に紛れようと大量生産的な外見を変えたり、人間の身振りを勉強した上で、優しい人間たちに受け入れられてゆく流れが凄く気持ち悪かった。これって、「肌の色が違ってもわたしたちに合わせるならわたしたちは優しいからこのコミュニティに受け入れてあげます」みたいなことに重なってみえる。 弊機は自発的に外見を変えたり人間の仕草を勉強したりしているけれど、それをそうさせているのは作者で、「ペットロボットにはなりたくない」と言わせながら、あざといくらい人間の都合に良い生き物として主人公を描いていて、本当に気持ち悪かった。わたしたちは多様性を認める善き人間です、ということを言いたい為に造られた登場人物。でもそんな人間たちに認められるには、外見も振る舞いも彼らに寄せて、自らの命をかけて彼らを守って、彼らに友情を感じて、彼らのように様々な感情を持つことが必要だったのでは?しかも自発的に。もし逆らったら、破棄するのでは? 多分こんな意地の悪い感想を抱くのは、わたしが自分を含め人間をこの世の全てのものの中で悪いものとして考えているからだと思う。絶滅した方が世界の為だと思ってる。だから、こんな優秀な警備ユニットに対して、人間があたかも自分たちの方が優位な存在として振る舞って、弊機を、あなたもわたしたち人間と同じよ、みたいに受け入れてあげる立場から描いていることに、耐えがたい気持ち悪さ心地悪さを感じてしまうのだろうな。
- 2025年5月23日
- 2025年5月10日銀河帝国の興亡2【新訳版】アイザック・アシモフ,鍛治靖子読み終わったアップルtvのドラマ『ファウンデーション』シーズン3の配信が決まったので、原作を再読しています。 久しぶりに読んだけど、やっぱり凄く凄く面白い。ドラマは原作をアップデイトしつつ再構築しているので、原作とあわせて二度楽しめる。S3はいよいよミュール編。どのように描かれるのか今から楽しみです。 以下少しだけネタバレです🌜 『オペラ座の怪人』とか『美女と野獣』とか『シラノ』が大好きなので、同じ理由でミュール編の主人公ベイタとあの人との関わり合いが、たまらなく好きなんです。ドラマでも、その片鱗で良いから見ることができたら嬉しい。このドラマの丁寧な人間関係の描き方が大好きなので、期待して待ちます。 S2で、『バガヴァッド・ギーター』が引用され、人類の美しい遺産として登場したことについて、ずっと考えている。 「われわれは歴史の必然によって勝利をおさめたではないか」 「閣下、確かにそれは事実であります。ですが、閣下がお話になった歴史は、一年にわたる絶望的な戦いが終わったあとに、はじめて必然となったものです。わたしたちが手に入れた必然的勝利は、五百の艦と五十万の人命の犠牲の上になりたっています。閣下、セルダン計画は、みずから助くる者を助けるのです」 するとこういう台詞からも、その思想の繋がりが見えるような気がする。そして、あれ?『バガヴァッド・ギーター』に登場するヒンドゥー教の神クリシュナの別名は〈ハリ Hari/ Hare〉で、『ファウンデーション』のハリ・セルダン Hari Seldonと同じ名前なのは偶然?? 「そしてまた、あのハリ(クリシュナ)の非常に稀有な姿を想起するごとに、私は大いに驚嘆し、繰り返し歓喜する」 ヨーガの主であるクリシュナがいる所、弓を執るアルジュナがいる所、そこには幸運があり、勝利があり、繁栄があり、確固たる政策がある。私はそう確信する。『バガヴァッド・ギーター』
- 2025年4月24日アリの放浪記 多様な個が生み出す驚くべき社会オドレー・デュストゥール,アントワーヌ・ヴィストラール読みたいあなたが一匹のアリを踏みつぶしたとき、一遍の壮大な叙事詩が終わりを告げる この帯の一文を読んで、罪の意識に押しつぶされそうになる。わたしは以前庭に現れたアリの大行列を何も考えずに水で流したことがあって、その自身の無慈悲さにもう何年もぞっとしている。図書館で予約したので、読んでアリや他の虫とも共存できるようになりたい。
- 2025年4月20日法水麟太郎全短篇小栗虫太郎,日下三蔵借りてきた犯人が、池の水で血に染んだ手を洗ったのだが、その時付近に水浸しになっていた木精蓮の一本があったとしたらどうだろう。勿論血の臭気を慕って蛭が軍種する事は云う迄もないが、それから間もなく、犯人は浮遊物を流すために、水門の堰板を開いて水を流したのだ。すると、水面が下っただけ、木精蓮は空気中に突出する訳だろう。だから、朝になって花が閉じた時に、残った蛭が花弁に包まれてしまったのだ。
- 2025年4月14日太陽を曳く馬高村薫再読中何を見ても何を聞いても、この『太陽を曳く馬』に結びつけてしまうほど、常にわたしの思考の終着点にある本。また今日から再読する。春の夜。あゝこともなしこともなし 『墳墓記』を読んだ後なので、少し敏感になってる。 記憶のなかでは雲水たちと寺の周りだけ一切の音がない。まさに墳墓に踏み込んだようだった、あの寺。あの空気。 いったい三年前もこんなふうだったのかと思うほど整ったうつくしい目元をして、たったいま目覚めたかのような清涼さだった。
- 2025年4月13日墳墓記高村薫読み終わった外は春雨。静かな午後。 『新潮』での連載を読んでいた時から、こんな夢のような作品を新作として読むことができるなんて、なんて素晴らしいことなんだ、感謝感謝と思っていた。それが一冊の美しい本となり、わたしの手元にある。 御簾越しに泰然とした後白河院の立ち姿があり、院は扇子をかざしながら、ゆらりゆらり声の舟を漕ぎだしてゆく。水面にゆるやかな抑揚の水紋が生まれ、ときおり光を反射しながら前後左右に波打つように広がって、ゆったりとスイングするそれは、声そのものよりある種の歓びの微熱、あるいは暖かな日差しの膨らみを男の耳に運んでくる。ああ、自分がもっと素直な人間だったなら、それこそささら浪立つように仏を感じ取るのかもしれない。 古典を愛するものにとって、これほど夢のような一瞬はない。今はもう絶対に聞くことのできないその声で、その歌や言葉を聞いてみたい。歓びの微熱。暖かな日差しの膨らみ。わたしもそのようなものを感じたくて、何年も飽きずに和歌を眺めているのかもしれない。 そうだ、和歌を眺めるにも、歌の中に言葉として顕れる色や、空気、音などに、もっともっと耳を傾け、見つめ、じっくりと味わう必要があると気付かされる。実朝の黒、雨の降る空の昏さ、靄、霞、海、風。 『墳墓記』を手元に置きつつ、また『太陽を曳く馬』を読む。高村作品の中でも特別に愛しているから、というわたしの主観的な理由だけでなく、この二作品はどこか繋がっているような気がする。じゆうらっか。
- 2025年4月10日マグノリア中村隆之,船越亮二借りてきた図書館で見つけて借りてきた。木蓮、泰山木、小賀玉の木、辛夷など、色々な種類を紹介している。 紫木蓮も、白木蓮も、辛夷も大好きな花。庭でも紫木蓮を育てているし、近所にも立派な姿の良い木がいくつかあるので、毎年花の季節を楽しみにしている。ただ、いつも不思議に思っていたことが、海外で見かけるマグノリアと、日本の木蓮の雰囲気がかなり違うこと。花は似ているのだけれど、雰囲気が違う。それは、剪定の仕方や、土や天候の違いからくるものなのかとなんとなく思っていたのだけれど、本書を読んで、品種の違いだということを知った。 日本は、マグノリアの育種家の数は圧倒的に少ないらしく、海外で発表された品種を細々と導入している、と。木蓮は日本から西洋に輸出しているのだろうと勝手に思っていたので驚いた。詳しく読んでマグノリアについてもっと学びたい。
- 2025年4月9日
- 2025年3月26日墳墓記高村薫買った満開の木蓮の下で一ページ目を開く。大切に大切に読みます。 三月二十八日 朝日新聞の記事より。 「際限がないんです。こんな世界が書きたいという欲望が。これからも基本は音の世界。音が聞こえてくるような世界をつくりたいですね」 次の音の世界も楽しみ。ようやくざわついていた心が静かになってきたので、『墳墓記』読み始めたい。 装画は「水面の春」という作品の部分らしい。水面の春と聞いて思い浮かぶ和歌。 花の色のをられぬ水にさす棹の雫もにほふ宇治の河長 定家 花誘ふ比良の山風吹きにけり漕ぎゆく舟の跡みゆるまで 宮内卿 ふもとゆく舟路は花になりはてゝなみに浪そふ山おろしの風 良経
- 2025年3月23日インド夜想曲アントニオ・タブッキ,アントーニョ・タブッキ,須賀敦子借りてきた読み終わった三月二十六日 今年最初の桜の花を、不意打ちのように目にした。午後の柔らかな光に溶けるようにきらきらと咲いていた。お昼ご飯を食べながら、『インド夜想曲』を読み進めている。 彼は言葉と言葉のあいだに間を置いて話し、ある大学で話されるように、接続詞をほんのすこし、ためらうように伸ばす、ひじょうに優雅な英語を話した。「practically …actually 」と彼は言った。 三月二十八日 桜が咲き同時に新緑が芽吹く。この違和感に今年もまだ慣れてはいない。暖かいのか寒いのかもよくわからない。なんとも不安定な春。読了。 須賀敦子の訳者あとがきに、『インド夜想曲』はより哲学的というのか、詩(抒情詩と制限する必要があるだろうが)の世界をめざしていると言えるのではないか、と書いてある。うーん、途中まんまとスパイ映画を見ているような感覚になり、スパイ映画に興味のない自分は、むしろもっともっとガイド・ブックのようなものや、それこそ須賀さんの書く随筆のようなものを読みたいと思ってしまった。途中で出会う人々が、人間というよりわざとらしいキャラクターっぽく思えてしまって。でもそれは意図されたものなのだろうか? 途中、これはあとでメモしよう、と思った一文があったのだけど、読み終えたあとに戻って探してももう見つからなくて、見えていたものがいつの間にか消えてしまうこの感覚は、この作品の読了後の気分とぴったり重なっている。
- 2025年3月21日
- 2025年3月21日幻想の肖像澁澤龍彦買った三月二十日 古本祭りで購入。 目次を見たらヤコポ・ツッキの「珊瑚採り」に触れている。ヴァザーリ周辺のマニエリスム絵画について書かれている本てあまり見かけないので嬉しい。 三月二十二日 男性が描いた女性像を男性が鑑賞して、例えば、 たしかにケネス・クラーク卿のいう通り、エロティック美術の成功の鍵は、誘惑的なまでにエロティックでありながら、しかも美術品のように冷静に鑑賞し得る、新しい肉体美のタイプを創出することにあるたまろう。 みたいなことを書いているの、もう読むに耐えられないかもしれない。裸婦像を「冷静に鑑賞」している人たちに、気持ち悪さを感じるようになってきた。
- 2025年3月21日
- 2025年3月21日ペガーナの神々ロード・ダンセイニ,荒俣宏かつて読んだ三月二十日 古本祭りで購入。 以前図書館で借りて読んだ時にとても魅力的な登場人物がいたような気がするけれど、全く忘れてしまったので再読が楽しみ。夢の都市バブルクンドが登場する本もいつか手に入れたい。 三月二十二日 そして、スカアルの腕がついに永遠に太鼓を打ち鳴らさなくなるそのとき、沈黙が、洞窟にひびく雷鳴のようにペガーナを襲い、マアナ=ユウド=スウシャイはそれを聞いてとうとう休眠からめざめる。 沈黙を聞いて目覚める、なんて美しい表現!
- 2025年3月11日有明詩抄蒲原有明ふと思い出した今日はあまり重い本を持ち歩きたくなくて、文庫一冊ポケットに入れた。大好きな詩集。 「綠の印象」 蒲原有明 古き古き追憶のあなたに、いつしか 忘られたる綠の 印象よ、盲ひぬる おぼろの薄膜のあなたに。 遠ぐもり淀める 空氣のえもわかぬ 感觸の薄明かり、 その奥にこもりて咽び入る聲あり。 哀愁の森の若葉の、 はたや漂浪の廣野の草の啜泣きか、 忘られたる古き追憶の、 ただにうら悲し。 淡くはかなげなる綠の古き印象よ、 おぼろなる影の浮ぶは花か、 戀としも見えぬにほひに絡み、 かすかにもうるほふ綠の涙。 今日の気持ちにぴったりの一編。 先日、長年楽しみにしていた映画『ウィキッド』を見に行って、かつて何度も通った舞台のことを思い出している。アポロヴィクトリア劇場。朝から並んで二十ポンドの当日券を買う。最前列。もう十年以上も昔の出来事で、緑の魔女をずっと心に大切にしていたつもりでも、美しく楽しい記憶は思っていた以上に薄らいでしまったみたい。寂しい。
- 2025年3月8日
- 2025年3月8日バガヴァッド・ギーターの世界上村勝彦読み終わった読み始めた三月五日 大好きなドラマ(アシモフ原作『ファウンデーション』シリーズ)の作中に、人類の美しい遺産として『バガヴァッド・ギーター』が登場する。「神の詩」と呼ばれるこの聖典について知りたくなり、何冊か準備してみました。冒頭から、「大乗仏教に強い影響を与え、その結果生まれたのが如来蔵思想であるということができます」と書いてあり、大変興味深い。 三月六日 庭のミモザがこの連日の寒さに咲くのを躊躇っている。早く春を感じたい。休みの日になぜヒンドゥ教の聖典について学んでいるのか自分でもよくわからない。一時間ほどのうとうとしながらの読書。 神であるクリシュナと勇士アルジュナの問答、その本編を読まずに解説書から読みはじめてしまった。「すべての行為を絶対者(=神)に対する捧げ物として行えば、行為の結果に束縛されない」というような事を神自身が伝え、その命ぜられている行為が今のところ「戦え」なのがいまいちピンときていない。 三月七日 仕事の合間に。「臨終のときに何かを念じた場合、死後にその念じた対象と必ず一体化する」 神クリシュナが人間の形だと男性、というのが解せない。信仰の為に読んでいるわけではないので、自分と深い関わりはないのだけど、どうして一神教の神とか預言者って男性ばかりなんだろう? 三月八日 神への信愛、神との一体化についての説明部分を、長々と読んでもう限界、と思って本を閉じて諦めようとしていたところに、 「第十四章 カーラ(時間)の恐怖」 私は世界を滅亡させる強大なるカーラである。諸世界を回収する(帰滅させる)ために、ここに活動を開始した。たといあなたがいないでも、敵軍にいるすべての戦士たちは生存しないであろう。それ故、立ち上がれ。名声を得よ。敵を征服して、繁栄する王国を享受せよ。彼らはまさに私によって、前もって殺されているのだ。あなたは単なる機会(道具)となれ。アルジュナ。 この部分、ドラマで引用されていたような、されていなかったとしても、大きなテーマの一つになっていたと思う。個人の行動も思いも、大いなる時間、歴史を紡ぐには全く関係ない。あなたが行動しようがしまいが、結果は変わらない。これは『ファウンデーション』シリーズの原作にも美しく響いているテーマだ。 カーラ Kala ドラマにはKalleという原作には登場しないキャラクターがいて、とても意味深な存在なんだけど、もしかしたらこのKalaが元となっているのかな? 解説にある「著者の信仰告白」的な箇所は今回の読書の目的ではなかったので飛ばして、なんとか読了。次はいよいよ『バガヴァッド・ギーター 神の詩』を読みます。
- 2025年3月5日
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