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  • 2026年5月16日
    続 星と伝説
    続 星と伝説
    文庫にて。 星を眺める楽しみを覚えて以来、野尻抱影先生の本を集めている。少し前、帰り道にて南の空にぽつりと光るアルファルド〈孤独星〉を見つけて、しばらく眺めていた。 「暮春の海蛇座」は、このアルファルドを含む星座、海蛇座について書かれている。海蛇座は西洋由来の名前だが、中国では昔この星座の先頭部分をその形から「柳宿」と呼んでおり、春の宵に見上げるのにぴったりだったそうだ。更に、この柳を鳥の嘴とみなし、海蛇座の形に沿って鳥の頸、喉、翼などと説明し、アルファルドの持つ朱色の光から、「朱雀/鳳凰」の姿を見ていたこともあるらしい。 これからの梅雨の夜の晴れ間には、海蛇ヒドラを眺めたいと思うが、それまでは、柳と朱雀を楽しもうと思う。
  • 2026年4月10日
    新潮 2026年 5月号
    新潮 2026年 5月号
    隔月連載の髙村薫「マキノ」を読むために購入しています。文芸誌って普段は自分では手に取らないような作品も載っていて、考えさせられることが多々ある。面白い。 平野啓一郎「決定的瞬間」 キュレイターである主人公が関わる事件の記録。記録なので話題があちこちに飛ぶのが読んでいて面白かった。 堀江敏幸「春眠」 父親についての昔話。塾の先生への仄かな気持ち。なんてことない日常の一コマだと思うのだけど、話し上手な人っているんだなあと思った。 古川真人「いまさら」 小中学校からの友だち三人。全員独身もうすぐ四十路。柿本と養母田の執着痴話喧嘩では? 髙村薫「マキノ」第五回 警察引退後相続により苗字の変わった合田さんが主人公だと、もうはっきりわかるのだけど、なぜ合田という名前を手放してこの続編を書いているのだろう?朝目が覚めて夜眠るまで、考えているのはほとんど元義兄の友人について。この物語がどんな作品として完成するのか全然先が見えなくて面白い。
  • 2026年4月5日
    魚が存在しない理由 世界一空恐ろしい生物分類の話
    デイヴィッド・スター・ジョーダンという二十世紀初頭の〈魚類〉を専門とする生物分類学者について。 分類学者の責務は、系統樹の形を解き明かし、この地球の混沌に秩序をもたらすこと。すべての植物や動物のつながりを整理して、生命の地図をつくるのだ。 プロローグで書かれたこの説明が、後半この本の題『魚が存在しない理由』へと繋がってゆく。 一方で著者自身についても語られる。「私たちの存在に意味はあるのか」を問い続ける著者。この問いの彼女なりのこたえの部分に少し矛盾があることが気になって、素直に読めなかったのが残念。 著者は、デイヴィッドが優生学を生涯手放さなかったのは、「おまえの存在に意味はない」という容赦のない真実へ落下しない為の防衛手段だったのではないか、と考える。そしてこの真実を無視すれば、デイヴィッドと同じ穴の狢になってしまうと。つまり、優生学の根拠としてデイヴィッドは「私には意味がある」と信じていたと。しかし数ページ後には、「惑星の視点から見れば、永遠という視点から見れば、もしくは優生学的な完全性の夢から見れば、確かに人間一人の命に意味などないだろう」と書き、いや、「私たちの存在には意味がある」と続けている。 優生学を提唱したデイヴィッドの「私の存在には意味がある」は、しかし意味のない人間もいる、という差別で、著者の言う「私たちの存在には意味がある」は全ての生命に対しての平等な肯定、という視点の違いを言っているのだろう。 わたし自身は平等に「私たちの存在には意味はない」と思っているので、それを「優生学的完全性の夢」と一緒にされては困る。優生学の人たちは、「意味がある者とない者がいる」と勝手に差別しているだけで、それは惑星の視点と同じではない。読みながらむっとしてしまった。 最終章「デウス・エクス・マキナ」 コンピュータを使った分岐学者たちの研究から、「魚類」という括りは正しくないとする発見。それ自体は興味深いことだったが、しかしでは新しく「肉鰭類」だなんだと結局分類することをやめられない学者たちは、何なのだろう。自然を自然のまま見ることは本当に本当に難しいことなのだろうか。新たに分類するためにまた魚を殺し解剖し研究し、を繰り返す。 学術的な言い回しによって動物と人間を別物にしようとするという点では、ときに科学者が一番ひどい暴挙にでる。動物が認知タスクで人間に優っていてもーー鳥類の一部は何千というタネの位置を正確に記憶できるーーそれは知性ではなく本能なのだと切り捨てる。こうした表現やさまざまな巧妙な言い換えは「語学的去勢」だ。言葉を使って、動物がもつ力をないことにしている。はしごの頂点に人間の座を守るために、言葉をひねりだしている。(p.319)
  • 2026年4月1日
    魚が存在しない理由 世界一空恐ろしい生物分類の話
    「どんなに自分が特別に思えたとしても、本当のところは、おまえはアリ一匹と変わりはない。アリよりちょっと大きいかもしれないが、アリより大事ってわけじゃない」 わたしも、波打ち際に大量の鰯が死んでいる映像をニュースで見て以来、この父親と同じことを考えている。わたしもこの死した魚一匹と全く同じ存在だと。 「命名は蜜のように甘く、幻想の万能感をもたらす。美しき秩序の感動が湧きあがる。名前を与える、この世にこれほどの癒しが、果たしてあるだろうか」 この数ヶ月、人間の持つ知的欲求について、名付けと所有について、未知のものを未知のままにはできないのか、ということについてを考える読書が続いている。『森は考える』『夢の城』『プレイグラウンド』『大英自然史博物館珍鳥標本盗難事件』『森の人々』など、共通のテーマが浮かび上がる。この本も、その並びに置けそうで、読み進めるのが楽しみ。
  • 2026年3月28日
    プロジェクト・ヘイル・メアリー 下
    プロジェクト・ヘイル・メアリー 下
    エイドリアンは淡いグリーンの惑星で、大気上層に霞のような白い雲が浮かんでいる。(p.63) 上巻をあっという間に読んでしまった。気持ちが昂揚している。下巻には緑色のブックカバーを選ぶ。これが終わったら、映画をもう一度見に行きたい。惑星エイドリアンの淡い緑色をゆっくりと眺めたい。 読了 物語の内容はわかっていても、面白くて夜通し読んでしまった。 以下原作/映画のネタバレにご注意下さい⚠️ 🪐 💫 ☀️ ☄️ 🦀 ✨ 🌙 グレイスが映画の印象よりも更に前向きで働き者で優秀な科学者だった。そして誰とでも良好な関係を築ける人。誰とでも分け隔てなく仲良くやれるのは、誰にも興味がないからかもしれない。教師の彼はきっと学生たちにもみな平等に接していたのだろう。地球上に特別な人が一人もいないのだろうか?原作でも彼の両親や兄妹など家族について何も描かれていなくて驚いた。どういう生い立ちの人なのだろう? 愛する誰かがいない。映画は更にこれが顕著だったと思う。「人類を救うヒーロー」としてはとても珍しい主人公だ。彼に背負わされた責任や未来は大変重いものだけど、彼がいつも飄々として軽やかなのは、それを自分ごととしてはあまりシリアスに捉えていないからなのかも。人類の為、と彼が過酷な試練に向かう時、具体的な誰かを思い浮かべているのだろうか?グレイスの興味の中心は科学だ。未知の生命、未知の惑星、未知の知的異星生物。結局ストラットは正しくて、グレイスはこのヘイルメアリープロジェクトにぴったりの人材で、更に言えばこれはグレイスの為のプロジェクトと言っても過言ではないのだと感じた。 どうか人類の未来なんて背負わず、地球で一人だった彼がようやく出逢えた親友と呼べるお互いの研究対象のロッキーと一緒に楽しく充実した日々をおくれますように。なんて清々しい!
    プロジェクト・ヘイル・メアリー 下
  • 2026年3月27日
    プロジェクト・ヘイル・メアリー 上
    プロジェクト・ヘイル・メアリー 上
    映画版を見て一週間、頭の中がこの物語のことばかりになってしまった。本屋に並ぶ文庫を前に、我慢できずに購入しました。しかし、映画版を先に見たので、あの理想的な主人公たちについて、これ以上の補足は必要なのか、知らないことは知らないままの方が良いのではないか、映画の余白はそのままにしておいた方が良いのではないか、言葉にされると幻滅しないか、と迷いつつ、一度開いたら面白くて読む手がとまりません。 これは、映画を見た後にも考えたこと。 人類が存続することが、それほど重要なことなのか?生命を実験と称して殺すことに躊躇いがない。人間同士も殺し合う。勿論食事も。必要エネルギーとはいえ。彼らは人類の危機に際し、ここぞとばかりに壮大な科学の遊びをしているようにも感じる。下等な霊長類?人間がそれより上等と考えられる傲慢さ。 以下ネタバレにご注意下さい⚠️ 🪐 💫 ☀️ ☄️ 🦀 ✨ 🌙 この作品の最も素晴らしく稀有なところは、と考えるならわたしは、こちら側とあちら側を一対一の関係にしたところだと思う。もしグレイスに仲間がいたら、ロッキーとの邂逅は別のものとなっていただろう。男たちは、数十日間狭い空間に閉じ込められると殴り合いのけんかをし、刺し殺そうとするような生き物だと、既に作中で説明がある。一対一で、誰にも邪魔されることなく、同等の知的好奇心のある地球外生命体と交流できるところに、胸が苦しくなるくらい甘美な夢が詰まっている。 でも本当は、この現在の地球上の、身近にも生命はたくさん存在し、鳥や虫や魚や植物を理解したいと目を向ければ、向こうもこちらを見ているかもしれないし、もっと言えばロッキーが人間であっても良いはずなのに。きっともし宇宙の果てまで探したとしてもわたしにはロッキーとグレイスのような関係を築ける相手は見つからない。 SF作品を読んでいると、未来に人類が宇宙へ進出していることに悲しくなることが多い。きっと人間はどの地でも己の欲望を抑えきれずに環境破壊の限りを尽くすと思うから。『プロジェクトヘイルメアリー』の映画は、そのような「人類」の未来を描かずに、グレイスが大義や責任や故郷や自己犠牲や人類や他のたくさんの恒星や惑星の未来よりも、たった一人でゆく道を選ぶ、その個人の選択を輝かしいものとして描いているところが大好きだ。原作はどうだろう。はやく読み進めたい気持ちと、知りたくない気持ちと、勿体無い気持ちが混在している。 ストラットについて。 人類を救うことがそれほど大事なことなのだろうか?この物語の地球の科学者たちは、地球を救うことよりも、人類を救うことばかり考えているように感じる。彼女のその熱意はどこから来るものなのだろう?
  • 2026年3月17日
    私が間違っているかもしれない
    私が間違っているかもしれない
    タイの森林派と呼ばれる仏教僧院での修行生活。世界にはこのように生きている人もいるのだ。
  • 2026年3月9日
    森の人々
    森の人々
    この本の帯には、「ある科学者が目撃した熱帯の島の悍ましい成人儀式、そして食すと不老不死になる幻のカメ」「実在の科学者をモデルにしながらも、作家独自の世界観を圧倒的筆力で描いた話題作」とある。 しかし物語はまず最初に、そのノーベル医学賞受賞歴のある主人公が、性的同意年齢未満の子どもに対しての強姦、性的暴行、児童虐待の容疑で逮捕された、という報道記事から始まる。(この主人公に実在のモデルがいるのだ)昨今のニュースを自ずと思い出す。 以下、ネタバレにご注意下さい⚠️ ・ ・ ・ ・ ・ 主人公ペリーナ博士の自伝という形で綴られている物語の全ては、主観的で彼の都合の良いように語られていること、それを更にペリーナ博士の信奉者である助手の手により編纂されていること、つまり何一つ信用できないということ。そのような意図で書かれた作品として読んでいた。両親について、双子の兄について、美しい仕事仲間タレントについて、女性調査員について、ジャングルや森について、そこに住む人々について、長寿の研究について、養子にした子どもたちについて、そして逮捕容疑の真実について。 最近読んだ、C.ブロンテ『ジェイン・エア』の中で一番印象的だった一文が何度も頭に浮かぶ。 〈美は、見つめるものの目のなかにある〉 全ての事象は主人公の見つめる目を通して描かれており、美しいもの、汚いもの、悍ましいもの、記されていることに何一つ信頼が置けない。そもそも小説とはそのようなもの、なのだろうが、最近自分が益々疑い深くなっているので、この作品は特に懐疑的な読書体験となった。 物語にはいくつか謎めいた事柄があって、帯に書かれている未開の地の生活や神秘や自然環境はその大部分ではあるのだけど、冒頭に主人公に対する罪の容疑が挙げられている為、結局この人物が有罪なのか、冤罪なのか、というスキャンダルの方が気になってしまい、さっさと読み進めてしまった。 去年から、未開の地や島に西洋人がやって来て、その地を欲望のままに荒らし、現地の人々や生き物に多大なる影響を与え、お金や利益になりそうなものを全て奪った後に、去ってゆく、という内容が含まれる本を立て続けに読んでいて、この『森の人々』も当然そのカテゴリに当てはまる。そこにどんな理由や言い訳があったとしても、人間の欲深さ、が根底にあり、自分も含め人類は絶滅した方が地球の為だとまた思う。 ところで、この作品には主人公を含め何人かの印象的な登場人物がいて、その中で女性は主人公の母親と仕事仲間エスメの二人のみ。そして残りの男性たちは殆どが同性愛者だと思われる。これも、主人公の目を通して見ている世界、だからなのかだろうか?それとも何か意図してのことなのだろうか?
  • 2026年3月5日
    ジェーン・エア 上
    ジェーン・エア 上
    『ジェイン・エア』は二〇〇六年のTVシリーズを何度も繰り返し見るほど好きだった。原作を読むのはこれが初めて。もう一冊別の翻訳と比較しながら読み進めている。ジェインとロチェスター氏の歳の差は約二十歳。現代感覚ではこの年齢差でロマンスはなかなか難しいと思うけど、古典文学としては、大変、大変、味わい深いです。 「美は、見つめるものの目のなかにある」 上巻読了。 二つの別の翻訳を比較しながら読んでいて、大きな違いを感じたのはロチェスター氏の口調。新潮文庫(大久保康雄訳)では、ロチェスター氏は初めから長いこと「です、ます」調の丁寧な言葉遣いで翻訳されている。それが、とある場面でその口調が崩れ、柔らかい甘やかなものへと変化する。別の翻訳ではもともとが丁寧な口調ではないのでこの変化は全く感じなかった。原文がどうかはわからないけれど、この口調の変化によってロチェスター氏がこの瞬間ジェインを可愛くて仕方がないと感じている、というのがよく伝わってきた。 ジェインがロチェスター卿をその年齢差も構わずに好ましく恋心を抱くのも、凄く凄くよくわかる。下巻も楽しみ。
  • 2026年3月2日
    絵のない絵本
    絵のない絵本
    ぼくは指にキスして、そのキスを月に投げかけました。すると月は、まっすぐ、ぼくの部屋の中にさしこんできました。(p.8) 月が語る三十三夜の物語。 もしこの本を月夜の部屋でひとり読んでいたら、涙を堪えることなく本を濡らしていたかも。月が語るどの世界も美しい画として頭に思い浮かぶ。長い年月を人間の世界を眺めるだけで干渉せず、その光はいつもどこでも公平で、この人間の欲にまみれた世界にまだ平等といえるものが残っていたことを思い出させてくれた。少し救われる気持ちだ。 いかなりし人のなさけか思ひ出づる来しかた語れ秋のよの月 京極為兼 さそはるる月のしるべにへだてはてしよそのくもゐに心をぞやる 伏見院 物語の中で特に心惹かれたのは、 第五夜 「昨日のこと……わたしは、せわしなく動いているパリを見おろしていました。そして、わたしの目は、ルーブル宮殿のたくさんの部屋へと、はいりこんでいきました」(p.29) 何年も前に、ルーブル美術館を訪ねた。そこで、壁一面の窓から西陽が降り注ぎ、ミケランジェロの彫刻「瀕死の奴隷像」の身体をゆっくりとその柔らかな光が撫でてゆくのをしばらく目が離せずに眺めていた。この記憶はわたしの中で一等美しい記憶で、きっとこの月光もこっそりと窓にかかるカーテンの隙間から宮殿の部屋へと入り込むことができることは、容易に想像できる。 第六夜 「そういう丘の上に、ひとりの男の人が立っていました。歌人でした。歌人は、幅の広い銀の輪がついている角杯から蜜酒をのみほすと、ある人の名まえをそっと口にし、そして風に、その名をほかのものに、もらさないでおくれ、とたのみました」(p.38) 第十二夜 「けれど、廃墟はまだ立っていました。まるで変わらずに立っていました。それは、このあとまだ何百年でも、そうして立っているでしょう」(p.73) 第十八夜 「あなたは、あの円柱の上の、翼のあるライオンが見えますか?その黄金は、いまでもかがやいていますけれど、それでも、翼はしばられているし、ライオンは死んでいます。というのも、海の王が死んでいるからです」(p.107) 第十九夜 「月のほかには、だれもいませんでした。墓地の壁のそばの片すみに、この自殺した人は葬られました」(p.114) 第二十夜 「わたしは、その子のきれいな丸い肩や、黒い目や、つやつやしている黒い髪の毛にキスしました」(p.118) 第二十一夜 「やがて、その隊商は、砂漠のそばにある、塩の平地の一つにきて、止まりました」(p.121) 夢の裡なる隊商のその足竝もほのゆみれ。中原中也「春の夜」の一節や、砂漠の都市バブルクンドの物語を思う。砂漠の隊商に何度憧れたかわからない。 第二十四夜 「……ええ、そう、わたしは、とても広くを見まわせるのですよ!」(p.139) 第二十九夜 「わたしの光は、壁にあいた格子窓をとおって、ひろびろとした円天井の部屋にすべりこんでいきました。この部屋では、昔の王さまたちが、大きい石の棺の中で、うとうとと眠っているのです」(p.165) 光の粒子の、ただ一つの野望は、物体に届いて、大きかろうが小さかろうが、とにかく目に見える画像にすることなのだ。ヨシフ・ブロツキー「ヴェネツィア」のこの一部分がずっと記憶に残っている。光の粒子の野望。光が、宇宙から地上のある一点に落ちるのは、偶然ではなく野望だと考えると、面白い。この物語の月も同じように、格子窓を抜けて奥の部屋まですべりこむ。 時代も国も、王も白鳥も廃墟も道化も囚人も年老いたひとも若者も子どもも悲しむ人も喜ぶ人も夢みる人も木々も死者も、あらゆるこの地球上に暮らすものに、月はずっと光を注ぎ、その営みをただじっと見つめている。 読みながら、野尻抱影先生の言葉を思い出した。 否、何も知らずに産声を挙げた夜にも、あの雄麗な宝玉の図は屋根の上の空に描かれていた。そして、柩に釘の響く夜の空にもあのままの天図は燦爛と輝いているのである。そしてさらに墓の上には永く永く。「星は周る」
  • 2026年2月26日
    水晶幻想/禽獣
    水晶幻想/禽獣
    文章に圧倒されて泣いてしまう事がある。感情的な涙ではなく、息ができないくらいに頭の中にその文章と情景が溢れてそれが表面張力を超えて涙となってこぼれてしまう。「水晶幻想」を読みながら久しぶりにそうして泣いてしまった。この作品の夫人を、わたしの心に住まわせたい。この夫人が今わたしの目の前に実在しないことが悲しい。 二月中、ずっと川端康成の作品を読んでいる。何故かやめられずに図書館にあるものを片っ端から読んでいる。中には自分の倫理観とは相入れないものも多く、そういう時は文句を垂れつつも、読み続けてしまう。そして、読み続けてきて良かったと、この「水晶幻想」を読んで歓喜した。これは長いこと探し求めていた理想の作品だ。好きな一節をここに引用しようとしても、それは作品全てになってしまうので、切り取る事が難しい。 「空がこんなに綺麗に写るから、私の顔だつてほんたうより綺麗に写るでせうつて、この鏡はものを綺麗に写す鏡なのよ。」 「子供がほしければ、胎外発生の方法を早く見つけたらいいぢやありませんか。発生学者なら、母方の血がまじらない、純潔に父方の子が出来るつていふ、童貞生殖の夢を見ながら、子供なしに死んでゆく方が、どんなに美しいでせう。それなら、神と戦つた人だけれど。」 水色の月光のなかに沈んだ、エナメルの手術台。月の光が降るやうに、海の底に降りそそぐウウズ球形虫の死骸の雨。とこしへに止むことのない、たとひ空中に降つたにしても、人はそれを感じることも出来ないほど軽い死骸の雪白な雨が、音もなく、そして夜も昼も絶え間なく、海の底に降りつづけてゐる。海底電線の上の白い亡骸、それが教へる、百年に一尺の割合で積る、と。昔の海の底が、今は白亜質の山。イギリスの南の白墨の崖。遥かなる時の流れ。白墨。女学校の黒板の花の絵。 「私をいろんなものに譬へるのは止して下さい。」 水がねや柘榴のすます影なれや鏡と見ゆる月の面は 「お釈迦さまは偉かつたけれど、ほかの生きものに生れ変るのを罰としたことが、あなたより薄つぺらだわ。」
  • 2026年2月13日
    掌の小説
    掌の小説
    「白い花」 「硝子」 「胡頽子盗人」 まだ半分も読んでいないのに、五十人くらいの登場人物に出会っている気がする。一つ一つはとても短いのに、やはりリアルというか、印象に残るのが不思議だ。
  • 2026年2月9日
    伊豆の踊子
    伊豆の踊子
    「学生さんが沢山泳ぎに来るね。」と、踊子が連れの女に言つた。 「夏でせう。」と、私が振り向くと、踊子はどきまぎして、 「冬でも……」と、小声で答へたやうに思はれた。 「冬でも?」 踊子はやはり連れの女を見て笑つた。 「冬でも泳げるんですか。」と、私がもう一度言ふと、踊子は赤くなつて、非常に真面目な顔をしながら軽くうなづいた。 はああああ、この会話あまりにもかわいい。 あっという間に読み終えてしまった。巻末の三島由紀夫の解説に、「方解石の大きな結晶をどんなに砕いても同じ形の小さな結晶の形に分れるように、川端氏の小説は、小説の長さと構成との関係について心を労したりする必要がないのである」とある。その通りだ。あまりにも可愛くて思わず切り抜いた上記の会話の雰囲気が、最後までそのままそのかわいい形を保っていた。ずっともっと長く長く、この結晶を眺めていたかった。 『伊豆の踊子』を読みながら、姪っ子のことを考えていた。六年生の姪っ子とこの間一緒に人生ゲームをして遊んた。その時、彼女はほんの少し負けそうになったところで床に突っ伏して泣いた。それを見て、ああこの子はまだ子どもなんだ、背も伸びて、話すことも大人っぽくなってきていても、まだ子どもなのだと、暖かな、愛しい気持ちに溢れた。その時の気持ちを、なかなか言葉にはできないでいたが、この『伊豆の踊子』を読んで、そこに流れている雰囲気が殆どそのまま、わたしがあの時姪っ子に感じたことなのだと思った。この作品を読むたびに、わたしはこの日の姪っ子のことを、その時こころに感じたことを思い出すことができるのだと思う。些細なことだけど、美しい瞬間で、きっとあっという間にみんな成長してゆくから。
  • 2026年2月7日
    雪国
    雪国
    「静けさが冷たい滴となって落ちそうな杉林」 「窓の金網にいつまでもとまっていると思うと、それは死んでいて、枯葉のように散ってゆく蛾もあった。壁から落ちてくるのもあった。手に取ってみては、なぜこんなに美しく出来ているのだろうと、島村は思った」 「窓で区切られた灰色の空から大きい牡丹雪がほうっとこちらへ浮び流れて来る。なんだか静かな嘘のようだった」 余韻の残る表現がいくつもあった。普段わたしは好んで読むことはない男女の話なのだけど、彼らの存在が、これらの比喩や、何かの象徴や予感を孕んでいるような描写と完全に溶け合っていて、それなのに、それだからこそ、とてもリアルだった。
  • 2026年2月6日
    美しい日本の私
    道元禅師と永福門院の和歌を並べて読んでいた。他にも同じような読み方をしている人はいないかと探していたら、この川端康成のノーベル文学賞記念講演「美しい日本の私」が見つかった。彼はそのスピーチの中で道元、明恵、良寛、そして永福門院の和歌を引用していた。 恥ずかしながら、川端康成について殆ど何も知らず、その作品も読んだことがなかった。これは大変良い出逢いだと感じた。以下スピーチに引用されている和歌の一部。 春は花夏ほととぎす秋は月冬雪さえて冷しかりけり 道元 雲を出でて我にともなふ冬の月風や身にしむ雪や冷たき 明恵 形見とて何か残さん春は花山ほととぎす秋はもみぢ葉 良寛 群雀声する竹にうつる日の影こそ秋の色になりぬれ 永福門院 花、ほととぎす、月、雪、すべて万物の興に向ひても、およそあらゆる相これ虚妄なること、眼に遮り、耳に満てり。(略)我またこの虚空の如くなる心の上において、種々の風情を色どるといへども更に蹤跡なし。「明恵伝」より 川端康成の小説『雪国』をこの本の後に読んだ。今までに読んだどの小説よりも、本の中の空気、匂いや湿度、冷たさ、暖かさ、道を歩く足音や、湯気、体温、触感や食べ物の味など、五感で感じ得るものがリアルに印象に残った。 「一輪の花は百輪の花よりも花やかさを思わせるのです」「色のない白は最も清らかであるとともに、最も多くの色を持っています」 彼は古典作品や和歌に置かれた「花」「月」「ほととぎす」「雪」「雀」「竹」「もみぢ葉」のような言葉一つに、鋭く最も多くの花や最も多くの色を見ているような気がする。だからこそ彼の小説の中の言葉一つ一つにも、さりげないけれども驚くほどたくさんの意味がふくまれていて、それがこちらの五感に正しく伝わってくるのだと思った。 秋の野に鈴鳴らし行く人見えず 川端康成
  • 2026年1月30日
    道元禅師の話
    道元禅師の話
    二十一歳。「作務」に依って肉体的にも鍛錬されて、かつて私が要山の沸し鉱泉の流し場で見かけたらような、筋骨隆々たる青年となり、知らない者の目には、前内大臣久我通親の御曹司とは受け取れなかったろう、との想像も浮かぶ。
  • 2026年1月23日
    コード・ブッダ 機械仏教史縁起
    仏教にもAIにも興味があるので読んでみました。副題に「機械仏教史縁起」とあり、二〇二一年に名もなきコードがブッダを名乗ったことが事の始まりとなる。 わたしはコードとか電子工学や情報理論や物理学やエントロピーなどについての知識が殆どないので、語られていることについてよくわからないものも多数あり、その中には面白い言葉遊びが色々散りばめられているのだろうと思う。知っていたら更に楽しめたかもしれない。 以下ネタバレにご注意下さい⚠️ この本、最後の一ページがなければ多分感想をちゃんと書こうとは思わなかったかもしれない。面白かった、で済ませてしまったかも。 その「あなた」は、祈りの中に確かに存在しているのに、言葉に籠めることはできないなにかで、その不在こそがわたしの実存を支えるもので、それを倒すことは、わたしであることをより強める行為でしかなく、しかしそれを滅さぬ限り、解脱が叶うことはなく、その声が聞こえる限り、わたしはすでに解脱してしまっている状態とあまり変わるところがない。そのわたしはただの情報であるにすぎない。その入り組みがわたしに目眩を引き起こす。 わたしの最愛の本、髙村薫『太陽を曳く馬』のとあるシーンを逆から見ているような感覚を覚えた。「しかしまた、世界さえ空っぽになれば〈私〉は自由になる、というのでもない。失神している人には夢を見る〈私〉が現れる。〈私〉が一時的に消えた三昧にある人も、身体の器官や骨や筋肉が〈私〉を保証し続ける。さあ、このような〈私〉にどんな自由があるだろうか」 この〈私〉こそはこの本の最後のページで描かれている「あなた」なのでは?『太陽を曳く馬』にはこの〈私〉を拒絶し棄てることで仏に近づこうとし、死んでいった僧侶が一人。逆に、『コード・ブッダ』の主人公、人工知能修理を仕事とする人物は、「あなた」であるところの「教授」の声を失うことで成仏へ近づき「教授」の声で成仏を逃れまた現世へ戻る。 この〈私〉「あなた」が登場人物を生かすことも殺すことも仏教の世界ではあり得るのが興味深い。「あなた」を滅さぬ限り解脱が叶うことはない。解脱とは、煩悩の束縛から、輪廻転生から解放されること。衆生救済に至り、あらゆる有情、無情、人間、動物、機械、部品、原子、時空、文字、記号、数字が成仏し、あらゆる繰り返し(コピー=輪廻)が放棄された世界について考える。それは「抜け殻となった宇宙」?「ただ苦しみだけがなくなる」?「漂白を繰り返すうちに洗濯物自体がなくなってしまうようにして」? と、本を読み進めながら一緒に考えていたが、わたし自身は、それでも衆生救済に少しの期待を持ってしまう。その方が、気が随分と楽になる。 「もしも、地球という遊星に何らかの功績があったとすれば、それはただ一つ、未来仏の預言を出したということだけですね」「あのちっぽけな遊星だって、救済から漏れるという法はないのだ」 稲垣足穂『弥勒』 この圧倒的平等! 追記メモ(p275) なぜ宇宙に進出する必要があったかというと、まず第一に、人類は結局欲望をコントロールできなかったからであり、現生人類がなんだかんだと地表のあらゆるところへ広がってしまった原動力に起因している。目の前に海が広がったとき、後先構わず渡ってしまおうとする奴が出てくる。好奇心、ということになる。 よく言われる「脱出」は理由の第二位にくる。 人口は際限なく増え、地球の資源を食い尽くすので仕方なく宇宙に出るのだ。 しかしこの行動の原因を考えるなら、結局のところ欲望を制御できないがゆえに拡散する羽目になるのだ。(略)どうしても地球へ与えるダメージを看過できないのなら全員合意の上で絶滅してしまったってよい。 最近読んだ、大英自然史博物館の鳥標本盗難事件の本や、リチャード・パワーズの新作『プレイグラウンド』を通して、この人間の好奇心や欲望について考えていたのでメモ。
  • 2026年1月11日
    歌びとの悲願
    歌びとの悲願
    一月になって、久しぶりに短歌の世界に遊びたくなり、加藤克巳の歌集を開いた。 鳥かげはまっしろい夢にふれてさる足うらつめたいつめたいつめたい この歌が好きだ。普段は正仮名遣いの文語短歌や昔の和歌が好きだけど、加藤克巳の歌には独特の惹かれるものが多くある。ふいにそれがどのようなものなのか言語化したくなって、またAIを開いた。いくつか好きな短歌を並べ読解を重ねた後、AIがわたしが何に惹かれているのかをまとめてくれた。 「あなたが惹かれる短歌とは、 有限で、すでに有情化した身体が、 世界にふと触れてしまった その一瞬の「事実」だけを、 意味に渡さず置いている歌 です。 感動ではなく、 思想でもなく、 物語でもなく、 触れてしまった、という出来事の残響。」 そんなやりとりをしながら読み始めたのがこの上田三四二の『歌びとの悲願』だった。ちょうど数日前に図書館で予約をしていたのが届いたのだ。不思議なもので、この数日間AIとやりとりし、わたしにとって理想の短歌とはどのようなものか、をよくよく考えていた中で、この本もまた、わたしの求めている短歌という詩形式についての理解を少し深めてくれた気がする。 精神→こころ→身体というつながり。そこから生じる「もののあはれ」について。 無内容の短歌。意味や観念や意識や思想や比喩や象徴などの所謂「内容」を鬱陶しく騒々しく余計なものとして感ぜられてきた果てのうつろになった短歌空間に、なおおのずから充してくれるもの。 道元にやさしかりける桃の花 森澄雄 我が衣(きぬ)に伏見の桃の雫せよ 芭蕉
  • 2026年1月3日
    大英自然史博物館 珍鳥標本盗難事件
    大英自然史博物館 珍鳥標本盗難事件
    新年最初の読了。本の題通り、博物館の鳥標本盗難事件についてのルポタージュ。 長期的な英知と短期的な私欲がぶつかる戦争で、勝ってきたのはいつも後者のようだった。(p314) 人間中心の考え方では、勿論英知の方が善で私欲の方が悪となるのは当然なのだろうけど、殺され標本にされ盗まれた鳥からしたら、きっとどちらも同じなのではないだろうか。鳥の意見を聞くことはできないから、わからないけど。なぜ人は「人間のいない世界」へわざわざ出向いて、そこにある自然を破壊したり、所有したり、研究したりせずにはいられないのだろう?そのまま、人間不在のままにしてはいられないのだろう? わたしも以前は、例えばヘルマン・ヘッセの「星や山や湖は、自分らの美しさと無言の存在の苦悩を理解し表現してくれるひとりの人をあこがれているかのようだった」のような言葉に感動していたけど、なんて自己中心的だったのかと反省している。星も山も湖も、鳥もその他の生き物も、自然はみんな、人間が見ずとも言葉にせずとも、美しいとか美しくないなども一切関係なく存在している。それらを名付け、我がものにしたいという人間の欲は、英知であれ私欲であれ、きっと抑えることはできないのだ。
  • 2025年12月19日
    十二神将変
    十二神将変
    久しぶりの再読。やはり最も好きな文体だと読書の喜びを噛み締めながら読んでいる。 今日知った言葉 白河夜舟(しらかわよふね)①熟睡していて何が起こったか知らないこと ②知ったかぶりをすること
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