橋川文三日本浪曼派の精神

橋川文三日本浪曼派の精神
橋川文三日本浪曼派の精神
宮嶋繁明
弦書房
2014年12月1日
1件の記録
  • 孫引き 橋川 「ぼく場合は、国際連盟を脱退した昭和八年には、小学校の五年ですが、そのころからいわゆる軍国主義の世界に生きるようになったわけですから、あとどんなことを考えようとも、ちょっと手遅れでしょうね。ということは、ほかの世界像を描く可能性がどうもなくなってきたんですね」 橋川文三「日本思想の回帰性」『歴史と精神』 「ぼくは今も考えるんですけれど、朔太郎を通ったために保田にかなり早く惚れこんじゃう、それが1つの景気になってるということを感じるんですけどね」 橋川文三「保田與重郎をどうとらえるか」『歴史と精神』 本文「大学を留年した橋川は、1945年1月から、動員、先が貴族院事務局の委員課に配属となり、同じ大学の学生、十数人とともに筆記係を担当した。」 →「総理小磯國昭以下の大臣たち、この間法務大臣をやめた西郷吉之助なんて議員もいましたが、その彼らがやっている政策論議を見たり聞いたりしたのは私にとって大きなショックでした。実に愚劣な議論をさも重大らしく、厳粛らしくやってるんです。こっちはいつ、どんなふうに死ぬか、死ねるかという眼で戦争を見ているのに、ここで行われている議論は決して死ぬつもりのない連中の実に悠長な議論なんですね、ああ、これがつまり政治ってやつかと私にやっと眼がひらけたみたいなんです」 「私は、同じ年齢の学生仲間でも、いくらかロマンティクで、幼稚だったのかもしれない。ともかく「皇軍」が暴行・掠奪はおろか、虐殺・強姦さえ行うものであるとは、夢にも考えたことがなかった。あとから思うと、それは南京虐殺のおくればせなウワサだったようにも思われるが、とにかくその衝撃は大きかった。議会の低調な雰囲気と、そのウワサ話と、この二つのものが、私に初めてこの戦争の疑わしさを教えたといってもよい。もちろん、それらはすべて私の知的未熟さを示す証拠以外のなにものでもないであろう。そのことの恥ずかしさは、今もなお私の中に生きている」(橋川文三「戦争と私」) 本文「橋川の「潮流」時代における代表的な仕事のひとつに、入社約一年半後の1949年5月号に載った、丸山眞男の「軍国支配者の精神形態」を、担当編集者として書き上げてもらったことが挙げられる」 「橋川はマルクス主義を通過することによってこそ、戦後民主主義や近代合理主義的な政治・社会思想だけではとらえられない、あるいは、「歴史的パースペクティヴ」といったような教条主義的な法則には収まらない、存在としての人の思惟、思想の力とその可能性を全体としてとらえなおそうとしたのであろう。そして、「不能率」ではあっても、日本人の「あたたかい心情」をもった人々や思想に、関心の焦点は注がれていくことになる」
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