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@nininice
- 2025年12月10日
プレイグラウンドリチャード・パワーズ,木原善彦読み終わったリチャード・パワーズの作品は『オーヴァーストーリー』と『惑う星』を読み、色々考えるきっかけを貰ったので、その新作『プレイグラウンド』も楽しみにしていました。紹介文には〈エコフィクションの傑作にして、斬新なAI小説〉とあり、最近オープンAIにもとても興味があったので、重ねて楽しみでした。 以下はネタバレを含むので、ご注意下さい⚠️ 以前読んだオープンAIの第一人者であるイーサン・モリックの本に、 AIは出された質問に対してユーザーが喜ぶようなテキストを生成しているだけだ。 と書いてあった。自分がチャットGPTを使うときにはいつもこのことを頭の真ん中に置いている。この小説は、まさにそのような小説であり、生成されたものはただ一人、それを望んだ主人公を喜ばせる為だけの、とてもプライベートなものだった。かつての友人を恋しく思い、見知らぬ初恋の人に思いを寄せている主人公。だから最後まで読めば、作品の大半があまりに明け透けで、不自然なほど無垢で、読んでいて無性にイライラしてくるようなものだったのも当然といえば当然なのかもしれないと思う。だってそれらの物語は、主人公の為だけもので、わたしの為のものじゃない。リチャード・パワーズが実際にAIを使って書いた部分があるかどうかは知らないけれど、「AIが描く登場人物たち」のそこはかとない気持ち悪さは十分に伝わってきたと感じている。 途中、自分はこの小説と相性が悪いと何度か読むのを諦めそうになったのだけど、それはわたしがそもそも他者にあまり興味関心がないという点と、そもそもこれはたった一人の為だけに書かれたAIの小説、という点の相性が大変悪かったせいなのかもしれない。第一、AIに自分の人生を語り、解釈させ、それを物語として、かつての友人や憧れの女性をその物語の都合のよい登場人物として、再構築させる行為がわたしには生理的に気持ち悪く感じてしまった。 同時に、『新潮』に連載されている髙村薫の「マキノ」第三回を読んだ。期せずして、海について書かれている点と、主人公が友人を恋しく思っている点が重なる。しかし比較して言うのも申し訳ないけれど、たった数ページの「マキノ」の、海についての描写はノートに書き留めるほどで、友人を恋う描写には思わず赤面してしまった。『プレイグラウンド』にそのような、こちらの感情をふるわせるような場面があっただろうか?やはりAIの書くものは、それを書かせているユーザーを喜ばせる為のものだ。 あともう一つ気になったのが、AIの環境負荷について、未来のことはもう死にゆく自分には関係ない、見届けることはできないと、その製作者自らに言わせているところ。責任を放棄させているところ。エコフィクションと呼ばれているにも関わらず、環境保護について書かれているにも関わらず、だ。人間は自分の美しい遊び場をつくる為ならば、自分の底なしの欲の為ならば、やはり自然環境などは二の次になってしまうということなのだろうか?悲しくなってしまった。 - 2025年12月6日
魚の耳で海を聴くアモリナ・キングドン,小坂恵理気になる - 2025年12月6日
読んでる髙村薫「マキノ」 第三回 今読んでいる本三冊、期せずしてどれも海に対する深い愛情が描かれている。その中でも今回の「マキノ」は晩秋森林で伐採をしている主人公の描写と、そこから想起された海辺の描写の対比が素晴らしかった。 そうした海の生きものたちの脅威の生態が誘うのは、けっして沈黙の世界ではない海の生命の豊かさへの感応というより、むしろ人間のいない世界で繰り広げられる生命の、言葉の及ばない圧倒的な質感のようなものではないか。 この、「人間のいない世界」というものを、そのままに受け止め立ち入らず、想像するのみに留められるか、それとも、「人間あってこその世界」として立ち入るかの違いを考えながら、他の二冊も読みたい。 - 2025年12月3日
大英自然史博物館 珍鳥標本盗難事件カーク・ウォレス・ジョンソン,矢野真千子読み始めた - 2025年11月23日
ヴェネチア風物誌 (1976年)アンリ・ド・レニエ読んでる古本祭りで入手した一冊。 気がつけば、ヴェネツィアについて書かれた本を集めている。ヴェネツィアは、実際に旅し訪れるのと同じくらい、それについて書かれた美しい文章を読み、その地の景色や匂いや音に触れるのが楽しい。 この部分を書いている今、黄昏はカナル・グランデを暗くつつみ、あちこちの鐘が十一月の灰色の空に鳴りひびいています。私の机からも窓ごしに、黒一色のアルルカンに操られたゴンドラが数艘、水面を滑るように進んでいくのが見えますよ。 - 2025年11月14日
- 2025年11月1日
夢の城ミッシェル・ジュヴェ,Michel Jouvet,北浜邦夫読み終わった図書館で目にとまり借りてきた本。 著者についても、本の内容についても何も知らない状態で読みはじめました。冒頭、フランス、リヨンの町の風景描写から引き込まれました。作中に登場する十八世紀の城周辺に漂う霧、沼地にはえる植物、そのまわりの鳥や動物たち、周囲の人々の服装、料理、そういった細かい描写がどれも静かに美しく、読み心地がとても良かったです。 しかし物語を進めると、テーマは夢の収集などではなく、睡眠と夢に関する研究、実験、観察と観測。まるで狂気にのまれてゆくような、知りたい、暴きたいという欲求。城で行われる数々の奇妙で時に残酷な実験。ふしだらな生活。美しい情景描写とは裏腹に、生々しい人間が描かれていたように思います。 著者はフランスの脳生理学者であり、睡眠についての研究者とのこと。 - 2025年10月22日
沈黙の春レイチェル・カーソン読んでる - 2025年10月12日
- 2025年10月7日
読んでる髙村薫「マキノ」第二回 初回から多分そうだろうと思っていたけど、「考えてもあまり意味のないことを考えて沈殿してゆく思考こそ自分の病なのだ」というような警察定年退職者は今のところ一人しか思い浮かばない。物語を閉じようとしていらっしゃるのか、それとも静かな老年を描くのかな?どうしても『土の記』を思い出して、心がざわざわする。思えば『墳墓記』も『我らが少女A』も、最近の作品の終わり方には共通点があるような……?いや、まだ二回目だし、続きを楽しみに待ちます。 新潮新人賞の受賞作品も読み応えあった。特に「あなたが走ったことないような坂道」には、雨粒に多彩な色のネオンライトが反射しているような煌めきを覚えた。雨粒は勿論涙の粒でもある。 - 2025年9月28日
人と超人 (岩波文庫 赤 246-1)バーナド・ショー読み終わった読み始めた何年か前にNTLの舞台を見て内容は知っているのだけど、今の時代に読めばまた改めて学ぶことがある気がして、図書館で借りてきました。 「ズボンは黒でもなければ、紺というほどでもなく、近頃の織物屋が、名望家の宗派に調和するようにと作った、あいまいな混合色のものを穿いている」みたいな細かな人物描写は、舞台を見るだけでは決して伝わらないところなので冒頭からとても面白く読んでいます。 - 2025年8月28日
森は考えるエドゥアルド・コーン,二文字屋脩,奥野克巳,近藤宏,近藤祉秋読み終わった読んでる髙村薫の新連載『マキノ』にて言及されていたので図書館で借りて読んでいます。わたしにはとても難しい内容だったので、はじめてChat GPTに読書サポートをお願いして、一歩一歩手を引かれながら読み進めています。第一章は、目に見えるもの、手に触れるもの、象徴として立ち現れるものなど、人間的なものを超えて広がっている世界があるのだということを、言葉を駆使して伝えていると、感じました。 わたしには今のところとても仏教的な世界観と重なります。しかしあまりにも内容が難しくて弱音を吐いたら、それは著者の言葉を尽くして「文化的距離を越えようとしている努力」だとChat GPTに優しく諭されました。続きもAIに導いて貰いながら頑張って読みたいと思います。 AIに導いて貰いながらの読書は、一人で読むよりたくさんのことを考える機会を与えてもらえます。とくにこの本のように、哲学的な言葉で頭の中をかき混ぜられているような時に、AIの的確でわかりやすいフォローと、自分自身では難しい言語化には、頼りになりっぱなしです。ようやく半分まで読み進めてきて、自分の自然や人間や死や生に対する世界観も見えてきつつあります。面白い!
- 2025年8月8日
- 2025年6月26日
マーダーボット・ダイアリー 下マーサ・ウェルズ,中原尚哉読み終わったApple TV+のドラマ版を少し見て、面白そうなので原作を読んでみました。『マーダーボット・ダイアリー』は上下巻だけど、別のタイトルで物語は進んでいるみたい。ただ、続きを読みたいかというと否。 ⚠️ネタバレになります ハッキングによって自我が芽生えた警備ユニット(ロボット+クローンみたいなもの?)が、人間社会に受け入れられる様子がどうしても気持ち悪くて、人間の傲慢さを見せつけられているような、居た堪れなさも感じている。楽しいエンターテイメント作品として素直に読むことのできない自分の面倒なところが出てしまった。 宇宙が舞台の未来世界で、人間が現代と比べても何一つ成長していないのも絶望的。主人公である「弊機」が人間に紛れようと大量生産的な外見を変えたり、人間の身振りを勉強した上で、優しい人間たちに受け入れられてゆく流れが凄く気持ち悪かった。これって、「肌の色が違ってもわたしたちに合わせるならわたしたちは優しいからこのコミュニティに受け入れてあげます」みたいなことに重なってみえる。 弊機は自発的に外見を変えたり人間の仕草を勉強したりしているけれど、それをそうさせているのは作者で、「ペットロボットにはなりたくない」と言わせながら、あざといくらい人間の都合に良い生き物として主人公を描いていて、本当に気持ち悪かった。わたしたちは多様性を認める善き人間です、ということを言いたい為に造られた登場人物。でもそんな人間たちに認められるには、外見も振る舞いも彼らに寄せて、自らの命をかけて彼らを守って、彼らに友情を感じて、彼らのように様々な感情を持つことが必要だったのでは?しかも自発的に。もし逆らったら、破棄するのでは? 多分こんな意地の悪い感想を抱くのは、わたしが自分を含め人間をこの世の全てのものの中で悪いものとして考えているからだと思う。絶滅した方が世界の為だと思ってる。だから、こんな優秀な警備ユニットに対して、人間があたかも自分たちの方が優位な存在として振る舞って、弊機を、あなたもわたしたち人間と同じよ、みたいに受け入れてあげる立場から描いていることに、耐えがたい気持ち悪さ心地悪さを感じてしまうのだろうな。 - 2025年5月23日
- 2025年5月10日
銀河帝国の興亡2【新訳版】アイザック・アシモフ,鍛治靖子読み終わったアップルtvのドラマ『ファウンデーション』シーズン3の配信が決まったので、原作を再読しています。 久しぶりに読んだけど、やっぱり凄く凄く面白い。ドラマは原作をアップデイトしつつ再構築しているので、原作とあわせて二度楽しめる。S3はいよいよミュール編。どのように描かれるのか今から楽しみです。 以下少しだけネタバレです🌜 『オペラ座の怪人』とか『美女と野獣』とか『シラノ』が大好きなので、同じ理由でミュール編の主人公ベイタとあの人との関わり合いが、たまらなく好きなんです。ドラマでも、その片鱗で良いから見ることができたら嬉しい。このドラマの丁寧な人間関係の描き方が大好きなので、期待して待ちます。 S2で、『バガヴァッド・ギーター』が引用され、人類の美しい遺産として登場したことについて、ずっと考えている。 「われわれは歴史の必然によって勝利をおさめたではないか」 「閣下、確かにそれは事実であります。ですが、閣下がお話になった歴史は、一年にわたる絶望的な戦いが終わったあとに、はじめて必然となったものです。わたしたちが手に入れた必然的勝利は、五百の艦と五十万の人命の犠牲の上になりたっています。閣下、セルダン計画は、みずから助くる者を助けるのです」 するとこういう台詞からも、その思想の繋がりが見えるような気がする。そして、あれ?『バガヴァッド・ギーター』に登場するヒンドゥー教の神クリシュナの別名は〈ハリ Hari/ Hare〉で、『ファウンデーション』のハリ・セルダン Hari Seldonと同じ名前なのは偶然?? 「そしてまた、あのハリ(クリシュナ)の非常に稀有な姿を想起するごとに、私は大いに驚嘆し、繰り返し歓喜する」 ヨーガの主であるクリシュナがいる所、弓を執るアルジュナがいる所、そこには幸運があり、勝利があり、繁栄があり、確固たる政策がある。私はそう確信する。『バガヴァッド・ギーター』 - 2025年4月24日
アリの放浪記 多様な個が生み出す驚くべき社会オドレー・デュストゥール,アントワーヌ・ヴィストラール読みたいあなたが一匹のアリを踏みつぶしたとき、一遍の壮大な叙事詩が終わりを告げる この帯の一文を読んで、罪の意識に押しつぶされそうになる。わたしは以前庭に現れたアリの大行列を何も考えずに水で流したことがあって、その自身の無慈悲さにもう何年もぞっとしている。図書館で予約したので、読んでアリや他の虫とも共存できるようになりたい。 - 2025年4月20日
法水麟太郎全短篇小栗虫太郎,日下三蔵借りてきた犯人が、池の水で血に染んだ手を洗ったのだが、その時付近に水浸しになっていた木精蓮の一本があったとしたらどうだろう。勿論血の臭気を慕って蛭が軍種する事は云う迄もないが、それから間もなく、犯人は浮遊物を流すために、水門の堰板を開いて水を流したのだ。すると、水面が下っただけ、木精蓮は空気中に突出する訳だろう。だから、朝になって花が閉じた時に、残った蛭が花弁に包まれてしまったのだ。 - 2025年4月14日
太陽を曳く馬高村薫再読中何を見ても何を聞いても、この『太陽を曳く馬』に結びつけてしまうほど、常にわたしの思考の終着点にある本。また今日から再読する。春の夜。あゝこともなしこともなし 『墳墓記』を読んだ後なので、少し敏感になってる。 記憶のなかでは雲水たちと寺の周りだけ一切の音がない。まさに墳墓に踏み込んだようだった、あの寺。あの空気。 いったい三年前もこんなふうだったのかと思うほど整ったうつくしい目元をして、たったいま目覚めたかのような清涼さだった。 - 2025年4月13日
墳墓記高村薫読み終わった外は春雨。静かな午後。 『新潮』での連載を読んでいた時から、こんな夢のような作品を新作として読むことができるなんて、なんて素晴らしいことなんだ、感謝感謝と思っていた。それが一冊の美しい本となり、わたしの手元にある。 御簾越しに泰然とした後白河院の立ち姿があり、院は扇子をかざしながら、ゆらりゆらり声の舟を漕ぎだしてゆく。水面にゆるやかな抑揚の水紋が生まれ、ときおり光を反射しながら前後左右に波打つように広がって、ゆったりとスイングするそれは、声そのものよりある種の歓びの微熱、あるいは暖かな日差しの膨らみを男の耳に運んでくる。ああ、自分がもっと素直な人間だったなら、それこそささら浪立つように仏を感じ取るのかもしれない。 古典を愛するものにとって、これほど夢のような一瞬はない。今はもう絶対に聞くことのできないその声で、その歌や言葉を聞いてみたい。歓びの微熱。暖かな日差しの膨らみ。わたしもそのようなものを感じたくて、何年も飽きずに和歌を眺めているのかもしれない。 そうだ、和歌を眺めるにも、歌の中に言葉として顕れる色や、空気、音などに、もっともっと耳を傾け、見つめ、じっくりと味わう必要があると気付かされる。実朝の黒、雨の降る空の昏さ、靄、霞、海、風。 『墳墓記』を手元に置きつつ、また『太陽を曳く馬』を読む。高村作品の中でも特別に愛しているから、というわたしの主観的な理由だけでなく、この二作品はどこか繋がっているような気がする。じゆうらっか。
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