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@nininice
  • 2026年6月7日
    私のニジェール探検行: マンゴ・パークの足跡をたどって (中公新書 667)
    同著者の『サハラ幻想行』の余韻が長い尾を引き、何とかしてもっと彼の砂漠の旅について読むことができないかと図書館を探した。そして幸運なことに、見つけたのがこの『私のニジェール探検行』だ。 最初のサハラの旅から十二年後。当時四十三歳だった著者は五十五歳になっていた。 アメリカの探検家ジョン・スコールが残した『青い種族』という本が常に森本哲郎のサハラの旅の原動力になっている。わたしの読んだどちらの本にも、この『青い種族』からの引用がたくさん載っていて、そのどれもがとても印象的だ。例えば、 午前二時、とうとう私たちは暗闇の中を、さらに暗い影に向かって深い砂の斜面を下って行った。そこには鐘の形をしたアバラデュウの小屋があった。アザライ(隊商のこと)の終着駅ティンブクトゥである。そこには、私たちを待ち受ける接待役もいない、ファンファーレも鳴らなかった。まったく、あたりには人影ひとつなかった。私たちは空虚な場所から空虚な場所へ移動したにすぎなかった。ティンブクトゥの町は、かすかな灯火もない死の町だった。 これに対し著者は、「なんとすばらしい到達点であろう!私は自分の人生の終点が、このようでありたいと願う」と言う。 あれほど長い、危険な旅のあとでアザライは、ここであっさり解散し、駱駝も、人も、そのままティンブクトゥの暗闇のなかへ消えてしまうのである。ジョン・スコールはそのあまりのあっけなさに茫然とする。隊商の仲間の一人が眠そうな声でただ一言、こういうのだ。「着いたんですよ」 今回の旅でも、森本哲郎はこのティンブクトゥを訪れる。そこから塩坑のあるタウデニという地まで、隊商(カラヴァン!)の行く道を辿りたいと言う。十二年前に出会ったトゥアレグ族の貴族の青年と再会を果たし、彼にもう一度ガイドを頼む。相談の上タウデニまでは遠すぎるので通過地のアラウアンまで連れて行ってもらうことになる。この本で書かれる旅である。 このトゥアレグ族の貴族についての描写がどれも大変鮮やかで美しい。著者憧れの「青い種族」の末裔なのだ。いくつか抜き出しておく。 まずは十二年前の姿。 ガイドといいながら、彼はほとんど口をきかなかった。何一つ説明するではなく、ただ黙って私のなすがままに任せ、群衆が私を取り巻いたりすると、そのなかに割って入り、私のそばに傲然と立ち、あたりを睥睨する。彼はガイドというよりは、ガードだった。私はその男らしさに惚れ惚れした。 アリはまるですべるように砂地を進んで行き、夜目にも鮮やかな青いガンドゥーラはやがて砂のかげに消えた。あとに星だけが残った。 そして十二年後の姿。 青年のアリはこの十二年のあいだにベテランのガイドとなり、人柄もすっかり熟し、いまや思慮深げな、柔和な、しかし毅然としたトゥアレグの紳士になったのである。 モハメッド・アリは悠然とホテルのテラスに現れた。真っ白なヴェールを頭からあごに巻きつけ、おろしたてのようなトゥアレグの衣装をつけ、まるでアメノカル(トゥアレグの王)のように堂々と威風を放っている。(略)だが、その衣装は、かつての鮮やかな青ではなく、銀ネズミ色なのである。私はさっそく抗議した。すると彼はニッと笑い「われわれにも好みの変化はあるのだ」と言った。 アリは車の陰に悠然と立ってこたえた。私は思わずその容姿に見とれた。長いドライブにもかかわらず、彼の装束は、まるで神殿の前に進み出た神官のように一分のスキもなく、わずかな乱れさえなかった。砂の大地に傲然と立ったそのアリの姿は、まさにサハラの王者の風格があった。私はあらためて周囲を見まわした。はるか彼方に淡い橙色の砂丘が連なっている。この世にあるものはそれだけだった。 このような美しいガイドと、運転手と、目的地にいる父親を訪ねる九歳の少年と共に、森本哲郎はキャラヴァンの道を車で走る。その所々でかつてこの地を歩いた歴史的探検家たちの記録を思い出し、姿を重ね想いに耽る。景色と呼べるものは大地と空と太陽だけの世界で、この上なく豊かな文章を残してゆく。 ジョン・スコールの引用と同じくらい、旅の終わり、本の終わりはあっけない。しかしわたしも、著者同様に、このような旅と旅の終わりを読むのがたまらなく好きなのだ。
  • 2026年6月5日
  • 2026年6月5日
    はくしむるち
    はくしむるち
  • 2026年6月3日
    神の旅人: パウロの道を行く
    『サハラ幻想行』の余韻から抜けきれず、他にも同著者の本をと、こちらの本を手にとった。 正直、いまのところパウロという伝道師にあまり興味がなく、昔から、そもそもなぜ自分の信仰を他人にも分けようとするのか、改宗させることを目指すのかよくわからないと思っている。なのでサハラの旅ほど楽しめてはいない。 キリスト教の「一粒の麦」の話はわたしでも聞いたことがあるくらいに有名だ。著者は港町カイザリヤで海を眺めながらこの一粒の麦について考える。 道端に落ちた種というのは、神の声をきいても悟らない者のことである。神の声を喜んで受ける人、それが石地に落ちた種である。喜んで受け入れても、根がないので、困難にあうとすぐつまずいてしまう。茨のなかにまかれた種とは、神の声をきいても、現世の欲望にまどわされて、実を結ばない人のことだ。真に悟ることのできる人、これこそが「良い地」に落ちた種なのである。(略)すなわち「良い地」とは、希求する人びとの魂にほかならない。 この部分を読みながら、わたしの宝物のように大切な本、詩人蒲原有明の『夢は呼び交す』の夢の場面を思い出した。主人公鶴見が青い夢を見る。神馬に乗る栂尾上人が、従者と共に柔らかく耕された畑に、優しく丁寧に一粒一粒茶の種を撒くのだ。するとみるみる内に芽が吹き出してくる。 「種も粒選りであったし、日もよかったし、気分もすぐれていたし、それにここの畑土は肥えているのだ。三拍子も四拍子も揃っていたからだな」 「おれは信の種を播いたのだよ」 「良い地」でないと芽の育たない種を、育たないものは育たないものとしてあちこちへと播く者と、畑を整え、丁寧に一粒一粒種を播く者。播いている種は同じだろうに、なんという違いだろう。
  • 2026年6月2日
    サハラ幻想行
    サハラ幻想行
    著者のサハラの旅が終わるのと同時に、わたしもこの本を読み終えてしまった。こんなにも終えたくないと思う本は本当に久しぶりだ。 あとがきに、「わが心のアルバムに、どこよりも鮮明に焼きついて消えないのは、砂漠、なかでも世界最大の砂の海サハラである。だから自著の一冊というなら、私はためらいなく本書をあげるだろう」と書いてあり、付録対談でも、「最後の場所を選ぶなら?」という質問に「そりゃ、やはりサハラですよ」と答えている。著者の人生の中でも一等輝く経験と思い出を、このような本にして後世の読者へと残してくれたことに感謝。 ふと、『指輪物語』のビルボ・バギンズを思い出した。彼も人生の中で一度、ドワーフたちと長い旅に出る。目的を果たした後、故郷へ帰り『ゆきてかえりし物語』を書くのだけど、老年になり再び、同じ道をゆく最後の旅へ出るのだ。旅先での思い出が、旅から帰ったあとも消えず、身と心が離れてしまうような憧憬となる。 このサハラの旅と、ビルボの旅に共通して感じるのは、強烈な、「恋しさ」だ。『サハラ幻想行』はたった六日間の出来事らしいのだが、著者が帰国した後、この本を書く一年半の期間、また書き終えたその後もどれほど彼が再びサハラを夢見たかが文章の端々から伝わってくるのだ。恋しさが、伝わってくる。 この旅の動機は、サハラ砂漠にあるタッシリの岩に描かれた壁画を見ることだ。五千年も昔に描かれた画。本はそこに至るまでの出来事と、著者の哲学的な思索を織り交ぜて書かれている。どこを読んでも文章は美しく、知的で、ロマンと異国情緒にあふれ、紀行文とはいえ本当にこのような出来事があったのかと信じがたいくらい夢と現実との境が曖昧で魅力的だ。 中でもわたしが一番心動かされたのは、タッシリへと向かう道中、灼熱のサハラで、死ぬような思いで岩を登り、やっと辿り着いた休憩地で熱い水を飲み煙草をふかしようやく意識をもどした著者が、まわりの渇ききった砂漠の光景をながめながら突然、突然、全く場違いな新古今和歌集の和歌を思い浮かべたのだ。わたしにも大変馴染みのある、後鳥羽院と宮内卿の春歌。 みよし野の高嶺のさくら散りにけり嵐もしろき春の曙 後鳥羽院 あふさかやこずゑの花を吹くからに嵐ぞかすむ関の杉むら 宮内卿 なんという、文学的で自由な対比だろう。『新古今和歌集春歌下』に見えるこれらの歌は、他にも例えば、 花さそふ比良の山風吹きにけり漕ぎ行く舟のあと見ゆるまで 宮内卿 さくら花夢かうつつか白雲のたえてつねなきみねの春かぜ 家隆 などの、夢のように美しい散りゆく桜の歌と一緒に並んでいる。白熱の砂漠、見渡す限り植物とよべるものは一つもなく、燃えるような砂地と岩と太陽と青い空。そのような乾いた世界と、薄紅の桜が満開となり、風が吹きその花びらを散らし、それは嵐すらも白く霞ませ、川の水一面に広がる。この春の景色。 現代日本の、少し前には満開の桜を眺め、満開の薔薇を眺め、梅雨を前に紫陽花を眺めているわたしの生活だって、この八百年前の王朝時代から少なからず続いていると感じられる。しかし著者は、砂漠の世界から思い出すこのような日本のイマージュが、非現実的なものとして見えると言う。 一年を通して刻々と季節により風景の変化する日本と、砂漠と空の風景が滅多に変化しないサハラ。わたし自身は諸行無常の日本風土がどうしようもなく心身に馴染んでいると自覚している。きっとそうではない著者が、真逆の世界に恋焦がれてやまない気持ちが、この本を読んでいてとても印象的だった。
  • 2026年5月30日
    サハラ幻想行
    サハラ幻想行
    今のところ、全てのページで立ち止まり、情景に想いを巡らせ、著者の思念に追いつくために考え、その詩のように美しい一場面一場面に胸がいっぱいになっている。サハラ砂漠、哲学、宗教、人間、空、砂、椰子、蠍、驢馬、水、歴史、過去、太陽、風…… シルヴァンだけが仰向けにねて、星をみつめていた。 「大地にもメタンプシコーズがあるんですよ」と、彼は突然、ひとりごとのようにつぶやいた。 「メタンプシコーズだって?」と、私はききかえした。 「循環……ともちがうな……くり返しですよ。子どもが青年になり、壮年になり、老年になり、ふたたび子どもになり、というくり返しです。その原動力になるのは、水と風なんですね」 メタンプシコーズ…輪廻 シルヴァン…金髪のフランス人学生 シルヴァンの話によると、浸食作用の最終の目標は、土地をけずりとって、それを海面と同じにすることだという。こうして水と風が、不断に山をくずし、谷を埋め、凹みをならしてゆく。サハラはその輪廻を九百万平方キロにわたって実証しているのだ。 そうした違いを切り捨てて、どんな人間も、ヒトであることに変わりはないと考えたとき、つまりヒトという要素だけをぬき出すことに成功したとき、私たちは「人間」という概念を獲得したのである。 こうしたやりかたで、さまざまな要素が抽出されると、それらはつぎつぎに命名され、名づけられることによって観念になっていった。そして、ひとつの観念ができあがると、その観念との対比によって、べつの観念が生まれ、さらにそれらの観念の関係が調整されて……というぐあいに思考は発達し、言語が意思の表示とともに思考の道具になっていったにちがいない。思考の道具としての言語を生み出したのは、以上のような捨象、抽象、分割の作業だった。 生物はそれぞれの器のなかに、名状しがたい何物かを湛えながら生きている。ロバの器のなかには、何が入っているのであろうか。何千年という長い年月の間に沈殿した悲しみであろうか。あきらめであろうか。絶望であろうか。いや、ロバはそのような情念を持ちうるのだろうか。
  • 2026年5月28日
    サマルカンド年代記: ルバイヤート秘本を求めて
    サマルカンド年代記: ルバイヤート秘本を求めて
  • 2026年5月27日
    青い種族 (1958年)
    隊商、という言葉が好きだ。憧れてやまない。砂漠の隊商、キャラバン。今一番読みたい本。
  • 2026年5月25日
    異郷からの手紙―私たちとは何か
    久しぶりに心の底から満たされる本に出会えて嬉しい。 アテーナイ、エジプト、インド、日本。 それぞれの異なる文化、歴史、思想が、夢か幻のように現れては消えてゆく。実際に異郷を旅しているというより、卓上の旅のようで、でもふと気がつくと、鈴懸の木陰に吹く風を感じたり、ピラミッドを見る期待に胸が弾んでいたりする。 「インドはいっさいを忘れた。エジプトはなにひとつ忘れることができなかった」と、シュペングラーは記しております。(略)私たちがこれから入って行こうとしている古代エジプト世界とは、まさにそのような世界なのです。変化をきらい、永遠に固執する人びとの世界。生と死さえ区別することを拒否した人びとの世界。増水、氾濫、減水というおなじリズムで永劫に流れつづけるナイルに、人生の意味をすべて託した人たちの世界。 アテーナイへの旅のつぎはエジプト。幼い頃、わたしもエジプトへ憧れて憧れて、スフィンクスやピラミッドのことばかり考えていたのを思い出した。読み進めるのが楽しみ。 「でも、エジプトという国は、けっして、ひとつの意味ではくくれない世界なんですよ。無数の意味が、無数の意味のままそこにある、そういう国なのです。そいつをなんとかして、ひとつの意味にしめくくりたがるのは、後代の人間の悪いくせですよ」 アテネ、エジプト、インド、と巡ってきた最後は日本。この本の出版が昭和四九年なので、現代日本と隔たりがあるのが悔やまれる。この著者が現代日本に生きていたらどのような切り口でこの社会とそこに生きる私たちを見たのだろう? 「日本人はだれでもふたつの世界、いや、四つの世界を持っておるのだ」と寺の僧に語らせている。日本には四季があるから、なんて言葉は、日本以外にも四季はある、と常に反論されているけど、外国のことはさておき、日本に四季があり、何百年も昔から日本人はこの四季をじっと見つめ感じ歌に詠み共有し、それとともに生きてきたという事実は変わらないと思う。 面白いのは、日本の四季に代表される春の桜や夏の蝉、花火、秋の紅葉や月、冬の雪などは、一瞬のもので、儚いという言葉の代表でもあるけれど、それと同時に、一年ごとに繰り返され、延々と続いてきたものでもある。だから、現代に生きるわたしが、鎌倉時代の和歌を読んでも、その情景がまるで昨日のことのように感じられることが多々あるのだ。この、一瞬と延々の両方を、何の疑いもなく持っているのが日本人の特徴といえば、そうなのかもしれない、などと考えている。
  • 2026年5月20日
    日本の名随筆 (57) 謎
    古本市などで見かけるたびに買い集めている日本の名随筆シリーズ。今回は〈謎〉。 あさがほのからみあひたるつるの謎 久保田万太郎 あとがきの冒頭に紹介されている一句をまずゆっくりと眺めている。つるが目的を持って刻々と伸びてゆく。その後についてゆくような気持ちでそれぞれの随筆世界へ意識をとばす。 「サハラの迷路」森本哲郎 ぼくは岩の前に立った。と、風が岩蔭から流れ出て、アトリエの壁に細かい砂を吹きつけた。そのかすかな音が、セファールの沈黙の谷をいっそう静謐なものにし、タッシリの迷宮をいよいよ神秘的なものに仕立てあげた。 随筆の中に読むこのような描写が大好きだ。
  • 2026年5月16日
    続 星と伝説
    続 星と伝説
    文庫にて。 星を眺める楽しみを覚えて以来、野尻抱影先生の本を集めている。少し前、帰り道にて南の空にぽつりと光るアルファルド〈孤独星〉を見つけて、しばらく眺めていた。 「暮春の海蛇座」は、このアルファルドを含む星座、海蛇座について書かれている。海蛇座は西洋由来の名前だが、中国では昔この星座の先頭部分をその形から「柳宿」と呼んでおり、春の宵に見上げるのにぴったりだったそうだ。更に、この柳を鳥の嘴とみなし、海蛇座の形に沿って鳥の頸、喉、翼などと説明し、アルファルドの持つ朱色の光から、「朱雀/鳳凰」の姿を見ていたこともあるらしい。 これからの梅雨の夜の晴れ間には、海蛇ヒドラを眺めたいと思うが、それまでは、柳と朱雀を楽しもうと思う。
  • 2026年4月10日
    新潮 2026年 5月号
    新潮 2026年 5月号
    隔月連載の髙村薫「マキノ」を読むために購入しています。文芸誌って普段は自分では手に取らないような作品も載っていて、考えさせられることが多々ある。面白い。 平野啓一郎「決定的瞬間」 キュレイターである主人公が関わる事件の記録。記録なので話題があちこちに飛ぶのが読んでいて面白かった。 堀江敏幸「春眠」 父親についての昔話。塾の先生への仄かな気持ち。なんてことない日常の一コマだと思うのだけど、話し上手な人っているんだなあと思った。 古川真人「いまさら」 小中学校からの友だち三人。全員独身もうすぐ四十路。柿本と養母田の執着痴話喧嘩では? 髙村薫「マキノ」第五回 警察引退後相続により苗字の変わった合田さんが主人公だと、もうはっきりわかるのだけど、なぜ合田という名前を手放してこの続編を書いているのだろう?朝目が覚めて夜眠るまで、考えているのはほとんど元義兄の友人について。この物語がどんな作品として完成するのか全然先が見えなくて面白い。
  • 2026年4月5日
    魚が存在しない理由 世界一空恐ろしい生物分類の話
    デイヴィッド・スター・ジョーダンという二十世紀初頭の〈魚類〉を専門とする生物分類学者について。 分類学者の責務は、系統樹の形を解き明かし、この地球の混沌に秩序をもたらすこと。すべての植物や動物のつながりを整理して、生命の地図をつくるのだ。 プロローグで書かれたこの説明が、後半この本の題『魚が存在しない理由』へと繋がってゆく。 一方で著者自身についても語られる。「私たちの存在に意味はあるのか」を問い続ける著者。この問いの彼女なりのこたえの部分に少し矛盾があることが気になって、素直に読めなかったのが残念。 著者は、デイヴィッドが優生学を生涯手放さなかったのは、「おまえの存在に意味はない」という容赦のない真実へ落下しない為の防衛手段だったのではないか、と考える。そしてこの真実を無視すれば、デイヴィッドと同じ穴の狢になってしまうと。つまり、優生学の根拠としてデイヴィッドは「私には意味がある」と信じていたと。しかし数ページ後には、「惑星の視点から見れば、永遠という視点から見れば、もしくは優生学的な完全性の夢から見れば、確かに人間一人の命に意味などないだろう」と書き、いや、「私たちの存在には意味がある」と続けている。 優生学を提唱したデイヴィッドの「私の存在には意味がある」は、しかし意味のない人間もいる、という差別で、著者の言う「私たちの存在には意味がある」は全ての生命に対しての平等な肯定、という視点の違いを言っているのだろう。 わたし自身は平等に「私たちの存在には意味はない」と思っているので、それを「優生学的完全性の夢」と一緒にされては困る。優生学の人たちは、「意味がある者とない者がいる」と勝手に差別しているだけで、それは惑星の視点と同じではない。読みながらむっとしてしまった。 最終章「デウス・エクス・マキナ」 コンピュータを使った分岐学者たちの研究から、「魚類」という括りは正しくないとする発見。それ自体は興味深いことだったが、しかしでは新しく「肉鰭類」だなんだと結局分類することをやめられない学者たちは、何なのだろう。自然を自然のまま見ることは本当に本当に難しいことなのだろうか。新たに分類するためにまた魚を殺し解剖し研究し、を繰り返す。 学術的な言い回しによって動物と人間を別物にしようとするという点では、ときに科学者が一番ひどい暴挙にでる。動物が認知タスクで人間に優っていてもーー鳥類の一部は何千というタネの位置を正確に記憶できるーーそれは知性ではなく本能なのだと切り捨てる。こうした表現やさまざまな巧妙な言い換えは「語学的去勢」だ。言葉を使って、動物がもつ力をないことにしている。はしごの頂点に人間の座を守るために、言葉をひねりだしている。(p.319)
  • 2026年4月1日
    魚が存在しない理由 世界一空恐ろしい生物分類の話
    「どんなに自分が特別に思えたとしても、本当のところは、おまえはアリ一匹と変わりはない。アリよりちょっと大きいかもしれないが、アリより大事ってわけじゃない」 わたしも、波打ち際に大量の鰯が死んでいる映像をニュースで見て以来、この父親と同じことを考えている。わたしもこの死した魚一匹と全く同じ存在だと。 「命名は蜜のように甘く、幻想の万能感をもたらす。美しき秩序の感動が湧きあがる。名前を与える、この世にこれほどの癒しが、果たしてあるだろうか」 この数ヶ月、人間の持つ知的欲求について、名付けと所有について、未知のものを未知のままにはできないのか、ということについてを考える読書が続いている。『森は考える』『夢の城』『プレイグラウンド』『大英自然史博物館珍鳥標本盗難事件』『森の人々』など、共通のテーマが浮かび上がる。この本も、その並びに置けそうで、読み進めるのが楽しみ。
  • 2026年3月28日
    プロジェクト・ヘイル・メアリー 下
    プロジェクト・ヘイル・メアリー 下
    エイドリアンは淡いグリーンの惑星で、大気上層に霞のような白い雲が浮かんでいる。(p.63) 上巻をあっという間に読んでしまった。気持ちが昂揚している。下巻には緑色のブックカバーを選ぶ。これが終わったら、映画をもう一度見に行きたい。惑星エイドリアンの淡い緑色をゆっくりと眺めたい。 読了 物語の内容はわかっていても、面白くて夜通し読んでしまった。 以下原作/映画のネタバレにご注意下さい⚠️ 🪐 💫 ☀️ ☄️ 🦀 ✨ 🌙 グレイスが映画の印象よりも更に前向きで働き者で優秀な科学者だった。そして誰とでも良好な関係を築ける人。誰とでも分け隔てなく仲良くやれるのは、誰にも興味がないからかもしれない。教師の彼はきっと学生たちにもみな平等に接していたのだろう。地球上に特別な人が一人もいないのだろうか?原作でも彼の両親や兄妹など家族について何も描かれていなくて驚いた。どういう生い立ちの人なのだろう? 愛する誰かがいない。映画は更にこれが顕著だったと思う。「人類を救うヒーロー」としてはとても珍しい主人公だ。彼に背負わされた責任や未来は大変重いものだけど、彼がいつも飄々として軽やかなのは、それを自分ごととしてはあまりシリアスに捉えていないからなのかも。人類の為、と彼が過酷な試練に向かう時、具体的な誰かを思い浮かべているのだろうか?グレイスの興味の中心は科学だ。未知の生命、未知の惑星、未知の知的異星生物。結局ストラットは正しくて、グレイスはこのヘイルメアリープロジェクトにぴったりの人材で、更に言えばこれはグレイスの為のプロジェクトと言っても過言ではないのだと感じた。 どうか人類の未来なんて背負わず、地球で一人だった彼がようやく出逢えた親友と呼べるお互いの研究対象のロッキーと一緒に楽しく充実した日々をおくれますように。なんて清々しい!
    プロジェクト・ヘイル・メアリー 下
  • 2026年3月27日
    プロジェクト・ヘイル・メアリー 上
    プロジェクト・ヘイル・メアリー 上
    映画版を見て一週間、頭の中がこの物語のことばかりになってしまった。本屋に並ぶ文庫を前に、我慢できずに購入しました。しかし、映画版を先に見たので、あの理想的な主人公たちについて、これ以上の補足は必要なのか、知らないことは知らないままの方が良いのではないか、映画の余白はそのままにしておいた方が良いのではないか、言葉にされると幻滅しないか、と迷いつつ、一度開いたら面白くて読む手がとまりません。 これは、映画を見た後にも考えたこと。 人類が存続することが、それほど重要なことなのか?生命を実験と称して殺すことに躊躇いがない。人間同士も殺し合う。勿論食事も。必要エネルギーとはいえ。彼らは人類の危機に際し、ここぞとばかりに壮大な科学の遊びをしているようにも感じる。下等な霊長類?人間がそれより上等と考えられる傲慢さ。 以下ネタバレにご注意下さい⚠️ 🪐 💫 ☀️ ☄️ 🦀 ✨ 🌙 この作品の最も素晴らしく稀有なところは、と考えるならわたしは、こちら側とあちら側を一対一の関係にしたところだと思う。もしグレイスに仲間がいたら、ロッキーとの邂逅は別のものとなっていただろう。男たちは、数十日間狭い空間に閉じ込められると殴り合いのけんかをし、刺し殺そうとするような生き物だと、既に作中で説明がある。一対一で、誰にも邪魔されることなく、同等の知的好奇心のある地球外生命体と交流できるところに、胸が苦しくなるくらい甘美な夢が詰まっている。 でも本当は、この現在の地球上の、身近にも生命はたくさん存在し、鳥や虫や魚や植物を理解したいと目を向ければ、向こうもこちらを見ているかもしれないし、もっと言えばロッキーが人間であっても良いはずなのに。きっともし宇宙の果てまで探したとしてもわたしにはロッキーとグレイスのような関係を築ける相手は見つからない。 SF作品を読んでいると、未来に人類が宇宙へ進出していることに悲しくなることが多い。きっと人間はどの地でも己の欲望を抑えきれずに環境破壊の限りを尽くすと思うから。『プロジェクトヘイルメアリー』の映画は、そのような「人類」の未来を描かずに、グレイスが大義や責任や故郷や自己犠牲や人類や他のたくさんの恒星や惑星の未来よりも、たった一人でゆく道を選ぶ、その個人の選択を輝かしいものとして描いているところが大好きだ。原作はどうだろう。はやく読み進めたい気持ちと、知りたくない気持ちと、勿体無い気持ちが混在している。 ストラットについて。 人類を救うことがそれほど大事なことなのだろうか?この物語の地球の科学者たちは、地球を救うことよりも、人類を救うことばかり考えているように感じる。彼女のその熱意はどこから来るものなのだろう?
  • 2026年3月17日
    私が間違っているかもしれない
    私が間違っているかもしれない
    タイの森林派と呼ばれる仏教僧院での修行生活。世界にはこのように生きている人もいるのだ。
  • 2026年3月9日
    森の人々
    森の人々
    この本の帯には、「ある科学者が目撃した熱帯の島の悍ましい成人儀式、そして食すと不老不死になる幻のカメ」「実在の科学者をモデルにしながらも、作家独自の世界観を圧倒的筆力で描いた話題作」とある。 しかし物語はまず最初に、そのノーベル医学賞受賞歴のある主人公が、性的同意年齢未満の子どもに対しての強姦、性的暴行、児童虐待の容疑で逮捕された、という報道記事から始まる。(この主人公に実在のモデルがいるのだ)昨今のニュースを自ずと思い出す。 以下、ネタバレにご注意下さい⚠️ ・ ・ ・ ・ ・ 主人公ペリーナ博士の自伝という形で綴られている物語の全ては、主観的で彼の都合の良いように語られていること、それを更にペリーナ博士の信奉者である助手の手により編纂されていること、つまり何一つ信用できないということ。そのような意図で書かれた作品として読んでいた。両親について、双子の兄について、美しい仕事仲間タレントについて、女性調査員について、ジャングルや森について、そこに住む人々について、長寿の研究について、養子にした子どもたちについて、そして逮捕容疑の真実について。 最近読んだ、C.ブロンテ『ジェイン・エア』の中で一番印象的だった一文が何度も頭に浮かぶ。 〈美は、見つめるものの目のなかにある〉 全ての事象は主人公の見つめる目を通して描かれており、美しいもの、汚いもの、悍ましいもの、記されていることに何一つ信頼が置けない。そもそも小説とはそのようなもの、なのだろうが、最近自分が益々疑い深くなっているので、この作品は特に懐疑的な読書体験となった。 物語にはいくつか謎めいた事柄があって、帯に書かれている未開の地の生活や神秘や自然環境はその大部分ではあるのだけど、冒頭に主人公に対する罪の容疑が挙げられている為、結局この人物が有罪なのか、冤罪なのか、というスキャンダルの方が気になってしまい、さっさと読み進めてしまった。 去年から、未開の地や島に西洋人がやって来て、その地を欲望のままに荒らし、現地の人々や生き物に多大なる影響を与え、お金や利益になりそうなものを全て奪った後に、去ってゆく、という内容が含まれる本を立て続けに読んでいて、この『森の人々』も当然そのカテゴリに当てはまる。そこにどんな理由や言い訳があったとしても、人間の欲深さ、が根底にあり、自分も含め人類は絶滅した方が地球の為だとまた思う。 ところで、この作品には主人公を含め何人かの印象的な登場人物がいて、その中で女性は主人公の母親と仕事仲間エスメの二人のみ。そして残りの男性たちは殆どが同性愛者だと思われる。これも、主人公の目を通して見ている世界、だからなのかだろうか?それとも何か意図してのことなのだろうか?
  • 2026年3月5日
    ジェーン・エア 上
    ジェーン・エア 上
    『ジェイン・エア』は二〇〇六年のTVシリーズを何度も繰り返し見るほど好きだった。原作を読むのはこれが初めて。もう一冊別の翻訳と比較しながら読み進めている。ジェインとロチェスター氏の歳の差は約二十歳。現代感覚ではこの年齢差でロマンスはなかなか難しいと思うけど、古典文学としては、大変、大変、味わい深いです。 「美は、見つめるものの目のなかにある」 上巻読了。 二つの別の翻訳を比較しながら読んでいて、大きな違いを感じたのはロチェスター氏の口調。新潮文庫(大久保康雄訳)では、ロチェスター氏は初めから長いこと「です、ます」調の丁寧な言葉遣いで翻訳されている。それが、とある場面でその口調が崩れ、柔らかい甘やかなものへと変化する。別の翻訳ではもともとが丁寧な口調ではないのでこの変化は全く感じなかった。原文がどうかはわからないけれど、この口調の変化によってロチェスター氏がこの瞬間ジェインを可愛くて仕方がないと感じている、というのがよく伝わってきた。 ジェインがロチェスター卿をその年齢差も構わずに好ましく恋心を抱くのも、凄く凄くよくわかる。下巻も楽しみ。
  • 2026年3月2日
    絵のない絵本
    絵のない絵本
    ぼくは指にキスして、そのキスを月に投げかけました。すると月は、まっすぐ、ぼくの部屋の中にさしこんできました。(p.8) 月が語る三十三夜の物語。 もしこの本を月夜の部屋でひとり読んでいたら、涙を堪えることなく本を濡らしていたかも。月が語るどの世界も美しい画として頭に思い浮かぶ。長い年月を人間の世界を眺めるだけで干渉せず、その光はいつもどこでも公平で、この人間の欲にまみれた世界にまだ平等といえるものが残っていたことを思い出させてくれた。少し救われる気持ちだ。 いかなりし人のなさけか思ひ出づる来しかた語れ秋のよの月 京極為兼 さそはるる月のしるべにへだてはてしよそのくもゐに心をぞやる 伏見院 物語の中で特に心惹かれたのは、 第五夜 「昨日のこと……わたしは、せわしなく動いているパリを見おろしていました。そして、わたしの目は、ルーブル宮殿のたくさんの部屋へと、はいりこんでいきました」(p.29) 何年も前に、ルーブル美術館を訪ねた。そこで、壁一面の窓から西陽が降り注ぎ、ミケランジェロの彫刻「瀕死の奴隷像」の身体をゆっくりとその柔らかな光が撫でてゆくのをしばらく目が離せずに眺めていた。この記憶はわたしの中で一等美しい記憶で、きっとこの月光もこっそりと窓にかかるカーテンの隙間から宮殿の部屋へと入り込むことができることは、容易に想像できる。 第六夜 「そういう丘の上に、ひとりの男の人が立っていました。歌人でした。歌人は、幅の広い銀の輪がついている角杯から蜜酒をのみほすと、ある人の名まえをそっと口にし、そして風に、その名をほかのものに、もらさないでおくれ、とたのみました」(p.38) 第十二夜 「けれど、廃墟はまだ立っていました。まるで変わらずに立っていました。それは、このあとまだ何百年でも、そうして立っているでしょう」(p.73) 第十八夜 「あなたは、あの円柱の上の、翼のあるライオンが見えますか?その黄金は、いまでもかがやいていますけれど、それでも、翼はしばられているし、ライオンは死んでいます。というのも、海の王が死んでいるからです」(p.107) 第十九夜 「月のほかには、だれもいませんでした。墓地の壁のそばの片すみに、この自殺した人は葬られました」(p.114) 第二十夜 「わたしは、その子のきれいな丸い肩や、黒い目や、つやつやしている黒い髪の毛にキスしました」(p.118) 第二十一夜 「やがて、その隊商は、砂漠のそばにある、塩の平地の一つにきて、止まりました」(p.121) 夢の裡なる隊商のその足竝もほのゆみれ。中原中也「春の夜」の一節や、砂漠の都市バブルクンドの物語を思う。砂漠の隊商に何度憧れたかわからない。 第二十四夜 「……ええ、そう、わたしは、とても広くを見まわせるのですよ!」(p.139) 第二十九夜 「わたしの光は、壁にあいた格子窓をとおって、ひろびろとした円天井の部屋にすべりこんでいきました。この部屋では、昔の王さまたちが、大きい石の棺の中で、うとうとと眠っているのです」(p.165) 光の粒子の、ただ一つの野望は、物体に届いて、大きかろうが小さかろうが、とにかく目に見える画像にすることなのだ。ヨシフ・ブロツキー「ヴェネツィア」のこの一部分がずっと記憶に残っている。光の粒子の野望。光が、宇宙から地上のある一点に落ちるのは、偶然ではなく野望だと考えると、面白い。この物語の月も同じように、格子窓を抜けて奥の部屋まですべりこむ。 時代も国も、王も白鳥も廃墟も道化も囚人も年老いたひとも若者も子どもも悲しむ人も喜ぶ人も夢みる人も木々も死者も、あらゆるこの地球上に暮らすものに、月はずっと光を注ぎ、その営みをただじっと見つめている。 読みながら、野尻抱影先生の言葉を思い出した。 否、何も知らずに産声を挙げた夜にも、あの雄麗な宝玉の図は屋根の上の空に描かれていた。そして、柩に釘の響く夜の空にもあのままの天図は燦爛と輝いているのである。そしてさらに墓の上には永く永く。「星は周る」
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