はじめての憲法

はじめての憲法
はじめての憲法
篠田英朗
筑摩書房
2019年12月5日
1件の記録
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    句読点
    @books_qutoten
    2025年9月12日
    自分が今まで触れてきた憲法の話と違う角度から憲法を知ることができた。知らなかったこともたくさんあり、勉強になった一方で、心理的抵抗、疑問を感じる部分があったが、感情的にならずに読もうと努めた。でもやはりモヤモヤが残る。 やたらと憲法学者を目の敵にしている姿勢が気になった。この著者が批判しているような憲法学者の人の本も読もうと思う。どちらの主張も知らないと。 「戦争の悲惨な経験を二度と繰り返さないためにつくられたのが日本国憲法である。」 という大前提の上に立って論が進められていく。その前提がなければ読み進められなかった。 そもそも第二次大戦前から、1928年のケロッグ=ブリアン条約(不戦条約)により、国家政策の手段としての戦争行為は禁止されていた。(自衛戦争は禁止せず。) これに明確に違反したのが旧日本軍の満州事変、満州国建国と真珠湾攻撃。 日本軍は「宣戦布告していないから戦争ではなかった」という詭弁を使って言い逃れしようとしたという。 戦争→戦争終結のための話し合い→平和構築のための憲法制定 という流れは一般的な流れ。 ポツダム宣言をきちんと見ることから日本国憲法の理解も始まる。 日本国憲法は、アメリカが主導してつくったので、アメリカ独立宣言、合衆国憲法、国連憲章と同じ骨格を持つ。 社会契約という考え方が基本。国家に人格を与えない。一人一人の個人が基本単位。 なので日本国憲法も、「人民の人民による人民のための政治」という社会契約論的な発想に基づく「信託」が根本原理となっている。 個別的、集団的自衛権は国連憲章で禁止されていないのだから、それに準ずる日本国憲法でも、自衛権は否定されていない。「戦力」=戦争潜在力=国権の発動としての戦争を遂行する目的で保持する潜在力を持たないのであれば、軍隊を持つことも違憲ではない、とする。 アメリカの戦争に日本が巻き込まれるのはやはり嫌だと思う。しかしもしアメリカが国際法違反の戦争行為をしていると判断したのなら、それは憲法9条を盾にするのではなく、「あなたのやってるのは国際法違反の戦争だから、日本は集団的自衛権を行使しない」ときっぱり突っぱねる勇気が必要だとする意見になるほどと思った。だって9条はそもそも個別であれ集団的であれ自衛権を認めているのだから。 しかし、「これは戦力ではない」と言い張ればいくらでも武装できてしまうのではないか。いつだって「自衛のためだから」という名目で戦争は起きる。 戦争は天災ではなく人災である。戦争をどうすれば起こさせないか、というのが一番大事なはず。防衛のため、といってお互いに軍拡を進めればいずれは戦争になるのではないか。 国際的な軍縮の取り決めが必要なのではないか。そのためにはまず経済的協力関係を構築し、話し合いの席につける関係性を作ることが重要なのではないか。 いたずらに他国の侵略の脅威を煽るのは、そこから遠ざかる行為ではないか。 でも実際世界中でどんどん軍備増強している中で日本だけ軍縮に向かうのは危険というのもわかる。 いまものすごくギリギリのバランスでなんとか戦争を回避できている状態なのだと思う。 このバランスを最後の最後までギリギリまで支えるのが、戦争放棄を掲げた憲法なのだと思う。 「交戦権は国際法上に存在しない幽霊のようなもの」という主張だが、本当にそうなのだろうか。 ギリギリのバランスをなんとか崩さないために、やはり今の徹底的な交戦権を否定する9条を守り続けることが必要なのではないかと思う。 また今のロシアやイスラエルの所業などを見ると、国際法がいかに形骸化し、戦争抑止力として機能していないかハッキリしている。交戦権が存在しないはずなのに平気で破る。全て「自衛のため」。国際社会は強い制裁を加えず、特にアメリカはイスラエルを強力に支援し続けている。 そんな無法者の起こす「自衛」のための戦争には、やはり日本が巻き込まれてほしくない。だから、この本では欺瞞だと非難されてるけど、集団的自衛権は9条に違反するから、という建前を取り続けてやり過ごすギリギリの作戦、というのも認めざるを得ないのではと思ってしまう。 憲法9条と自衛隊や日米安保条約の矛盾をこの本では軍備することは自衛の範囲内なら矛盾しないと考え、堂々とやれ、という立場なのだと理解している。そっちの矛盾の解消する道もあるだろうが、徹底的な非武装化によっての矛盾の解消は、やはり非現実的なのだろうか。
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