Reads
Reads - 読書のSNS&記録アプリ
詳しく見る
句読点
句読点
句読点
@books_qutoten
島根県出雲市の本屋句読点です。
  • 2026年9月23日
    銃口 上
    銃口 上
    先日、古本整理をしているときにたまたま手に取った小説。背表紙のあらすじを読んだら面白そうだったので読み始めたら止まらなくなった。かなり分厚い上下巻なのに、2日で読み切ってしまった。「ページをめくる手が止まらない」って本当にあるんだと思った。 この小説の魅力の一つは、主人公・北森竜太の成長を追いながら、読者も敗戦に至るまでの昭和の歴史を追体験できることだ。物語は昭和元年、竜太がもうすぐ小学4年生になるところから始まる。 戦争に突き進む中で昭和の庶民はどのような感覚で生きていたのか、どのように戦争体制へ順応していったのか、どんな暮らしで、どんなことを考えていたのか。教科書で知っているだけの昭和史の出来事が物語をとおすことで臨場感あるものとして理解できるようになる。 中でも大きな影を落とすのが、悪名高い「治安維持法」だ。この法がいかに言論の自由を奪い、異論を許さない空気を作っていったか。自由な言論が封じ込められ、無実の人が大勢被害を受けたかを知ることができる。竜太もまたその渦中に巻き込まれていくことになる。 竜太が4年生に進級したとき、人生で最大の出会いが訪れる。担任の坂部久哉先生との出会いだ。情に厚く、生徒一人一人の顔をしっかり見つめ、弱いものいじめを絶対に許さない。当時の教師には珍しく、生徒と対等な関係に立とうとする人だった。読者も、この先生に教わったらどんなにいいだろうかと思わずにはいられないほど、一つ一つの言葉が温かく心に残る。竜太は坂部先生のような教師になろうと決意する。 その後師範学校を卒業した竜太は、坂部先生の勧めもあって、貧しい者が多く働く炭鉱の町で教員としての一歩を踏み出す。坂部先生のような教師になろうと日々努力を重ねる。 特に力を入れたのが「綴り方」の授業だ。綴り方は今でいう作文のこと。今も昔も、作文を苦手に思う生徒は多く、竜太のクラスにも多くいる。竜太はそういう生徒に向けて、綴り方がいかに大事なものかを語る。 「綴り方というものは、本来人真似のできないものだということだ。誰にも真似のできないことを、自分が書くということだ。世界中の誰だって、真似はできない。つまりね、一人一人の人間が、いろいろの生活を、様々に感じたり、様々に見つめて生きているということだ。君たち、この世界にたった一つのものを生み出すことって、すばらしいと思わないか。それが綴り方だ。」 「先生は一人一人の人間の心がちがうということ、自分の考えを持って生きるということ、これは実に大切なことだと思う。誰かの言ったことをそのまま鵜呑みにして生きてはいけないんだ。自分の生き方は、自分でしっかり考えて、自分の足で歩いて行く。これはむずかしいことだぞ。大人だってなかなかできない。」 (上巻「裏山」の章より) しかし、こうした個性を重んじる教育は、当時の政府が推し進めていた挙国一致体制には都合が悪い。体制に歯向かうような行為だった。 一人一人の個性を重んじていたら、戦争に人を駆り立てることができない。 校長や教頭も当局に目をつけられることを恐れて、竜太の綴り方の授業を減らそうとしたりする。 この物語のモデルとなった実際の事件に、「北海道綴方教育連盟事件」というものがある。綴り方教育に力を入れていた教員たちが50人以上も不当に逮捕、勾留された事件だ。無実の罪を着せられ、無理やり教員免許を自主返納の形で抹消されたり、「思想犯」として戦場に送られ、差別されたりした。 竜太も、「綴り方連盟」の集会にたった一度顔を出しただけで長期間拘留され、教員免許を取り上げられてしまう。教師として順調に歩み、生徒たちとの関係も深くなってきていた折りの出来事で、竜太の絶望は読んでいても辛くなるほどだった。取り調べをする特高警察の理不尽で高圧的な態度にも怒りが沸く。 しかも尊敬する坂部先生もまた、この連盟に関わっていたとして拘留されてしまうのだ。この二人が留置所で再会する場面はこの物語の中において最も感動的な場面のひとつ。この時の坂部先生の言葉が、この後も竜太に襲いかかる苦難の中で彼を支え続ける精神的支柱となっていく。 この物語には、坂部先生以外にも忘れ難い魅力的な人たちが多く登場する。竜太の初恋の人で、ともに教師を目指すことになる芳子や、竜太の父、政太郎。その政太郎がかつて、過酷な労働現場から逃げ出してきたのを匿い逃した朝鮮人労働者の金俊明。軍隊で竜太の教育係となる近堂さんや、上官の山田曹長。 いろんな人たちとの縁が思いがけない形で繋がり、めぐりめぐって竜太を救っていくことになる。この人間ドラマはぜひ実際に読んで味わってほしい。 そして物語の最後の最後で、タイトルの『銃口』の本当の意味にも気づくはずだ。 世界中で不穏な動きが強まり、この日本でも戦前のような動きが目立つ中で、背後から突きつけられる「銃口」にどう対処すべきか、一人一人が考えるために、今こそ読まれるべき作品だと思う。
  • 2026年9月20日
    悪と全体主義 ハンナ・アーレントから考える (NHK出版新書)
    ハンナアーレントについての入門書を続けて読了。 こちらの本は、『人間の条件』よりも前に書かれた『全体主義の起源』を中心に、アーレントが「悪」と「全体主義」をどのように考察していたかとてもわかりやすく紹介してくれている。 最初にアーレントの人生を概観しつつ、なぜ彼女が政治の領域に強い関心を持つようになったか解説。元々は政治に興味はなく、純粋に哲学の研究を志していたが、1933年にナチスが政権を握ったことによって、自身が亡命し、難民となって無国籍者となった経験から、否が応でも、「政治」について考えざるを得なくなった。 そして、「全体主義」がどのように人間性を毀損してゆくか、なぜそのような体制が生まれるのかを生涯追及した。 『全体主義の起源』第一巻では、ユダヤ人差別の歴史的な形成過程について描かれている。国民国家が形成される過程で、ユダヤ人の同化が進み、社会に溶け込んで活躍するようになればなるほど、ユダヤ人が国家を乗っ取り、世界征服を目論んでいるのではないかという陰謀論が現れるように。 続く第二巻では「帝国主義」について。19世紀後半に西欧諸国は帝国化。その過程で、「人種」思想と「国民」概念に代わって「民族」概念が表れるように。19世紀にイギリスで生まれた「優生思想」もこれらと合わさって、「全体主義」成立の土台となった。 この章で、ドイツ史の簡単な振り返りもされていて、「神聖ローマ帝国」とか「ハプスブルク家」とか「ルターの宗教改革」とか「30年戦争」とか「ウェストファリア条約」とかの世界史で習ったことがひとつながりに理解することができて、とても面白かった。それが第一次世界大戦、そしてナチス政権の成立まで全部繋がっていく。また読み直して復習しよう。 「国民」という意識と異なり、「民族」概念は、定義が曖昧なため、どこまでも遡って拡張していくことができる。これは「かつては同じ民族のものだった土地を取り戻さなければならない」という意識をもたらすように。 第三巻ではいよいよ「全体主義」そのものについての分析。 キーワードとなるのが「大衆」と「世界観」。 全体主義の出現は「大衆」の出現と切り離せない。というよりも「大衆」の出現が「全体主義」を生んだ。 「大衆」と対になる概念が「市民」。 「市民」は自分たちにとっての利益やそれを守るためにどう行動すべきか自覚的に行動する人たち。対して「大衆」は何が自分たちにとっての利益かわからず、国家や政治家が何かいいものを与えてくれるだろうという「お客様」マインドで、とにかく強そうな人に合わせていれば安心だろうという態度の人たち。 自分や他者の個性を尊重しようとする「市民」に対し、周りの人たちに合わせ、没個性的に生きることに安心感を見出そうとする「大衆」。 アーレントにとって、全体主義を生み出す根本原因は、人々の「複数性」が失われることだと考えた。「複数性」とは、ひとことでいえば、一人一人が異なった存在として互いに尊重されること。ひとつの意見に縛られず、多様な価値観がありうるという態度で、自分の意見に固執しないこと。さまざまな意見に触れて、自分の意見や物の見方、考え方が変わっていくことに開かれたあり方。 全体主義はこの「複数性」を閉じ込めることで成り立つ。 アーレントが「複数性」にこだわったのは、それが全体主義の急所だから。複数性がうまく機能している社会では、単一のわかりやすい「世界観」が通用しにくい。 全体主義は「絶対悪」を設定することで、複数性を破壊し、人々を敵と味方に二分する。そして多様なあり方を許さない。人間から考える営みを奪う。異なる考え方を持つ人のことを弾圧する。 そのため、「正義感の強い人」や「何かに強いこだわりのある人」、「それに忠実であろうと努力する人」ほど、実際には「複数性」を壊して、全体主義という「悪」に最も近づきやすいという指摘にはなるほど、と思った。 終章では『人間の条件』についての短い解説も。 「複数性」が確保され、増殖するためには、「間」の空間が必要。さまざまな見方に開かれた議論の場。 全体主義体制は陰謀論的プロパガンダを用いて人々の「世界」に対する見方を次第に均質化し、「複数性」の活動のための「間」を秘密警察や密告などの手段を用いて消滅させる政治体制。 つまり、要点としてはいかに「複数性」を保ち続けられるか、というところに、アーレントの哲学は収斂していくのだろう。 この本もとても良い見取り図を与えてくれる良い入門書だった。
  • 2026年9月20日
    悪と全体主義 ハンナ・アーレントから考える (NHK出版新書)
    ハンナアーレントについての入門書を続けて読了。 こちらの本は、『人間の条件』よりも前に書かれた『全体主義の起源』を中心に、アーレントが「悪」と「全体主義」をどのように考察していたかとてもわかりやすく紹介してくれている。 最初にアーレントの人生を概観しつつ、なぜ彼女が政治の領域に強い関心を持つようになったか解説。元々は政治に興味はなく、純粋に哲学の研究を志していたが、1933年にナチスが政権を握ったことによって、自身が亡命し、難民となって無国籍者となった経験から、否が応でも、「政治」について考えざるを得なくなった。 そして、「全体主義」がどのように人間性を毀損してゆくか、なぜそのような体制が生まれるのかを生涯追及した。 『全体主義の起源』第一巻では、ユダヤ人差別の歴史的な形成過程について描かれている。国民国家が形成される過程で、ユダヤ人の同化が進み、社会に溶け込んで活躍するようになればなるほど、ユダヤ人が国家を乗っ取り、世界征服を目論んでいるのではないかという陰謀論が現れるように。 続く第二巻では「帝国主義」について。19世紀後半に西欧諸国は帝国化。その過程で、「人種」思想と「国民」概念に代わって「民族」概念が表れるように。19世紀にイギリスで生まれた「優生思想」もこれらと合わさって、「全体主義」成立の土台となった。 この章で、ドイツ史の簡単な振り返りもされていて、「神聖ローマ帝国」とか「ハプスブルク家」とか「ルターの宗教改革」とか「30年戦争」とか「ウェストファリア条約」とかの世界史で習ったことがひとつながりに理解することができて、とても面白かった。それが第一次世界大戦、そしてナチス政権の成立まで全部繋がっていく。また読み直して復習しよう。 「国民」という意識と異なり、「民族」概念は、定義が曖昧なため、どこまでも遡って拡張していくことができる。これは「かつては同じ民族のものだった土地を取り戻さなければならない」という意識をもたらすように。 第三巻ではいよいよ「全体主義」そのものについての分析。 キーワードとなるのが「大衆」と「世界観」。 全体主義の出現は「大衆」の出現と切り離せない。というよりも「大衆」の出現が「全体主義」を生んだ。 「大衆」と対になる概念が「市民」。 「市民」は自分たちにとっての利益やそれを守るためにどう行動すべきか自覚的に行動する人たち。対して「大衆」は何が自分たちにとっての利益かわからず、国家や政治家が何かいいものを与えてくれるだろうという「お客様」マインドで、とにかく強そうな人に合わせていれば安心だろうという態度の人たち。 自分や他者の個性を尊重しようとする「市民」に対し、周りの人たちに合わせ、没個性的に生きることに安心感を見出そうとする「大衆」。 アーレントにとって、全体主義を生み出す根本原因は、人々の「複数性」が失われることだと考えた。「複数性」とは、ひとことでいえば、一人一人が異なった存在として互いに尊重されること。ひとつの意見に縛られず、多様な価値観がありうるという態度で、自分の意見に固執しないこと。さまざまな意見に触れて、自分の意見や物の見方、考え方が変わっていくことに開かれたあり方。 全体主義はこの「複数性」を閉じ込めることで成り立つ。 アーレントが「複数性」にこだわったのは、それが全体主義の急所だから。複数性がうまく機能している社会では、単一のわかりやすい「世界観」が通用しにくい。 全体主義は「絶対悪」を設定することで、複数性を破壊し、人々を敵と味方に二分する。そして多様なあり方を許さない。人間から考える営みを奪う。異なる考え方を持つ人のことを弾圧する。 そのため、「正義感の強い人」や「何かに強いこだわりのある人」、「それに忠実であろうと努力する人」ほど、実際には「複数性」を壊して、全体主義という「悪」に最も近づきやすいという指摘にはなるほど、と思った。 終章では『人間の条件』についての短い解説も。 「複数性」が確保され、増殖するためには、「間」の空間が必要。さまざまな見方に開かれた議論の場。 全体主義体制は陰謀論的プロパガンダを用いて人々の「世界」に対する見方を次第に均質化し、「複数性」の活動のための「間」を秘密警察や密告などの手段を用いて消滅させる政治体制。 つまり、要点としてはいかに「複数性」を保ち続けられるか、というところに、アーレントの哲学は収斂していくのだろう。 この本もとても良い見取り図を与えてくれる良い入門書だった。
  • 2026年9月18日
    戦争は女の顔をしていない
    戦争は女の顔をしていない
    今月の一冊読書会に向けて読了。 かなり分厚くて、ひたすらにさまざまな人たちの証言が延々と続くという構成の本で、正直読むのにかなり苦労した。しかし最後の証言「ふと、生きていたいと熱烈に思った」を読んだ時に、その証言がそれまでの証言を全部繋げてくれるような感覚となった。 戦場での残酷な体験ばかり綴られていくのかと覚悟していたが、意外とそればかりでもなく、本当に些細な思い出とか、恋のこととか、服装のこととか、そうした思い出の証言も多かった。もちろん凄惨な証言も多い。想像してもしきれない。『いくさ世を生きて』を読んだ時も思ったけど、特に臭いとか音、振動などは本当にその場にいた者でなければわからないだろう。 最後まで読んでもどうしても理解できなかったのは、なぜ女性たちは自ら進んで危険な前線地帯に行きたいと志願したのかということ。「祖国のために血を捧げよ」的なプロパガンダがめちゃくちゃ効いていたからなのだろうか。その当時の教育や社会的な環境がわからないので想像するしかないが。男たちも女性たちはこんな危険な場所にいるべきではないと、彼女たちが前線に来ても追い返そうとしたり、志願を受け入れなかったりもしていたのが印象的だった。それでもそれを跳ね除けてまで、時には目を盗んでこっそり輸送列車に忍び込んだりまでして前線の激戦地に行こうとしたのはなぜだったのか。 そして戦争が終わってから、女性たちが受けた理不尽な差別に対しても理解できなかった。なぜそんなに人々は白い目で彼女たちのことを見たのだろうか。 「当時の社会状況ではそう考えて行動することが当然だった」と教科書的には理解できても、本当の意味では理解できない。 スターリンの全体主義体制がいかに恐ろしいものだったか、彼女たちの「献身的な証言」を読むことで逆説的にそれがかなり浮き彫りになるような気もする。大日本帝国ともかなり重なる。あの悪名高い「戦陣訓」と全く同じことがソ連でも行われていた。独ソ戦についてももっと知りたくなった。 それから兵士たちの証言よりも、パルチザンの人たちの証言の方がより残酷できつかったことも印象的だった。 アレクシエーヴィチの師匠であるアダモーヴィチの作品やそれを原作とした映画「炎628」はいつか覚悟して観なければと思う。 いろいろと心に残る証言が多くて、付箋を挟みながら読んでいたらかなりの数になってしまった。その部分だけでももう一度読み直そう。 『ボタン穴から見た戦争』や『チェルノブイリの祈り』も読みたい。
  • 2026年9月18日
    すごい古典入門 アーレント『人間の条件』
    昨日の読書会の前に一気読み。とてもわかりやすかった。この本を読んでいたから、原書を読むときにも迷子にならずに読み進めることができた。(といってもまだプロローグと第1章を読んだだけだが) 以下読書メモ。 「全体主義」がなぜ、どのようにして生み出されるか、ということを中心的テーマとして考え続けたアーレント。 どうすれば全体主義体制を生み出さずにいられるか、ということを考え続けた。 アーレントが最も重要だと考えたのが、人間は一人一人全く異なる個性を持つという性質である「複数性」という概念。 全体主義体制下ではイデオロギーによって人々の複数性が失われ、画一化されてしまう。そこからは人々の連帯の動きも封じられてしまう。 人々の画一化は全体主義体制でない国でも起こりうる。資本主義経済体制のなかでは「人材」という言葉に端的に示されるように、人々は交換可能な存在として扱われてしまう。 『人間の条件』は、古代ギリシャにまで遡りながら、人々の複数性がどのように抑圧されてきたかの形成過程を探る本。 人間の複数性が発揮される状況を明らかにするために、彼女は独自の概念を用いて人々の活動を分析した。 人間の活動的生活を「労働(labor)」「仕事(work)」「活動・行為(action)」の三つに分類。活動的生活(vita activa)とは人間が自分以外の事物と関わりながらそれに何らかの影響を与えるようなあり方。つまり「働く」とはどういうことか?を分析した本。 「労働」は人間の生命維持のために強制される営為のこと。労働によって作り出されるものはすぐに消費される。古代ギリシャにおいてはこの労働は奴隷や女性たちにやらせて、家長はなるべくこの労働に関わらないことが「自由」であると考えられていた。 「仕事」は人工物を作る営み。消費物ではなく耐久性のあるものを作ること。 「活動」は他者に対して何らかの働きかけを行うこと。自らの個性を発揮する営み。人間と関わることで、具体的な物は「活動」によっては生み出されない。 古代ギリシャにおいては「労働」が行われる私的領域と、「活動」が行われる公的領域は明確に区別されていたが、時代を経るにつれてこの境界がなくなっていった。そして、「社会」という領域が出現するようになった。 国家が私的な財産のことも管理するように。 資本主義経済が発展するにつれて、「労働者」も生み出されるようになった。 人間のほとんどの活動が「労働」になっていくと、人々の画一化が進み、全体主義体制に近づいてしまう。 どのように一人一人の「複数性」が損なわれないような社会が作れるだろうか。 「複数性」を発揮できる公的領域をどのように維持するか。 昨日の読書会のような場はまさにそうした試みだったのではないか。 本屋という空間もその意味でとても重要な役割を持つはず。 原書を少しずつ読み進めたい。
  • 2026年9月7日
    さみしい夜にはペンを持て
    「とても良かった。いい本だった。本を読むこと、書くことに苦手意識がある人、読書感想文が苦手だった人、何か書いてみたい人、特に中高生におすすめしたい本。」 ↑書くことについていろいろ学べたはずなのに、いざ本の感想を書こうとするとこのようなありきたりな言葉ばかり並べてしまう。とても難しい。何を書けばいいんだろう? 「きっとこんな感じかな。たとえばなにかの本を読んで、読書感想文を書くとする。タコジローくんはその本にすごく感動した。主人公の気持ちが、まるで自分のことのように感じられた。本を持つ手が、ぶるぶる震えるくらいだった。なのに、実際に読書感想文を書いてみると、自分の思いとぜんぜん違う文章になっていく。書けば書くほど、自分の気持ちから離れていく。けっきょく読んでいたときの感動を、半分も書くことができない」(p.77) というヤドカリのおじさんがいう通りのことが起きている。 しかしそれは文章が下手だからなのではなく、「答えを決めるのが早すぎる、ことばを決めるのが早すぎる」のが原因なのだという。 手っ取り早く「良かった」「感動した」などの便利なことばで、沸き起こっていたはずのさまざまな感情を片付けてしまうことで、もっと適切なことばがあるはずなのに、それを探す面倒くささから逃げてしまっているからだという。 そしてそれを続けてしまうことは、たんに作文が上手にならないだけの問題ではなくて、日常生活のいろんな場面でトラブルを呼び込んでしまう原因になるという。自分自身に対しても、対人関係に対しても、「コスパのいい」言葉を使うことで、自分の気持ちを言葉で説明するコストを省き続けることで、対話の道が閉ざされてしまう。 そうすると、生きていく上での最大の謎「自分」という存在について考える道が閉ざされてしまう。 ではどうすればいいか。 日記を書くことだという。心の中に広がる「自分」というダンジョンを冒険することが日記を書くことだという。「日記を書く」という意識ではなく、「ペンを鍵に日記という秘密の扉を開いて「自分」というダンジョンのなかを冒険してみる」という意識で。 まずは10日間、日記を書いてみることから。 「夜になったらノートを開く」という小さな約束から始めてみる。 「メモはことばの貯金」で、夜になったら日記の中で好きなだけ散財する。 などの具体的なアドバイスがたくさん。 吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』を読んだときの感動とも似ている。 学校でいじめられているタコジローが学校に行けなくてたまたまたどり着いた公園で不思議なヤドカリのおじさんと出会い、日記を書くことを通して精神的に立ち直っていく物語。
  • 2026年8月21日
    チッソは私であった 水俣病の思想 (河出文庫)
    ものすごい本だった。緒方さんの生い立ち、水俣病闘争で最前線で闘っていた頃のこと、そこから一人離脱し、「狂って」過ごした期間を経てたどり着いた「チッソは私であった」という境地とそれからのこと。水俣から東京まで木造船で命懸けの航海をしたこと、石牟礼道子さんとのこと。全編にわたって、緒方さんの熊本弁混じりの語りことばで綴られる。読書したというよりも、目の前に緒方さんがいて、その言葉をじっと座って聴いているかのようなそんな読書体験だった。 「一体この自分とは何者か。どこから来てどこへゆくのか、である。それまでの、加害者たちの責任を問う水俣病から自らの「人間の責任」が問われる水俣病へのどんでん返しが起きた。そのとき初めて、「私もまたもう一人のチッソであった」ことを自らに認めたのである。それは同時に、水俣病の怨念から解き放たれた瞬間でもあった。その大逆転は、マグマの圧力が高まりやがて火山の爆発、噴火に至るように必然的な運動であり、私といういのちのビッグバンであったように思う。幼少から背負わされた「課題としての水俣病は、我が内なる精神の運動であった」。今後も精神運動としての活火山でありたいと思っている。」(「はじめに」より。) どんなことが語られたかということは短い言葉でまとめることもできるけれど、それでは絶対に伝わり切らないものがある。ひとつひとつの言葉がすべてつながり合っているから、その流れの中でしか理解できないことがある。頭で理解しても仕方がない。すぐに言葉にはできない心の動き、言葉によって心が「ぐわんと揺れた」と感じること。じっくりと最後まで耳を傾けることでしか伝わってこないものがある。 何度も読み直すことになるだろうと思う。その度にいろいろなことがまたわかってくるだろうと思う。 世の中のさまざまな理不尽なことに対しての怒りや恨みでいっぱいになっている人、どうすればいいのか道を見失いそうな人、もう何やったって無理だと絶望しそうになっている人、そういう人が読んだらきっといろいろ気づくことがあると思うし、勇気ももらえると思う。怒りや恨みを火山のマグマのように高めていき、中途半端なところで妥協しないで、爆発させて、社会が忘れさせようとしてもずっと記憶し続け、終わりがない問いに変えて向き合い続けていくことの勇気を。 最後の栗原彬さんとの対談で、それまで語られてきたことが全部繋がっていく感覚をぜひ味わってほしい。 水俣には是非とも行かねばと思う。緒方さんが彫った石仏に会いに行かねば。
  • 2026年8月14日
    憲法という希望
    憲法という希望
    武田砂鉄ラジオマガジンなどでお馴染みの憲法学者、木村草太さんの講演録を元にした憲法入門。とてもわかりやすくて勉強になった。憲法についてはいろいろ本読んで勉強したつもりだったけど、この本で初めて得られた視点も多くて、また一段階深く憲法のことを考えられるようになったと思う。 10年前に出されている本だけど、10年前もそうか、安倍政権下でいろいろと不穏な動きがずっと続いていたんだな、もしかしたら今の高市政権以上に危なかったのかもな、とも思う。今も相当だと思うけど。だから尚更今読んでもいろいろ響くものがあった。 全部で4章構成になっており、第1章で、憲法とはそもそもどういう存在か、どういう性質のものかの大枠が説明される。続く第2章、3章では夫婦別姓の問題、辺野古基地移設の問題を例に挙げながら、憲法をどのように使いこなしていけばよいのかを紹介する。そして4章でクローズアップ現代などの司会として活躍した国谷裕子さんをインタビュアーに、それまでの議論のおさらいと補足事項が対談の形で示される。 まずそもそも憲法とはどういう存在か。木村さんは国家権力がよくやりがちな失敗を再び繰り返させないためのリストであるという。その三大失敗は「無謀な戦争」「人権侵害」「権力の独裁」。だから憲法ではこれら3つの失敗に対処するための「軍事統制」「人権保障」「権力分立」が憲法の柱になる。 第二章では、夫婦別姓の問題が中心だが、むしろここでは訴訟をするときに、イデオロギーで頭が固まってしまうとうまくいかないので、冷静に落ち着いて分析して、自分のどのような権利が制約されているのか、誰と誰の間に区別があるのかをしっかりと見定めることで制度の合理性について問う必要があると述べられる。 第3章もとてもおもしろかった。辺野古基地建設はなんらの法的根拠がなく、閣議決定のみに基づいているが、それは地方自治を定めた憲法92条に反するのではないか、という視点から考えている。そして92条とともに重要になるのが住民投票を定めた95条。 当時の安倍政権にこの点を問いただすと、「安全保障や基地建設に関する問題は国が考えるべきことで地方自治体の仕事ではないから、地方がいちいち口をだすな」という内容の答えが返ってきたという。「法律もなにもなしに、強権的な手法で、閣議決定のみで基地を作っても良い。地方自治体の権限はすべて排除されてよい」と考えていることが明るみになる。本当に恐ろしいことだと思った。そして2026年現在、辺野古基地建設は止まることなく続けられている。 「私たちにとって憲法とは、「人権が尊重され、よき統治がなされる社会を作ろう」という希望を実現するために存在します。そうした希望は、人間が人間らしく生きていくために不可欠なものです。決して贅沢な望み、わがままな願いではありません。  しかし、権力者に憲法を守らせるのは簡単ではありません。権力の座に就けば、自分たちの邪魔をする人を排除したくなるものです。権力者が自ら進んで人権を保証し、権力分立を進めていくなどということを期待できないことは、歴史が証明しています。  憲法を守らせるのは、究極的には私たち国民です。私たち一人ひとりが、権力者に憲法を守るように求めていかねばならないのです。もちろん、訴訟で判断を示すのは裁判所ですし、政府の行動に関する憲法チェックをしているのは内閣法制局です。しかし、究極的には国民一人ひとりが憲法を理解し、権力者が不当なことをしている時に、「それは許されない」という声を上げていかなければ、裁判所だって内閣法制局だって、権力者の側に引き寄せられていってしまいます。」p.108 日本の教育では、道徳教育よりも、法学教育が必要だとする木村さん 「道徳はもちろん大切です。しかし道徳は、究極的には人によって考え方が分かれてしまうものです。個人が一人ひとり真摯に向き合って、どうするのがよいのだろうかと考えていくべきものです。それを教育の現場で行おうとしても、教師が望むよい子像を押し付けることになりかねません。  これに対して法律は、そうした道徳も含めた価値観が人によって分かれてしまうところで、最低限すべての人が守らなければならないラインがどこにあるのかを、国民の代表である国会が議論して決めたものです。ですから、まずはそれをしっかりと理解すべきだろう、というのが私の考えです。」p.154
  • 2026年8月12日
    ナウシカ考
    ナウシカ考
    今月末の『風の谷のナウシカ』読書会に向けて読了。とても面白かった!よくある考察系の本とは一線を画している。『ナウシカ』を軸に、権力の問題、文字と権力の問題、二元論的世界観の克服、などさまざまなテーマが引き出されてくる。物語論としてもとても面白い。なにか創作する人にとってこの本はさまざまなヒントを与えてくれる本だと思う。この本を読むともう一度『ナウシカ』を最初から読み直したくなる。 民俗学者の視点から、さまざまな文献なども引用しながら、マンガ版の『ナウシカ』を読解していく。宮崎駿本人ですら明確に意識していなかったであろうことまで、ひとつひとつ丁寧に拾い上げてゆく。宮崎駿はこの本を読んではじめて自分で原作を読み直したらしい。どこかのインタビューで「自分はこんなこと一切考えることなく描いていた」と漏らしていたのを読んだ。作者以上に読み込むことは可能なのだ。 『ナウシカ』前史として、幻のデビュー作『砂漠の民』や、『ナウシカ』執筆とほぼ同時期に描いた『シュナの旅』などとの関連性を引きながら論考が始まる。『シュナの旅』は単体として非常に濃密に完成されたモノローグ的作品。この作品に宮崎駿の世界観がかなり凝縮されている。 王や権力についての問題について長年考えてきた赤坂さん。「風の谷」の姿にもその視点から迫る。「風の谷」は王をいただく部族集団ではあるが、国家的な権力を拒否している。ピエール・クラストルを引きながら、「貧しいけれど、平和な部族社会」「王国とはいえ、強大な権力を帯びた王は不在であり、あくまで国家という忌まわしきものが出現することに抗う社会」だという。 宮崎駿の物語は必ず「マレビト」の不意の訪れから始まるという指摘には確かに、と思った。主人公自身が「マレビト」となって別の世界に紛れ込むパターンもある。(もののけ姫など) 「ナウシカはいかなる他者にたいしてであれ、命令する者ではない」p.66 言われてみれば確かにそうなのだ。 ナウシカの名前の由来はギリシャの叙事詩「オデュッセイア」に登場する同名の姫から。血まみれの航海者であったオデュッセウスを恐れることなく助けて、後には吟遊詩人として諸国を放浪したという。 そしてもう一つの源泉は日本の古典『堤中納言物語』の「虫めづる姫君」。 この二つの源泉が見事に融合して生まれたのが「ナウシカ」。 「ナウシカはひとつの混沌である」p.98 清浄/汚濁を明確に切り分けて、「清浄」の世界だけで生きていくことを拒む。自身のうちにも「汚濁」や「闇」があり、それらなしでは人間は人間たりえないことを見抜く。オーマは破壊の象徴、虚無でもありながら、その名前は「無垢」を意味する古エフタル語であった。作中におけるオーマの立ち振る舞いはまさしくそのもの。 「清浄や汚濁をともの一身において引き受けるとき、人ははじめて穢れの呪縛を超えてゆくための、たしかな一歩を踏みだしているのではないか。みずからの内に堆積する穢れに気づくことによって、二元論の罠からの脱出を果たす」p.157 この清浄/汚濁を一身に引き受けるというテーマは後の宮崎作品においても重要なテーマ。「もののけ姫」や「千と千尋の神隠し」など。 「火の七日間」「千年前」など、この作品では神話的な数字が頻出する。キリスト教的な世界観と通ずるところがあるが、明確に異なるのは、キリスト教的世界観は善悪の二元論的世界観で、最終戦争ののちに善が勝つという物語だが、『ナウシカ』はそれにたいして真っ向から挑む。 「目的のある生態系・・・その存在そのものが生命の本来にそぐいません」というナウシカの言葉。 「墓所の主は、世界をあきらかな境界線で分かち隔てて、みずからを光や希望の側に置き、自身の提示する未来へのプログラムに自発的に隷従することをもとめる。そうした世界を分断する境界のラインを、ナウシカは認めない」p.272 映画版の「ナウシカ」では、むしろ、「清浄」の側にナウシカが立ち、「腐海」も実は「清浄」の側だった、世界もそこに向けて良くなっていく、という感じの世界観だったように思うが、漫画版はそれと真逆。漫画版は驚くほどに血みどろで、ぐちゃぐちゃで、混沌としている。もちろん映画版は映画版で素晴らしいし、傑作であるのは間違いないけど、あくまでも漫画版とは別の作品であると思ったほうが良さそうだ。この物語をたった2時間の映画にまとめろというのは無理だろう。漫画という形態だからこそ表現できた世界観。 「みずからの内なる闇や穢れや虚無を、生存の避けがたい条件として認めるからこそ、ささやかな生への希望を耕し、受け入れることを学んでゆく。二元論の廃棄こそがくりかえし試みられている。どこかに絶対的な中心や神の座を設定したうえで組み立てられる透明な二元論のなかに、ほかならぬ虚無や闇は潜んでいる。」p.272 この二元論に抗するナウシカ、という視点を得た時に、緒方正人さんの『チッソは私であった』が想起された。水俣病の患者でありながら、水俣病を産んだ「文明の罪」の側に自分もいると気づき、背負い直した緒方さん。 『ナウシカ考』の中では、水俣病や東日本大震災、コロナ禍などの現代社会における問題との接続については多く語られることはなかったが、深いところでかなり密接に繋がっていることだと思う。次は『チッソは私であった』を課題本に読書会をやりたい。 終章において、赤坂さんはこの『風の谷のナウシカ』を多声的=ポリフォニー的な物語であるとし、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』などと同種の物語であると論ずる。それくらいの人類に対しての大きな贈り物であると。 物語全体が《大きな対話》である。モノローグ的に全体を概観するような視点はなく、全ての登場人物たちが独自に動き、作者のコントロール下にすらない。物語がそれ自体として動いてゆく。 最後に引かれていたロレンス『黙示録論』のなかの言葉 「書物のもたらす真の愉悦は、それを何度でも読みかえし、そのたびにそれが以前とは異なったものであることを知り、他の意味に、すなわち意味の別次元に出あうことのうちにあるのだ。」 は、まさしくこの『風の谷のナウシカ』にも『ナウシカ考』にも当てはまる言葉だと思う。何度も読みかえしたい。
  • 2026年8月10日
    孤独の研究
    孤独の研究
    古本買取でたまたまやってきてパラっと見たら、パスカル『パンセ』、グレン・グールド、ニーチェ、ショーペンハウアー、ピュリツァー、アミエルの日記、モンテーニュ、ソロー、プルースト、と興味ありすぎる人たちについて紹介しながら「孤独」について書いている本だとわかり、一気に読了。学生時代に出会いたかった一冊。 ニーチェの『ツァラトゥストラ』は「いかにすれば人間は創造的でありうるかということを述べた散文詩のようなもの」とズバッと紹介していて、そうか!と納得した。 グレングールドは名前は知っていたけど、エピソードとか、考えていたこと、そしてなにより木原さんがグールドのことが本当に好きで、いくら書いても書き足りないというくらいに魅力的に書いていて、気になりすぎてYouTubeで聴きながら読んだら本当に凄すぎて、クラシック音楽に今まであまり関心なかったけど、これを機にハマるかも、と思えた。メルカリですぐにグールドのCDを2枚買ってしまった。 『アミエルの日記』は全く知らなかったけど、気になりすぎて探してみたい。今は絶版で古本でも結構高い。どこかの古本屋で埃かぶってるやつを激安でゲットできたらいいな。 そしてモンテーニュの『エセー』はやはり買って手元に置いてすこしずつ読んでみたい。プルーストの『失われた時を求めて』も全巻セットで手元におきたい。 この本で紹介されている人たちはだいたい親の莫大な遺産を相続してそれで好きなように孤独な生活を謳歌できた人たちであるが、参考にできることは多々ある。ピュリツァーやハワードのような強迫観念に縛られて孤独に閉じこもるようなあり方に陥らないようにだけは注意したい。(この二人の例を入れて孤独讃歌になりすぎないようにバランスとっているところもこの本のよかったところ。ピュリツァーとハワード特殊すぎるだろ!と思ったけど、独裁的な人、トランプとかプーチンとかも基本的に人を信用していないんだろうな、と想像できた。我が国の恥ずかしすぎるあの女首相も。) この本の一番最後、著者がこの本を書くことになった経緯について書いていて、奥さんが数年前に癌で亡くなっていたとのこと。なるほど、そうだったのか、と納得。自分自身のために書いていた側面もあったのだろう。 プルーストを紹介するところの文、「失われた時間はけっして消え去ったわけではないこと、それは記憶のなかに当時そのままに保存されていること、そして失われたと思っていた時間を取りもどすことによって「なんとも言えぬ快感」が与えられることをプルーストは発見した。」p.189 「失われた時を取りもどすことによって、人間は「時間のそと」に出ることができるのである。この見出された不滅の時間のなかでは、孤独に苦しむことはないのだ。」p.190 などはまさしく自分自身に向けて書いたと思う。 たまにこういう本が古本買取でやってくるから古本屋は楽しい。 著者のことについて調べていたら、もう一冊読みかけている『天才の勉強術』(新潮選書)の著者でもあって、そちらも読み進めたくなった。
  • 2026年8月7日
    考えて、考えて、考える
    考えて、考えて、考える
    一気読み。藤井さんは幼い頃からかなりの負けず嫌いで負けると手がつけられないくらいに泣いていたらしい。 将棋は相手の駒を自分の駒として使えるようになるところが一番の面白いポイントで、それがあるために終盤になるまでどういう展開になるのか読めないらしい。だから、最後の最後まで気を抜かないということを意識しているという。最後の最後にフッと気を抜くと負けるらしい。 将棋界ももういまやAI無しでは考えられないくらいに棋士の人たちは研究につかっているらしい。藤井さんも自作PCでかなり高性能のAIで研究しているという。 丹羽さんのバイブルだというロマンロランの『ジャンクリストフ』は読んでみたい。 藤井さんは勝負に勝つか負けるかよりも、「最善の一手を考える」ことに集中しているという。
  • 2026年8月4日
    保守と大東亜戦争
    戦争を10代後半から20代、あるいはそれ以上で経験した保守論客の人たちの残した書籍などを紹介しながら、保守本流の人たちほど、戦前日本が突き進んだ超国家主義、侵略戦争に批判的だったことを紹介。竹山道雄の『ビルマの竪琴』まだ読んだことないから読まねば。山本七平の『「空気」の研究』は前に読んだときは難しすぎてほとんど理解できなかったのだけど、もう一度読み直さなきゃ。林健太郎と小堀桂一郎の論戦を紹介するくだりでは、小堀に対して読んでいるこちらまではらわたが煮え繰り返るような思いをした。林さんよくこんなネトウヨの元祖みたいな人と粘り強く対話を続けたなと思った。 今「保守」を名乗る人たちは実質では全く保守ではない人たちも多い。本当の保守本流の政治家の層が分厚くなって、庶民のために政治をする人たちに国の運営をになって欲しい。
  • 2026年7月27日
    ムーン・パレス
    ムーン・パレス
    夏休みにゆっくり時間をかけて読んだ。良質な映画を10本まとめて観ているような、そんな濃密な小説。 まさかそことそこがそう繋がるのか!という驚きもあるし、それがめちゃくちゃご都合主義かと思いきや、本当にそういうミラクルなこともあるかもなあと思わせる書き方。月のイメージが至る所に出てきて、(書き出しからそう)、重要なモチーフとしてずっと連続している。世代を越えて相似形のことが起きていたり、それをつなぐものもやはり月。パズルが気持ちいいくらいにハマる感じ。かといってやりすぎ感もない。それは単純なハッピーエンドとはいかない終わり方で、良いことも悪いことも全部平等に訪れるから。途中で終わってたら「ああいい話だった」で終わってたかもしれないのに、その続きでさらにひっくり返される。 エフィングと雨の中最後のミッションを果たすシーンなどはもう本当に映像を見ている感じだった。というか全編にわたって映像がすごく浮かんでくる。 他の作品もどんどん読みたくなった。
  • 2026年7月9日
    ベルクソン~人は過去の奴隷なのだろうか
    ずっとベルクソンのことが気になり続けている。創造的進化(エラン・ヴィタール)とか「純粋持続」とか、大学受験の倫理で単語となんとなくの、ほんとうに付け焼き刃的な断片的な知識はあったものの、本当にその面白さを理解したとは言えなかったベルクソン。小林秀雄が熱心にベルクソンのことを書いていたり、ドゥルーズもかなり影響を受けていたり、ニーチェや実存主義との関わりなどなど、いろいろベルクソンを中心に考えると繋がっていきそうな気配がする、と思って、いよいよベルクソンを読んでみようかと思い、まず手に取った一冊。今書いてて気づいたけど岡本太郎の彫刻作品に「エラン」という作品があったのを思い出した。岡本太郎もパリできっとベルクソンの本読んだりしただろうな。太郎の「芸術は爆発だ」「瞬間瞬間に生きる」と「純粋持続」は同じことを言っているのだと思う。 金森修さんの書き方はとても親しみやすくまずSF映画の話から。「マイノリティ・レポート」や「トータル・リコール」観てみたい。 ベルクソンは自然科学によってあらゆることが分析可能で数値化できる、というような考え方が広まっていく同時代の風潮に対峙して自分の考えを固めていった。自然科学的な知識も相当に研究していたそう。だけどベルクソンが到達したのは、人間の意識は究極的には分析しきれないということ。 普段なにも意識しないときは、人はふつう空間的な時間の捉え方をしているという。しかし本当に時間は空間的(数量的、計量的)に捉えられるのかというと、そうではない時間の流れ方、時間という言い方すらも間違っているかもしれない、時間なんてものから超越した、「純粋持続」というしかない流れがあるという。明確に前と後に切り分けることもできず、輪郭もなく、互いに外在的でもない、ぐちゃぐちゃに混ざり合った、質的な多様性。 外で流れている一般的な時間、計量可能で、分節可能で、後先もはっきりしている時間の流れ方とは全く別の、普段は全く見ることも感じることもない、時間の本当の姿、そうしたものがどんな人の中にも流れている、と。そうした本当の時間の流れの中にいるとき、外の時間の感覚とは全く違う体験ができると。 なんとなくわかるようで、わからない、わかりそうと思った途端にすぐ逃げていってしまうような。でもそういう「本当の時間の流れの中にいる」という体験は何回かしてきている気もする。まさに「時間を忘れる」感じ。それは外の時間、空間的な時間を忘れて、純粋持続の中にいる、ということなんだと思う。面白い本を読んでいる時とか、話が盛り上がって「もうこんな時間か」と時計を見てびっくりするときみたいに。 まだわかったようでわからない感じで、この本の面白さもなかなか言葉にはできないけど、繰り返し読んで、またベルクソン本人の書いた原書にも挑戦してみて、少しずつ深めていきたい。
  • 2026年7月5日
    古くてあたらしい仕事
    昨日のイベント出店の店番中に読了。 前にも読んだことがあったけど、久しぶりに読み直した。 やはり島田さんの文章がとても好きだ。優しさが滲み出ている。 今自分の年齢が、島田さんが夏葉社を立ち上げた時と同じ、33歳。(正確には8月で)だからかもしれないが、今この本読み直して、余計に心に沁みた。 この本を読み終えると、夏葉社から出ている本をたっぷり時間をかけてゆっくり読んでみたくなる。 島田さんの仕事観は、今どんな状況に置かれている人にも灯台のような光を投げかけてくれると思う。将来が不安で仕方ない人、現状に満足できていない人、あるいは今の仕事に満足できている人にとっても。 お金よりも前に、自分が必要とされること、自分を必要としてくれる人のために動きたいと思うこと、これがあらゆる仕事の最も根源的なところにあるのではないかという。 世の中にはお金や成績や、さまざまな価値基準によって数値化されるもの以上に、数値化不可能な価値はたくさんあって、言葉にできないもの、なんてことないような思い出とか、感情の動きとか、そういうものが「仕事」のスタート地点にはあるという。 島田さんの優しさの裏にある悲しみや孤独、不安、そうしたものもひりひりと伝わってくるけど、だから余計に優しさが沁みる。嘘がないと感じる。 若松英輔さんが『悲しみの秘儀』などの中で、「かなしみ」は「悲しみ」とも書くし、「愛しみ」とも書く、ということを書かれているけど、島田さんの文章からはまさにそれを感じる。 従兄との夏休みの思い出が本当にきれいで、こちらまで泣きそうになる。夏葉社という名前、本当に素敵だなあ。従兄弟の家族たちと海岸で服を燃やすシーンはありありと映像が浮かんできて小説のよう。 夏葉社の事業計画書の、その経験に裏打ちされた具体性、シンプルさは揺るぎなくて、お手本にしたい。 いろいろ文章が良すぎて引用したらキリがないのだけど、いくつか今気になったものを。 「これだったらまず大丈夫だろう、というような手堅い企画も、得てして売れない。 思うに、読者はすでに評価が定まっているような既知のものよりも、生活にほんのすこしの風穴を開けてくれるような、あたらしいものを望んでいるのだ。それは、自分のことを考えてみると、よくわかる。」p.166 「あたらしいものは古くなるし、古いものはあたらしくなる。けれど、まれに、いつまでも新鮮で、あたらしい姿のままのものもある。それが優れた仕事というものだろう。」p.168 →「古くてあたらしい仕事」! 「ぼくが本屋さんが好きで、本が好きなのは、それらが憂鬱であったぼくの心を支えてくれたからだ。それらが強い者の味方ではなく、弱者の側に立って、ぼくの心を励まし、こんな生き方や考え方もあるよ、と粘り強く教えてくれたからだ。 それは本だけではない。音楽や映画やアニメーション。喫茶店や中古レコード屋さんや映画館。 こうしたものは、人生を支えてくれる。それは既に力ある人たちの権力を補うものではなくて、そうでない人たちの毎日を支える。 それらは特効薬のような効果はないかもしれないが、本ならば一冊の本を読み終える時間を、映画ならば一本の映画を観るという豊かな時間を、喫茶店であれば一杯のコーヒーを飲む時間を提供するものとして、読むもの、観るものに、夢を与える。 それは、夢を叶えるという意味での夢ではなくて、日常とは異なる世界で時間を過ごすという意味での、文字通り、夢を見る時間だ。 現実の世界だけでは、ときどき、たまらなく苦しい。逃げる場所もないようにみえる。それは、スマートフォンでニュースを見ていても、SNSを見続けていても同じだ。 けれど、現実に流れる時間とは別の、もうひとつの肥沃な時間を心のなかにもつことができれば、日々はにわかにその色を取り戻す。 本を読むことは、音楽に耳を澄ませることは、テレビの前でスポーツに熱中することは、現実逃避なのではない。その世界をとおして、違う角度から、もう一度現実を見つめ直すのだ。あるいは、そうした虚構のフィルターをとおして、悲しみやつらいことを時間をかけて自分なりに理解するのだ。 必要なのは、知性ではなく、ノウハウでもなく、長い時間だ。現実に流れる時間とは異なる時間を、自分以外のどこかに求めること。そうすることで、生きることはだいぶ楽になる。素晴らしい作品は、いつまでも心のなかから消えず、それは内側から生活するものを支える。」p.183-184 →この部分は深く頷きながら読んだ。自分の本屋でも異なる時間の流れを大事にしたい。
  • 2026年7月5日
    黒澤明と「七人の侍」 (朝日文庫 つ 11-1)
    一気読み。 映画の中の映画、「七人の侍」がどのように生み出されたか、詳しく知ることができた。 スピルバーグやジョージ・ルーカスがこの映画から多大な影響を受けていることは有名。スピルバーグは映画作る前に必ず「七人の侍」を見返しているらしい。 ストーリーを追いながら「このシーンではこのような撮影だった」「黒澤明はこんな指導をした」という形でエピソードが紹介されていくので、「七人の侍」を一から振り返ることもできる。 トルストイの『戦争と平和』、ファジーエフの『壊滅』、ドボルザークの「新世界」、江戸時代の剣豪伝などが下敷きになっているという。 勘兵衛の最初の見せ場、赤子を立てこもり犯から救出するシーンはほとんどこの剣豪の話のままだという。宮口精蔵の果し合いのシーンは塚原卜伝のエピソードらしい。 凄まじいまでの作り込み、周到な準備、過酷な撮影環境、徹底したリアリズムの追求、納得がいくまで撮影を続ける粘り強さ。付き合ったスタッフや役者の人たちは相当大変だったろうけど、やはりそれを率いた黒澤明の胆力は凄すぎる。 勘兵衛や菊千代が好きすぎて、撮影が終わる時にもう彼らと会えなくなることが何よりも寂しかったという。演じた役者には会えても、そのキャラクターは映画の中だけに生きている。 いま猛烈にもう一度観たい。DVDあるからまた観よう。
  • 2026年6月26日
    多読術
    多読術
    読書の神様みたいな人の書いた読書術。 セイゴオさんの頭の中はどんなネットワークができていたんだろうか。覗いたらたぶん網目が細かすぎて、ボウっと光って、眩しいくらいだったんだろうな。 「本に攫われたい」という気持ちで本を読んできたそう。 読書にはリスク、リスペクト、レコメンドの3Rの要素があるという。 セイゴオさんが本を本当にリスペクトしているのが伝わってくる。 良い本と巡り会うのはせいぜい三割五分くらいがいいところ。とにかくたくさん、より好みせずに読む。 活字中毒になる。本と一口に言ってもいろんな本があるので食事のようにいろいろ読み比べて味の違いを楽しむ。読書を食事のように。 「読む」という行為は複合的な行為で頭の中では書いたり、編集したりととても創造的な行為。読者もその本の完成にとっては必要不可欠。その本がどのように読まれてきたか、の歴史の流れの中に自分も加わるということ。 一番最上の読書は、著者の個人全集を読むこと。 本というのは、文字を通じて「意味」の交換をしている。あらゆるものが読書になりうる。 本と本を関連づける。本は最低3冊のつながりの中で読むようにする。 速読に囚われてはいけない。関連する本をずっと読んでいたら自然と速くなる。「読む」にもいろんなスタイルがあって、いろいろギアチェンジしながら読む。読書は平均的な読み方をするわけではない。場所を変える。タイプの違う本を読む。集中度を変える。昔の人の本の読み方も参考に(池田草庵の「掩巻」、本を少し読んだら立ち止まって自分の脳内ですぐにトレースし直す。「慎読」は読んだことを独り占めしない、人と共有する) 個性は「好み」に現れる。何になりたいかは、「好み」に現れる。「好み」を多様化させる。平均化させない。 読書に効用を求めすぎない。読書は「伏せられたものが開いていく」過程の作業。本は「わかったつもり」で読まない。「無知から未知」へ変わるだけ。なんだって役に立つんだから焦って「役に立つ」本を求めすぎない。むしろ本は「毒にもなる」。劇薬の可能性もある。読書はリスクを伴う。だから面白い。毒にも薬にもならないような読み方をしない。そこには本に対するリスペクトが大事。免疫学のように、非自己的なものを時々取り入れる。そうしなければ自己の輪郭もわからない。 尊敬している人に本をお勧めしてもらうことも大事。 世界中の本は「書物の海」「テキストの森」を脈々と形成していて、繋がっている。クリステヴァの「インターテクスチュアリティ」。本の中から別の本にタコ足配線のように線を出す。そのタコ足がぎゅっと集まっているような「キーブック」を見つけると一気に本の世界が広がる。 などなど。とても面白かった。 本が大好きな人の話はなんでも面白い。
  • 2026年6月22日
    ハッピーになれる算数 (よりみちパン!セ 9)
    あとに出た『生き抜くための数学入門』が素晴らしかったので、こちらの前作も読んだ。どちらかというと、こっちの本の方が実践的な内容というか、実際に算数の問題を解きながら考える内容で、『生き抜くための〜』はより一般化した考え方の話がメインだったと思う。話も算数から数学になってより本格的だったし、話の広がり方でいえばやはり『生き抜くための〜』の方が感動的で面白かったけど、こちらの本も実例を元にどうやって「とは」「なぜ」を考えるのかをおさらいできて、基礎練という感じがしてとてもおもしろかった。 受験勉強ぶりに紙とペン用意して算数の問題解いたけど、強制されてやるのではない算数の勉強は本当におもしろい! 多くの人が最初に算数や数学につまづくポイントであろう「わり算」「分数」「比」「割合」の考え方を中心に話がすすむ。文章題を算数の言葉に「ホンヤク」するとか、何を求めればいいのかをまず最初に確認するとか、算数以外の場面でもとても大事な考え方。 2003年の有名な東大の入試問題、「円周率が3.05よりも大きいことを証明せよ」は、ほとんど中学生までの数学の知識があれば解ける問題であることも納得。 「そもそも○○ってなんだっけ?」「なんでこうなるの?」と考えるクセをつけることは、算数以外の場面で、この人生をハッピーに生きるために必須の習慣。 算数が苦手だった大人に一押しの本。『生き抜くための〜』とセットでおすすめしたい。めちゃくちゃ面白かった!
  • 2026年6月19日
    隠された奴隷制 (集英社新書)
    「奴隷制がなければ、資本主義はなかった。近代資本主義世界システムが成立するためには、奴隷制プランテーションは不可だった。そして今もなお、「自由な労働者」というヴェールに覆われた「隠された奴隷制」がなければ、資本主義は成り立たない。それが、私たちがこれまで生きてきた世界、世界史的現在なのである。」p.212 資本主義の成立過程を追っていくとそこには、奴隷制が切っても切り離せない存在として見えてくる。 それは現在においても変わらない。資本主義は奴隷制なしでは成立しないからだ。しかしあまり表立っては見えてこない「隠された奴隷制」である。 ロックやモンテスキュー、ルソーやヴォルテールの啓蒙思想の頃からアダム・スミスを経て、ヘーゲル、マルクス、そして現代のジェームズCスコットやデイヴィッド・グレーバーにまで至る思想の系譜も概観することができる。 そうかそういう文脈だったのか!と大きな見取り図ができたような。 スコットの『ゾミア』も読まねば。 隠された奴隷制から逃れるには、「底流政治という言葉で私が念頭に置いているのは、だらだら仕事、密猟、こそ泥、空とぼけ、サボり、逃避、常習久勤、不法占拠、遊能といった行為である。」とスコットが述べることが参考になる。表立った反抗よりも、目立たないところで、アンダーグラウンドでしれっとサボる。逃避する。くだらない場所からサッと離れる。 グレーバーも読みたい。 「わたしたちがわたしたち自身を所有しているということは、奇妙なことに、わたしたち自身に主人と奴隷の役割を同時に割り当てることなのだ。「われわれ」は(財産に対して絶対的権能を行使する)所有者であると同時に(絶対的権能の対象である)所有される事物でもある。古代ローマの世帯は、歴史のもやのうちに忘却されたどころか、わたしたち自身についての最も基本的な概念のうちに保存されている」 『負債論』からこの部分が引用されていた。 グレーバーの面白いのは資本主義の中には隠された奴隷制以外にも、隠されたコミュニズムも存在していて、それによっても資本主義が支えられていると指摘したこと。「基盤的コミュニズム」と呼ばれる。 「資本主義というシステムそのものを全面的に変革することは、もちろんかんたんなことではない。しかし、資本主義そのものが今では危機的状況にある。資本主義の終焉が始まっている。 そうした状況の中で、資本主義的賃金労働に従事することは、ますます苛酷なものになるだろう。部分的には、奴隷制はますます強化されていくだろう。それに抗って、今までとは違う働き方を模索すること、地域の中で身近な人びとと協同する暮らし方を構築すること、分子状の小さな拠点からネットワークを構築すること。それもまた、一つの階級闘争である。 その先に、何を目指したらいいのか。私たちが奴隷ではなくなること、それは、私たちが自分の時間の主人公になること、「自由な時間」を手に入れることができるようになることだ。」p.250 本書の結論として述べられるのは、労働時間を短縮することから始めようということ。必要な時間を超えて長い時間働くことをやめる。やめさせる。それが奴隷制から逃れるための第一歩であると。
  • 2026年6月16日
    新版 いくさ世を生きて
    読書会に向けて読了。 戦後33年(昭和53、1978)に、著者の真尾さんが沖縄に行き、人づてに沖縄戦の記憶を留めている女性たちと会い、その一人一人の重い口から戦争の記憶を聴き取った記録。 戦後33年ということは、沖縄戦で亡くなった大勢の人たち(沖縄県民の4人に1人が亡くなったと言われている)の33回忌に当たる年。沖縄ではこの年どこの墓場でも最後の焼香が行われていた。(沖縄の言葉で終わり焼香=「うわいすうこう」が第1章のタイトル) 一人一人の女性たちの語る記憶は本当に生々しくて、戦後30年以上が経ってもなお昨日のことのように覚えているのが伝わる。映像だけでなく、臭いや音、振動、温度、感情など全て。 「沖縄戦に遭った人たちは、当時を思い出す、などという生易しいものではなくて、現在もまだ硝煙の臭いから抜け出せないでいる。戦後どころか、まだ戦争が終わっていない感じがしたのである。」 (p.48) この本の中で真尾さんが話を聴いた女性はほんの数人だけど、その数人の話だけでも沖縄戦が現実にどのようなものだったのか、県民の4分の1が犠牲になったという数字を知っているだけでは想像できない部分、戦場のリアルを窺い知ることができる。読んでいるこちらにまで血の匂いがしてきそうな気配がする。 艦砲射撃によって地面に大きな穴が空いて、水が溜まれば大きな池のようだったとか、そこは泳いで渡れないから迂回するしかなかったとか、照明弾が上がった時に足元が見えるので移動して、そのすぐ後に来る砲撃に当たらないのはもう運でしかなかったとか。 文字だけでは絶対にわかりきらない、その場にいたものでしかわからないものの方が多いのだと思うけど、それでも、もう十分に地獄だ。読んでいるだけでも。 女性たちの語りは真尾さんの筆によって本当に目の前で話を聞いているかのような臨場感。沖縄の方言混じりで。 女性たちの語る戦争の時の記憶と、それを聞く真尾さんの33年後の現代沖縄の情景とが交互に行き来する構成で、バランスがいい。 ものすごく重たい話が続くのだけど、この構成のおかげで最後まで読むことができた。しかし、戦争中の人たちはいつ終わるともわからない地獄の中を生きていたのだ、とも想像する。 本土の方では、戦後30年が経過したあたりから、「もう戦後ではない」ということが言われ、異常ともいえる歪な高度経済成長が急速に成し遂げられた。しかし、特に沖縄では、戦争が終わらなかった。沖縄の中でもさらに女性たちにとっては過酷な時代が続いた。あとがきにほんの一瞬だけ登場する「トシちゃん」などその一例だ。悲し過ぎてやりきれない。トシちゃん一人だけでなく、他にもこうした女性たちが数えきれないほどいるのだろう。現在に至るまで、米兵による暴力事件はずっと続いている。 本土の人こそ、平和な時代しか知らない人こそ、この本を読むべきだと思う。戦争が何をもたらすのか。有事になった時に人はどのようになってしまうのか。 二度とこんなことが誰の身にも起きてはならない。 しかし、現在進行形で、パレスチナで、レバノンで、ウクライナで、他にも知らないだけで多くの国々で同じようなことが起きていることを知っている。日本の中でも戦争まではいかなくても、地獄のような環境で生きている人、悲惨な事件は起きる。 どうすれば止めることができるのだろうか。 文庫版解説の中で、元アメリカ兵と沖縄の女性が対話によって心を通わすことができた事例をひいて、戦争を防ぐためにはなによりもまず対話であることが改めて示される。本当にそれしかないと思う。
読み込み中...