Reads
Reads - 読書のSNS&記録アプリ
詳しく見る
句読点
句読点
句読点
@books_qutoten
島根県出雲市の本屋句読点です。
  • 2025年10月5日
    〈意味順〉英作文のすすめ
    何かを学びたい、学び直したい時にめちゃくちゃおすすめな岩波ジュニア新書。 この本も素晴らしかった。 いろいろゴチャゴチャ知識が増えると、本質が見えなくなってしまうことあるけど、この本読むと、英語は語順をとても重要視する言語である、という基本に立ち戻り、そこからさまざまな英文が理解できるようになる。 理屈がわかっていれば英作文もできるようになるだろう。
  • 2025年10月4日
    社会は「私」をどうかたちづくるのか (ちくまプリマー新書)
    入門書ではあるがかなり骨太でなかなか読むのが大変だった。 社会学のいろいろな研究を参照しながら、「私」という自己意識が、その時の社会状況によってかなり左右されるものであることが見えてくる一冊。 フーコーの理論の紹介もされていて、なるほどそういうことを考えていた人だったのか、とようやく理解できた気がする。(本当の理解ではないと思うが) 「私」というものがかなり偶然によって成り立つ部分も多いこと、確固たる「自己イメージ」というものはもしかしたらフィクションのようなものかもしれないこと、仏教の縁起説なども思い浮かべながら読んだ。
  • 2025年10月3日
    新・大学でなにを学ぶか
    すでに大学を卒業して十年近く経つのになぜこんなタイトルの本を、とも思うが、執筆陣のに好きな著者が何人も文章を寄せていたので図書館で借りて読んだ。 大学入学前に読んでおきたかった(2013年入学なので当時まだこの本はこの世にない)と思ったが、学びというのは一生続くものであるし、この本は何も大学生に限定せずに、広く「学ぶ」とは何かについて重要な示唆を与えてくれる。 大学卒業して何年経っていてもこの本読むと大学入学前のようななんでも吸収してやろうという意気込みが湧いてくるし、貪欲に学んでみたくなる。 特に國分功一郎さん、伊藤亜紗さん、磯崎憲一郎さん、中島岳志さん、山崎太郎さん、多久和理実さんの文章からは得るものが大きかった。(もちろん他の方のもそれぞれ良かった) 常々思っていることだけど、高校生などの若い人をメイン読者に想定して書かれている本は、大人にとってもかなり面白いということ。岩波ジュニア新書などは特にそう。特に何かを学び直したいと思っていたり、新たに何かを学んでみたいと思っている人にとっては、学びの入り口としてこんなに優れているものもないと思う。
  • 2025年9月25日
    思い立ったら隠居
    久しぶりに大原さんの本読んだ。 大原さんの本読むといつもフラットな気持ちになれる。「あ、そうか、あんまり難しく考えなくてもいいよな、シンプルに考えよう」ってなる。 徹底して「自分にとってハッピーかどうか」を大事にしてほしいというスタンスなので押し付けがましさがない。「絶対に隠居スタイルを貫く!」みたいな感じでもないので柔軟に切り替えたりもする姿勢がいい。でも自然と、自分もそんな風に物事を捉えて生きていきたいなと思わせる。 「あ、結構自意識過剰になってたなー」とか、「理想を高く設定しすぎてたかも」とか色々自分の生活のことを思い浮かべながら読んだ。 思えば自分も普通の企業に就職して週5で朝から晩まで働いて、みたいなライフスタイルが全く想像つかなくて、そもそもできる自信がなくて、自営業という道を選んだのだった。大学卒業してフラフラしてる時に大原さんの本と出会って、めちゃくちゃ安心したことを覚えている。「あ、そういう生き方もできるんだ」と、実践している人の話を知れたのは大きかった。 今は隠居とはまたちょっと違うけど、何よりも本が好きだったので本屋をはじめて、お店で待っているだけでお客さんが来てくれて、本を買ってくれて、本を好きなだけ読んで、面白い本があれば紹介して、時々読書会とか開いたり、著者の方を招いたりなど、自分がやりたいと思ったことしか基本的にはしていない。ノーストレス。ほとんど隠居と変わらないと思う。 そりゃあお金はぜんぜん貯まらないけど、お金があっても本に使うだけなので、店の仕入れで物欲は満たされているし(それでもブックオフに行くのはやめられない)、時々知り合いのところでバイトさせてもらったりして足りない分の現金は補ったり、家賃の安い地方都市だし(都会のワンルーム借りるより安い店の家賃)、お客さんや友達から差し入れで野菜などを結構頻繁にいただいたりして、あまりお金を使う生活ではないのでなんとかやっていけている。 将来も死ぬまでずっとこの生活を続けられるかどうかはわからないけど、会社員だったとしても、それこそ精神病んでしまったら続けられなくなるわけだし、会社員だからといって安定しているとも言い切れない。正社員=安定のように思い込まされているだけで、実際の安定度は実は自営業とあんまり変わらないんじゃないか、むしろ自分の納得したことをやれている分、自分から辞めたいと思う可能性は会社員よりも断然低いわけで、上司とか部下とかもいないし余計な人間関係に煩わされる機会もはるかに少ないし、精神衛生的には自分は今の生活が合っていると確信できている。 それだけで十分じゃないか。先のことはいくら考えたってわかるわけはないし、ちょっと先のことだけ見えてればあとは目の前のやることをやっていくだけ、と思えば、「この生活って不安定なのではないか」という不安がちょっと和らいだ。 本の感想のはずなのにダラダラと自分のことを書いてしまった。 この本の中で色々実践してみたいことも紹介されていたけど、特に夜ご飯早めに済ませて、空腹で目覚めるっていうのを実践したい。 あと野草摘みにもいきたい。でもせっかく庭付きの物件なんだからもうちょっと家庭菜園にも力いれようかな。 あとリンゴジュースに生姜すりおろしてシナモンパウダー振ってレンチンして飲むやつ冬にやりたい。
  • 2025年9月25日
  • 2025年9月25日
    食権力の現代史
  • 2025年9月23日
    日本人は民主主義を捨てたがっているのか?
    12年前に出された本だが、今の日本にもズバズバ当てはまることが書かれていると思った。 出てくる政治家や政党の名前を入れ替えればそのまま今の状況にも当てはまる。 しかし違う部分もある。 「政治家は政治サービスの提供者で、主権者は投票と税金を対価にしたその消費者であると、政治家も主権者もイメージしている。そういう「消費者民主主義」とでも呼ぶべき病が、日本の民主主義を蝕みつつあるのではないか。 だとすると、「投票に行かない」「政治に関心を持たない」という消極的な「協力」によって、熱狂なきファシズムが静かに進行していく道理もつかめます。」 p.55 と書かれているが、今の参政党は、これを逆手にとって「私たち一人一人が手作りする、庶民のための庶民によるDIY政党」というのを掲げて大躍進したからだ。その姿勢自体は評価すべきところがあると思うが、当然、政策面や、議員たちの過去の不祥事や失言などを見れば到底受け入れられるような政党ではないのはすぐにわかるはずだ。 消費者マインドではいけない、という意識は少しずつ浸透してきてはいるのだろうが、それを利用されているのではないか。扇動にまんまと乗せられていないか。 意識が高いはずなのに、なぜ参政党のようなめちゃくちゃな政党に「目覚め」てしまうのか。 まさかこんなめちゃくちゃな政党が躍進するはずがない、と思いきや、蓋を開けてみればその党が圧勝する、という現象は、2012年の自民党安倍政権の大躍進の時と、今年の参院選での参政党大躍進の時ととても似ている。 しかし今回は投票率もここ最近の中では高い方だった。 これが何を意味するのか。 この本の中では「熱狂なきファシズム」という言葉が使われていたが、今はもはや、純粋な「熱狂的なファシズム」に近づいているのではないかとすら思う。 しかし状況が変わっているとはいえ、この本で説かれる抵抗のための方法、「千里の道も一歩から」は有効で、それしかないとも思う。 いま改憲勢力が力を増しつつある。本当に手遅れになる前に、できることをしていきたいと思う。 もちろん改憲が絶対にダメだとは思わないが、少なくとも自民党改憲草案や参政党のようなめちゃくちゃな憲法案、 要するに、全体主義に突き進むような、個人の人権を抑圧し権力により強い権限を持たせることを目的とするような改憲には絶対に反対だ。
  • 2025年9月23日
    ガンディーに訊け (朝日文庫)
    伝説の「聖人」としてのガンディーではなく、生身の生きた1人の人間としてのガンディーのことを知ることができた。ガンディーが生きていた当時のインドでも「マハートマー(偉大なる魂)」よりも「バープー(おじさん)」という呼び名で親しまれていたという。 生身の人間だからもちろん完璧ではない部分も見えてくる。特に家族関係などはうまくいかない部分も多かったようだ。 それでもなお、やはりガンディーの為したことは偉大で、現代にも鋭い問いを投げかけ続けている。最大の問いは、人間は「欲望」を乗り越えて真の自由と独立を確立できるか?という問いだろうと思う。 人間は不完全な存在であり、なかなか理想通りにはいかない。あのガンディーですら完璧にはいかなかった。しかし理想は理想であるからこそ、意味があるのであり、現実をできるだけそこに近づけていこうとすること、永遠に試行錯誤し続けることが大事なのだろう。「自分は完璧だ」と思った瞬間に堕落が始まるのだろう。理想は実現されてはならないが、実現を目指さなければならないという矛盾を抱えている。 巻末の著者と禅僧・南直哉さんとの対談が濃密で色々考えさせられた。その中で、ガンディーは、超越的な理論と現実的な実践のはざまで、矛盾を抱え続けたことが素晴らしかったのだと述べられていた。原理主義のようにスッキリ割り切ってしまう、ある意味で楽でかっこいい生き方ではなく、どこまでも矛盾を抱えつづけることを選んだ、と。それがガンディーの本質ではないかと。 この言葉を読んで、岡本太郎のことを思い浮かべた。岡本太郎も対極主義というのを掲げて、理想と現実、思想と実践、自分と他人、利己と利他などさまざまな対極軸の中で、どちらにもつかずに両極の強さをどんどん高めていって、磁石の同じ極同士を近づけるほど反発する力が強くなるように、その両極の中の矛盾をスパークさせ、すなわち爆発して生きること、それが岡本太郎の芸術、すなわち人生観でもあった。きっと岡本太郎とガンディーは似通った部分がかなりあるんだろうと思う。 もう1人思い浮かべたのは、中村哲さん。彼の業績はこれからどんどん強い意味を持っていくと思うが、彼のやったこととガンディーがやった非暴力闘争とを比べてみたい。中村哲さんの言葉や思想も知りたいと思った。まだちゃんと中村哲さんに関する本は読めていないから、これから読んでいきたい。 この本はたまたま実家に帰省する時に軽い文庫本を持っていこうと思い、本棚からたまたま選んだ一冊だったが、奇しくも帰省している間に東京で著者のトークイベントがあることを知り、サインをいただいた。(本来は別の本の刊行記念イベントだったのでその本にサインしてもらうべきだったが、その本はまあまあ分厚いので自宅に置いたままだったのだ。快くサインに応じていただいた思い出の一冊になるだろう)
  • 2025年9月15日
    となりの陰謀論
    今必読の一冊だと思う。 日本でもトランプの陰謀論政治とそっくりな陰謀論政治が台頭しつつある。 その危機感を感じている人はこの本をまず読んでみるところから対策を練る必要があると思う。 まずそもそもこの本における【陰謀論】のざっくりとした定義から。 【陰謀論】=世の中で起きている問題の原因について、不確かな根拠をもとに誰かの陰謀のせいであると決めつける考え方。世の中で起きている「悪いこと」の影には【諸悪の根源】的な悪の存在がいて、「その勢力さえいなければ」世の中は良くなると単純に考えること。 こう定義されると、かなり多くの人が大なり小なり、このような捉え方で物事を見ることって結構あるんじゃないかと思う。因果関係をかなり単純化して、【A→B】のように単線化する感じ。本当は、もっと色々複雑な因果関係があるはずなのに。 陰謀論は一部の変わった人たちだけが関わる怪しげな代物と思われてきたし、多くの人にとっては無関係な問題であると考えられてきた。しかしそれは間違いだとする。 たしかに、陰謀論を熱心に信奉する人はいつの時代にも少数だが、条件が揃えば影響力を増幅させた陰謀論が、民主政治そのものを乗っ取ることができる。無関係ではいられない。 それが顕著にみられるのが、今のトランプ大統領による数々の民主政治に対する破壊行為。数々の「陰謀論」を元に民衆の感情を刺激し、狂信的な支持者を獲得、2021年には連邦議会議事堂占拠のような事件まで引き起こしたが、政治生命を絶たれるどころか、むしろ支持率を高める結果に。 何が起きているのかわからなすぎると思っていたところに、本書がさまざまな視点からの分析をしてくれてかなり視界が開ける感じがした。と同時にとても恐ろしくなった。 敵の正体がわからないと、どんな対策をすればいいのかすらもわからない。まずは「陰謀論」を真正面から見据える必要がある。この本はそのベースとなるような考え方を提供してくれる。この本を読むだけでもかなり今の陰謀論政治に対するソワソワ感、得体の知れない恐怖感が和らぐとおもう。 アメリカでのトランプ陣営の陰謀論政治の手法をメインに観察しながら、陰謀論とはそもそも何か、その起源はどんなもので、人間のどんな性質を利用するか、どのような仕組みで広がるか、ソーシャルメディアとの関わりや、民主政治に陰謀論がなにをもたらすか、など、さまざまな視点から検証できる。 陰謀論は私たちのすぐ「となり」にある。陰謀論を狂信的に信じるのはいつの時代でも少数の人たちだが、だからといって多数派がそれを無視、放置しておくと、陰謀論政治によって民主政治が乗っ取られてしまう恐れがある。誰もが陰謀論の影響から逃れられない。 ナチスドイツも、狂信的なユダヤ陰謀論を掲げたが、それを熱狂的に信じたのは社会全体の中では少数だった。その他の人は無関心、関わろうとしない人が大半だった。反ナチス的なことを言えば密告され強制収容所送りにされる恐怖政治が敷かれていたため、無関心を装うしかなかった。 陰謀論を生み出す基本的な要因は、 【1. 世界をシンプルに解釈したいという欲望】 【2. 何か大事なものを「奪われている」感覚】 この二つだという。1に関しては誰でもその傾向はある。点が三つあったら人の顔のように認識してしまうのも、その表れ。 日本で今陰謀論政治が蔓延しつつあるのは、「剥奪されてる感覚」が強い人が多いからではないか。 「外国人勢力に乗っ取られる!」「JICAがアフリカの日本乗っ取りを計画している!」「ワクチンは製薬会社の陰謀だ!」「財務省が諸悪の根源だから解体しろ!」「共産主義勢力が諸悪の根源だ!」など全て、本来は中間層になりえた人たちが、豊かになれないという剥奪感から、「諸悪の根源」である存在を求め、それらを駆逐さえすれば世界は良くなるという、シンプルな物語を求めた結果ではないか。 陰謀論政治に対抗するためには、まず陰謀論そのものを軽視せずに真正面から向き合うことが必要。 なぜ陰謀論を信じてしまうのか、どのように陰謀論がポピュリスト政治家に利用されるかをちゃんと把握する必要がある。知っているだけでもかなり違ってくる。この本はその見取り図を描き出す。 ナチスドイツの時、個人の内面までは支配することはできなかったが、自由な言論を徹底的に封殺した。ゲシュタポのような国家権力直属の監視機関があり、市民同士も密告させることで言論の自由をなくした。内面ではナチスに批判的でも、それが表にでなければ無いのと一緒である。これは戦前日本が特高警察や隣組、在郷軍人会などの組織を置いて市民相互の監視体制を構築し、反戦的、反国家主義的な言動を「非国民」と弾劾したことととても似ている。 また怖いなと思ったのは、荒唐無稽な、笑ってしまうほどの雑な世界観の把握をする陰謀論は、普通の批判力を持った人なら到底信じられるようなものではないが、恐怖政治を敷くために、むしろその荒唐無稽さを利用する側面があるという点だ。どういうことかというと、その荒唐無稽な話を「お前は信じるのか?信じないのか?」と脅迫し、信じるものには特権を与え、信じないものを迫害するのだ。ジョージオーウェルの『1984』でそんな場面あったなあと思いながら。トランプは実際にそのような「踏み絵」をやらせて、忠誠心の高い共和党議員と、そうでない反体制分子とに分断させる手法を取ったという。 具体的な対抗手段はわずかに触れられる程度だったが、基本的にはファクトチェック体制をしっかり構築し、市民相互が連携して対抗する必要があるということだった。 「あやふやな情報は拡散させない」という一点だけ多くの人が意識するだけでも変わってくると思う。 あとこの本をできるだけ多くの人が読むことが直接的にかなりのワクチン的な効果をもたらすと思う。 最後に忘れてはならないことだけど、左派的、リベラル寄りな人たちの中にも陰謀論的世界観で物事を捉える人がいるということ。それこそ、「陰謀論者が諸悪の根源だ!そいつらさえいなければこの世界はマシになる」のように考えるのは一番注意しなければいけないこと。 「なにもかも自民党が悪い!」「極右勢力が諸悪の根源だ!」のように雑に解釈することは、自分たちが嫌悪する人たちと側から見ればそっくりな姿勢であることをちゃんと自覚しつつ、正当な批判を加えていきたいと思う。
  • 2025年9月14日
    学校では教えてくれない! 国語辞典の遊び方
    今日やる「辞書の読書会」に向けて読んだ。 タイトルで誤解していたけど、辞書を使ったゲーム的な遊び方を紹介しているわけではなく、あくまでも辞書は素晴らしいぞ!という内容。 国語辞典が誕生したいきさつ(『大言海』にまつわる大槻文彦のエピソードがアツい!高田宏さんの小説も読んでみたい)や、各種国語辞典の特徴を擬人化して紹介したり、語釈の違いを比較したりなど、いろいろ異なる国語辞典を欲しくなった。 岩波国語辞典、集英社国語辞典、新潮現代国語辞典、ベネッセ表現読解、角川必携あたりを揃えてみたい。
  • 2025年9月13日
    わたしの外国語漂流記
    わたしの外国語漂流記
    面白くて一気に読了。中学生くらいの時に読んでたらもっと英語の勉強が楽しくなってたかもしれない。 さまざまな外国語をさまざまな経緯で学習した25人の人たちの外国語学習奮闘記。 聞いたこともないような言語から、身近な英語や、奄美の方言調査の研究者の話も。 言葉の習得は、他者のことを知りたい、他者に対して何かを伝えたい、と思うところから始まる。その一番根本の動機がなければどんな言葉も学べるものではない。 また言葉はたんに言葉だけで独立しているのではなく、その言葉が使われる社会の文化、歴史、風習、伝統、生活環境などさまざまな背景を背負っている。外国語を学ぶことはそれらも言葉を通して学ぶこと。それらとセットになってはじめて言葉が生き生きと動き出す。 母語以外の言葉を取り入れることは、自分の中に異なる身体感覚をもたらすことにもなる。言葉によって思考回路のパターン、どのように世界を捉えるかが変わるから自ずと自我も変わる。 言葉はまずなによりも声、リズム、目の前の相手との生きたやりとりの中にある。それを学ぶためには全身で取っ組み合わなければならない。 だんだん自分自身が変わっていくことでもある。 外国語に限らず、どんどん変容していくために色々勉強したくなる一冊。学ぶことはより自由になること。
  • 2025年9月13日
    戦争するってどんなこと?
    戦争するってどんなこと?
    タイトル通り、戦争についてさまざまな観点から、自分たちの生活に直結する問題として考えるとても良い本だった。以下読書メモ。 著者は1936年アメリカ生まれ。海兵隊にも3年間所属した経験があり、最後に赴任した沖縄基地をきっかけに日本に住むようになった方。津田塾大学で教授もしていた人。 アメリカ軍に従軍していた経験から、軍隊は「人を殺す訓練をする」という生々しい話から始まる。 イラク戦争の時にどんな風に人を殺していたか、戦争が終わった後も精神に異常をきたす人たち、ベトナム戦で脱走したり兵役拒否した人がかなりたくさんいたという話、第二次大戦以降、戦争では兵士よりも民間人の死者の方が多い話。生活環境も奪う話。 これらの話でまず、戦争が破滅的なことしかもたらさないことをしっかり共有した上で話が進む。 それでもなぜ戦争がなくならないのか、という話に進む。原始的な戦争は集団略奪のため。領土や資源、宗教対立、国家権力争い、軍需産業の存在に触れる。国連憲章では建前上戦争は禁止されてるが現実には戦争が起き続けているのは「自衛のため」。資本主義体制が生む不平等、格差もまた戦争の原因。 そこから、もし日本が戦争できる国になった場合にはどんなことが起こるかを説明。自民党改憲草案の危険性について詳しく触れている。国家権力により強い権力を持たせるような内容であり非常に危険。 戦争できる国になった場合、アメリカの戦争に巻き込まれる可能性が一番高い。「対テロ戦争」という終わりのない戦争。 戦争できる国になるということは、国内統治もやりやすくなるということ。徴兵制もしかれるだろうが良心的兵役拒否という方法もあるという話。 続いて沖縄の話。沖縄にありとあらゆる不平等を押し付けて「平和な日本」が成り立っている。琉球王国併合の時からずっと。日本にある米軍基地の74%が国土の0.6%の沖縄に集中。憲法9条と日米安保条約をどちらも望む矛盾。それを沖縄に負担を押し付けることで解決してきた戦後日本。 アメリカにとっても沖縄は非常においしい戦利品でみすみす手放したくない。 沖縄戦を19歳の時に経験し、沖縄県知事も務めた大田昌秀さんのインタビューが読めることもこの本の重要なところ。日本軍が住民を守るどころか死に追いやった現実。西田昌司や参政党神谷の歴史捏造発言に怒りしか沸かない。 米軍基地に経済的に依存している、だから米軍基地が存在するのも仕方ない、みたいな意見も、米軍基地がなくなって商業施設ができた時の事例を見れば、そっちの方がはるかに経済的効果が大きいということを知れたのも大きい。全部沖縄に返還したら良い。 そして最後は非暴力抵抗の可能性をさまざまな事例を紹介しながら探る。軍事力に頼るよりも遥かに効果が大きい。非暴力抵抗をするのはかなりの強い覚悟と粘り強さが必要で、武力に頼る方が簡単に思えるが、それでも非暴力に徹する覚悟を持てるかどうか。ガンジーの本を読みたくなった。
  • 2025年9月12日
    はじめての憲法
    自分が今まで触れてきた憲法の話と違う角度から憲法を知ることができた。知らなかったこともたくさんあり、勉強になった一方で、心理的抵抗、疑問を感じる部分があったが、感情的にならずに読もうと努めた。でもやはりモヤモヤが残る。 やたらと憲法学者を目の敵にしている姿勢が気になった。この著者が批判しているような憲法学者の人の本も読もうと思う。どちらの主張も知らないと。 「戦争の悲惨な経験を二度と繰り返さないためにつくられたのが日本国憲法である。」 という大前提の上に立って論が進められていく。その前提がなければ読み進められなかった。 そもそも第二次大戦前から、1928年のケロッグ=ブリアン条約(不戦条約)により、国家政策の手段としての戦争行為は禁止されていた。(自衛戦争は禁止せず。) これに明確に違反したのが旧日本軍の満州事変、満州国建国と真珠湾攻撃。 日本軍は「宣戦布告していないから戦争ではなかった」という詭弁を使って言い逃れしようとしたという。 戦争→戦争終結のための話し合い→平和構築のための憲法制定 という流れは一般的な流れ。 ポツダム宣言をきちんと見ることから日本国憲法の理解も始まる。 日本国憲法は、アメリカが主導してつくったので、アメリカ独立宣言、合衆国憲法、国連憲章と同じ骨格を持つ。 社会契約という考え方が基本。国家に人格を与えない。一人一人の個人が基本単位。 なので日本国憲法も、「人民の人民による人民のための政治」という社会契約論的な発想に基づく「信託」が根本原理となっている。 個別的、集団的自衛権は国連憲章で禁止されていないのだから、それに準ずる日本国憲法でも、自衛権は否定されていない。「戦力」=戦争潜在力=国権の発動としての戦争を遂行する目的で保持する潜在力を持たないのであれば、軍隊を持つことも違憲ではない、とする。 アメリカの戦争に日本が巻き込まれるのはやはり嫌だと思う。しかしもしアメリカが国際法違反の戦争行為をしていると判断したのなら、それは憲法9条を盾にするのではなく、「あなたのやってるのは国際法違反の戦争だから、日本は集団的自衛権を行使しない」ときっぱり突っぱねる勇気が必要だとする意見になるほどと思った。だって9条はそもそも個別であれ集団的であれ自衛権を認めているのだから。 しかし、「これは戦力ではない」と言い張ればいくらでも武装できてしまうのではないか。いつだって「自衛のためだから」という名目で戦争は起きる。 戦争は天災ではなく人災である。戦争をどうすれば起こさせないか、というのが一番大事なはず。防衛のため、といってお互いに軍拡を進めればいずれは戦争になるのではないか。 国際的な軍縮の取り決めが必要なのではないか。そのためにはまず経済的協力関係を構築し、話し合いの席につける関係性を作ることが重要なのではないか。 いたずらに他国の侵略の脅威を煽るのは、そこから遠ざかる行為ではないか。 でも実際世界中でどんどん軍備増強している中で日本だけ軍縮に向かうのは危険というのもわかる。 いまものすごくギリギリのバランスでなんとか戦争を回避できている状態なのだと思う。 このバランスを最後の最後までギリギリまで支えるのが、戦争放棄を掲げた憲法なのだと思う。 「交戦権は国際法上に存在しない幽霊のようなもの」という主張だが、本当にそうなのだろうか。 ギリギリのバランスをなんとか崩さないために、やはり今の徹底的な交戦権を否定する9条を守り続けることが必要なのではないかと思う。 また今のロシアやイスラエルの所業などを見ると、国際法がいかに形骸化し、戦争抑止力として機能していないかハッキリしている。交戦権が存在しないはずなのに平気で破る。全て「自衛のため」。国際社会は強い制裁を加えず、特にアメリカはイスラエルを強力に支援し続けている。 そんな無法者の起こす「自衛」のための戦争には、やはり日本が巻き込まれてほしくない。だから、この本では欺瞞だと非難されてるけど、集団的自衛権は9条に違反するから、という建前を取り続けてやり過ごすギリギリの作戦、というのも認めざるを得ないのではと思ってしまう。 憲法9条と自衛隊や日米安保条約の矛盾をこの本では軍備することは自衛の範囲内なら矛盾しないと考え、堂々とやれ、という立場なのだと理解している。そっちの矛盾の解消する道もあるだろうが、徹底的な非武装化によっての矛盾の解消は、やはり非現実的なのだろうか。
  • 2025年9月12日
    SNS時代のメディアリテラシー
    SNSを日常的に使う人全てが一度は読んでおくべきだと思った一冊。 chatGPTや生成画像などの進化はわずか数年で飛躍的なものとなり、今後もその勢いは止まらないだろう。つまりフェイク情報もそれだけ増えるだろうということ。 マスメディアも全て信用できるわけではないが、玉石混交のネット上の情報よりは、ファクトチェックがしっかり効いているので今後マスメディアには情報の正当性を担保する役割が重要になるだろう。 情報の確度を確かめるチェックリスト 【いつ「ふくえび」発売?】は覚えとこう。 この本を通して読むことで自然とリテラシーが上がるように構成されており、これ一冊読むだけでかなりフェイクに騙されたり、フィルターバブルの中に閉じ込められて思想が偏る危険が減ると思う。油断はならないが。
  • 2025年9月11日
    「利他」とは何か
    「利他」とは何か
    とても面白く一気に読んでしまった。 5人の研究者がそれぞれ違うアプローチで「利他」の問題を考察しているのだが、「おわりに」で中島岳志さんが指摘するように驚くほど5人の考察は共通の方向に向かっていた。それは一言で表すと「うつわになること」。 利他という問題から、意志の問題、数値化の問題、贈与の問題、美の問題、責任の問題、などさまざまなことが見えてきて、それらが全て繋がっていく様がとても面白かった。ヒンディー語の与格構文と、古代ギリシャ語に存在した中動態はかなり重なる。私の中に何かがやってきて留まっている、という感覚。 自らの意志を超えたところに利他が宿るのであるが、それは自力を尽くした上で現れるもの。磯崎さんの小島信夫の小説を引きながらの創造にまつわる話はとても面白かったし、小島信夫の小説読んでみたくなった。わけのわからない力のようなものに従い、道を歩いていたらふと横に獣道のようなものがあってそこにはいっていってしまうような、作者自身にも訳がわからない方向性にぐんぐん突き動かされる感じ。カフカの小説や、夢で見るような不条理性。古代ギリシャの悲劇にも重なる。 「うつわになること」ということから、大器晩成という言葉も、そうした偶然性が宿るような人格を目指す言葉なのかなと思った。
  • 2025年9月10日
    世界史読書案内 (岩波ジュニア新書)
    東京都立西高等学校(都立御三家の偏差値トップ校)の世界史の先生がクラスで配っていた読書案内を元に書かれた本。 読みたくなる本がたくさんできた。 時々読んだことのある本が出てくるとよっしゃ!となる。でも8割は知らなかった本。 以下読書メモ。 ・世界史を学ぶことの意義。 1.世界そのものを理解することにつながる、 2.世界史を学ぶことで、日本史もよりよく理解できる。 3.「今」を知ることにつながる。時間や場所をずらしたり、因果関係を理解する。 ・全ての学問は「人間とは何か」という究極のテーマにつながる。 ・歴史は暗記科目ではない。「なぜ?」という問いかけをなによりも大事に。「つながり」が見えてくることで単なる知識の暗記ではないダイナミックな、今につながるものとして歴史の面白さを知ることができる。 "自分の立場を絶対化することは、自分に対して盲目になることと同義です。それを賢明に避けるためには、自分を客観的に見る視点を持つことでしょう。それは他者の立場に立つということなのです。"p.98 "「面白いな」と思う瞬間とは、自分が当たり前だと思っていたことが、実は違う 側面を持っていることに気づかされて、自分自身が新たな視点を持ち、さらに社会や世界に対する新たな解釈を獲得する、知的な発見の瞬間だと思うのです。"p.169-170 "ぼくたちは歴史の連続性・継続性の中でしか存在できず、過去から自由になることはできません。だとするならば、過去から逃れて生きる、もしくは過去を知らずに生きるよりは、自ら過去をふり返り、世界の過去を知ることで、自分自身を知り、未来に向かってゆく知恵やエネルギーを引き出すことができるのではないでしょうか。"p.200
  • 2025年9月10日
    ことばの発達の謎を解く
    単語も文法も知らない赤ちゃんがどのように言葉を習得していくのか、というところから、言語とは何か、人間にとって言語を学ぶとは何か、についても追っていく内容。 母親の胎内にいる時からすでに赤ちゃんは母語のリズムを習得し始める、というのは驚いた。それぞれの言語特有のリズム、繰り返し現れる言い回しなどを覚え始めるという。 名詞のストックを揃えることから言語の習得が始まるようだ。そこから物以外の動作の名前も覚え始め、最後に形容詞を覚えていく。 その過程で重要な働きをするのが、似ている物同士を分けるカテゴリー化の能力。言語によって微妙にその範囲が異なるというのが面白い。(日本語の「着る」と英語の「wear」は微妙にその範囲が変わる。put on と wear では全然別の状態だが、日本語ではどちらも着ると表現するように) 何をもって似ていると判断するか、同じようなものだと判断するかは意外と難しくて高度な話なのだとわかった。 日本語を十分に習得した人が外国語を勉強する時に足かせになるのは、日本語のシステムで外国語をとらえようとしてしまうところだという。言語とは世界の捉え方のシステム、パソコンでいうOSのようなもので、言語が違えば見える世界の姿、捉え方、考え方も異なってくる。世界認識の別の捉え方を学ぶのが外国語学習ということなのだろう。言葉だけでなくその言葉が話される国の文化や風習なども合わせて覚えないと正確な理解は難しい。 赤ちゃんが言葉を習得していくプロセスは微笑ましくもあり、人間という生き物の賢さ、スーパーコンピュータにも難しい類推の能力を駆使して、システムを徐々に構築していく様子に感嘆する。実際に子どもを育てるようになったら観察しているととても面白いだろうと思う。
  • 2025年9月8日
    君たちはどう生きるか
    今月末にやる読書会に向けて読了。最後に読んだのがたぶん大学生くらいの時で、10年近く前。あらすじはだいたい覚えていたけど、細かいところはほとんど忘れてしまっていた。でも今回読み直してみて、色々この10年の間で本を読んだり経験したこともあり、グイグイ入ってきた。さりげない一文にハッとしたり。 人間関係網目の法則、ナポレオンについてのおじさんのNOTEの内容、雪の中の出来事のコペル君の葛藤と、その乗り越え方、お母さんのエピソード、、色々心に残る。 日中戦争が始まる1937年にこんな本が出ていたことに驚くし、この本が投げかける問い、目指す理想から、どんどんかけ離れていったそれからの日本や世界のことを思うと、気が滅入りそうになる。仮にこの本の中の時間も刊行当時のリアルタイムだったとしたら、当時15歳だったコペル君たちは、1945年頃には23歳くらいになっているはず。もしかしたら学徒出陣などで戦地に送られたかもしれない。 ガッチンこと、北見くんのお父さんは陸軍の軍人であり、戦場にも行っただろう。豆腐屋の浦川くんのような貧しい家庭の子どもは最も厳しい前線に送られたかもしれない。コペル君の叔父さんも、きっと赤紙で召集されただろう。 想像でしかないが、それは十分あり得ることである。 しかしこの想像をひとまず置いておいて、この作品世界の中だけに目を向けて見れば、なんて素晴らしい世界だろうと思う。この本が投げかける問いがまっすぐに90年の時を越えて、今にも突き刺さる。「君たちはどう生きるか」。 先日、石破さんが総理を辞めることを発表した。 これによって極右化が進むのではないかという危機感がある。また再び戦争への道を歩むのではないかと恐ろしい。なぜ人間は過去のことを学ばないのだろう。なぜ愚かなことを繰り返すのだろう。なぜ理想通りにいかないのだろう。 今吉野源三郎さんが新作を書くとしたらどんな内容になるだろうか。 しかしまだまだこの本は、この本が目指す理想的な世界のあり方と程遠い今の時代に、まだまだ力を持ち、何度も読み返される必要がある。普遍的な理想について語ってある。じっくり噛み締めながら、何度も読みたい。
  • 2025年9月5日
    日本習合論
    ORCで読み終えた。 いろいろと頷ける部分が多い本だった。 日本の文化は雑種文化であり、いろいろなものが混じり合っている。その典型が、神仏習合であったが、明治になって、その千年以上続いた長い伝統をあっさりと捨て去ってしまったのはなぜか、なぜ民衆は大きな抵抗もせず受け入れたのかという問いを軸に、現代日本のさまざまなトピックを「ごちゃ混ぜ」にしながら、それこそ習合させて論じていく一冊。 「日本人にとっては、土着と外来のものが習合しているのが「ふつう」である。いろいろな要素が出自や時代差を超えてハイブリッドされている状態が日本人にとっての「当たり前」なのです。」 「ところが、間歇的に、土着と外来を分離して、日本本来のものを単離せよという揺り戻しが起きる。純血状態、初期化をめざすバックラッシュが起きる。われわれが今あるところのものは、われわれの本然のあり方ではない。外来のものに汚染され、原初の清浄が失われたせいで、「こんなありさま」になっているのである。外来の異物を排除し、純粋状態に戻れば、もろもろの不調のすべては消失し、社会は活力を回復する」というような動きが最近世界中で強まっている。参政党の出現などはその典型だろう。 その流れに抗して、日本文化の底流に流れている「習合」的なあり方に依拠すること、両立し難いものをなんとか両立させようとする知性のあり方が求められているという。それは誰かに強制されるようなものではなく、各自が自発的に行なっていくべきもので、日本人にはそれが可能だという期待を著者は抱く。日本語ロックの草分け的存在であるはっぴいえんどのようなあり方で。「君が代」のメロディもイギリス人の音楽家の旋律をドイツ人音楽家が改作したもの。そこに日本の習合的なあり方のヒントがあるという。 普通は相容れないものも一旦は受け入れてみる。「頭の良さ」ではなく「頭のでかさ」を求める、というあとがきは面白かった。
  • 2025年9月5日
    不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか
    特攻を美化する人たちに読んでほしい1冊。 太平洋戦争末期、物資も枯渇し有効な戦術が打てなくなった日本軍が最後の悪あがきで生み出した特攻作戦。 最初のうちは、アメリカ軍側も「まさかそんなことはしないだろう」という予想を超えた戦術的にはあり得ない作戦だったため予測できずに、いくばくかの戦果をあげた。それに味を占めた日本軍は「この危機敵状況を打開するためにはやはり特攻しかない」と、最初は「特別」な作戦だったはずが、常態化していく。 当然アメリカ軍側も特攻の対策をすぐに講じて、特攻による攻撃はほとんど意味をなさなくなる。それでも日本軍は特攻作戦に固執し、前途ある若者の命を次々と捨てさせた。後半になるにつれて優秀なパイロットもまともな機体も無くなり、離着陸がやっとというような未熟な少年飛行兵にまで、布張りの翼のおもちゃのような練習機で特攻に出させた。 そもそも特攻は優秀なパイロット、物資の枯渇する中でただでさえ貴重な飛行機を一度きりの作戦で使い捨てる戦術的にも劣った作戦である。なるべくなら損傷を少なくさせ、何度でも出撃させる方が戦術的には優れていたはずなのになぜそれをしなかったのか。 ただ日本国のために死んでこいというだけの、「国のために尊い命を捧げた若者がたくさんいたのだから、銃後の国民も命を賭して最後まで戦争を継続しろ」というメッセージを出すためだけに若者の命を捨てさせた。日本が戦争を継続するためだけに、国民の戦意を失わせないためだけに、多くの命を捨てさせた。国体という共同幻想を維持するためだけに生贄にされた。まともな戦術ではなく、宗教的儀式に近いものだったのだろう。人柱のような。当然そんなもののために多くの若者の命を捨てさせた罪は深い。 そんな無謀な作戦の中、9回も特攻出撃命令を出されながらも毎回生還した特攻兵がいた。本書の主人公佐々木友次さんである。本書刊行直前まで、92歳まで生き続けた。 生きて帰ってくるたびに、上官から「貴様なぜ生きて帰って来た!そんなに命が惜しいのか。次は必ず死んでこい」と言われながらも、生きて帰って来た。それには、日露戦争の激戦を生き抜いた父親の言葉と、同じ特攻隊員であり、特攻作戦に反対して機体を自らの判断で体当たりせずとも爆弾を投下できるように変更させた上官の存在があった。少しでもタイミングが悪ければ残らなかった貴重な証言がたくさん残された。佐々木さん個人の生きる意志と、意志だけでは説明がつかない偶然、運のようなもので奇跡的に生還できたのだが、必ず死んでこいという状況の中でも生きる意志を失わなかった姿からはとても勇気づけられる。 つくづく日本軍の上層部の無能さ、戦後ものうのうと生き延びて、自らの下した非人道的な作戦を美化、正当化するために特攻を美化する本を出版した上官たちに腹が立つ。自らは安全なところにいて、若者や地位の低い下士官に特攻を押し付けた。 特攻の問題は、命令した側と命令された側に分けて考えるべきだ。命令した側の責任は厳しく批判されねばならないのに、命令された側を盾にして「特攻を侮辱することは、特攻のために命を捨てた若者たちを侮辱することだ」として論点をずらさせる。
読み込み中...