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句読点
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@books_qutoten
島根県出雲市の本屋句読点です。
  • 2026年5月24日
    働くということ 「能力主義」を超えて
    自分が自営業を選んだのは、「能力主義」が嫌だったからなんだ、と納得できた。 でも自営業だろうと、能力主義の問題はずっとつきまとってくるので、組織のなかで働いていない自分にとっても得るところの多い一冊だった。 能力に応じて成果に差が生まれるというのは出自によって差をつける身分制などと比べれば平等な制度のように映るが、しかしその個人の能力というものも結局は運や偶然、出自によってかなり差がついてしまうもので、つまり個人にはどうしようもできない面も多々あるので完全に平等とはいえない。 それに能力というのもかなり曖昧な概念で、個人の能力だと思っているものも、それを可能にするさまざまな環境要因とか、ケアしてくれる人のこととか、さまざまな条件が揃った中で生じるもので、個人でどうにかするには限界がある。にもかかわらず、社会はひとりひとりが能力を上げていくことが大事だと説き、人々もそれを自明なことのように受け入れているが、それによって社会全体の余裕がなくなっているようだ。 能力主義とは人を孤独な修行へと向かわせるようなものだが、勅使川原さんは、個人の能力よりも、各人が各人の特性にあったところで、それぞれの持ち味を発揮し、組織としてスムーズに動けるようになることの方が大事で、個々人の能力を高めるよりも、すでにあるものをいかに活かし、シナジーを起こしていくかの方が大事なのでは、そっちの方がいろんな人にとっても生きやすいのでは、という提案をしている。レゴの例えがわかりやすかった。教育もそのような方向になっていけばいいと思うし、社会全体がそういう方向にいってほしい。
  • 2026年5月23日
    覚醒のネットワーク
    著者の31歳の時のデビュー作だったということをあとがきで知った。本たくさん出されてる方だけど、これが原点だったんだ。 初版は今から37年前の1989年。だけど、全く色褪せていないどころか、今こそとても大事なことが書かれていると感じた。 国際情勢もめちゃくちゃだし、国内の政治もめちゃくちゃだし、環境問題も解決どころかどんどん悪化しているし、毎日毎日暗くなるようなニュースばかりで、自分にできることなんてたかがしれていて、もう何しても無駄かもしれない、間に合わないかもしれない、と絶望したくなるような世の中だが、この本では、「私」と「世界」がひとつづきなもので、目の前にあるものこそが世界で、自分も世界の一部なのだから、すなわち自分自身のなかに世界を癒す道筋が必ずある、むしろそこからしか始まらない、という当たり前なようでいて、実際には忘れてしまいがちなことを思い出させてくれる本だった。 holyとかhealとかの語源がwhole(全体の、完全な)から来ているということから、局所的に思えるものも実際には全体に繋がっていて、つまり局所的に何か切り出してきて解決したように思えても、全体としては全く解決していないような解決方法では意味がなく、つまり常に地球規模の意識を持ちつつ、行動は具体的に、think globally, act locally. が大事であると。local、局所的に思えても、それが全体への意識が向いてなされたのであれば必ず全体にも作用し、つながり合っているという感覚。だからまず目の前のことひとつひとつから。 自分という意識も、自己即世界であるという意識を持てれば、自分さえ良ければそれでいいという意識とか、他人との比較で自己を規定する必要もなくなり、開かれた自己意識でいることで他の人とも同じ「いのち」として、人だけでなく動植物、場合によっては無機物に対してすらもそうした同朋意識が持てるようになれば、その瞬間から見える世界や行動ひとつひとつが変わっていくだろう。 「私」という殻に閉じこもりそうになったらまた読み直して再び開きたい。 あとがきや解説でも言われているように、ニーチェの『ツァラトゥストラ』のような本。スリランカの悪魔祓いのフィールドワークをしているときに天啓のように「書きたい」という気持ちが起こり、わずか3週間でこの本の元になる原稿を手書きで書き上げたという。その経緯もニーチェとそっくり。もちろん、バタイユにも、岡本太郎にも通じる本だと思う。
  • 2026年5月14日
    ヴィジュアル版 沖縄文化論
    今月の読書会の課題本。前に読んだのは随分前でなんとなく断片的に記憶しているだけだったので、ほぼ初めて読んだような感覚。こんなに面白い本だったか。 岡本太郎のあのギョロっとした鋭い目で沖縄のさまざまなものを観察するとこんな風に写り、また考えるのか、ということが生き生きと伝わってくる。太郎の目の内側から沖縄を見ているような。ごく短い滞在期間にその目は驚くほど深いところまで沖縄の底に流れているものを見つけ出す。外間守善さんの解説にも書かれているように、まさに「天才的な直感と直観の確かさ」によるものなんだろう。 20代のほぼ10年間を1930年代のパリで生活し、第一線で活躍する芸術家や哲学者たちと深く交流し、マルセル=モースから人類学を直接学び、オセアニアを専門に研究していたというバックボーンがそうした直感を裏付ける。日本列島の中には大陸由来のものだけでなく、南方由来の文化、海人の文化が色濃く残っていることを沖縄滞在を通じて確認していったようだ。折口信夫や柳田國男とも通ずる視点。この本の冒頭には柳田國男の「山の人生」が引用されている。太郎は沖縄滞在において発見した「痛切な生命のやさしさ」という印象をこの物語にオーバーラップさせて、この本を始めている。 琉球諸島は長い歴史のほとんどを抑圧の歴史として歩んできた。特に離島の生活の貧しさ、苦しさはとてつもない。想像もつかない。その貧しさの中で生活の「余剰としての」文化や芸術など生まれる余裕などなかった。しかし「生きるために」人々は苦しみや悲しみ、怒りや希望を歌や踊りに託して伝えてきた。生きるための芸術。毎年のように襲ってくる台風に備えて、「美しくつくろう」などと思って作ったわけではない、珊瑚礁のゴツゴツした石を無造作に積み上げただけの石垣にもそうした「生きるための芸術」の美しさを太郎は発見する。他にも沖縄のどこにでも自生している植物を使って編んだクバ笠やアダン葉の柄杓、籠、ポーチなどにも。漁に使うクリ舟にも太郎の目は吸い寄せられている。いわゆる琉球文化として紹介される琉球王朝の王宮とか紅型とかそういったものにはほとんど関心を寄せずに。それらは洗練された工芸品としての魅力はたしかにあっても、民衆が生きるうえではあまり関係がない余剰の芸術として太郎には捉えられたのだろう。 「ここにはまるで別な天体であるかのような透明な空間の広がりと、キラキラした時間の流れがある。(中略)私の予想しなかった、人間の生き方の肌理。──現代生活のカレンダーによって画一化され、コマ切れにされた時間とその連続。自然に対する畏怖と歓喜をうしなって無感動に測られる空間。そのような生の条件とはまさに異質だ。 そして、それがかえってわれわれ日本人の根源的な生き方にふれてくる。現代日本は己れの実体を見失っている。こういう根源的な時間と空間をどのように現代と対決せしめるか、ということが実は日本文化の最も本質的であり、緊急な課題なのではないだろうか。」p.22「沖縄の肌ざわり」より 民衆の「貧しいながら驚くほどふてぶてしいほどの生命力」を太郎はそうした生活の中に生きる芸術、文化の中に見出した。そしてそれらの奥底にある「何もないということの凄み」を久高島の聖地御嶽で「発見」し、強烈に揺さぶられる。何もないことの清らかさと豊かさに。人間が原初に持っていた神々との直接的な交わりの記憶がそのまま継承されている姿に。 そしてそれは近代化が進み、画一化された時間の中で生きる「本土の一億総小役人」のような顔をした人たちが忘れてしまったものではないかと。 1972年に、沖縄は本土復帰を果たす。しかし岡本太郎は「本土復帰にあたって」という文章の中でそれを本当に喜ぶべきことなのか、と留保する。沖縄が沖縄独自のものとして持っていた豊かな時間感覚、文化を投げ捨て、「本土並み」になどなってはいけないと忠告する。むしろ沖縄復帰の問題は、本土に生きる人間にとってこそ大きな問題とならなければならないともいう。 「本土の一億総小役人みたいな小ぢんまりした顔つきにうんざりした人は、沖縄のような透明で自然なふくらみ、その厚みのある気配にふれて、自分たちが遠い昔に置き忘れてきた、日本人としての本来の生活感を再発見すべきなのである。」 「沖縄の人に強烈に言いたい。沖縄が本土に復帰するなんて、考えるな。本土が沖縄に復帰するのだ、と思うべきである。そのような人間的プライド、文化的自負をもってほしい。」(ともに「本土復帰にあたって」より) 岡本太郎の流れるような文体、次々と視点が移り変わって、話題も移り変わって、ポロッと飛び出る江戸っ子らしい呟きや軽口に笑いながら、また太郎が感じていたであろう沖縄の透明な風が身体の中を吹き抜けていくような感覚を味わいながら楽しく読める一冊。優れた沖縄文化論であり、日本文化論でもある。
  • 2026年5月5日
    モモ
    モモ
    店でやってる読書会に向けて読了。読むのはたぶん3回目。 何度読んでもその度に発見があるし、読んでよかったと感じる本。読んでいる時間が「豊かさ」そのものであると感じられるような本。 最初に読んだときは第一部が長く感じられてなかなか読み進まないことに焦れったさを感じていたが、それこそ自分の中に「灰色の男」が潜んでいたのだと思う。 2度目以降に読むと、この第一部こそが物語の中でもとても大事なもので、物語の最後に行き着くハッピーエンドの続きとしても読める。この物語は円環構造のようになっていて、だから何回読んでも、むしろ何回か繰り返して読むことを前提に作られていると思う。のちに出てくる時間の国へ通じる道で、ゆっくり進むほど速く進む道が出てくるが、この物語もそのようにしてゆっくり読むほど、あっという間に読み進めることができるということをエンデは意図したのではないかと思う。 モモの「ほんとうに聴く」ことができる能力は、なかなか身につけられるものではないが、モモの姿を通してそれがどのようなものかを想像することはできる。 ベッポの言葉がやはり何度読んでもいい。日頃ときどきこの言葉を思い出す。 第二部から灰色の男たちが暗躍しはじめ、それまでのモモの周りの豊かな時間がどんどん奪われ始めてからはページを繰る手が止まらない。床屋のフージーさんのところで灰色の男が使う詐術のカラクリに、渦中にいたら気づけるかどうか。時間に利子などつくわけがないと、常識的に判断することができるか。灰色の男が「無駄だ」と指摘する行動全てが逆に豊かさそのものであると逆説的に気づかせてくれる重要な場面でもある。 ベッポやジジも次々と灰色の男たちに侵食されていく様子は痛々しい。左官屋のニコラやファストフード店となったニノの店の非人間的な働き方も。 やはり12章の時間の国の場面がこの物語の白眉だろう。黄金色のパンとチョコレートのおいしそうなことと言ったら!カシオペイアが全編通してかわいい。隠れたもう一人の主人公でもあると思う。マイスターホラが語る時間についての秘密。「あなたは死なの?」というモモの問いかけにたいする返答が意味深い。灰色の男たちはほかならぬ人間自身が生み出したものであることも語られる。 ホラが「星の時間」の存在を語るが、実際に自分の人生を振り返ってみてもたしかにそのような特別な瞬間というのはごく稀に訪れている気がする。 「あの人たち、いったいどうしてあんなに灰色の顔をしているの?」 「死んだもので、いのちをつないでいるからだよ。おまえも知っているだろう、彼らは人間の時間をぬすんで生きている。しかしこの時間は、ほんとうの持ち主から切りはなされると、文字どおり死んでしまうのだ。人間というものは、ひとりひとりがそれぞれのじぶんの時間を持っている。そしてこの時間は、ほんとうにじぶんのものであるあいだだけ、生きた時間でいられるのだよ。」 (第12章より) モモが時間とは一種の音楽のようなものだと気づく場面。最初の第一部で、宇宙の耳たぶのような円形競技場跡でモモが毎晩星たちの音楽を聴いていた場面と繋がる。 「あの音楽はとってもとおくから聞こえてきたけど、でもあたしの心の中のふかいところでひびき合ったもの。」(同) 「時計というのはね、人間ひとりひとりの胸の中にあるものを、きわめて不完全ながらもまねて象ったものなのだ。光を見るためには目があり、音を聞くためには耳があるのとおなじに、人間には時間を感じとるために心というものがある。そして、もしその心が時間を感じとらないようなときには、その時間はないもおなじだ。」(同、ホラの言葉) 「話すためには、まずおまえの中でことばが熟さなくてはいけない。」(同) そのほかにもいろいろこの章はハッとするような言葉がたくさん出てくる。 その後第3部はハラハラドキドキの展開で一気に読み進める事ができる。灰色の男たちが自滅していく場面は人間の欲深さとか執着心とか利己心とかそういうものが凝縮された感じで、見ていて痛々しい。最後に納得したように「これでいいんだ」と呟きながら消えていったさいごの灰色の男の言葉はなぜ。 短いあとがきの中で、エンデはこの物語をある夜行列車の中で向かいに座った不思議な男から聞いた、という設定でこの物語を終える。その男は「この物語は過去に起こったことのように話しましたが、これから起こることとして語ってもよかったのですよ」ということを語る。まさしく、いま世界中に灰色の男たちが暗躍しているように思えてならない。自分の生活を振り返ってみても、「盗まれた」としかいえないような時間の経ち方をしていることが多々ある。特にスマホを触っているときはすさまじい。灰色の男が子どもたちに与えていた「完全無欠なビビガール」なんてまだかわいいと思えるくらいに、この小さな「完全無欠な板」はおそろしい。かといって投げ捨てることもできない。あのモモでさえ、ビビガールから意識を逸らすのには苦労していたのだ。 そう感じている人が多いのだろう、近年もまた『モモ』がとてもよく売れているという。今年は日本語版が出て50周年だという。はやくこの物語が「過去に起こったこと」で終わる日がくればいいと思う。いや、たぶん終わることはないのだろうな。また何度でも繰り返すのだろう。その度にこの物語は力強く、カシオペイアのように導いてくれるにちがいない。
  • 2026年2月24日
    SNS選挙という罠(1084)
    2024年の兵庫県知事選での事例を軸に、今選挙ではSNSでの動きが選挙結果を大きく左右することを示し、そこに潜む危険性や、どうすればそうした流れから自立して自分の頭で考えることができるのかを吉本隆明の思想をもとに考える一冊。 「SNSの情報に流されるリテラシーの低い大衆が選挙結果を歪めて、ポピュリズム政治家が台頭し、その結果大衆自身の生活を圧迫し、敵を外部に求めるようになり、やがては国家を戦争に向かわせて、破滅に招くだろう」とつい思ってしまうが、これも一つのストーリーであって、冷静さが必要だ、と釘を刺されるような内容だった。 もちろん、今の政治の流れはよくないと思っている。しかしその批判の方法を間違えると、全く意味がないどころか、さらなる事態の悪化を招きかねない、という冷静さが必要だ。 有効な抵抗の方法を探るためにも、まずは自分がストーリーの奔流から抜け出て、冷静さを取り戻さなくてはならない。そのためには、まず「敵」を知ることだ。どういうメカニズムが働いていて、どういうところに危険があるのか、なぜ人々はそうした危険な流れの中に飛び込んでしまうのか、なぜ抜け出しにくいのか、を見つめることが重要だ。 そこから、脱出の糸口も見えてくる。 SNS選挙に不安や恐れを抱く人、危機感を持つ人ほど、この本を読んで一旦冷静さを取り戻すことが必要だと思う。吉本隆明の方法は、ソクラテスの方法にもつながる。哲学の原点に立ち返り、常に疑う。何を知らないのか、を知っていなくては。(テミスの不確かな法廷)
  • 2026年2月17日
    苦手から始める作文教室
    図書館で一気読み。 小説家の津村さんが一から一緒に作文の書き方を教えてくれる。日々エッセイという作文の仕事もこなす津村さんだからこその実践的な内容でいろいろメモしたいことばかり。 小説家だから作文が得意というわけではなく、いつもすらすら書けたらいいのにと思いながら仕事をしているという。 津村さんはとにかくよくメモを取るそうである。 テレビで見かけたらレシピから、その日やることリストやら、天気のことやら、気になったニュース、部屋に小蝿が飛んでいること、などなんでも。その場でメモをしなければすぐに忘れてしまうようなことをメモしているという。そしてこのメモがなければ、津村さんは小説の仕事も、エッセイの仕事も全くできなくなるだろうという。 以下印象に残っている文章を引用。 書くことで、自分を支える。 自分もなるべくメモを取るようにしていきたい。 "自分の考えたことを書き留める行動は、自分という人間を内側から支えることにつながります。それは、自立という状態にもつながってます。その状態は、いつもいつも誰かにそばにいてもらって話を聞いてもらったり、話を整理してもらったり、話をほめてもらったり、話をほめてもらえないからといって怒ったり悲しんだりすることをせずにいられる状態でもあります。" p.47 「第4章 メモを取ろう」より。 "見栄を張れることも文章のよいところではありますが、文章を書くことは、さえない「本当のこと」「普通のこと」をみがいて光らせることも可能にします。さえない「本当のこと」「普通のこと」が光って見えるということは、「本当のこと」「普通のこと」であっても「それでいいんだ」と思えることでもあります。わたしは文章を書くことを通して、「普通のこと」も本当であればそれほど悪くないんだと思えるようになりました。" p.73「第6章 伝わる文章ってどんなもの?」より。
  • 2026年2月17日
    チャンス
    チャンス
    名作絵本『よあけ』などの作者である、ユリ・シュルヴィッツ(本来の発音ではウリ・シュルヴィッツの方が近いため、作中では「ウリ」と表記)が、幼少期を振り返って綴った一冊。 ウリはポーランドで生まれ、一家はユダヤ人だったため、ナチスの迫害から逃れるためポーランドからソ連に逃れた。その難民生活の中で味わった様々な苦痛。慢性的な食糧不足。難民に対する迫害、病気など、読んでいると本当に苦しくなる。 しかし、その苦しい生活の中でもウリを救ったのは絵を描くことだったという。絵を描くことで自分を支えたウリはその後フランスを経て、アメリカに移り住み、絵本作家として活躍していくことになる。 この物語の始まりはウリ4歳の頃。1939年にナチスがポーランドに侵攻を開始し、第二次世界大戦が始まった時。それから終戦まで6年間、ウリが10歳になる頃までのことを中心に描かれる。ちいさな子どもの目線に立つことで見えることがある。あとがきで明らかになることだが、父が残していた手記も参照しながら、この物語を作ったという。 図書館の児童書コーナーで見つけたけど、大人にこそ読んでほしい一冊。児童書なのでとても読みやすいし、一つ一つのエピソードが細かく分けて日記のように綴られていくのでどんどん読める。絵本作家らしく、イラストも豊富。冒頭のエピソード、住んでいたアパートが爆撃され、階段の途中に大穴が空き、梯子をそろそろと伝いながら降りるエピソード、そして中庭で配給を待つ人たちのもとに降りかかった悲劇から、一気に引き込まれる。 ユリ・シュルヴィッツの絵本もこの本を読んでから読むと違う印象を受けるかもしれない。
  • 2026年1月31日
    中村哲
    中村哲
    図書館で借りてきて一気に読了。 NHKオンデマンドで新プロジェクトXの中村哲の回を観て、前々から中村さんの本は読みたいと思っていたが、いよいよ読もうと思い、まずざっくりと知りたかったので、児童書コーナーに行って、伝記を借りてきた。2019年に亡くなったばかりの方がもう伝記になるのは早すぎる気もするが、(著者の方もそう書いていた)彼の業績や人柄など考えれば当然だ。しかしだからこそ余計にもっと長生きして活躍して欲しかった。 ちょっと内容から逸れるが、小学生向けの伝記の本って素晴らしいなと思う。その人のことをざっくりと知りたいという時に、こんなに便利な本はない。よくまとまってるし、本当に予備知識ゼロで読める。文字も大きいし、写真資料なども豊富で読みやすい。とにかく読みやすい。だけど内容はしっかり校閲が入っていて正確。児童書の伝記コーナーの本を片っ端から読むというのもやってみたい。大人こそそれをやるべきだと思う。児童書を舐めてはいけないと思う。 中身に戻ると、中村哲さんの原点には、昆虫好きな少年の心がある。昆虫を通った人は環境問題にも敏感になるし、自然が好きになるし、多様性の重要さも肌身で感じるのだろう。それが原点にあるから、人間中心的な見方から距離をとって考えることができる。また人間も地球で生きるさまざまな生物群の中の一つの種族という認識があるからか、国籍や宗教などの壁を乗り越えて、「人間」という視点であらゆる人と接することができるのではないか。 母方の伯父が火野葦平だったというのはこの本で初めて知った。中村哲の文才はここからきているのかも。幼い頃から火野葦平に可愛がられて、本もよく読んでいたらしい。本を読みすぎて小さい頃のあだ名は「ご隠居さん」だったらしい。 ペシャワールにいくことになったのは37歳の時。用水路建設を始めたのは56歳頃。それまでは無医者地域に診療所を開く活動をしていた。 ソ連やアメリカなどの大国に翻弄され続け、中村さんの活動もその動きに翻弄され続ける。スタッフがテロ組織に連行され殺害されたり、盗みがあったり、さまざまなことに翻弄されながらも「命を何よりも大切に」という指針はブレず、活動を続ける。その活動を支援する輪もどんどん広がる。 この本で中村哲さんの人生の概要は大掴みに知ることができたので、中村哲さん自身の本も読んでいきたい。
  • 2026年1月24日
    水中の哲学者たち
    少しずつゆっくり読んでいた本をようやく読了。 噂に違わず本当にいい本でした。 普通だったら見逃してしまうような日常の些細な出来事、ポロっと出た誰かの一言、忘れかけていた記憶、気を抜けばするすると自分の手から逃れてしまうようなものに、迷いながら、戸惑いながら言葉で輪郭を与えていくような文章。 上から目線ではなく、一緒の地平にたちながら、まさに哲学対話そのものを体験できるような本。 気が抜けているような文章かと思いきや、切れ味はかなり鋭くて、言葉も的確で、自分ではうまくモヤモヤして言葉にならないようなことも、比喩を巧みに用いながら、モヤモヤしたものに言葉で輪郭を与えてくれる。しかしその輪郭はカッチリしたものではなくて常に揺れ動いていて、ちょっと視点をずらすと全く違う姿を見せるようなものでもあり、そのことに対しても一緒に驚きながら、それでも問うことをやめない。哲学の入り口としてとても優れた一冊だと思う。 「哲学はすべてのひとに関係する。すべてのことにかかわることができる。重要でないと思われているものも、哲学対話では考えることができる。むしろ、普段は忘れられているようなものや、問われもしないようなことに耳を澄ませる。そしてまた同時に、議論の場で取るに足らないとされ、話を聞かなくてもいいとみなされているひとの話にも耳を澄ませる。人間を、ただの血の詰まった袋ではなく、宇宙の質量を持つサイコロとして扱う。ともに知を愛するために、本当の意味でともに哲学をするために。」p.88 「こわい」より。
  • 2026年1月19日
    華氏451度〔新訳版〕
    華氏451度〔新訳版〕
    本を読むことも持つことも禁止されている近未来を描いたディストピア小説の金字塔的作品。今月の一冊読書会の課題本。前々から読んでみたかった作品の一つで今回ようやく読めた。 初版は1953年だから、今から70年以上も前。ブラッドベリは執筆当時、4、50年先の未来を想定して書いたというが、2026年の今、そのさらに先の未来を生きている。当時からしたらもう自分は未来社会に生きる未来人だ。 そして、この小説で書かれているディストピアのさらに上をいくような現象がすでにいろいろ起きている気がしてならないとこの本を読みながら思った。 流石に、本を持っているだけで家ごと焼かれることは今のところないが、たとえばトランプ政権下のアメリカでは、2023−24年で、年間4000冊もの児童向けの本が禁書扱いにされて図書館から消されたという。(『絵本戦争』堂本かおる) また、近未来として描かれている社会にはスマホもなければ、AIもない。デジタル広告もなければ、GPSなどもない。今からするとかなり古い技術がそのまま使われている未来、という感じを受ける。だから、主人公の妻が壁に流されるテレビ番組の中での劇に耽溺しているという設定は、今だったらまだかわいいものに感じられてしまう。今はもっとひどい。ちいさな携帯端末に延々と流れてくるショート動画をずっと見続けてしまう人、生成AIが作ったデマ動画を本物と信じて疑わない人も増えてきた。この作品で「巻貝」と呼ばれるイヤホンはもはや誰でもが使っていて、しかもワイヤレスのものが大半。VRゴーグルまで生まれて、寝る時もそれをつけている人もいるらしい。アバターを作って、現実世界とは違う世界で生きる人たち。もはやこれはブラッドベリの描いた近未来を遥かに超えることが起きていると思わざるを得ない。 話の筋はかなりシンプルで、何の疑いも持たずに生きてきた主人公モンターグが、クラリスや、自分で火をつけに行った家の老女のことがきっかけで自分の仕事、この社会のことについて疑問を持ち始め、本には何が書かれてあるのか気になり始め、次第に妻との間の溝が深まっていき、上司からは怪しまれ始め、いよいよそれまでいた世界から抜け出し、新たな人生を模索し始める、というもの。 第3部は急展開だが、グレンジャーの言葉が重い。かつて本が当たり前にあった時代でも、人々はその本を有効に使うことができなかった。それは中身をちゃんと記憶しようとしなかったからではないか、人間は不死鳥とは違って、過去の愚かな行いを記録し、記憶を伝えることができるはずだが、それをしてこなかった。死者に唾を吐きかけるようなことばかりしてきたと。 今世界中で反知性主義的な動きが活発になり、権威主義的体質の人が増えてきた。過去それが何をもたらしたかの記録も十分に残されているというのに、学ばない人たちの方が多い。これでは、本を燃やす必要もなく、初めから、大衆の方から本を読まなくなっていったのだ、物事を複雑な物事の連関の中で理解する態度が失われ、短く、ショートに単純化した理解、劇的で感情に訴えかけるような目立つやり方が好まれ、地味で誠実な知性の営みは軽んじられる、というのは今まさに起きていることではないか。 印象的な文章を以下メモ的に。 「本のうしろには、かならず人間がいるって気がついたんだ。本を書くためには、ものを考えなくちゃならない。考えたことを紙に書き写すには長い時間がかかる。ところが、ぼくはいままでそんなことはぜんぜん考えていなかった」モンターグp.88 「ひとつの問題に二つの側面があるなんてことは口が裂けてもいうな。ひとつだけ教えておけばいい。もっといいのは、何も教えないことだ。戦争なんてものがあることは忘れさせておけばいいんだ。たとえ政府が頭でっかちで、税金をふんだくることしか考えていない役立たずでも、国民が思い悩むような政府よりはましだ。平和がいちばんなんだ、モンターグ。国民には記憶力コンテストでもあてがっておけばいい。ポップスの歌詞だの、州都の名前だの、アイオワの去年のトウモロコシ収穫量だのをどれだけ憶えているか、競わせておけばいいんだ。不燃性のデータをめいっぱい詰めこんでやれ、もう満腹だと感じるまで“事実“をぎっしり詰めこんでやれ。ただし国民が、自分はなんと輝かしい情報収集能力を持っていることか、と感じるような事実を詰めこむんだ。そうしておけば、みんな、自分の頭で考えているような気になる。動かなくても動いているような感覚が得られる。それでみんなしあわせになれる。なぜかというと、そういうたぐいの事実は変化しないからだ。哲学だの社会学だの、物事を関連づけて考えるような、つかみどころのないものは与えてはならない。そんなものを齧ったら、待っているのは憂鬱だ。」ベイティーp.103 「いいかね、昇火士などほとんど必要ないのだよ。大衆そのものが自発的に、読むのをやめてしまったのだ。」フェーバーp.146 「近ごろはみんな、自分の身にはなにも起こらないと思っている。そう思いこんでいる。他人は死んでも、自分は無事。なんの因果関係も、なんの責任もない、とな。ところがあるんだ。だが、そんな話はやめておこう、な?因果関係がわかったときには手遅れだ、そうだろ、モンターグ?」ベイティーp.194 「人は死ぬとき、なにかを残していかねばならない、と祖父はいっていた。子どもでも、本でも、絵でも、家でも、自作の塀でも、手づくりの靴でもいい。草花を植えた庭でもいい。なにか、死んだときに魂の行き場所になるような、なんらかのかたちで手をかけたものを残すのだ。そうすれば、誰かがお前が植えた樹や花を見れば、お前はそこにいることになる。なにをしてもいい、と祖父はいっていたな。お前が手をふれる前の姿とはちがうものに、お前が手を放したあともお前らしさが残っているものに変えることができれば、なにをしてもいいと。ただ芝を刈るだけの人間と、庭師とのちがいは、ものにどうふれるかのちがいだ、ともいっていた。芝を刈るだけの人間はそこにいないも同然だが、庭師は終生、そこに存在する、とね」グレンジャーp.261
  • 2026年1月6日
    池上彰特別授業君たちはどう生きるか
    去年の9月に一冊読書会で『君たちはどう生きるか』を読んだので、池上さんはどのように解説しているのか気になって一気に読んだ。 池上彰さんによるある中学校での特別授業の内容をまとめたもの。放送は無く、書籍のみの特別編。 もう一度『君たちはどう生きるか』を読み直したくなった。 世界情勢がかなり不安定になってきている今こそ、この本をもう一度深く読み込む必要があると思う。 『君たちはどう生きるか』が書かれた時代背景や著者の思惑などを池上さんなりに読み解きながら、「こう考えなさい」と押し付けるのではなく、「池上はこう考えるが、それを踏まえて君たちはどう考えるか?」を大事にしている様子が伝わってきて、とても良かった。 それから、いい本を読むとはどういうことか、なぜ古典と呼ばれる作品を読むべきなのか、読んだだけではダメで、読み終わった後に自分の頭でちゃんとその本に書かれてあったことを咀嚼する時間を持つこと、どう感じたか、どう思ったか、をまとめる時間を持つこと、感想を人に話すことなどもサボっていてはダメだなと改めて思う。 考えることの重要さを改めて再認識させられた。こんな授業を自分も受けてみたかった。が、30過ぎた大人になっても十分面白かったので、いつからでも何回でも遅くはない。中学生以上の誰でもがこうした基本に立ち返ってみることはとても大事なことだ。 ところどころで中学生たちから質問をしてもらったり、意見を言ってもらったりするところもちゃんと入っていて、大人顔負けの読み解きをしている子たちばかりで、約10年後の今は大学院生になっている子もいれば社会人になっている子もいるだろうし、この時の授業がどんなふうにその後彼らの人生に作用していったかも知りたい。 この授業では言及されていなかったが、最後の庭の日陰に生えていた花をコペルくんが日向に植え替えてあげるシーンについて、どう解釈するかで、読書会やった時結構盛り上がったのを覚えているけど、今読み直したらどう感じるだろうか。この子たちや池上さんはどう読んでいるのだろうか、聞いてみたい。 池上さんが中学生にあるシーンについての意見を聞くところで、みんなが言っている「いま」とか「昔」って結構みんなバラバラの意味で使っているんじゃないか。同じ言葉を使っていても、それぞれが思っているその言葉の定義が曖昧だと議論が成り立たなくなってしまうから、議論をするときにはきちんと「いま」や「昔」が具体的にいつのことか確認した方がいい、というアドバイスをしていて、これはとても大事なことだと思った。 SNS上の情報などは特に、「いつ、誰が、どこで、何を、なぜ、どのように」の5W1Hを意識して確認していこうと思った。基本中の基本だけど、うっかり忘れてしまいがち。いやSNS上だけでなく、日常の会話でもそう。5W1H大事。
  • 2026年1月5日
    私が諸島である カリブ海思想入門
    今一番読みたい本に浮上してきた。
  • 2026年1月3日
    自分の中に毒を持て<新装版>
    毎年正月に読み返すことにしている本。今年も読み終えた。読み返すたびに新たな発見がある。 人間は本来、無目的的に生まれてきて、生きていく上でも、目的的なことばかりではなく、無目的的な、無償の、無用の、なぜだかわからないけど無性にやりたくなってしまう何か、人間が人間である所以のところのものなしでは、人間らしく生きていくことができない。しかし近代以降、そうした人間的な側面を忘れて、あるいはそうしたことに向き合う時間や余裕を与えないほど、目的的に、効率的に資本を蓄え、物質的に豊かになることを目指してきすぎたのではないか、そうすることによって「人間」がほかでもない人間自身によって喪失させられているのではないか、という問題意識のもとに、全ての人が人間らしく生きることができる社会の実現のために芸術や言論を通して人々に訴え続けたのが岡本太郎だった。彼の主張は、没後30年が過ぎた今もまったく色褪せることなく、むしろますますその必要性が高まっているように感じる。 最後の方で主張されている、「政治、経済、芸術(人間)の三権分立」という考え方はこれからますます重要になってくるだろう。 新年に読むといつもピシッと身が引き締まる思い。「生きている」という実感を得られる時間を多く持ちたい。しかし同時にそればかりを求めるのもまた目的的に生きることになってしまうだろうから、適度に息抜き、休息、リラックス、力を抜くことも忘れずに。
  • 2026年1月2日
    生きるとは、自分の物語をつくること
    とても面白かったし、大事な言葉にもたくさん出会うことができた一冊。 小川洋子さんの代表作『博士の愛した数式』を軸に対話が進んでゆく。(この小説を読んだ後でこの対談を読むことを強くお勧めする。) 小川さんも明確に意識していなかったこと、偶然と言ってもいいことが対談の中からどんどん出て来て、物語というのは作者が全知全能の神のように全てを操っているわけではなく、すでにある物語を作者が拾って来て多くの人に伝えるものである、という小川さんの小説に対する姿勢についての話。それと河合隼雄さんが患者に向き合うときの姿勢も重なる。患者さんが治るときにも、いつも「ものすごくうまいこと」が起きるという。まさかというような角度から、そういう偶然的なことが、治癒のきっかけになるという。外から見ていると患者自身がその偶然を手繰り寄せて、治療者であるカウンセラーは何もしていないように見えるが、実際には患者の中にあるそうした偶然を呼び込む力のようなものを、あるいはそうした場所を見つけるための力があると信じて、ひたすらにそれを待ち続ける力量がないとそういうことは起きない。自分の力で、治療者の物語に無理やり載せようとしてもうまくいかないという。 大きな物語の中に、それぞれの個が置かれていて、だから個人的なことも大きな流れとどこかでは接続されているという意識。生きている時よりも、生まれる前と死んだ後の方が長いという意識を持つこと。 河合隼雄さんはこの対談の続きをする前に亡くなってしまって、小川洋子さんは一人で長いあとがきを書いているのだが、それがとてつもなく良かった。『博士の愛した数式』のルートという名前にまつわるエピソードも、河合さんとの対談の後で思い当たったという。その場にいないのに、人の中から物語が出て来てしまう。聞く力、というよりも、その人の前では勝手に物語が出て来てしまう、自分も思いもよらなかった言葉がでて来てしまう、そういう人だったんだなあとよくわかる。その感じ、なんか心当たりあるなと思ったら、ミヒャエル・エンデの『モモ』の主人公、モモもそういう人の話を本当に聞くことのできる稀有な存在として描かれていた。モモもその力によって物語でとても重要な役割を果たすことになる。『モモ』ももう一度読んでみたくなったし、たしか河合隼雄さんもどこかで『モモ』について書いていたはず。河合さんの本も色々読みたいし、小川洋子さんの本も色々読みたい。 以下引用。 "人間は矛盾しているから生きている。全く矛盾性のない、整合性のあるものは、生き物ではなくて機械です。 命というのはそもそも矛盾を孕んでいるものであって、その矛盾を生きている存在として、自分はこういうふうに矛盾してるんだとか、なぜ矛盾してるんだということを、意識して生きていくよりしかたないんじゃないかと、この頃思っています。そして、それをごまかさない。"p.105 "なぜあの時、偶然にも、あんなことが起こったのだろう、と私は時々考えます。考えても答えは出ません。自分が画策したり、小細工を施したりしたわけでもないのに、何かの働きによって物事が上手い具合に収まってゆく。あるいは、無関係だったはずの出来事が知らず知らずのうちに結びつき、想像を超えた発展を見せる。人生は物語みたいだなぁ、とふと思う。その瞬間、私は現実の本質に最も接近している実感を持ちます。現実と物語が反発するのではなく、境界線をなくして一つに溶け合った時こそ、大事な真実がよく見えてくるのです。"p.143 (二人のルート/少し長すぎるあとがき)
  • 2026年1月1日
    たとえ世界が終わっても その先の日本を生きる君たちへ (集英社新書)
    2026年最初に読み終わった本。 この本を最初に読めて良かった。 タイトル通り、「この世界が終わっても」その先を生きていかねばならない自分にとって、今年は昨年から引き続く不穏な世界情勢、国内の腐った政治のまんまで年が明け、全くめでたい感じのない、不安な年越しだったのだが、この本を読むことでちょっとだけ見通しができたというか、自分が進むべき道を示してくれたような、そんな本だった。 イギリスのEU離脱のことから話が始まり、アレクサンダー大王の話やソ連解体直前のことまであっちこっちに話が飛んでいきながら、最後にはそれらの点同士が見事に繋がって、「まとめ」らしきものに到達する感じ。語りおろしなので最後まで一気に読めた。実際のインタビューは毎日5時間を4日間続けられたそうで、この本に収まっていない話もたくさん出てきたのだろうが、こうして一冊の本としてまとまったのはすごい。編集が大変だっただろうな。 「心のない論理」でも、「心の論理」でもなく、「心のある論理」を持ちながら、生きていきたい。 以下気になったところの引用。 "人工知能のAIなんかはさ、人間の考え方がそんなには明確でなくて、曖味なものに満ち満ちているってことと向き合うわけでしょ。 その曖味さをなんとかクリアしようと思ってるけど、曖昧さに関しては人間の方が上だね。 はっきりとは言い切れなくて曖味な、ちょっと揺らいでたりもするものを、文科系の言葉でいうと、「頭ではなくて情感で分かれ」になるんですね。だから、理科系は、文科系に近づかざるをえないんですね。"p.169 "未だに「大きなもの」を信じている人たちは、地球を巨大な円形だと思ってて、経済が「成長と拡大」を続けて、先へ行けば行くほど、その境界が広がって、パイの皮のように薄く伸びていくと思っているらしいけど、そんなものが永遠に伸び続けるはずはないわけでさ。今や薄皮に綻びが出来て、あちこちに穴が空き始めている。伸ばして穴を空けた人たちは、自分のところにパイ皮がひだになって厚く集まっていることがその原因だってことを、どうやらあまり考えてないですね。極端な格差はそうやって生まれるんだ。"p.209 "企業が競争を生き残り、利益を上げるために、テクノロジーの進歩や、産業の海外移転を進めた結果、国内の雇用がどんどん減って、人の「働く権利」は奪われてゆく。 その結果、格差がどんどん広がって、内需の消費者だった中間層が崩壊すると、結果的に物やサービスが売れなくなって、不景気になる。そんな状況はさ、まるで、自分で自分の尻尾を呑み込もうとする「ウロボロスの蛇」じゃない。"p.213 "まずは日本人が天動説から地動説に戻って、「自分たちが社会の上に乗っかって動いている」という謙虚な意識を取り戻さないと「心のある論理」は生まれてこない。でもって「心のある論理」を持たないと、「大きなもの」を目指し続けることの限界や、経済の飽和も見えてこないし、実体経済を超えて膨れ上がる金融経済が中身のないバーチャルな幻だということも、理解出来ない。"p.217 "私はね、「損得で物事を判断しない」ことを「正義」って呼んでいるんです。 「正義」っていう言葉をやたらと使いたがる人の「正義」って聞くと、私がなんだか嫌だなっていう気がするのは、そういう人たちの「正義」って「自分の好きなあり方」を勝手に正義と呼んでいるだけだから。そうして、自分のあり方を肯定したがっているだけだから。"p.220
  • 2025年12月20日
    きみたちと現代: 生きる意味を求めて (岩波ジュニア新書 17)
    古本買取でたまたま入ってきて何気なく手に取って読み始めたら、とんでもなく良い本だった。 1980年に出版された本で今から45年も前だが、全く古びれていないし、今こそこの本に書かれていることが広く人々の間に広まっていくことが必要だと思った。 当時も若者の自殺が増加していることが社会問題となっているところから話が始まる。将来のためにと、現在がただの将来のための準備期間となり、生きる実感を持てないまま熾烈な受験競争に巻き込まれ、生きる意味を喪失していっていることがその原因ではないかと問いかける。ではどうすればいいか。著者は手っ取り早く解決を教えるハウツー物の答えを用意する代わりに一冊の本を紹介し、「生きる意味」「学ぶ意味」を問い直すことを提案する。その書物がフランクルの『夜と霧』。(第1章生きるということ) この紹介がとても良くて、まずこの本の大きな魅力の一つとなっている。読書会で去年読んだけど、また読み直したくなった。ナチスが権力を握ってまず行ったのが、ナチスの思想信条に反する「悪書」を焼くこと。「本を焼くものは、ついには人間を焼くようになる」というハインリヒハイネの1823年の言葉。予言していたかのような彼の本も焼かれた。フランクルが収容所の中で体験したことは壮絶なものだったが、その中で彼が見出したものは人類共通の類まれな貴重な財産となった。それはどのような状況の中であろうと、苦悩を積極的に引き受け、人生の意味をあくまでも問い続ける逞しい精神を持ったもののみが最後まで生き抜くことができたということ。あくまでも「人間」として踏みとどまり、人間としての尊厳を持って生き、そして死んでいくことを選ぶということ。「人生から何を我々はまだ期待できるかが問題ではない。むしろ、人生が何を我々から期待しているかが問題なのである」という有名な言葉をもう一度噛み締める。これは収容所のような極限状況に置かれた人だけでなく、どんな場所や時代に生きている人にも問われていることだ。人生からの問いに口先だけでなく、正しい行為によって応答していくこと。 人間に生きる意味を与えるものは様々あるが、代表的なのは創造的な仕事を行うこと。芸術家や文学社のみに限られているわけではなく、自分の持てるものを注ぎ込んで何かを生み出そうとすること。日頃の対人関係にしろ、些細なことにも。今月読む『愛するということ』は、その具体的な実践について書かれてある。フランクルも愛することの重要性を語っていた。愛するということはつまり何かを創造することだろう。『生きがいについて』の話も出てくる。これも読書会で読んだが、また再読したい。「体験価値」で、優れた本を読むことの意味についても語られる。この本もまさしくそうした一冊だった。そして、「創造価値」も「体験価値」も望めないような状況でも、なおまだ人間には人生に意味を与えることができる。それが「態度価値」。 「生きているかぎり、いかなる状況のなかでも生きる意味を発見し創造するチャンスを持っています。私たちは、その価値を実現することにたいする責任からまぬがれることはできないのです。」p.39 コルベ神父の話もこの本で初めて知った。こんなに立派な生き方をできる人もいた。 「私の人生は他の誰の人生でもなく、私の人生です。それは、他の人生と比較することも、また取り替えることもできないものであります。それぞれが独自の意味と課題を持っています。だから、ある人の人生の活動半径が大きいか小さいかということそのことは、重要ではありません。人間が自己の使命、その生きる意味をどれほど満たしているかということが、大切なのです。」p.44 (第二章現代社会に生きる) 偉人が歴史を作るのではなく、あくまでも歴史を作る主体は一人一人のその時代に生きる人々である。ナチ政権を支えたのもその当時の人々で、ヒトラーを称賛したのもその当時の人々。 「私たちのすべての行動の仕方や考え方は、いずれも政治の運命を織りなす糸となっているのです。きみたちの中には、もう政治に関わりたくないという意見の人もいるかもしれない。しかし、この政治に関わりたくないという態度もまた、実は政治にたいする一つの関わり方なのです。政治について決断しないという君たちの態度も、また一つの政治的決断なのです。たとえ君たちが、自分では中立であり、何もしていないと言い張るとしても、政治の世界では、「不作為の責任」をまぬがれることができないのです。ヒトラーやファシズムの歴史は、そのことを私たちに嫌というほど教えています。」p.64 民主主義も国民一人一人が主体的に、積極的に関わっていかなければその精神が失われてしまう。 特に日本では「成り行きに任せる」「既成事実に屈服しやすい」という性質が強く、いつでも時流のおもむくところを眺め渡して、大勢の走る方向について行こうとする曖昧な行動の仕方をしがち。実際に、戦前の歴史を振り返ると、満州事変から敗戦に至るまで、軍部の作り出した既成事実に対して目立った抗議をすることもなく、(できなかったという方が正しいかもしれないが、いや、しかしそうした状況を作り出したのもまた市民の側である)気づいた時にはもう手遅れになっていたという歴史がある。今再びそうなりつつあるのではないか、という危機感がものすごくある。 その後、日本では徹底的に議論をするという習慣がまだ根付いていないとし、コンフリクトと共に生きることが真の民主主義的な社会を作る上で重要だと語る。そのためにも個人の思想信条の自由が侵害されてはならない。 大江健三郎の想像力についての言葉。すでにあるイメージから解放し、そのイメージを作りかえさせる能力が想像力。思い込みから自由になること。見えないものを想像すること。ある出来事を自分の生きた同時代のこととして実感できるようにする力。 続いて、シュヴァイツァーの生涯を紹介しながら、人間だけでなく、生きとし生けるものと共存することについて語られる。(第3章みんなと生きる) 最後の「第4章 平和をつくり出すもの」では、「剣を取るものは剣で滅びる」という言葉を軸に、軍拡によって平和を維持するのではなく、日本国憲法の精神に則った、真に平和な軍縮による平和を目指すべきだということが語られる。当時戦後30数年の時点でもすでに戦争体験の風化が進んでいたという。核武装論や、国防軍創設の動きもあったようだ。今再び高市政権下でその動きが強まろうとしている。ベルリンの壁崩壊前の、西ドイツにおいて良心的兵役拒否をした人たちの話の流れで、非暴力闘争についても紹介。日本でも、沖縄の伊江島で阿波根昌鴻さんを筆頭に非暴力闘争が行われて、米軍基地から自分たちの土地を取り返すことに成功した事例が紹介される。これもこの本で初めて知ったこと。非暴力闘争について今とても関心があるのでもっと掘り下げていきたい。そして日本国憲法はその非戦の誓いにおいて、国民的な兵役拒否をしているのではないか、ということが語られる一方で、憲法に描かれる「日本国民は、」という言葉に注目し、やはり一人一人がこの精神を強く持たない限りどんなに立派な憲法も形骸化してしまい、簡単に崩れてしまうだろうことが述べられる。 積極的平和主義をより推し進め、世界的な軍拡を止めて、平和的外交によって軍縮を進める先頭に立つことが日本に求められていると思う。それに逆行するような動きには抗っていかねばならない。 この一冊で色々読み直したい本、新たに読みたい本が増えた。たまたま出会うこうした良書との出会いがあるから古本屋は楽しい。
  • 2025年12月14日
    歴史戦と思想戦 --歴史問題の読み解き方
    この本を読むと、「南京大虐殺はなかった」「従軍慰安婦はいなかった」「戦後の日本人はGHQによって自虐史観を植え付けられて洗脳されている」「コミンテルンがこの世を裏で牛耳ろうとしている」「中国や韓国は日本に対して歴史戦を仕掛けてきている」などといった、いわゆるネトウヨ的な言説に対する免疫をつけることができる。 事実をまず確かめ、ちょっと考えればすぐにおかしいとわかる矛盾点を論理的に説明してくれるので、もしそうした言説を言いふらす人がいたとしても冷静に対処することができるだろう。 1890〜1947年の57年間(憲法施行期間)の大日本帝国と、それ以後の日本国は、全く異なる憲法をもったほとんど別の国といってもいいくらいだが、大日本帝国に自分のアイデンティティを重ねている人たちは、大日本帝国のさまざまな非人道的行いを批判されると、自分自身が攻撃されたように感じるのだろう。だからそうした批判者のことをかれらは「反日」とか「サヨク」などと雑に分類してしまう。彼らにとっては、大日本帝国に対する批判は「日本に対する批判」と捉えられてしまう。もし彼らから「反日め」などと言われたら「反大日本帝国です」と返したらいいのだろうか。 彼ら自身も、さまざまな場面で日本国憲法で保証された基本的人権によって守られている存在であるはずなのだが、自ら進んでそれに反する大日本帝国的価値観の方へ進んでしまうのは理解に苦しむ。 権威主義的体質が全ての根っこにあるのかもしれない。それを崩すにはどうしたらいいのだろうか。少しずつ、じっくりやっていくしかないだろう。
  • 2025年12月6日
    戦争と農業
    戦争と農業
    藤原辰史先生の本の中で一番最初に読むことをお勧めしたい一冊。なぜなら藤原先生がずっと研究してきた二大テーマ「戦争」と「農業」を軸に話が進み、どんどん繋がり、藤原先生がどのような関心のもとでこれら二つのテーマに取り組んでおられるのかよくわかるからだ。講義形式で進んでいくので、藤原先生の講義を直接受けているような気分で読み進められる。 この本を最初に読むことで、先生の他の著書や、関連する本にも入りやすくなると思う。地図のような本。 前半はこれら二つのテーマがどのように繋がっているか、それぞれの具体的な話がメインですすみ、後半は、それらの根幹にある問題点、それらの問題を生むこの社会の仕組みについて考えていく内容。どうすればその仕組みを変えていけるのか、その糸口を探していく。 農業の話も、戦争の話もとても具体的で、生々しくて、モザイク無しでまざまざと現実を見せつけられる思い。だから余計に読むのが止まらない。とても面白い。これはもう直接読んでその面白さを味わうしかない。「食」を根幹に据えて考えると本当にいろんなことが見えてくる。政治も暮らしも教育も。 キーワードとなるのは「遅効性」や「待つ」こと。その場その場で即興的に対応する柔軟さを持つこと。一つの巨大なピラミッド状に支配するのではなくて、人間の脳細胞のように網目のように張り巡らされたネットワークをつくれないか、ということ。 読書も、ゆっくりと、即効性はないがじわじわと効いてくるものの代表的なものである。もっと本をたくさん読みたくなる。 店でもたくさん仕入れてお勧めしていきたい。
  • 2025年12月2日
    生きづらい明治社会
    現代の日本も、これまでのやり方がうまくいかなくなってきて、将来の展望も暗いものばかりで、人々の鬱屈や不安感がたまり、物価は上がり続けているのに給料は上がらず、税金は高く、生きづらい世の中である。そうした中で、今年の流行語大賞が「働いて働いて働いて働いて働いてまいります」。生きづらいのは、個人の努力が足りないからだ、がむしゃらに働けばこの状況を打開できるはずだ、総理自身がそうするんだから、国民もそれを見習って働け、と言われているようで本当に憂鬱だ。問題は個人の努力の問題ではない。この社会の仕組みがどこかで狂っているからだ。その大元が変わらない限り、個人の努力では限界がある。 明治時代も、単純に比較はできないものの、この種の「社会的な成功は個人の努力次第」という「通俗道徳のわな」に多くの人がはまっていたという。不安と競争が渦巻く社会の中で、下層に置かれた人々はその状況を打開するために戦争をするしかないという恐ろしい方向へ傾いていった。実際に日清・日露を経て日本も朝鮮と台湾を植民地化し、その中で経済的に成功したものも多かった。しかしそうした一部の「成功者」の裏には、相変わらず悲惨な生活を続けるしかない人が圧倒的に多かった。戦場に真っ先に送られたのもこうした人々で、上流の人間たちは自分は戦場に行かずに済んだ。 これからの日本も、どんどん戦争に傾いていってしまうのだろうか。軍事費は鰻登り、武器輸出も解禁し、非核三原則も見直し、憲法9条も変えようとしている。また同じ愚を繰り返そうとしているのか。歴史に学ぼうとしない日本。極右勢力が幅を利かせ、台湾有事もむしろ起きてほしいと願っているかのようだ。議員定数も削減の方向で動くことが決まったらしい。ますます権力者たちに都合の良い政治になっていくだろう。小さきものの声は届かなくなるだろう。抗う声も押さえつけられるだろう。政府に批判的な言動をすれば「非国民」と言われる日も近いのではないか。 ああいやだ嫌だ。どうすれば変えられるだろう。抗えるだろう。
  • 2025年11月30日
    アンネの日記 増補新訂版
    アンネの日記 増補新訂版
    11月の一冊読書会の課題本。読書会の直前に読了。 タイトルだけ知っていて、実際に読んだことのある人は少ない本の代表的な作品の一つではないか。(夏目漱石の『吾輩は猫である』とかもそうだと思う) 自分もこの読書会で初めて読んだ。 結果読むことができて本当によかったと思える一冊になった。ずっと読み継がれている理由がよくわかった。 戦争のことはむしろこの本の背景としてあり、 13歳〜15歳にかけての思春期真っ只中の少女が、 「隠れ家」生活という非日常的な環境の中で、 様々な制約や同居する他の人たちとの葛藤の中で揉まれながら 精神的に成長してゆく様が日を追うごとに実感できる貴重な記録。 読み物としてもとても面白い。13歳の少女による文章とは思えない表現力。(深町さんの翻訳も素晴らしい) なんとなく女性が読むものみたいなイメージを持っている人も多いかもしれないが、 決してそんなことはなく、思春期以上の老若男女全てが読むべき内容だと思う。 両親への愛情と反発、異性への憧れ、自らの不安や葛藤、将来の夢、日々起こるトラブルにどう対処したか、どう感じたか。「隠れ家」の中で、戦争が終わる日をひたすら待ち侘びながら、日々勉強もし、戦争が終わった後の事を夢想しながら、挫けそうになる自分を、絶望しそうになる自分を書くことで救おうとした少女の記録。読んでいると励まされる文章にも何度も出会う。隠れ家の中での「日常」の繰り返し。時折戦争の気配がするが、基本的には外の世界とは切断されている世界。 支援者の人たちの勇気と優しさにも感じ入るものがある。ミープがアンネの日記を咄嗟に拾い上げて後世に残してくれて、本当によかった。 ナチスドイツによって虐殺されたユダヤ人は600万人以上ともいわれる。 あまりに数字が膨大で、感覚が麻痺してしまう。 しかし、この『アンネの日記』のような作品を読むと、具体的な一人一人の人生や生活について想像することができるようになる。語り残されていないだけで、600万人分の人生の物語があったのだ。それぞれの生活があったのだ。その途方もなさにクラっとしてしまう。 「わたしの望みは、死んでからもなお生きつづけること!」 1944年4月5日の日記。 この望みは間違いなく叶えられている。 また何度も読み返したい作品。 100分de名著での小川洋子さんの解説もとてもよかった。 小川洋子さんの作品も読んでみたくなる。
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