世に棲む患者
8件の記録
jirowcrew@jirowcrew2025年12月8日ちょっと開いた「精神科医は「治療者」という言葉で呼ばれるけれども、実は、一種の触媒に過ぎず、よい反応もよくない反応もその上で起こるであろうが、触媒自体は、反応について多くを知ることはできず、また、その必要もないどころか、触媒の分際で局面のすべてを知ろうとすれば、反応自体が失われるだろう。つまり「いまここ」で起こっている、より大きな事態、より大きな文脈の中の一部である。」 (『精神的苦痛を宗教は救済しうるか』) ある人物の内面を、ありのままに隈なく写す鏡。 明鏡止水とは、奢りのない心と焦りのない対象がセットとなり、はじめて機能する現象のことを言う。 治そうとする意志、治ろうとする意思のないところにほんとうの治療があるということ。 「触媒」とは、ありのままの内面を写された対象が、潜在的な意志を呼び覚まされ、中動的に新たな社会性を生成し始めたとき、それ自体としては不感症のままに、その機能を「実体もなく」発揮していると言える。
白木蓮@a2025年8月30日読み終わったp47「働くこと」に触れて、それが治療的なのは、健康化を促す限り、すなわち治療者は決して匙を投げていない、というサインである場合であり、もちろんこのことばによって患者を追いつめない場合だけである。そして労働は心身の余裕と生活の基盤を確立する以前に無理強いするべきことではないと付言したい。 p137いわゆる発病の前には、無数の観念とも音声ともつかないものが乱舞してざわめきひしめきあう苦しい時期がある。これはまだ適切な名で呼ばれておらず、そして名のついていないものは無視されやすい。私は、「ウィトゲンシュタインの亡霊のざわめき」と、彼の書簡集の一句(彼の体験である)を取って仮にそう呼んでいるが、原妄想とか原幻覚妄想と呼ぶのがよいと考えている。見方によれば、この状態がもっとも純粋な統合失調症状態で、臨床的発病以後は治療過程と病気の進行過程とがいり混じっている状態である。 p194 イマジネーションの本質的貧困性 p323 これは、治療者に対する試練である。その結果であろうか、これは、欧米系の治療者にはあまり通じない話だが、うまく進行している治療的面接においては、私は、ほとんど、自分があるかなきかの存在になっており、自分がないということに対して、あやしみも不安もないのがむしろ不思議に思えるくらいである。 この、稀に実現する状態を、かりに敢えて「無私」といっても、それは、いわゆる「東洋的」なものとただちに結びつけたくはない。むしろフロイトの「自由にただよう注意」に通じるものである。






