サティ 気づけば変わる
1件の記録
本の虫太郎@book_liver2026年9月7日読み終わった印象に残ったこと3点 ・心理面接で来談に訪れるクライエントの二大質問は、「どうしてこうなったのですか」と「どうしたらいいんですか」の二つの問いである。自分や家族の問題を前にして、「何がどうなっているのか」、「何をどうしたらいいのか」わけのわからない混乱した状態に悩んでいるのである。この「わけのわからなさ」について、精神分析学派の妙木浩之は興味深い論述を行なっている。若干言い換えているので、文章は筆者の責任である。おおかたの趣旨はこうである。 この「わけのわからない」状態に対する不安)が多くの神経症や心身症の発症原因である。もっといえば、「わけがわからない」ことを気に病み、それにとらわれて、「わけをわかろう」とあがきもがくことがその症状をさらに悪化させる。精神分析は、クライエントの「わけのわからない」状態の無意識的な<わけ>を意識化・言語化して自己洞察させることによって、「わけのわかる」状態にすることを治療目標としている。そのためのさまざまの解釈モデルが準備されている。 しかし、そのわけがわかったからといって必ずしも病状が寛解するわけではない。むしろ逆で、「わけがわからない」まま治ることも少なくない。その場合、「わけがわかるかわからないか」へのとらわれから解放され、このままでも大丈夫と安心感がもてることが前提である。そのためには「わからなさ」を共感的に共有してくれる同伴者が不可欠である。わかることに越したことはないかも知れないが、わかること、知ることが必ずしもいいこととは限らない。「知らぬが仏、知れば鬼」ということもあるのである。ソクラテスのような哲人ならいざ知らず、われわれ凡人は知ることに伴う苦痛に対する耐性が乏しい。それゆえ、北山修は言う。「わけがわからない」状態をあえて強迫的に「わかろう」とするよりも、そのことがどうでもよくなることをむしろ望んでいるのである。 あらゆる事柄は、わけもなく、いや、はかり知れないわけによって「現に今、ここにこうしてある」。それを「こうしてあるわけは?」と問うのは、世俗の分別思考である。「あるがまま」とは、分別思考の彼方のことである。そのわけを問われても、少々乱暴であるが、「こうしてある」から「こうしてあるのだ」としか答えようがない。いい加減なわけを答えてはならない。そうかも知れないし、そうでないかも知れないし、そうでないのではないかも知れない。煎じ詰めれば「知れない」のだ。 ・西洋の二価値の論理しか頭にない人は、「存在するのかしないのか」どちらかに明確に分別しないと気が済まないが、わからないものはわからない、語れないものは語れない、とあるがままに受け入れる以外にない。 「ある」とか「ない」とか、両極の一方を主張することは、決定の邪見にとらわれることである。この世のものごとはすべからく「こういうものだ」と決めつけた瞬間に、「こういうものではなくなる」のである。語る端から虚偽になる。釈迦の思想は不定の論理に貫かれており、有無の二元を超越しているのである。 ・われわれは、日頃、いま自分に起こっている考えや感情、行動に気づかないまま習慣的、自動的、無自覚に実行している。マインドレスなのである。日常起こるさまざまな問題の大半は「気づかなかった」ことから起こる。その行為に気づかない限り、いつまでも変わることなく同じことが繰り返される。そこで、もし変化が必要なのであれば、現に今この一瞬に体験している行為に意識を向けて気づき、自覚的に行為することが要請される。これがサティであり、マインドフルネスなのである。