ロンドン論集とさいごの手紙

ロンドン論集とさいごの手紙
ロンドン論集とさいごの手紙
シモーヌ・ヴェイユ
杉山毅
田辺保
勁草書房
2009年6月9日
4件の記録
  • ジクロロ
    ジクロロ
    @jirowcrew
    2026年1月22日
    清貧には他に等価物をみない詩情がある。悲惨の真実の姿において認められたみじめな肉体が発する詩情である。春にみられる桜の花の光景は、そのはかなさが痛切に感知されるのでなければ、あれほど心を打つことはないであろう。 一般的にいって、極限の美の構成条件のひとつは、距離によるのであれ、はかなさによるのであれ、ある種の不在である。星辰は不変であるが、きわめて遠くに存在する。白い花は間近に存在するが、すでに変質しつつある。 (p.180) ヴェイユの言うところの「ある種の不在」とは、対象との一体化を意味していると思われる。 その対象と一体化するために必要とされるのが「注意力」であるということ。 「星辰」の「きわめて遠く」とは、「(到達)時間の途方もなさ」を意味し、 「白い花」の「変質」とは腐敗、つまり「時間の移ろい」を意味する。 つまり事物を空間(距離感)ではなく時間で捉え、その時間の伸縮の極小が「はなかさ」であり、極大が「距離(時間的な途方もなさ)」として表現しているのではないか。 「すべての生ける人間はいずれ死ぬ」 死を知る人間、ゆえに すべてのうちの一人という同一性。 はかなさとは私自身のことではなく、 それを感じるまなざしそのものではないだろうか。 「星辰がこちらに語りかけているようだ」、これは 時間的な途方もなさを前にしながら、一体化をなし得た者による究極の表現と言えないだろうか。 崇高という美しさと畏怖の入り混じった美的体験を得るには、「安全地帯」から眺めていなくてはならないのです。これは美には必要のない特性です。 (『神経美学』石津智大 p.109) だからこそ、間近の人間の不幸は「崇高」ではなく、「美」(として受け入れられるべきもの)に該当する、と言いたいのではないか。 人間に「崇高」という概念は当てはまらない。畏怖を覚えるような人物がいるとすれば、その者は「救い」の対象とはなり得ない。「安全地帯」こそが、彼の死に場所となる。 崇高な人物とは、強烈な斥力を全身矢のように放つ者のことか。 本当の美とは、距離感をゼロにするほどの、対象による強烈な引力の作用の結果であるということ。 その「強烈な引力」は、そこに「在る」ものではなく、そこに「発見される」ものであるということ。 それを可能にするのが、「本物の注意力」であると言いたいのでは。 その注意力には、もちろんのこと「時間」への鋭敏な感受性が含まれている。 書きながら、正直、わからないことが増えていく感じがする。それがまた心地よい。 そしてこういうのを、「詩的な感覚」というのかもしれない。 これがヴェイユの著作の力であることは間違いなさそうだ。
  • 消費税5パーの名残りがあった本……(すごい)
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