人間とは何か?

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- ショートストップ@tabine_sora2025年7月28日読み終わった「「原衝動」ーこれが第一なんだよ。他人にたいする効力なんか、そんなもん二次的な問題にしか過ぎないのさ。人間は自分を犠牲にしているのだと主張するが、言葉のふつうの意味からすると、そんなものは存在しないし、また存在したこともなかったんだ。なるほど人間は、ただ他人のためだけに自分を犠牲にしているのだと、正直にもよく考えるが、それは騙されているだけなのさ。人間の根底にある衝動は、みずからの本性と教育が要求するものを満足させ、その結果として自分の魂の平安を得ることにあるんだ」 「いずれにしても、「真理」を発見したら、人間というのはそれ以上のものを求めることはしないのさ。その日を境にひたすら、片手にはハンダごて、片手には短い混棒をもって、漏れ口を修繕してまわるか、せいぜい反対者と論争するくらいのものなのさ。確かに、「一時的な真理探究者」なら無数にいるがーでも、「永遠」の探究者というのは聞いたことがあるかね?人間のまさに本性からいっても、その種の人間なんてありえんのだよ。」 「だけど、その性質は絶対に変わらんのだよ。ただ、たえず細心の注意を払って監視していることで、ほとんどいつも抑えつけておくことはできる。要するに、この気質をもっていること、それがきみの限界なんだよ。だから、いくら性格改造したところで、完成の域に達することなんか、絶対にありえないんだ。なぜなら、きみの気質そのものがときによっては、きみをうち負かしてしまうことがあるからだよ。ただし、完璧に近いところまでは到達することはできるよ。きみだって、立派に進歩したわけだし、これからさらに進歩することもできるんだからね。訓練の効果はだから、はっきりとあるんだ。無限にある。」 「われわれ人間というのはすべて、こんなふうに漠然と「私」という言葉を使っているんだ。そうせざるえないんだ。われわれはきみのいう「存在全体」のうえに君臨する、「主人」だとか「王様」だとかを想定し、それを「私」と呼ぶが、それを定義するとなると、とてもできないことを知るのだ。知性と感情とはそれぞれまったく独立して働くからだよ。われわれはそのことを認識しているから、その両方の主人である「支配者」をさがし求めるんだ。それは明確な、香定のしようのない、「私」として働くことができるのだから、われわれがその言葉を使うときには、自分がなにをいいたいのか、あるいはだれのことを、そしてなにについて話しているのかを、知ることができるのだ。だが、われわれとしては「支配者」など見つけられないとはっきり公言し、そんな探究なんかあきらめるべきなんだ。わしにとって、人間とは機械であり、多くのメカニズムからできている機械なのだ。つまり内なる「主人」の衝動に従って、自動的に作動する道徳的、知的機械装置なのだ。その内なる「主人」とは生まれつきの気質や、無数の外からの影響力や、教育などの集積によって作られるものなのだ。人間という機械の唯一の機能は、その「主人」の精神的な満足を保証することなのだ。たとえ「主人」の欲望がよいものであろうと、悪いものであろうと、そうなのだ。機械の「意志」が絶対であり、それに機械は従わねばならないから、いつだってそうしているのだ。」 ◎われわれは機械でしかない。しかし、その機械は複雑で、われわれ自身にもそのメカニズムを知ることはできない。だから自分にはその機械としての限界が存在する。しかし、他方で人間は自らのために外部環境を整備しトレーニングをすることで、その限界に漸近することができる。われわれは、常にそのために行動するべきだ。他者のため、自己犠牲などという美辞麗句に囚われるべきではない。とにかく、自らのリミットを押し広げる。あるいはリミットまで拡張する。われわれは複雑である。しかしわれわれの思考は単純である。そのことを直視し、生きてゆくこと。アイロニーとユーモアの思考の果てに、行き着いた人間観の到達点なのだと思う。