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蝶児来りて舞ひ、蝉来りて鳴き、小鳥来り遊び、秋蛩また吟ず。静に観ずれば、宇宙の富は殆ど三坪の庭に溢るゝを覚ゆるなり。 徳富蘆花『自然と人生』
- 2026年7月31日
日本人の暮らしのかたち森本哲郎読み終わった日々の暮らしの実感とは、瞬間瞬間の感情の流れによって生まれるものだ。そして人生とは、そうした実感から紡ぎだされた「意識と気分」が織りなす一本の帯と言ってもいい。私たち現代の日本人は、この一本の帯に輝きを与える何か、毎日の暮らしのなかで、味わい深く、しみじみとした情感に浸される瞬間を失ってしまったのではあるまいか。 電子機器時代の前に使われていた調度品や家具などについての郷愁ただよう随筆集。美しい和歌や蕪村の俳句や蘆花の随筆からの引用も多く、現代日本の生活がなんと味気なく貧しいものかと悲しくなってしまうほど。〈冷たい火鉢、煤けた軒端、ゆるい下駄、山吹の井戸、破れた扇、焼野の地蔵、色褪せた蚊帳、蛇目の衣鉢、白露の家、霜夜の鐘〉これら目次を眺めているだけでもうっとりとする。 桐火桶無絃の琴の撫ごゝろ 蕪村 恋わたる鎌倉武士のあふぎ哉 蕪村 目にうれし恋君の扇真白なる 蕪村 紅梅や見ぬ恋つくる玉すだれ 芭蕉 蚊屋つりて翠微作らん家の内 蕪村 うつくしや障子の穴の天の川 一茶 灰汁桶の雫やみけりきりぎりす 凡兆 きつね火と人や見るらん小夜しぐれ 蕪村 しら露の身や葛の葉の裏借家 蕪村 萩にくれて玉田横野へわかれ行 蕪村 とりつなげ玉田横野のはなれ駒つゝじの岡にあせみ咲くなり 俊頼 釣鐘にとまりて眠る胡てふ哉 蕪村 すゞしさや鐘を離るゝ鐘の声 蕪村 - 2026年7月26日
日本語 表と裏 (新潮文庫)森本哲郎読み終わった日本では曖昧な言葉が一番優れた言葉で、もっとも重んぜられている フロイス 日本語は昔から、あからさまな言葉を嫌い、曖昧さ、奥ゆかしさ、朧なるもの、を大切にしてきたと言う。あからさまというのは、明らかにする→諦めるに繋がっているのだ。物事が一度あからさまになってしまえば、あとは諦めるしかない。だからその前に踏みとどまろうとしているのだと。著者はこの日本的心理を、「ある種の悲観的な心情」から来ているのではないかと続ける。現世を無常と観じ、永遠を欲さない。悲観的で臆病だか、諦めた先には安堵感が生まれる。 人すまぬ不破の関谷の板びさしあれにし後はたゞ秋の風 良経 この和歌の眺めの中にただよう、無常の世に残る秋の風に一縷の慰めを見出そうとし、安堵する。そしてそれは、元を辿れば日本の自然豊かな風土に基づいているらしい。自然への親しみ、信頼、甘え。自然に任せておけば悪いようにはなるまい、時が解決してくれるだろう、という考え。 なるほどと思いながら読み進めた。色々な和歌を読んでいても、その曖昧さゆえに世界は広がり、幽玄を感じ揺蕩うことができるのだ。確かに日常を振り返っても、自身の意見をはっきり言うことよりも、周りの空気を読みながら、波風たてずに穏やかに時が過ぎることを全く無意識に優先していると思う。だからこそ偶に外国人の友だちとメッセージのやり取りをすると、困るのだ。こちらがはっきり物事を伝えないと何一つ話が進まない。しかし明らかな物言いには強い抵抗やストレスすらも感じてしまい、なかなか返信ができないことがある。 「民族の特質はすべてその民族の使う言葉のなかに集約されているからである。人間は何を考えるのにも言葉で考える。思考とは言葉とともに始まるのだ」 - 2026年7月23日
旅の半空森本哲郎読み終わった京まではまだ半空や雲の雪 芭蕉 松尾芭蕉の一句から題を借用したというこの一冊、著者の日本国内の旅の随筆集。これまで彼のサハラ砂漠をはじめ海外旅行記は既に何冊か読んでいたので、日本をどのようにして旅をするのか、読むのが楽しみだたった。 冒頭には、夏目漱石「京に着ける夕」からの引用文。 汽車は流星の疾きに、二百里の春を貫いて、行くわれを七条のプラットフォームの上に振り落す。 わたしもこの文章が大好きだ。春になるたびに思い出している。彼の引用する文章や詩歌を見るだけでも、趣味が合うなあと、一方的に親しみを覚えてしまう。芭蕉、蕪村、兼好法師、漱石、夢二、西行、長明、田能村竹田、瀧廉太郎、などの面影を求めて、日本各地へ旅へ出る。 ーーーーー 「ぼくは、花木のなかで、梅がいちばん好きだ」 なんということだ。わたしも花木のなかで、梅、特に白梅がいちばん好きだ。梅の和歌を集めながら、一年の殆どを梅の花咲く二月を夢見て過ごしている。こころの庭に一本の白梅の木を植えて、それを支えに日々暮らしている。「日野の山里」は彼が盆梅展を見物しに長浜へと赴く旅の記だ。そこで樹齢四百年や二百五十年などの梅の盆栽を眺めながら、著者は小学生の教科書に載っていたという謡曲『鉢木』を思い出す。 雪の夕暮れ、旅の僧に暖をとらせるために、あばら屋の主人は秘蔵していた梅、松、桜の「鉢の木」を薪にしもてなす。この僧が実は最明寺入道時頼で、のちにこのもてなしに報いるため、彼に梅田、桜井、松井田の領地を授けたという物語。勿論最後には定家の「雪の夕暮」の歌を引く。 更に、盆栽や盆梅とは、人境にありながら、身近に隠れる天地を持ちたいという夢が生みだしたものだ。日本の世捨人は、世を捨てたのではなく、ほどほどの距離を置いて現世と何らかの形でかかわりあいつつ、自分の小世界に生きたのだ。その「間」こそが、日本人の精神的安住地なのである、と言う。わたしもまさしく、この「小世界」に身を置きたいと願う。 ーーーーー 静なる黄昏の底に立ちて、耳傾くれば、蛙声独り閣々、また䗹々。是れ実に「夕」の声なり。「蒼々茫々の夕」 今日の語感からすれば、いかにも古めかしい、美文調に思えるかもしれない。しかし、こうした文体に代わって味読に値するどのような文章が、新たにつくり出されたのだろうか。言葉は美しさを無用なものとし、ただコミュニケーションの手段になり終ったような気がしてならない。(p.69) - 2026年7月16日
読み終わった著者は七十年代の東京で、〈現代〉という時代が抱える問題について考え答えを見つけようとする。 現代社会への問題提起という現実的なテーマを掲げながら、その語り口はとてもユニークで面白く、あっという間に読み終えてしまった。この本のどれほどが実際の著者の経験で、どれほどがフィクションなのか全くわからない。後書きでも「(読者は)とまどうだろう」と書かれている。この数ヶ月で森本哲郎の本を何冊か読んできたが、わたしは彼の語る夢とうつつの曖昧さが好きで好きで、いつまでも読んでいたいと思う。 著者は現代社会の問題を考えるにあたり、「カリズマ氏」と呼ばれる老人に見解を仰ごうとする。この老人が、実在の人物なのかどうかよくわからないが、この存在の曖昧な老人を探すという目的がこの本のもう一つの主軸となって、ミステリー作品を読むように先へとページをめくる手が止まらなかった。 以下ランダムなメモ 登場人物の一人、探検部の大学生。サハラ砂漠に夢中で、トゥアレグ人、隊商、トンブクトゥの町、二ジュール河などの単語がでてくる。すっかりわたしも森本哲郎のサハラ砂漠の旅のファンなので、単語だけでもなんとも甘やかな気持ちが浮かんでくる。 「昔のシナの百科事典にのっていた動物の分類」 ・皇帝に属するもの ・防腐処理を施したもの ・乳呑みぶた ・人魚 ・架空のもの ・放し飼いの犬 ・気が狂ったようにあばれるもの ・数知れぬほど多いもの ・らくだの毛筆で描いたもの ・その他 ・いま壺をこわしたもの ・遠くからハエに見えるもの 七十年代の大きな問題 瞑想の欠如、事物の非秩序、技術の独走、情報の過剰、価値の衰弱、コトバの無力…… これらはどれも二〇二六年においても大きな問題のままであるように思う。今日より五十年も前、インターネットもスマートフォンもSNSもない七十年代は今とは大きく違う時代だったのだろうと想像していたが、この本で挙げられているこれらの問題の数々は、現代においても何一つ解決されていない、それどころか明らかに悪化の道を進んでいるのではないだろうか。 読み進めると、最後に夢のように美しい場面に行き着く。マラケシュのハッサン二世の離宮にある回廊と大理石のプールがある庭園。プールの縁にはイスラム風のモザイク細工、底にはトルコ石のようなタイルが敷かれている。水面に映る空。くつろぐ黒猫、そこでの導師のような人物たちとの静かな対話。 作品を通して著者は現代社会の抱える問題をどのようにして問うのか、どのようにして考え、どのように改善できるのか、などたくさんのヒントを残しているが、わたしはこのマラケシュのプールサイドでの時間こそがそのまま多くの問題の答えなのだと感じた。現実にそのような場に行きそのような人物と話すことではなく、自分自身の中でそのような時間を持つこと。物事をじっくり考えること。決して答えを急がないこと。 💭それはそうと、この著者は女性には全く興味ないのだろうか??これほど女性が登場しない作家も珍しいのでは?💭 - 2026年7月6日
読み終わった著者のいくつかの旅の断片。 「旅とはこういうものだ、と私は思う。たった一度の、二度とくりかえすことのできないその歩みのなかで、肩からさげたカメラでうつしとることのできなかった、しかし、心のカメラが知らぬ間にうつしとっていたある瞬間の、ある情景を、旅から帰って心のアルバムのなかに見つけること。それこそが、旅のなによりの醍醐味である。 だから、と私は思う。旅とは、旅から帰ったときにはじまるのだ、と」 思い返せば、わたしもそれなりに旅をしてきたと思う。子どもの頃の家族旅行からはじまり、一人旅も色々したし、仕事での出張もたくさんしてきた。しかしコロナ禍の後、ぴたりと旅をしたい気持ちが萎れてしまった。最近、旅行記ばかり読んでいるのは、旅を懐かしむ気持ちの反映なのかもしれない。 わたしの旅についての心のアルバムに残っているのはどのような情景だろうと、本を読みながら振り返ってみた。冬のニューヨークで、客が少なく部屋が空いているからと、一人では持て余すほどの広く素敵な部屋へ案内され、次の日の朝起きたらなんと窓の外一面の雪景色。仕事で訪れたローマのお屋敷の壁にひっそりとかかっていたボッティチェリの小さな絵画。大雪で全く景色を見れなかった万里の長城。ツアーで行った北京の京劇学校の、真っ白な湯気に溢れた食堂。祖父母の墓に舞う羽黒蜻蛉の群れ。初めての一人旅でやる事もなく人のまばらな春の浜辺で長いこと眺めていた海。 驚いたことに、今ぽつぽつと蘇る旅の記憶はどれも鮮やかで、なのに普段の生活の中ではもう思い出す事もなく、埋もれてしまっていた。しばらくこれらの記憶に遊びたいと思う。 - 2026年6月7日
読み終わった同著者の『サハラ幻想行』の余韻が長い尾を引き、何とかしてもっと彼の砂漠の旅について読むことができないかと図書館を探した。そして幸運なことに、見つけたのがこの『私のニジェール探検行』だ。 最初のサハラの旅から十二年後。当時四十三歳だった著者は五十五歳になっていた。 アメリカの探検家ジョン・スコールが残した『青い種族』という本が常に森本哲郎のサハラの旅の原動力になっている。わたしの読んだどちらの本にも、この『青い種族』からの引用がたくさん載っていて、そのどれもがとても印象的だ。例えば、 午前二時、とうとう私たちは暗闇の中を、さらに暗い影に向かって深い砂の斜面を下って行った。そこには鐘の形をしたアバラデュウの小屋があった。アザライ(隊商のこと)の終着駅ティンブクトゥである。そこには、私たちを待ち受ける接待役もいない、ファンファーレも鳴らなかった。まったく、あたりには人影ひとつなかった。私たちは空虚な場所から空虚な場所へ移動したにすぎなかった。ティンブクトゥの町は、かすかな灯火もない死の町だった。 これに対し著者は、「なんとすばらしい到達点であろう!私は自分の人生の終点が、このようでありたいと願う」と言う。 あれほど長い、危険な旅のあとでアザライは、ここであっさり解散し、駱駝も、人も、そのままティンブクトゥの暗闇のなかへ消えてしまうのである。ジョン・スコールはそのあまりのあっけなさに茫然とする。隊商の仲間の一人が眠そうな声でただ一言、こういうのだ。「着いたんですよ」 今回の旅でも、森本哲郎はこのティンブクトゥを訪れる。そこから塩坑のあるタウデニという地まで、隊商(カラヴァン!)の行く道を辿りたいと言う。十二年前に出会ったトゥアレグ族の貴族の青年と再会を果たし、彼にもう一度ガイドを頼む。相談の上タウデニまでは遠すぎるので通過地のアラウアンまで連れて行ってもらうことになる。この本で書かれる旅である。 このトゥアレグ族の貴族についての描写がどれも大変鮮やかで美しい。著者憧れの「青い種族」の末裔なのだ。いくつか抜き出しておく。 まずは十二年前の姿。 ガイドといいながら、彼はほとんど口をきかなかった。何一つ説明するではなく、ただ黙って私のなすがままに任せ、群衆が私を取り巻いたりすると、そのなかに割って入り、私のそばに傲然と立ち、あたりを睥睨する。彼はガイドというよりは、ガードだった。私はその男らしさに惚れ惚れした。 アリはまるですべるように砂地を進んで行き、夜目にも鮮やかな青いガンドゥーラはやがて砂のかげに消えた。あとに星だけが残った。 そして十二年後の姿。 青年のアリはこの十二年のあいだにベテランのガイドとなり、人柄もすっかり熟し、いまや思慮深げな、柔和な、しかし毅然としたトゥアレグの紳士になったのである。 モハメッド・アリは悠然とホテルのテラスに現れた。真っ白なヴェールを頭からあごに巻きつけ、おろしたてのようなトゥアレグの衣装をつけ、まるでアメノカル(トゥアレグの王)のように堂々と威風を放っている。(略)だが、その衣装は、かつての鮮やかな青ではなく、銀ネズミ色なのである。私はさっそく抗議した。すると彼はニッと笑い「われわれにも好みの変化はあるのだ」と言った。 アリは車の陰に悠然と立ってこたえた。私は思わずその容姿に見とれた。長いドライブにもかかわらず、彼の装束は、まるで神殿の前に進み出た神官のように一分のスキもなく、わずかな乱れさえなかった。砂の大地に傲然と立ったそのアリの姿は、まさにサハラの王者の風格があった。私はあらためて周囲を見まわした。はるか彼方に淡い橙色の砂丘が連なっている。この世にあるものはそれだけだった。 このような美しいガイドと、運転手と、目的地にいる父親を訪ねる九歳の少年と共に、森本哲郎はキャラヴァンの道を車で走る。その所々でかつてこの地を歩いた歴史的探検家たちの記録を思い出し、姿を重ね想いに耽る。景色と呼べるものは大地と空と太陽だけの世界で、この上なく豊かな文章を残してゆく。 ジョン・スコールの引用と同じくらい、旅の終わり、本の終わりはあっけない。しかしわたしも、著者同様に、このような旅と旅の終わりを読むのがたまらなく好きなのだ。 - 2026年6月5日
- 2026年6月5日
はくしむるち豊永浩平読みたい - 2026年6月3日
神の旅人: パウロの道を行く森本哲郎読んでる『サハラ幻想行』の余韻から抜けきれず、他にも同著者の本をと、こちらの本を手にとった。 正直、いまのところパウロという伝道師にあまり興味がなく、昔から、そもそもなぜ自分の信仰を他人にも分けようとするのか、改宗させることを目指すのかよくわからないと思っている。なのでサハラの旅ほど楽しめてはいない。 キリスト教の「一粒の麦」の話はわたしでも聞いたことがあるくらいに有名だ。著者は港町カイザリヤで海を眺めながらこの一粒の麦について考える。 道端に落ちた種というのは、神の声をきいても悟らない者のことである。神の声を喜んで受ける人、それが石地に落ちた種である。喜んで受け入れても、根がないので、困難にあうとすぐつまずいてしまう。茨のなかにまかれた種とは、神の声をきいても、現世の欲望にまどわされて、実を結ばない人のことだ。真に悟ることのできる人、これこそが「良い地」に落ちた種なのである。(略)すなわち「良い地」とは、希求する人びとの魂にほかならない。 この部分を読みながら、わたしの宝物のように大切な本、詩人蒲原有明の『夢は呼び交す』の夢の場面を思い出した。主人公鶴見が青い夢を見る。神馬に乗る栂尾上人が、従者と共に柔らかく耕された畑に、優しく丁寧に一粒一粒茶の種を撒くのだ。するとみるみる内に芽が吹き出してくる。 「種も粒選りであったし、日もよかったし、気分もすぐれていたし、それにここの畑土は肥えているのだ。三拍子も四拍子も揃っていたからだな」 「おれは信の種を播いたのだよ」 「良い地」でないと芽の育たない種を、育たないものは育たないものとしてあちこちへと播く者と、畑を整え、丁寧に一粒一粒種を播く者。播いている種は同じだろうに、なんという違いだろう。 たねくちて仏の道にきらはれし人をもすてぬ法とこそきけ 法成寺入道前摂政太政大臣 - 2026年6月2日
サハラ幻想行森本哲郎読み終わった著者のサハラの旅が終わるのと同時に、わたしもこの本を読み終えてしまった。こんなにも終えたくないと思う本は本当に久しぶりだ。 あとがきに、「わが心のアルバムに、どこよりも鮮明に焼きついて消えないのは、砂漠、なかでも世界最大の砂の海サハラである。だから自著の一冊というなら、私はためらいなく本書をあげるだろう」と書いてあり、付録対談でも、「最後の場所を選ぶなら?」という質問に「そりゃ、やはりサハラですよ」と答えている。著者の人生の中でも一等輝く経験と思い出を、このような本にして後世の読者へと残してくれたことに感謝。 ふと、『指輪物語』のビルボ・バギンズを思い出した。彼も人生の中で一度、ドワーフたちと長い旅に出る。目的を果たした後、故郷へ帰り『ゆきてかえりし物語』を書くのだけど、老年になり再び、同じ道をゆく最後の旅へ出るのだ。旅先での思い出が、旅から帰ったあとも消えず、身と心が離れてしまうような憧憬となる。 このサハラの旅と、ビルボの旅に共通して感じるのは、強烈な、「恋しさ」だ。『サハラ幻想行』はたった六日間の出来事らしいのだが、著者が帰国した後、この本を書く一年半の期間、また書き終えたその後もどれほど彼が再びサハラを夢見たかが文章の端々から伝わってくるのだ。恋しさが、伝わってくる。 この旅の動機は、サハラ砂漠にあるタッシリの岩に描かれた壁画を見ることだ。五千年も昔に描かれた画。本はそこに至るまでの出来事と、著者の哲学的な思索を織り交ぜて書かれている。どこを読んでも文章は美しく、知的で、ロマンと異国情緒にあふれ、紀行文とはいえ本当にこのような出来事があったのかと信じがたいくらい夢と現実との境が曖昧で魅力的だ。 中でもわたしが一番心動かされたのは、タッシリへと向かう道中、灼熱のサハラで、死ぬような思いで岩を登り、やっと辿り着いた休憩地で熱い水を飲み煙草をふかしようやく意識をもどした著者が、まわりの渇ききった砂漠の光景をながめながら突然、突然、全く場違いな新古今和歌集の和歌を思い浮かべたのだ。わたしにも大変馴染みのある、後鳥羽院と宮内卿の春歌。 みよし野の高嶺のさくら散りにけり嵐もしろき春の曙 後鳥羽院 あふさかやこずゑの花を吹くからに嵐ぞかすむ関の杉むら 宮内卿 なんという、文学的で自由な対比だろう。『新古今和歌集春歌下』に見えるこれらの歌は、他にも例えば、 花さそふ比良の山風吹きにけり漕ぎ行く舟のあと見ゆるまで 宮内卿 さくら花夢かうつつか白雲のたえてつねなきみねの春かぜ 家隆 などの、夢のように美しい散りゆく桜の歌と一緒に並んでいる。白熱の砂漠、見渡す限り植物とよべるものは一つもなく、燃えるような砂地と岩と太陽と青い空。そのような乾いた世界と、薄紅の桜が満開となり、風が吹きその花びらを散らし、それは嵐すらも白く霞ませ、川の水一面に広がる。この春の景色。 現代日本の、少し前には満開の桜を眺め、満開の薔薇を眺め、梅雨を前に紫陽花を眺めているわたしの生活だって、この八百年前の王朝時代から少なからず続いていると感じられる。しかし著者は、砂漠の世界から思い出すこのような日本のイマージュが、非現実的なものとして見えると言う。 一年を通して刻々と季節により風景の変化する日本と、砂漠と空の風景が滅多に変化しないサハラ。わたし自身は諸行無常の日本風土がどうしようもなく心身に馴染んでいると自覚している。きっとそうではない著者が、真逆の世界に恋焦がれてやまない気持ちが、この本を読んでいてとても印象的だった。 - 2026年5月30日
サハラ幻想行森本哲郎読んでる今のところ、全てのページで立ち止まり、情景に想いを巡らせ、著者の思念に追いつくために考え、その詩のように美しい一場面一場面に胸がいっぱいになっている。サハラ砂漠、哲学、宗教、人間、空、砂、椰子、蠍、驢馬、水、歴史、過去、太陽、風…… シルヴァンだけが仰向けにねて、星をみつめていた。 「大地にもメタンプシコーズがあるんですよ」と、彼は突然、ひとりごとのようにつぶやいた。 「メタンプシコーズだって?」と、私はききかえした。 「循環……ともちがうな……くり返しですよ。子どもが青年になり、壮年になり、老年になり、ふたたび子どもになり、というくり返しです。その原動力になるのは、水と風なんですね」 メタンプシコーズ…輪廻 シルヴァン…金髪のフランス人学生 シルヴァンの話によると、浸食作用の最終の目標は、土地をけずりとって、それを海面と同じにすることだという。こうして水と風が、不断に山をくずし、谷を埋め、凹みをならしてゆく。サハラはその輪廻を九百万平方キロにわたって実証しているのだ。 そうした違いを切り捨てて、どんな人間も、ヒトであることに変わりはないと考えたとき、つまりヒトという要素だけをぬき出すことに成功したとき、私たちは「人間」という概念を獲得したのである。 こうしたやりかたで、さまざまな要素が抽出されると、それらはつぎつぎに命名され、名づけられることによって観念になっていった。そして、ひとつの観念ができあがると、その観念との対比によって、べつの観念が生まれ、さらにそれらの観念の関係が調整されて……というぐあいに思考は発達し、言語が意思の表示とともに思考の道具になっていったにちがいない。思考の道具としての言語を生み出したのは、以上のような捨象、抽象、分割の作業だった。 生物はそれぞれの器のなかに、名状しがたい何物かを湛えながら生きている。ロバの器のなかには、何が入っているのであろうか。何千年という長い年月の間に沈殿した悲しみであろうか。あきらめであろうか。絶望であろうか。いや、ロバはそのような情念を持ちうるのだろうか。 - 2026年5月28日
サマルカンド年代記: ルバイヤート秘本を求めてアミン・マアルーフ,牟田口義郎読みたい - 2026年5月27日
- 2026年5月25日
読み終わった久しぶりに心の底から満たされる本に出会えて嬉しい。 アテーナイ、エジプト、インド、日本。 それぞれの異なる文化、歴史、思想が、夢か幻のように現れては消えてゆく。実際に異郷を旅しているというより、卓上の旅のようで、でもふと気がつくと、鈴懸の木陰に吹く風を感じたり、ピラミッドを見る期待に胸が弾んでいたりする。 「インドはいっさいを忘れた。エジプトはなにひとつ忘れることができなかった」と、シュペングラーは記しております。(略)私たちがこれから入って行こうとしている古代エジプト世界とは、まさにそのような世界なのです。変化をきらい、永遠に固執する人びとの世界。生と死さえ区別することを拒否した人びとの世界。増水、氾濫、減水というおなじリズムで永劫に流れつづけるナイルに、人生の意味をすべて託した人たちの世界。 アテーナイへの旅のつぎはエジプト。幼い頃、わたしもエジプトへ憧れて憧れて、スフィンクスやピラミッドのことばかり考えていたのを思い出した。読み進めるのが楽しみ。 「でも、エジプトという国は、けっして、ひとつの意味ではくくれない世界なんですよ。無数の意味が、無数の意味のままそこにある、そういう国なのです。そいつをなんとかして、ひとつの意味にしめくくりたがるのは、後代の人間の悪いくせですよ」 アテネ、エジプト、インド、と巡ってきた最後は日本。この本の出版が昭和四九年なので、現代日本と隔たりがあるのが悔やまれる。この著者が現代日本に生きていたらどのような切り口でこの社会とそこに生きる私たちを見たのだろう? 「日本人はだれでもふたつの世界、いや、四つの世界を持っておるのだ」と寺の僧に語らせている。日本には四季があるから、なんて言葉は、日本以外にも四季はある、と常に反論されているけど、外国のことはさておき、日本に四季があり、何百年も昔から日本人はこの四季をじっと見つめ感じ歌に詠み共有し、それとともに生きてきたという事実は変わらないと思う。 面白いのは、日本の四季に代表される春の桜や夏の蝉、花火、秋の紅葉や月、冬の雪などは、一瞬のもので、儚いという言葉の代表でもあるけれど、それと同時に、一年ごとに繰り返され、延々と続いてきたものでもある。だから、現代に生きるわたしが、鎌倉時代の和歌を読んでも、その情景がまるで昨日のことのように感じられることが多々あるのだ。この、一瞬と延々の両方を、何の疑いもなく持っているのが日本人の特徴といえば、そうなのかもしれない、などと考えている。 - 2026年5月20日
- 2026年5月16日
続 星と伝説野尻抱影読んでる文庫にて。 星を眺める楽しみを覚えて以来、野尻抱影先生の本を集めている。少し前、帰り道にて南の空にぽつりと光るアルファルド〈孤独星〉を見つけて、しばらく眺めていた。 「暮春の海蛇座」は、このアルファルドを含む星座、海蛇座について書かれている。海蛇座は西洋由来の名前だが、中国では昔この星座の先頭部分をその形から「柳宿」と呼んでおり、春の宵に見上げるのにぴったりだったそうだ。更に、この柳を鳥の嘴とみなし、海蛇座の形に沿って鳥の頸、喉、翼などと説明し、アルファルドの持つ朱色の光から、「朱雀/鳳凰」の姿を見ていたこともあるらしい。 これからの梅雨の夜の晴れ間には、海蛇ヒドラを眺めたいと思うが、それまでは、柳と朱雀を楽しもうと思う。 - 2026年4月10日
新潮 2026年 5月号新潮編集部読み終わった読んでる隔月連載の髙村薫「マキノ」を読むために購入しています。文芸誌って普段は自分では手に取らないような作品も載っていて、考えさせられることが多々ある。面白い。 平野啓一郎「決定的瞬間」 キュレイターである主人公が関わる事件の記録。記録なので話題があちこちに飛ぶのが読んでいて面白かった。 堀江敏幸「春眠」 父親についての昔話。塾の先生への仄かな気持ち。なんてことない日常の一コマだと思うのだけど、話し上手な人っているんだなあと思った。 古川真人「いまさら」 小中学校からの友だち三人。全員独身もうすぐ四十路。柿本と養母田の執着痴話喧嘩では? 髙村薫「マキノ」第五回 警察引退後相続により苗字の変わった合田さんが主人公だと、もうはっきりわかるのだけど、なぜ合田という名前を手放してこの続編を書いているのだろう?朝目が覚めて夜眠るまで、考えているのはほとんど元義兄の友人について。この物語がどんな作品として完成するのか全然先が見えなくて面白い。 - 2026年4月5日
魚が存在しない理由 世界一空恐ろしい生物分類の話ルル・ミラー,上原裕美子読み終わったデイヴィッド・スター・ジョーダンという二十世紀初頭の〈魚類〉を専門とする生物分類学者について。 分類学者の責務は、系統樹の形を解き明かし、この地球の混沌に秩序をもたらすこと。すべての植物や動物のつながりを整理して、生命の地図をつくるのだ。 プロローグで書かれたこの説明が、後半この本の題『魚が存在しない理由』へと繋がってゆく。 一方で著者自身についても語られる。「私たちの存在に意味はあるのか」を問い続ける著者。この問いの彼女なりのこたえの部分に少し矛盾があることが気になって、素直に読めなかったのが残念。 著者は、デイヴィッドが優生学を生涯手放さなかったのは、「おまえの存在に意味はない」という容赦のない真実へ落下しない為の防衛手段だったのではないか、と考える。そしてこの真実を無視すれば、デイヴィッドと同じ穴の狢になってしまうと。つまり、優生学の根拠としてデイヴィッドは「私には意味がある」と信じていたと。しかし数ページ後には、「惑星の視点から見れば、永遠という視点から見れば、もしくは優生学的な完全性の夢から見れば、確かに人間一人の命に意味などないだろう」と書き、いや、「私たちの存在には意味がある」と続けている。 優生学を提唱したデイヴィッドの「私の存在には意味がある」は、しかし意味のない人間もいる、という差別で、著者の言う「私たちの存在には意味がある」は全ての生命に対しての平等な肯定、という視点の違いを言っているのだろう。 わたし自身は平等に「私たちの存在には意味はない」と思っているので、それを「優生学的完全性の夢」と一緒にされては困る。優生学の人たちは、「意味がある者とない者がいる」と勝手に差別しているだけで、それは惑星の視点と同じではない。読みながらむっとしてしまった。 最終章「デウス・エクス・マキナ」 コンピュータを使った分岐学者たちの研究から、「魚類」という括りは正しくないとする発見。それ自体は興味深いことだったが、しかしでは新しく「肉鰭類」だなんだと結局分類することをやめられない学者たちは、何なのだろう。自然を自然のまま見ることは本当に本当に難しいことなのだろうか。新たに分類するためにまた魚を殺し解剖し研究し、を繰り返す。 学術的な言い回しによって動物と人間を別物にしようとするという点では、ときに科学者が一番ひどい暴挙にでる。動物が認知タスクで人間に優っていてもーー鳥類の一部は何千というタネの位置を正確に記憶できるーーそれは知性ではなく本能なのだと切り捨てる。こうした表現やさまざまな巧妙な言い換えは「語学的去勢」だ。言葉を使って、動物がもつ力をないことにしている。はしごの頂点に人間の座を守るために、言葉をひねりだしている。(p.319) - 2026年4月1日
魚が存在しない理由 世界一空恐ろしい生物分類の話ルル・ミラー,上原裕美子読んでる「どんなに自分が特別に思えたとしても、本当のところは、おまえはアリ一匹と変わりはない。アリよりちょっと大きいかもしれないが、アリより大事ってわけじゃない」 わたしも、波打ち際に大量の鰯が死んでいる映像をニュースで見て以来、この父親と同じことを考えている。わたしもこの死した魚一匹と全く同じ存在だと。 「命名は蜜のように甘く、幻想の万能感をもたらす。美しき秩序の感動が湧きあがる。名前を与える、この世にこれほどの癒しが、果たしてあるだろうか」 この数ヶ月、人間の持つ知的欲求について、名付けと所有について、未知のものを未知のままにはできないのか、ということについてを考える読書が続いている。『森は考える』『夢の城』『プレイグラウンド』『大英自然史博物館珍鳥標本盗難事件』『森の人々』など、共通のテーマが浮かび上がる。この本も、その並びに置けそうで、読み進めるのが楽しみ。 - 2026年3月28日
プロジェクト・ヘイル・メアリー 下アンディ・ウィアー,小野田和子読み終わったエイドリアンは淡いグリーンの惑星で、大気上層に霞のような白い雲が浮かんでいる。(p.63) 上巻をあっという間に読んでしまった。気持ちが昂揚している。下巻には緑色のブックカバーを選ぶ。これが終わったら、映画をもう一度見に行きたい。惑星エイドリアンの淡い緑色をゆっくりと眺めたい。 読了 物語の内容はわかっていても、面白くて夜通し読んでしまった。 以下原作/映画のネタバレにご注意下さい⚠️ 🪐 💫 ☀️ ☄️ 🦀 ✨ 🌙 グレイスが映画の印象よりも更に前向きで働き者で優秀な科学者だった。そして誰とでも良好な関係を築ける人。誰とでも分け隔てなく仲良くやれるのは、誰にも興味がないからかもしれない。教師の彼はきっと学生たちにもみな平等に接していたのだろう。地球上に特別な人が一人もいないのだろうか?原作でも彼の両親や兄妹など家族について何も描かれていなくて驚いた。どういう生い立ちの人なのだろう? 愛する誰かがいない。映画は更にこれが顕著だったと思う。「人類を救うヒーロー」としてはとても珍しい主人公だ。彼に背負わされた責任や未来は大変重いものだけど、彼がいつも飄々として軽やかなのは、それを自分ごととしてはあまりシリアスに捉えていないからなのかも。人類の為、と彼が過酷な試練に向かう時、具体的な誰かを思い浮かべているのだろうか?グレイスの興味の中心は科学だ。未知の生命、未知の惑星、未知の知的異星生物。結局ストラットは正しくて、グレイスはこのヘイルメアリープロジェクトにぴったりの人材で、更に言えばこれはグレイスの為のプロジェクトと言っても過言ではないのだと感じた。 どうか人類の未来なんて背負わず、地球で一人だった彼がようやく出逢えた親友と呼べるお互いの研究対象のロッキーと一緒に楽しく充実した日々をおくれますように。なんて清々しい!
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