アドラー 人生の意味の心理学

アドラー 人生の意味の心理学
アドラー 人生の意味の心理学
岸見一郎
NHK出版
2018年6月1日
13件の記録
  • ミーア
    @miakiki8022
    2026年9月28日
  • 面白かった! 『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』を再読したくなった。 『嫌われる勇気』を何年か前に読み、アドラー心理学を初めて知った時は時は衝撃に近い感銘を受けた記憶があるのだが、やっぱり時を経ると考え方も読み解き方も変わるもんなんだな〜と思いながら読んでた。昔みたいに全肯定でなるほどふむふむ…、みたいな読み方はしなくなってた。 もちろん『アドラー心理学』に対して改めて感銘を受けた部分も多々あるのだけど、(己の)思考や感じ方も同じ場所に留まることはないよね〜というのも改めて感じた。 映像(『100分 de名著』本編)の方もぜひ見たい。 ᴍᴇᴍᴏ+🎡感想📄∘˙ 🌧️ いかなる経験も、それ自体では成功の原因でも失敗の原因でもない。われわれは自分の経験によるショックーいわゆるトラウマーに苦しむのではなく、経験の中から目的に適うものを見つけ出す。自分の経験によって決定されるのではなく、経験に与える意味によって、自らを決定するのである。そこで、特定の経験を将来の人生のための基礎と考える時、おそらく、何らかの過ちをしているのである。意味は状況によって決定されるのではない。われわれが状況に与える意味によって、自らを決定するのである。(第一章人生の意味「子ども時代の経験」) 🌧️ アドラーのいう「目的論」では、ある人と関係を続けたくないと思うことが、久点を見つけることの目的です。長所を見つけ、好きになるのは、その人との関係を始めたいという目的があったのです。なぜ好きになったか、嫌いになったかという原因(理由)を相手の中に見つけようとすることが、先ほどのアドラーの言葉の中にある「経験の中から目的に適うものを見つけ出す」ということです。関係を始める、あるいは、関係をやめることの理由を、自分の決心を後押ししたり、正当化したりするために探さなければならなかったのです。 🌧️ 単独子の場合は、対人関係の葛藤を経験することが少ないため、同年代との付き合いが下手になることがあります。他方、自立的になり、他者と一緒に生きていく努力をする子どもになるかもしれません。単独子のライバルは他のきょうだいではなく、父親であり、母親に甘やかされた子どもは、マザー・コンプレックスを発達させることになるかもしれないとアドラーはいっています。 🎡…心当たりがありすぎてため息が出る。 🌧️ すべての人を動機づけ、われわれがわれわれの文化へなすあらゆる貢献の源泉は、優越性の追求である。人間の生活の全体は、この活動の太い線に沿って、即ち、下から上へ、マイナスからプラスへ、敗北から勝利へと進行する。 (第三章 劣等コンプレックスと優越コンプレックス「優越性の目標」) 劣等感というと、他者と自分との比較から生じるものと考えられますが、ここでいう劣等感とは他者との比較ではなく、「理想の自分と現実の自分との比較」から生じるものです。アドラーはこの劣等感こそが、人類のあらゆる進歩の原動力となっていると考え、次のようにいっています。 ▷例えば、科学の進歩は、人が無知であることと、将来のために備えることが必要であることを意識している時にだけ可能である。それは人間の運命を改善し、宇宙についてもっと多くのことを知り、宇宙をよりよく制御しようとする努力の結果である。 実際、私には、人間の文化のすべては劣等感に基づいていると思える。 (第三章劣等コンプレックスと優越コンプレックス「劣等コンプレックス」) 本来、劣等感は建設的に補償するしかありません。例えば自分が理想とする状況に到達していないと思った場合は、もっと勉強しよう、もっと努力しようと考えて、建設的な努力をするしかないのです。 🌧️ 私なら、理不尽な叱り方をする上司に悩んでいる人に対しては「菱縮することなく、普通に接してください」と助言するでしょう。上司がいうことが正しければそれを受け入れ、間違ったことをいっていれば反論すればいいのです。対等な人間として接し、菱縮することも、顔色を窺うこともありません。 仕事の場面では、誰がいっているかではなく、何がいわれているかにだけ注目すればいいのです。 🌧️ 尊敬しなさいと強制することはできませんし、黒板の上にすわることで優れていることを誇示する必要などないのです。そのようなことをする教師は自分が教師としては有能ではないと思っているので(あるいは、そのことを認めたくはないので)日々研鑽を積むという現実的な努力を避けて、物理的にすわる位置を高くすることで安心を得ようとしています。もちろん、実際にそんなことをする人がいるとは思いませんが、先に見た理不尽に部下を叱りつけて優越感を持とうとする上司と同様、横柄な態度を取ったり、生徒を叱りつけることで生徒よりも優位に立とうとする教師ならいくらでもいます。 🌧️『競争する相手は他者ではなく自分である』 多くの人が陥りやすい間違いの一つは、優越性の追求を「競争」だと思ってしまうことです。私たちは普段、競争社会で暮らしているため、ともすると優越性の追求を「他者よりも優れていようとすること、他者を蹴落としてまで上に登ろうとすること」と考えてしまいます。 🌧️ 受験勉強を経験した人の多くは、勉強をつらいものと感じていたと思います。しかし、勉強は本来知らないことを学ぶことですから、大きな喜びを与えるはずです。それなのに、勉強は他者との競争であり、苦しくても歯を食いしばってするものだと、いつのまにか倍じ込まされてしまった人は、大学などに進学したり、就職が決まったりして、もはや受験する必要がなくなると勉強しなくなってしまいます。 健全な劣等感とは、他者と比較して自分が劣っていることで感じるものではなく、理想の自分との比較の中で生まれるものであり、健全な優越性の追求とは、先に引用したアドラーの言葉を使うならば、自分にとっての「マイナス」から「プラス」を目指して努力することです。病気になった人が少しでも回復したいと思い、摂生したり、リハビリに励んだりする時には、ただ自分にとってのマイナス(病気の状態)からプラス(健康な状態)を目指すこと、回復を望めないとしても、少しでもマイナスからよりプラスであることを目指すことが健全な優越性の追求といえます。 🌧️ 平地を歩く場合であっても、そこに他者が存在する限りは、坂道を上る時と同様に競争が起こるのではないかーそう思う人もいるかもしれませんが、前を歩いている人を追い抜かねばならない、後ろからくる人に追い抜かれてはいけないと考える必要はありません。誰かと競争しようとはせずに、自分がただ前を向いて確実に一歩前に足を運ぼうと意識して歩いていれば、それでよいのです。すべての基準は自分です。誰かにたとえ追い抜かれようとも、自分が今いる場所から少しでも前に進むことができれば、それは優越性を追求していることになるのです。 🌧️『すべての悩みは対人関係の悩みである』 対人関係の問題は、他者を自分の行く手を遮る存在、「敵」と見なすことから生まれます。親子関係を例として考えてみましょう。もしも子どもが、親のいうことを何でも聞く従順な存在であれば、何の問題も生じないはずです。しかし、実際には親が「早く寝てほしい、もっと勉強してほしい」と思っても、子どもはなかなかいうことを聞いてはくれません。 そうした関係が続くと、やがては互いに相手を自分の「敵」と見なすようになっていきます。これは親子関係に限ったことではなく、夫婦関係や友人関係、職場の対人関係すべてについていえることです。つまり、他者を敵ととらえる考え方 こそが、人間関係の悩みを作り出しているといえます。 🌧️ 自分を世界の中心だと考えてしまう人の多くは、幼い頃に甘やかされて育った経験を持っています。アドラーは甘やかしの危険性を次のようにいっています。 甘やかされた子どもは、自分の願いが法律になることを期待するように育てられる。(中略)その結果、自分が注目の中心でなかったり、他の人が彼〔女〕の感情に気を配ることを主な目的にしない時には、いつも大いに当惑することになる。 (第一章人生の意味「子ども時代の経験」) 🎡…耳が痛い。 🌧️ 親が子どものおねしょや小食に注目することをやめた時に、子どもの意識に変化が現れます。「おねしょをしてはだめよ」とか「もっと食べないといけないよ」と親にいわれている限り、子どもは自分が親に注目されていることを知り、「自分は世界(家庭)の中心だ」と感じます。ところが、何もいわれなくなると、状況は一変します。自分が世界の中心ではなくなったと感じた子どもは、とまどいます。しかし、ご飯を食べないでいるとお腹が減りますし、濡れたシーツをそのままにしておくと、翌日も濡れた冷たい布団で寝なくてはならないことになります。 🌧️ 子どもは親の課題を解決しなければならないいわれはありません。親が自分で解決するしかないわけです。 🌧️ 『すべては自己受容から始まる』 「大切なのは何が与えられているかではなく、与えられているものをどう使うかである」というアドラーの言葉を紹介しましたが、考え方はそれとまったく同じです。この「私」は、他の道具とは違って買い替えたり交換したりすることはできません。どれほど癖があったとしても、この自分と死ぬまで付き合っていくしかないわけですから、それをどう使いこなすかを考えていかなければなりません。そのためには、今の自分に価値があると考え、自分を受け入れる必要があります。 『自分を受け入れることができるためには 「自分は特別によくなくても、悪くなくてもよい」と考えることがポイント』 多くの人は、自分は特別に優秀でなければならないと考えます。しかし、その優秀であるということは、本来の優秀性ではなく、他者との競争に勝とうとすることを意味すると、他者との競争に勝てず、そのため他者の期待を満たせないと思った途端、一転して、特別に悪くなろうと考えます。悪いことをすれば、他者の注目を引くことができるので特別に悪くなろうとするのです。 そのような人は「普通であることの勇気」を持っていないのです。普通であるというのは平凡であるということではなく、特別よくならなくても、悪くならなくても、ありのままの自分を受け入れるということです。 自分を受け入れる一つの方法は自分の短所を長所に置き換えてみることです 🌧️ ▷自分に価値があると思える時だけ、気を持てる。(Adller Speaks) 「自分に価値がある」と思えたら、そのような自分を受け入れることができます。ここでいわれる「勇気」とは、対人関係の中に入っていく勇気のことです。対人関係は悩みの源泉にもなりますが、生きる喜びや幸せも他者との関係の中でしか得ることはできません。人間は一人では幸せになれないのです。だからこそアドラーは、対人関係の中に入っていく勇気が必要だといっているのです。 🌧️ ▷私に価値があると思えるのは、私の行動が共同体にとって有益である時である。(前掲書) 自分が役立たずではなく、役に立てている、貢献していると感じられる時に、そんな自分に価値があると思え、自分を受け入れることができます。 人は誰でも複数の共同体に所属しているわけですから、退職後も、家族、地域社会、国家、さらにはもっと大きな共同体に所属し、そこにおいても何らかの貢献ができると考えたいということです。目の前の小さな共同体に固執することはありません。 次に、貢献を行動だけに限定する必要はないということです。行動によってしか他者や社会に貢献できないとすれば、乳幼児や寝たきりの高齢者は他者に貢献できないことになってしまいます。そうではなく、誰もが「存在レベル」で貢献できるのです。何かをしなくても、自分の存在自体が他者に貢献していると感じられる時、自分に価値があると感じられます。 自分についても生きていることで、他者に喜びを与え、貢献しています。生きていること、ありのままの自分を出発点に考えていけば、どんな自分も受け入れることができます。 🌧️ アドラーの教育論の基本は「勇気づけ」にあります。親や教師は、子どもが共同体感覚を持ち、対人関係の中に入っていく男気を持てるように援助しなければなりません。 叱られた子どもは、自分には価値がない、自分は本当に駄目な人間なのだと思ってしまうのです。 叱るという行為は、上下の対人関係を前提としています。本書の序文で、アドラーは「あらゆる対人関係は『縦』ではなく『横』の関係にあり、人と人とは対等である」と考えたーという話をしましたが、親と子の関係が対等だと考えるならば、親には子どもを叱ることはできないはずです。 人は誰でも失敗するものですし、失敗した時にこそ多くのことを学ぶことができます。しかし、失敗は一度は許されても、何度も同じ失敗を繰り返すということがあってはいけません。 私は息子と次の機会にどうしたら失敗をしないですむかを話し合ったのです。 失敗の場合は、まず、可能な限りの原状回復をします。次に、もしも失敗によって感情的に傷ついた人がいれば謝罪することが必要です。さらに、今後同じ失敗をしないための話し合いをすればいいのです。叱る必要などまったくありません。 🎡…私は子供もいないし今後産む気も一切ない人間なのだが、改めて子育てって本当に難しいよな〜と思った。 🌧️ 『ライフスタイルはいつでも変えられる』 叱られたりほめられたりして育った子どもは、大人になっても、どうすれば叱られないか、あるいは、ほめられるかということばかりを考えるようになるという意味で、自分にしか関心を持てないようになってしまいます。 自分にしか関心がない人は、本章の最初に使った言葉を使うならば、他者への関心がない、つまり、共同体感覚を持っていないことになります。 🎡…私か? でもこういう子(私はもう子供ではないが)って結構多い気がする。リアルはもちろんSNSとか見てる感じ…、という狭い体感においての見解だけど。 🌧️『アドラーと民主主義』 『人間は親も子どもも、上司も部下も、性別にも関わりなく、すべての人間が対等の横の関係にある』ということです。 人間の価値に上下はなく、誰もが同じ権利を持っているので、誰かが誰かを手段として扱うこともできません。 次に、『人は誰にも何にも支配されない』ということです。 どんなふうに育ったか、過去にどんな経験をしたか、また、感情にも支配されないということです。自分が何ものにも支配されないのであれば、自分も誰をも支配することはできないということです。 🌧️ アドラーのいう「共同体感覚」は理想であり、すべての人が他者を仲間と見なして、互いに協力しあう世界が、そう簡単に出現するとは思えません。しかし、実現していないから理想なのであって、理想だけがこの現実を変える力を持っているのです。現実はこうなのだと現実を追認するだけでは世界は変わりません。 🌧️ また、若いことはプラスであり、歳を重ねることはマイナスなのでしょうか。そのように考えれば、優越性を追求できません。プラスにはなれないからです。 学ぶことについてであれば、私が何をいおうとしているかわかってもらえるかもしれません。学ぶことは他者と競争することではありません。勉強を苦しいと思う人は多いですが、本来は知らないことを学ぶことは喜びのはずです。しかし、そうであっても、知らない状態がマイナスであるわけではありません。 この進化は「上」「下」ではなく、「前」に向かっての動きであると考え、ここに優劣はないといっています。 人は皆それぞれの出発点から、目標に向かって前に進んで行くのです。第2章でこのことは指摘しましたが、平らな地平を皆が先へ進んで行くのであり、自分よりも前に歩いている人もあれば、後ろを歩いている人もいます。速く歩く人もいれば、ゆっくりと歩く人もいます。 このように見ても、なお「前」に向かうことが優れていると取れないわけではありませんが、違いがあるだけで、優劣はないということをジッハーは強調しているわけです。 🌧️ 私は生きることは進化であると考えなくてもいいと考えます。前に進めなくても、後退することになってもその時々の状態がすべて生きることなのであり、どの状態にも優劣はないのです。 生きることを進化と見なければ、人生のどの段階にあってどんな状態にあってもその時々の自分に価値があり、そのように思えればどんな自分をも受け入れることができます。 🌧️『生きることは変化することである』 先に、生きることは「進化」ではないといいました。それでは生きることは何か。「変化」です。生まれた時は何もできなかった子どもが日毎にできることが増えていくことも、健康な人が病気になることも、歳を重ね若い時に難なくできていたことが思うようにできなくなったとしても、それらはただ変化であって、以前の状態と今の状態を比べ、進化したとも劣化したとも見ないということです。 そのように考えれば、例えば老いることはただ老いるのであり、老いることで人間の価値が下がることにはなりません。 人はどんな状態にある人も変化しています。古代ギリシアの哲学者であるヘラクレイトスが「万物は流転する」といいました。まわりの世界も自分自身も同じままであり続けることはありません。生きることは動くこと、変化することなのです。 🌧️ 森はこの見えない変化を「変貌」と呼んでいます。何か新しいことを経験しなくても、経験したことは変貌し続けます。 大人は、もはや子どもの時のように日々新しいことを学び、昨日できなかったことが今日できるようになるというような めざましい成長はしないかもしれませんが、変貌することはできるのです。 🌧️ 私は、生の充実は、未来ではなく、「今ここ」で感じられると考えています。子どもや孫と共にいることで生の充実感を持てるのは、彼らに成長を見るからではありません。「今ここ」に共にいることが喜びをもたらすのです。 🌧️ 人にどう思われるかを気にしたり、こんなふうに見られたいと思って他者の目に映る自分を作ろうとすると、他者の評価に依存することになります。人に合わせようと思うと、自分の人生を生きることができないことになります。 また、人の顔色を窺い、嫌われることを恐れて、本当にいわなければいけないことをいえなかったり、しなければならないことができなくなることも問題です。進んで嫌われる必要はありませんが、もしもいつもいいたいこと、いうべきことを我慢していれば自分の人生を生きることはできません。 🌧️ 『今ここを生きよう』 アドラーがいう「即事的」に生きるということ、特に第三点が、今は多くの人がいう「今ここ」を生きるということ、過去も未来もないので、今を生きることだけができるということです。 まず、過去はありません。そのように考えることは難しいと思う人は多いですが、過去の経験が今の自分を決めると考えると、現実との接点を見失うことになります。 過去のことを思って後悔しますが、今、後悔してもどうにもなりません。今、できることを考えなければならないのです。 他方、未来もありません。未来を思うと不安になります。しかし、今、不安になる必要はありません。病気の子どもの親に主治医が回復の見込みはないといった時、アドラーはその主治医にこういいました。 ▷どうしてわれわれにそんなことがいえるだろう。これから何が起こるか、どうしたら知ることができるだろう。 (Guy Manaster et al. eds., Alfred Adler As We Remember Him) これから起こることは何も決まっていないのです。未来は「未だ来ない」のではないのではなく、「ない」のです。 神経症的なライフスタイルを持った人は、足踏みをしたい、あるいは、時間を止めたいと思うとアドラーは指摘しています(『人はなぜ神経症になるのか』)。 課題に直面することを恐れるから、前には進みたくないのです。今ここを生きることは時間を止めることではありません。今は刻々未来へと移っていきます。あるのは今だけです。これが先に見たヘラクレイトスがいう「万物は流転する」という意味です。 るのであって、何かに「なる」必要はないということです。 アドラーは原因論ではなく目的論を自分の理論、思想の根本に据えるのですが、目的は必ずしも未来になければならないわけではありません。 どんな自分でも生きていることが他者に貢献しているということを先に見ました。生きることの目的は、生きているだけで他者に貢献することです。この目的は未来にある必要はなく、今ここで生きていることがそのまま他者に貢献することであり、今生きることの目的は今ここでの他者貢献です。 どんな自分でも生きていることが他者に貢献しているということを先に見ました。生きることの目的は、生きているだけで他者に貢献することです。この目的は未来にある必要はなく、今ここで生きていることがそのまま他者に貢献することであり、今生きることの目的は今ここでの他者貢献です。 は子どもと、今この瞬間を大切にしようと思って時間を過ごすことができれば、子育てについての意識は変わってきます。今は大変だけれど大きくなる日のことだけを考えて子育てをするわけではありません。今日、共に生きられることを喜びに思いたいのです。 🎡…『今日、共に生きられることを喜びに思いたいのです。』 めちゃくちゃ素敵な考え方。その通りだなと思う。心掛けよう。 🌧️ ▷子供が大きくなってだんだん手をはなれて行き、ひとり立ちしてしまうと、あとにのこされた母親の生活は単調なものとなり、それが変化への強い欲求をうみだす。 ちょうど更年期の生理的動揺とかさなって、時には精神的危機をつくりだすこともあるのはよく観察されることである。 (『生きがいについて』) 子どもの成長を自分自身の生命の発展史として体験することで生の充実感を感じていた親が、子どもの自立と共にそれができなくなったのであれば、既に子育ての最中に自分自身の変化に目を向けてこなかったからです。 子育ての終わった今も、これからも、意識して進化や成長ではない、その意味でめざましいわけではない変化に気づくことが必要です。
  • 柴崎
    柴崎
    @shibasaki_book
    2026年7月31日
  • ふる
    @kenken63
    2026年7月6日
  • ちか
    @poco_a_poco
    2026年4月14日
  • よる
    よる
    @tokitamayahho-
    2026年2月27日
    『生きることの目的は、生きているだけで他者に貢献すること』
  • Yes
    @yessakanadakarana
    2026年2月18日
  • m4
    m4
    @m4
    2025年8月3日
  • m4
    m4
    @m4
    2025年7月26日
  • むちっ
    むちっ
    @nru00
    2025年6月20日
  • あおい
    あおい
    @booklover_aoi
    2025年4月13日
    2025.4.13読了。 読み終わったものの、間を空けて読んでしまったので全体感を掴みきれず…笑 アドラーの理論がなんでも正しいわけではないことを著者が明記してくれているのが好印象。 考え方はどうしても時代に左右されること、完全なるフラットな感覚で論じられないことを著者が認識していて、その上でここには異論があるなど、根拠をもとに論じているのが印象的でした。 心理学は自分自身の考え方を客観的に見られるので、定期的に考えをアップデートするためにも積極的に読んでいきたいです。
  • Yu
    Yu
    @b_s_c4
    1900年1月1日
    アドラー 人生の意味の心理学
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