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句読点
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@books_qutoten
島根県出雲市の本屋句読点です。
  • 2025年11月22日
    明治・大正・昭和 軍隊マニュアル~人はなぜ戦場へ行ったのか~
    明治から1945年の敗戦まで、軍隊にまつわる「決まり文句」を多数収録した「軍隊マニュアル」が多数出版されていた。それらの内容を詳しく見ながら、戦時下の人々はどのように戦争を自分たち自身に納得させていたのかを探る内容。 今も昔も、国が国民に戦争を納得させる手口は変わっていない。国というか、国民自身も、自分自身に納得させないとやっていけなかったんだろうと、この本読んで思った。 高市政権がこのまま続けば、この本に出てくるような文言が繰り返されるのではないかと予想する。 日露戦争でギリギリのところで一応は「勝った」ことになり、本当はさまざまな幸運が重なった結果の辛うじての勝利にも関わらず、「圧倒的な戦力差がありながら日本が勝てたのは、日本軍の士気が高く、一人一人の能力が高かったからだ。最後は精神力が勝敗を決める、物質的に貧しくても精神力があれば勝てる」というクソみたいな言説が出来上がり、日中戦争、太平洋戦争でも繰り返され、無謀な戦争に突き進み、物資の補給が蔑ろにされ、戦死者の6割以上が餓死、戦病死という情けない結末を招いた。 この「精神力があれば勝てる」的な思考パターンは、いまだに続いていると思う。高市のあの馬車馬発言とか、午前3時から働いてるとか、そういう時代錯誤なポーズはまさにその表れではないか。 精神力はたしかに重要だが、それしか頼るものがないというのはいかがなものか。そんな状態になってる時点で負けは確定したようなものだ。別の道を探る方が遥かにマシだ。そうならないようにするのが段取りであり、リーダーのやるべきことではないか。 「マニュアル」通りに行動、発言することが「善良な国民」とされ、人々も自ら進んでその型にはまっていった。そこからはみ出そうとすれば「非国民」とされ、居場所を失った。個人だけでなく、近親者や擁護者も。典型的なムラ社会のやり口であるが、怖いのはそれが遠い過去のものとは言い切れずに、今も同じようなものが残り続けていること。軍隊でなくともあちこちでその片鱗は見ることができる。 戦争を避けるには、そうした「ミクロ」な戦争に注意し、そことはなるべく関わらずに、無効化できる場所で生きていく道を示すことではないか、と思った。
  • 2025年11月14日
    少年の夢 (河出文庫 う 13-1)
    高校生と小学生相手に行った講演録。 以下読書メモ。 創造的な人間になるためには何が必要か、梅原猛さんが実際に会ってきたさまざまな先人たちの例をだしながら、語る。 ニーチェの三つの進化説に即して、まずはラクダのように忍耐の時期、とにかく基礎的なものをしっかり学習する期間、ライオンのように批判的精神を持って常識を疑う目を養う期間、そして赤ん坊のように自由な心で、のびのびと創造する期間。 (梅原さんが語ったわけではないが、おそらくこの三つの段階もぐるぐると行ったり来たりする必要があるのだろう。) 大きな夢を持つ人というのは、心のどこかに大きな傷を持つ人である、という話も。梅原さんの生い立ちはこの本で初めて知った。 学問の面白さとは、ものを知ることだけでなく、発見、新しい仮説の提唱である。学問とは仮説を立てること。 そのためにはまず懐疑が基礎となる。そしてあるとき直感がひらめく。それを実証的に調べる。 懐疑と直感、粘り強い演繹と帰納、体系構成。それが学問である、と簡潔にまとめる。 常に新しいものを創造しつづける。「自分の映画に傑作はない、未来に傑作がある」という黒澤明の言葉。できたもの、完成したものに未練は持たない。 これまでの時代と全く方向転換しなければならない今だからこそ、夢を見なければならない。これまでと同じようなやり方は通用しない。偏差値教育もあてにならない。社会が安定している時の方法だから。
  • 2025年11月8日
    物語の役割
    物語の役割
    ちくまプリマー新書の初期の傑作。 小川洋子さんの小説執筆の方法が具体的に開示されていて、創作をする人だけでなく読者の側にも新たな視点をもたらしてくれる。 特に第二部が素晴らしい。 テーマやストーリーをあらかじめ決めてから書き始めるのではなく、言葉になる前のイメージや風景が、自分の意思ではない偶然性によってやってくるところからしか創作は始まらないという。 もちろんそうした偶然にしか思えない創作のタネのようなものをちゃんと見つけて拾い上げるためには普段から物事をよく観察し、驚き、感動する感性がなければならない。むしろ小説家というのはそうした感性を鋭くさせ、言葉にならないものに言葉を与える仕事なのかもしれない。 小説を書いている間、小川さんは死者たちの声に耳を傾けている感覚だ、と書いていたのも印象深い。物語が起こる具体的な場所のイメージも、廃墟のようなところに自分が立ち、そこでかつてどんな人たちがどんな風に生活していたのかを幻視しながら書くのだという。 自分の中から言葉を出すのではなく、じっと耳を傾け、通路のようになる感覚。自分、という意識を持たずに、観察する透明な存在になること。 誰かが落としていったもの、落とした当人が忘れ去ってしまっているようなものを丁寧に拾い上げて、細かく観察し、そこから物語を掬いとる感覚。 これを読むと物語を書いてみたくなるし、小川さんの小説も読んでみたくなる。
  • 2025年10月26日
    夜間飛行・人間の大地
    夜間飛行・人間の大地
    1週間くらい前に読み終わったのに感想を書いていなかった。明日の読書会に向けて思い出しながら書いてみる。 まず内容に入る以前に、久しぶりに分厚い骨太な小説を読んだ。先月の読書会で読んだ『君たちはどう生きるか』もまあまあ分厚かったが青少年向けというのもありとても読みやすくスラスラと読めたのだが、今回のは海外文学で、大人向けという感じで、なかなかスラスラ読むというわけにもいかず数日かけてじっくり読んだ。そして分厚い小説を読み終わった時の達成感がまずやはりとても良い。これは他のどの活動をしていてもなかなか味わえるものではない。深い満足感と余韻。もちろん内容が素晴らしかったことから来るのだけど、(でなければ最後まで読めない)この分厚い骨太な小説を読み終えた時の達成感がまず強かった。 内容であるが、さまざまな媒体に発表していた文章を「花束のように」(アンドレ・ジッドの助言)編んだ作品。中南米の聞き慣れない地名などが多く出てくるので最初はちょっと戸惑ったが、Googleアースを見ながら読んで臨場感を高めて読んだ。 飛行機乗りの先輩たちのエピソード。精神的貴族とはこういうことか、という人たち。やはり最初に印象に残るのは雪山で遭難したギヨメが、自分の遺体が少しでも早く発見されて妻に保険金が滞りなく支給されるように、という思いだけを頼りに極限状況の中一歩一歩歩いて、奇跡的に生還した話。100分de名著でも印象的だった。保険=アシュアランス=信頼。人間に対する責任=レスポンシビリティ=応答すること。極限状況の中で人を最後に動かすのは、やはり誰かのために、という思い。いや、やはり誰にでもできることじゃない。もう限界だからあとはもうどうにでもなれ、と思ってそのまま雪の中で眠る人が大半だろうが、そこでも最後の最後まで、自分が生きるためにではなく、妻のために、最後の力を振り絞って歩き続けたところに感動するのだ。他の動物にはできない一番人間らしい行動をしたのだ。 極限状況の中で現れる人間らしさについて、さまざまなエピソードとともに語られていく。 間に美しい夜の飛行の情景だったり、途中で降り立った街での出来事、出会った人たちとの思い出だったりも挟みながら。 やはり圧巻なのは最後、サン=テグジュペリ自身の砂漠での遭難の体験の話。四日間もの間灼熱の太陽のもとで、幻覚を見ながら、喉の渇きに耐えながら、歩き続けているその描写。こちらまで喉が渇いてくるような臨場感、唇の嫌な粘っこい感じとか色々伝わってきた。この分厚い本がそもそもじっくりじっくり、一歩一歩歩くように読まないと進まない、なかなか読み終わらない本。だけど最後にまたとうとう奇跡的に砂漠の民に出会うシーンの感動もすごい。「あなたの顔を忘れるだろう」という一見普通逆じゃないかということも、よくよく読んでいくと、そういうことか、と。人間の顔を見出したんだと。 そしてそれに続く最後の章。これがまた良い。第二次大戦に突入前夜、ポーランドに送り返される労働者の乗る列車に居合わせたサン=テグジュペリが、粘土のようになってしまった人たちの中でモーツァルトのような輝きを放つ子どもに出会う。しかしその子どもも粘土になってしまうだろうという予感。実際その後のポーランドでは人類史に残る大虐殺が待っていた。その未来を知っているからこそこのシーンは重たく響いた。しかし最後の一行にたどり着いた時に、この『人間の大地』というタイトルに見事に繋がる。本当に感動した。読み終わった、という達成感とともに、なんとも言えない余韻。 思いつくままに書き散らした。明日またみんなで読み直すのが楽しみ。
  • 2025年10月20日
    戦う石橋湛山新装版
    帝国主義・植民地主義に一貫して反対し続けた気骨のある言論人、石橋湛山についての評伝だが、満州事変前後、日本が国際連盟を脱退するところまでを中心に語られる。その過程でメディアがどんな役割を果たしたかが中心テーマ。 軍部が暴走した結果、日本は泥沼の戦争に突き進んだのだが、その裏ではメディアによる太鼓持ち、それに踊らされた国民の熱狂的な支持があった。その世論の後押しがなければ軍部もそこまで増長できなかったのではないか、と筆者は語る。実際、第一次対戦後の世界的な軍縮の流れの中で、軍人たちはかなり肩身の狭い思いをしていたらしく、社会的地位も低かったそうだ。 言論がいかに歴史を動かしたか、その中で毅然とした意見を発表しつづけた石橋湛山と東洋経済新報社。 はじめは軍部に批判的だったメディアがいつのまにか戦争を煽る狂気の拡声器と化してしまった。 湛山の「小日本主義」を日本がとっていたらどんな未来になっていただろうかと想像する。広島平和公園のあるところは今ではきっと広島随一の繁華街になっていただろうし、長崎も今とは違う姿だったろうし、沖縄も米軍基地のあるところはすべて沖縄人の住む町になって発展しただろうし、東京も、他の空襲被害を受けた町も、街並みが全く違っていただろうし、死なずに済んだ優秀な若者たちが多く生きながらえて数々の業績を残しただろう。日中関係も今よりずっと良好だろうし、韓国とも仲良くなっていて、アメリカのしもべのような地位にはなっていなかったのではないか。 本当に日本を破滅に追い込んだ軍部とそれを煽ったメディアの罪は重すぎる。 解説が櫻井よしこなのが唯一違和感が残った。この時からすでに日本の戦争はアメリカに仕向けられたものだったという説を展開している。一体何をこの本で読んだのだろう。学んだのだろう。
  • 2025年10月16日
    千年の読書
    千年の読書
    梅田蔦屋書店の立ち上げからずっと書店員として活躍されてきた著者による読書案内。 さまざまな本を紹介しながら、本や読書がいかに人生にとって不可欠で絶大なる影響力を持つかが語られる。 全7章仕立てで、一つ一つの章が棚の一段分、七段分で一本分の棚になるという仕掛けで、本が紹介されている。 どの本も読んでみたくなるし、知っている本もちらほら紹介されていて、なるほどそういう文脈でこのように紹介するのか、と参考になるし、また読み直したくなる。 特に読んでみたい本たち 『自分ひとりの部屋』『銀の匙』『言葉の外へ』『秋葉原事件』『まなざしの地獄』『伝えたいこと』『ブルシット・ジョブ』『貨幣論』『プリズン・ブック・クラブ』と『エンデュアランス号漂流』
  • 2025年10月16日
    絶望読書
    絶望読書
    本は人生が順調に進んでいる時よりも、逆境や絶望しそうな時にこそその真価を発揮する。 災害に備えて色々対策をしておくのが大事なように、人生の危機に備えて本を読んでおく。そしてそれは、危機の時だけでなく、平時の自分も、より生きやすくなったり、異なる視点を持って世界のことを見られるようになったり、想像力をより広く持てるようになったりと、じわじわと効いていく。 絶望した時にも、本があると思えばとても心強い。 単行本で読んだので、余白や行間も広く、しんどい時にも読みやすい本だと思った。この本自体がお守りのような本になる。 カフカの日記読んでみたい。桂米朝の落語も聞いてみたい。
  • 2025年10月5日
    〈意味順〉英作文のすすめ
    何かを学びたい、学び直したい時にめちゃくちゃおすすめな岩波ジュニア新書。 この本も素晴らしかった。 いろいろゴチャゴチャ知識が増えると、本質が見えなくなってしまうことあるけど、この本読むと、英語は語順をとても重要視する言語である、という基本に立ち戻り、そこからさまざまな英文が理解できるようになる。 理屈がわかっていれば英作文もできるようになるだろう。
  • 2025年10月4日
    社会は「私」をどうかたちづくるのか (ちくまプリマー新書)
    入門書ではあるがかなり骨太でなかなか読むのが大変だった。 社会学のいろいろな研究を参照しながら、「私」という自己意識が、その時の社会状況によってかなり左右されるものであることが見えてくる一冊。 フーコーの理論の紹介もされていて、なるほどそういうことを考えていた人だったのか、とようやく理解できた気がする。(本当の理解ではないと思うが) 「私」というものがかなり偶然によって成り立つ部分も多いこと、確固たる「自己イメージ」というものはもしかしたらフィクションのようなものかもしれないこと、仏教の縁起説なども思い浮かべながら読んだ。
  • 2025年10月3日
    新・大学でなにを学ぶか
    すでに大学を卒業して十年近く経つのになぜこんなタイトルの本を、とも思うが、執筆陣のに好きな著者が何人も文章を寄せていたので図書館で借りて読んだ。 大学入学前に読んでおきたかった(2013年入学なので当時まだこの本はこの世にない)と思ったが、学びというのは一生続くものであるし、この本は何も大学生に限定せずに、広く「学ぶ」とは何かについて重要な示唆を与えてくれる。 大学卒業して何年経っていてもこの本読むと大学入学前のようななんでも吸収してやろうという意気込みが湧いてくるし、貪欲に学んでみたくなる。 特に國分功一郎さん、伊藤亜紗さん、磯崎憲一郎さん、中島岳志さん、山崎太郎さん、多久和理実さんの文章からは得るものが大きかった。(もちろん他の方のもそれぞれ良かった) 常々思っていることだけど、高校生などの若い人をメイン読者に想定して書かれている本は、大人にとってもかなり面白いということ。岩波ジュニア新書などは特にそう。特に何かを学び直したいと思っていたり、新たに何かを学んでみたいと思っている人にとっては、学びの入り口としてこんなに優れているものもないと思う。
  • 2025年9月25日
    思い立ったら隠居
    久しぶりに大原さんの本読んだ。 大原さんの本読むといつもフラットな気持ちになれる。「あ、そうか、あんまり難しく考えなくてもいいよな、シンプルに考えよう」ってなる。 徹底して「自分にとってハッピーかどうか」を大事にしてほしいというスタンスなので押し付けがましさがない。「絶対に隠居スタイルを貫く!」みたいな感じでもないので柔軟に切り替えたりもする姿勢がいい。でも自然と、自分もそんな風に物事を捉えて生きていきたいなと思わせる。 「あ、結構自意識過剰になってたなー」とか、「理想を高く設定しすぎてたかも」とか色々自分の生活のことを思い浮かべながら読んだ。 思えば自分も普通の企業に就職して週5で朝から晩まで働いて、みたいなライフスタイルが全く想像つかなくて、そもそもできる自信がなくて、自営業という道を選んだのだった。大学卒業してフラフラしてる時に大原さんの本と出会って、めちゃくちゃ安心したことを覚えている。「あ、そういう生き方もできるんだ」と、実践している人の話を知れたのは大きかった。 今は隠居とはまたちょっと違うけど、何よりも本が好きだったので本屋をはじめて、お店で待っているだけでお客さんが来てくれて、本を買ってくれて、本を好きなだけ読んで、面白い本があれば紹介して、時々読書会とか開いたり、著者の方を招いたりなど、自分がやりたいと思ったことしか基本的にはしていない。ノーストレス。ほとんど隠居と変わらないと思う。 そりゃあお金はぜんぜん貯まらないけど、お金があっても本に使うだけなので、店の仕入れで物欲は満たされているし(それでもブックオフに行くのはやめられない)、時々知り合いのところでバイトさせてもらったりして足りない分の現金は補ったり、家賃の安い地方都市だし(都会のワンルーム借りるより安い店の家賃)、お客さんや友達から差し入れで野菜などを結構頻繁にいただいたりして、あまりお金を使う生活ではないのでなんとかやっていけている。 将来も死ぬまでずっとこの生活を続けられるかどうかはわからないけど、会社員だったとしても、それこそ精神病んでしまったら続けられなくなるわけだし、会社員だからといって安定しているとも言い切れない。正社員=安定のように思い込まされているだけで、実際の安定度は実は自営業とあんまり変わらないんじゃないか、むしろ自分の納得したことをやれている分、自分から辞めたいと思う可能性は会社員よりも断然低いわけで、上司とか部下とかもいないし余計な人間関係に煩わされる機会もはるかに少ないし、精神衛生的には自分は今の生活が合っていると確信できている。 それだけで十分じゃないか。先のことはいくら考えたってわかるわけはないし、ちょっと先のことだけ見えてればあとは目の前のやることをやっていくだけ、と思えば、「この生活って不安定なのではないか」という不安がちょっと和らいだ。 本の感想のはずなのにダラダラと自分のことを書いてしまった。 この本の中で色々実践してみたいことも紹介されていたけど、特に夜ご飯早めに済ませて、空腹で目覚めるっていうのを実践したい。 あと野草摘みにもいきたい。でもせっかく庭付きの物件なんだからもうちょっと家庭菜園にも力いれようかな。 あとリンゴジュースに生姜すりおろしてシナモンパウダー振ってレンチンして飲むやつ冬にやりたい。
  • 2025年9月25日
  • 2025年9月25日
    食権力の現代史
  • 2025年9月23日
    日本人は民主主義を捨てたがっているのか?
    12年前に出された本だが、今の日本にもズバズバ当てはまることが書かれていると思った。 出てくる政治家や政党の名前を入れ替えればそのまま今の状況にも当てはまる。 しかし違う部分もある。 「政治家は政治サービスの提供者で、主権者は投票と税金を対価にしたその消費者であると、政治家も主権者もイメージしている。そういう「消費者民主主義」とでも呼ぶべき病が、日本の民主主義を蝕みつつあるのではないか。 だとすると、「投票に行かない」「政治に関心を持たない」という消極的な「協力」によって、熱狂なきファシズムが静かに進行していく道理もつかめます。」 p.55 と書かれているが、今の参政党は、これを逆手にとって「私たち一人一人が手作りする、庶民のための庶民によるDIY政党」というのを掲げて大躍進したからだ。その姿勢自体は評価すべきところがあると思うが、当然、政策面や、議員たちの過去の不祥事や失言などを見れば到底受け入れられるような政党ではないのはすぐにわかるはずだ。 消費者マインドではいけない、という意識は少しずつ浸透してきてはいるのだろうが、それを利用されているのではないか。扇動にまんまと乗せられていないか。 意識が高いはずなのに、なぜ参政党のようなめちゃくちゃな政党に「目覚め」てしまうのか。 まさかこんなめちゃくちゃな政党が躍進するはずがない、と思いきや、蓋を開けてみればその党が圧勝する、という現象は、2012年の自民党安倍政権の大躍進の時と、今年の参院選での参政党大躍進の時ととても似ている。 しかし今回は投票率もここ最近の中では高い方だった。 これが何を意味するのか。 この本の中では「熱狂なきファシズム」という言葉が使われていたが、今はもはや、純粋な「熱狂的なファシズム」に近づいているのではないかとすら思う。 しかし状況が変わっているとはいえ、この本で説かれる抵抗のための方法、「千里の道も一歩から」は有効で、それしかないとも思う。 いま改憲勢力が力を増しつつある。本当に手遅れになる前に、できることをしていきたいと思う。 もちろん改憲が絶対にダメだとは思わないが、少なくとも自民党改憲草案や参政党のようなめちゃくちゃな憲法案、 要するに、全体主義に突き進むような、個人の人権を抑圧し権力により強い権限を持たせることを目的とするような改憲には絶対に反対だ。
  • 2025年9月23日
    ガンディーに訊け (朝日文庫)
    伝説の「聖人」としてのガンディーではなく、生身の生きた1人の人間としてのガンディーのことを知ることができた。ガンディーが生きていた当時のインドでも「マハートマー(偉大なる魂)」よりも「バープー(おじさん)」という呼び名で親しまれていたという。 生身の人間だからもちろん完璧ではない部分も見えてくる。特に家族関係などはうまくいかない部分も多かったようだ。 それでもなお、やはりガンディーの為したことは偉大で、現代にも鋭い問いを投げかけ続けている。最大の問いは、人間は「欲望」を乗り越えて真の自由と独立を確立できるか?という問いだろうと思う。 人間は不完全な存在であり、なかなか理想通りにはいかない。あのガンディーですら完璧にはいかなかった。しかし理想は理想であるからこそ、意味があるのであり、現実をできるだけそこに近づけていこうとすること、永遠に試行錯誤し続けることが大事なのだろう。「自分は完璧だ」と思った瞬間に堕落が始まるのだろう。理想は実現されてはならないが、実現を目指さなければならないという矛盾を抱えている。 巻末の著者と禅僧・南直哉さんとの対談が濃密で色々考えさせられた。その中で、ガンディーは、超越的な理論と現実的な実践のはざまで、矛盾を抱え続けたことが素晴らしかったのだと述べられていた。原理主義のようにスッキリ割り切ってしまう、ある意味で楽でかっこいい生き方ではなく、どこまでも矛盾を抱えつづけることを選んだ、と。それがガンディーの本質ではないかと。 この言葉を読んで、岡本太郎のことを思い浮かべた。岡本太郎も対極主義というのを掲げて、理想と現実、思想と実践、自分と他人、利己と利他などさまざまな対極軸の中で、どちらにもつかずに両極の強さをどんどん高めていって、磁石の同じ極同士を近づけるほど反発する力が強くなるように、その両極の中の矛盾をスパークさせ、すなわち爆発して生きること、それが岡本太郎の芸術、すなわち人生観でもあった。きっと岡本太郎とガンディーは似通った部分がかなりあるんだろうと思う。 もう1人思い浮かべたのは、中村哲さん。彼の業績はこれからどんどん強い意味を持っていくと思うが、彼のやったこととガンディーがやった非暴力闘争とを比べてみたい。中村哲さんの言葉や思想も知りたいと思った。まだちゃんと中村哲さんに関する本は読めていないから、これから読んでいきたい。 この本はたまたま実家に帰省する時に軽い文庫本を持っていこうと思い、本棚からたまたま選んだ一冊だったが、奇しくも帰省している間に東京で著者のトークイベントがあることを知り、サインをいただいた。(本来は別の本の刊行記念イベントだったのでその本にサインしてもらうべきだったが、その本はまあまあ分厚いので自宅に置いたままだったのだ。快くサインに応じていただいた思い出の一冊になるだろう)
  • 2025年9月15日
    となりの陰謀論
    今必読の一冊だと思う。 日本でもトランプの陰謀論政治とそっくりな陰謀論政治が台頭しつつある。 その危機感を感じている人はこの本をまず読んでみるところから対策を練る必要があると思う。 まずそもそもこの本における【陰謀論】のざっくりとした定義から。 【陰謀論】=世の中で起きている問題の原因について、不確かな根拠をもとに誰かの陰謀のせいであると決めつける考え方。世の中で起きている「悪いこと」の影には【諸悪の根源】的な悪の存在がいて、「その勢力さえいなければ」世の中は良くなると単純に考えること。 こう定義されると、かなり多くの人が大なり小なり、このような捉え方で物事を見ることって結構あるんじゃないかと思う。因果関係をかなり単純化して、【A→B】のように単線化する感じ。本当は、もっと色々複雑な因果関係があるはずなのに。 陰謀論は一部の変わった人たちだけが関わる怪しげな代物と思われてきたし、多くの人にとっては無関係な問題であると考えられてきた。しかしそれは間違いだとする。 たしかに、陰謀論を熱心に信奉する人はいつの時代にも少数だが、条件が揃えば影響力を増幅させた陰謀論が、民主政治そのものを乗っ取ることができる。無関係ではいられない。 それが顕著にみられるのが、今のトランプ大統領による数々の民主政治に対する破壊行為。数々の「陰謀論」を元に民衆の感情を刺激し、狂信的な支持者を獲得、2021年には連邦議会議事堂占拠のような事件まで引き起こしたが、政治生命を絶たれるどころか、むしろ支持率を高める結果に。 何が起きているのかわからなすぎると思っていたところに、本書がさまざまな視点からの分析をしてくれてかなり視界が開ける感じがした。と同時にとても恐ろしくなった。 敵の正体がわからないと、どんな対策をすればいいのかすらもわからない。まずは「陰謀論」を真正面から見据える必要がある。この本はそのベースとなるような考え方を提供してくれる。この本を読むだけでもかなり今の陰謀論政治に対するソワソワ感、得体の知れない恐怖感が和らぐとおもう。 アメリカでのトランプ陣営の陰謀論政治の手法をメインに観察しながら、陰謀論とはそもそも何か、その起源はどんなもので、人間のどんな性質を利用するか、どのような仕組みで広がるか、ソーシャルメディアとの関わりや、民主政治に陰謀論がなにをもたらすか、など、さまざまな視点から検証できる。 陰謀論は私たちのすぐ「となり」にある。陰謀論を狂信的に信じるのはいつの時代でも少数の人たちだが、だからといって多数派がそれを無視、放置しておくと、陰謀論政治によって民主政治が乗っ取られてしまう恐れがある。誰もが陰謀論の影響から逃れられない。 ナチスドイツも、狂信的なユダヤ陰謀論を掲げたが、それを熱狂的に信じたのは社会全体の中では少数だった。その他の人は無関心、関わろうとしない人が大半だった。反ナチス的なことを言えば密告され強制収容所送りにされる恐怖政治が敷かれていたため、無関心を装うしかなかった。 陰謀論を生み出す基本的な要因は、 【1. 世界をシンプルに解釈したいという欲望】 【2. 何か大事なものを「奪われている」感覚】 この二つだという。1に関しては誰でもその傾向はある。点が三つあったら人の顔のように認識してしまうのも、その表れ。 日本で今陰謀論政治が蔓延しつつあるのは、「剥奪されてる感覚」が強い人が多いからではないか。 「外国人勢力に乗っ取られる!」「JICAがアフリカの日本乗っ取りを計画している!」「ワクチンは製薬会社の陰謀だ!」「財務省が諸悪の根源だから解体しろ!」「共産主義勢力が諸悪の根源だ!」など全て、本来は中間層になりえた人たちが、豊かになれないという剥奪感から、「諸悪の根源」である存在を求め、それらを駆逐さえすれば世界は良くなるという、シンプルな物語を求めた結果ではないか。 陰謀論政治に対抗するためには、まず陰謀論そのものを軽視せずに真正面から向き合うことが必要。 なぜ陰謀論を信じてしまうのか、どのように陰謀論がポピュリスト政治家に利用されるかをちゃんと把握する必要がある。知っているだけでもかなり違ってくる。この本はその見取り図を描き出す。 ナチスドイツの時、個人の内面までは支配することはできなかったが、自由な言論を徹底的に封殺した。ゲシュタポのような国家権力直属の監視機関があり、市民同士も密告させることで言論の自由をなくした。内面ではナチスに批判的でも、それが表にでなければ無いのと一緒である。これは戦前日本が特高警察や隣組、在郷軍人会などの組織を置いて市民相互の監視体制を構築し、反戦的、反国家主義的な言動を「非国民」と弾劾したことととても似ている。 また怖いなと思ったのは、荒唐無稽な、笑ってしまうほどの雑な世界観の把握をする陰謀論は、普通の批判力を持った人なら到底信じられるようなものではないが、恐怖政治を敷くために、むしろその荒唐無稽さを利用する側面があるという点だ。どういうことかというと、その荒唐無稽な話を「お前は信じるのか?信じないのか?」と脅迫し、信じるものには特権を与え、信じないものを迫害するのだ。ジョージオーウェルの『1984』でそんな場面あったなあと思いながら。トランプは実際にそのような「踏み絵」をやらせて、忠誠心の高い共和党議員と、そうでない反体制分子とに分断させる手法を取ったという。 具体的な対抗手段はわずかに触れられる程度だったが、基本的にはファクトチェック体制をしっかり構築し、市民相互が連携して対抗する必要があるということだった。 「あやふやな情報は拡散させない」という一点だけ多くの人が意識するだけでも変わってくると思う。 あとこの本をできるだけ多くの人が読むことが直接的にかなりのワクチン的な効果をもたらすと思う。 最後に忘れてはならないことだけど、左派的、リベラル寄りな人たちの中にも陰謀論的世界観で物事を捉える人がいるということ。それこそ、「陰謀論者が諸悪の根源だ!そいつらさえいなければこの世界はマシになる」のように考えるのは一番注意しなければいけないこと。 「なにもかも自民党が悪い!」「極右勢力が諸悪の根源だ!」のように雑に解釈することは、自分たちが嫌悪する人たちと側から見ればそっくりな姿勢であることをちゃんと自覚しつつ、正当な批判を加えていきたいと思う。
  • 2025年9月14日
    学校では教えてくれない! 国語辞典の遊び方
    今日やる「辞書の読書会」に向けて読んだ。 タイトルで誤解していたけど、辞書を使ったゲーム的な遊び方を紹介しているわけではなく、あくまでも辞書は素晴らしいぞ!という内容。 国語辞典が誕生したいきさつ(『大言海』にまつわる大槻文彦のエピソードがアツい!高田宏さんの小説も読んでみたい)や、各種国語辞典の特徴を擬人化して紹介したり、語釈の違いを比較したりなど、いろいろ異なる国語辞典を欲しくなった。 岩波国語辞典、集英社国語辞典、新潮現代国語辞典、ベネッセ表現読解、角川必携あたりを揃えてみたい。
  • 2025年9月13日
    わたしの外国語漂流記
    わたしの外国語漂流記
    面白くて一気に読了。中学生くらいの時に読んでたらもっと英語の勉強が楽しくなってたかもしれない。 さまざまな外国語をさまざまな経緯で学習した25人の人たちの外国語学習奮闘記。 聞いたこともないような言語から、身近な英語や、奄美の方言調査の研究者の話も。 言葉の習得は、他者のことを知りたい、他者に対して何かを伝えたい、と思うところから始まる。その一番根本の動機がなければどんな言葉も学べるものではない。 また言葉はたんに言葉だけで独立しているのではなく、その言葉が使われる社会の文化、歴史、風習、伝統、生活環境などさまざまな背景を背負っている。外国語を学ぶことはそれらも言葉を通して学ぶこと。それらとセットになってはじめて言葉が生き生きと動き出す。 母語以外の言葉を取り入れることは、自分の中に異なる身体感覚をもたらすことにもなる。言葉によって思考回路のパターン、どのように世界を捉えるかが変わるから自ずと自我も変わる。 言葉はまずなによりも声、リズム、目の前の相手との生きたやりとりの中にある。それを学ぶためには全身で取っ組み合わなければならない。 だんだん自分自身が変わっていくことでもある。 外国語に限らず、どんどん変容していくために色々勉強したくなる一冊。学ぶことはより自由になること。
  • 2025年9月13日
    戦争するってどんなこと?
    戦争するってどんなこと?
    タイトル通り、戦争についてさまざまな観点から、自分たちの生活に直結する問題として考えるとても良い本だった。以下読書メモ。 著者は1936年アメリカ生まれ。海兵隊にも3年間所属した経験があり、最後に赴任した沖縄基地をきっかけに日本に住むようになった方。津田塾大学で教授もしていた人。 アメリカ軍に従軍していた経験から、軍隊は「人を殺す訓練をする」という生々しい話から始まる。 イラク戦争の時にどんな風に人を殺していたか、戦争が終わった後も精神に異常をきたす人たち、ベトナム戦で脱走したり兵役拒否した人がかなりたくさんいたという話、第二次大戦以降、戦争では兵士よりも民間人の死者の方が多い話。生活環境も奪う話。 これらの話でまず、戦争が破滅的なことしかもたらさないことをしっかり共有した上で話が進む。 それでもなぜ戦争がなくならないのか、という話に進む。原始的な戦争は集団略奪のため。領土や資源、宗教対立、国家権力争い、軍需産業の存在に触れる。国連憲章では建前上戦争は禁止されてるが現実には戦争が起き続けているのは「自衛のため」。資本主義体制が生む不平等、格差もまた戦争の原因。 そこから、もし日本が戦争できる国になった場合にはどんなことが起こるかを説明。自民党改憲草案の危険性について詳しく触れている。国家権力により強い権力を持たせるような内容であり非常に危険。 戦争できる国になった場合、アメリカの戦争に巻き込まれる可能性が一番高い。「対テロ戦争」という終わりのない戦争。 戦争できる国になるということは、国内統治もやりやすくなるということ。徴兵制もしかれるだろうが良心的兵役拒否という方法もあるという話。 続いて沖縄の話。沖縄にありとあらゆる不平等を押し付けて「平和な日本」が成り立っている。琉球王国併合の時からずっと。日本にある米軍基地の74%が国土の0.6%の沖縄に集中。憲法9条と日米安保条約をどちらも望む矛盾。それを沖縄に負担を押し付けることで解決してきた戦後日本。 アメリカにとっても沖縄は非常においしい戦利品でみすみす手放したくない。 沖縄戦を19歳の時に経験し、沖縄県知事も務めた大田昌秀さんのインタビューが読めることもこの本の重要なところ。日本軍が住民を守るどころか死に追いやった現実。西田昌司や参政党神谷の歴史捏造発言に怒りしか沸かない。 米軍基地に経済的に依存している、だから米軍基地が存在するのも仕方ない、みたいな意見も、米軍基地がなくなって商業施設ができた時の事例を見れば、そっちの方がはるかに経済的効果が大きいということを知れたのも大きい。全部沖縄に返還したら良い。 そして最後は非暴力抵抗の可能性をさまざまな事例を紹介しながら探る。軍事力に頼るよりも遥かに効果が大きい。非暴力抵抗をするのはかなりの強い覚悟と粘り強さが必要で、武力に頼る方が簡単に思えるが、それでも非暴力に徹する覚悟を持てるかどうか。ガンジーの本を読みたくなった。
  • 2025年9月12日
    はじめての憲法
    自分が今まで触れてきた憲法の話と違う角度から憲法を知ることができた。知らなかったこともたくさんあり、勉強になった一方で、心理的抵抗、疑問を感じる部分があったが、感情的にならずに読もうと努めた。でもやはりモヤモヤが残る。 やたらと憲法学者を目の敵にしている姿勢が気になった。この著者が批判しているような憲法学者の人の本も読もうと思う。どちらの主張も知らないと。 「戦争の悲惨な経験を二度と繰り返さないためにつくられたのが日本国憲法である。」 という大前提の上に立って論が進められていく。その前提がなければ読み進められなかった。 そもそも第二次大戦前から、1928年のケロッグ=ブリアン条約(不戦条約)により、国家政策の手段としての戦争行為は禁止されていた。(自衛戦争は禁止せず。) これに明確に違反したのが旧日本軍の満州事変、満州国建国と真珠湾攻撃。 日本軍は「宣戦布告していないから戦争ではなかった」という詭弁を使って言い逃れしようとしたという。 戦争→戦争終結のための話し合い→平和構築のための憲法制定 という流れは一般的な流れ。 ポツダム宣言をきちんと見ることから日本国憲法の理解も始まる。 日本国憲法は、アメリカが主導してつくったので、アメリカ独立宣言、合衆国憲法、国連憲章と同じ骨格を持つ。 社会契約という考え方が基本。国家に人格を与えない。一人一人の個人が基本単位。 なので日本国憲法も、「人民の人民による人民のための政治」という社会契約論的な発想に基づく「信託」が根本原理となっている。 個別的、集団的自衛権は国連憲章で禁止されていないのだから、それに準ずる日本国憲法でも、自衛権は否定されていない。「戦力」=戦争潜在力=国権の発動としての戦争を遂行する目的で保持する潜在力を持たないのであれば、軍隊を持つことも違憲ではない、とする。 アメリカの戦争に日本が巻き込まれるのはやはり嫌だと思う。しかしもしアメリカが国際法違反の戦争行為をしていると判断したのなら、それは憲法9条を盾にするのではなく、「あなたのやってるのは国際法違反の戦争だから、日本は集団的自衛権を行使しない」ときっぱり突っぱねる勇気が必要だとする意見になるほどと思った。だって9条はそもそも個別であれ集団的であれ自衛権を認めているのだから。 しかし、「これは戦力ではない」と言い張ればいくらでも武装できてしまうのではないか。いつだって「自衛のためだから」という名目で戦争は起きる。 戦争は天災ではなく人災である。戦争をどうすれば起こさせないか、というのが一番大事なはず。防衛のため、といってお互いに軍拡を進めればいずれは戦争になるのではないか。 国際的な軍縮の取り決めが必要なのではないか。そのためにはまず経済的協力関係を構築し、話し合いの席につける関係性を作ることが重要なのではないか。 いたずらに他国の侵略の脅威を煽るのは、そこから遠ざかる行為ではないか。 でも実際世界中でどんどん軍備増強している中で日本だけ軍縮に向かうのは危険というのもわかる。 いまものすごくギリギリのバランスでなんとか戦争を回避できている状態なのだと思う。 このバランスを最後の最後までギリギリまで支えるのが、戦争放棄を掲げた憲法なのだと思う。 「交戦権は国際法上に存在しない幽霊のようなもの」という主張だが、本当にそうなのだろうか。 ギリギリのバランスをなんとか崩さないために、やはり今の徹底的な交戦権を否定する9条を守り続けることが必要なのではないかと思う。 また今のロシアやイスラエルの所業などを見ると、国際法がいかに形骸化し、戦争抑止力として機能していないかハッキリしている。交戦権が存在しないはずなのに平気で破る。全て「自衛のため」。国際社会は強い制裁を加えず、特にアメリカはイスラエルを強力に支援し続けている。 そんな無法者の起こす「自衛」のための戦争には、やはり日本が巻き込まれてほしくない。だから、この本では欺瞞だと非難されてるけど、集団的自衛権は9条に違反するから、という建前を取り続けてやり過ごすギリギリの作戦、というのも認めざるを得ないのではと思ってしまう。 憲法9条と自衛隊や日米安保条約の矛盾をこの本では軍備することは自衛の範囲内なら矛盾しないと考え、堂々とやれ、という立場なのだと理解している。そっちの矛盾の解消する道もあるだろうが、徹底的な非武装化によっての矛盾の解消は、やはり非現実的なのだろうか。
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