

句読点
@books_qutoten
島根県出雲市の本屋句読点です。
- 2026年7月9日
読み終わったずっとベルクソンのことが気になり続けている。創造的進化(エラン・ヴィタール)とか「純粋持続」とか、大学受験の倫理で単語となんとなくの、ほんとうに付け焼き刃的な断片的な知識はあったものの、本当にその面白さを理解したとは言えなかったベルクソン。小林秀雄が熱心にベルクソンのことを書いていたり、ドゥルーズもかなり影響を受けていたり、ニーチェや実存主義との関わりなどなど、いろいろベルクソンを中心に考えると繋がっていきそうな気配がする、と思って、いよいよベルクソンを読んでみようかと思い、まず手に取った一冊。今書いてて気づいたけど岡本太郎の彫刻作品に「エラン」という作品があったのを思い出した。岡本太郎もパリできっとベルクソンの本読んだりしただろうな。太郎の「芸術は爆発だ」「瞬間瞬間に生きる」と「純粋持続」は同じことを言っているのだと思う。 金森修さんの書き方はとても親しみやすくまずSF映画の話から。「マイノリティ・レポート」や「トータル・リコール」観てみたい。 ベルクソンは自然科学によってあらゆることが分析可能で数値化できる、というような考え方が広まっていく同時代の風潮に対峙して自分の考えを固めていった。自然科学的な知識も相当に研究していたそう。だけどベルクソンが到達したのは、人間の意識は究極的には分析しきれないということ。 普段なにも意識しないときは、人はふつう空間的な時間の捉え方をしているという。しかし本当に時間は空間的(数量的、計量的)に捉えられるのかというと、そうではない時間の流れ方、時間という言い方すらも間違っているかもしれない、時間なんてものから超越した、「純粋持続」というしかない流れがあるという。明確に前と後に切り分けることもできず、輪郭もなく、互いに外在的でもない、ぐちゃぐちゃに混ざり合った、質的な多様性。 外で流れている一般的な時間、計量可能で、分節可能で、後先もはっきりしている時間の流れ方とは全く別の、普段は全く見ることも感じることもない、時間の本当の姿、そうしたものがどんな人の中にも流れている、と。そうした本当の時間の流れの中にいるとき、外の時間の感覚とは全く違う体験ができると。 なんとなくわかるようで、わからない、わかりそうと思った途端にすぐ逃げていってしまうような。でもそういう「本当の時間の流れの中にいる」という体験は何回かしてきている気もする。まさに「時間を忘れる」感じ。それは外の時間、空間的な時間を忘れて、純粋持続の中にいる、ということなんだと思う。面白い本を読んでいる時とか、話が盛り上がって「もうこんな時間か」と時計を見てびっくりするときみたいに。 まだわかったようでわからない感じで、この本の面白さもなかなか言葉にはできないけど、繰り返し読んで、またベルクソン本人の書いた原書にも挑戦してみて、少しずつ深めていきたい。 - 2026年7月5日
古くてあたらしい仕事島田潤一郎読み終わった昨日のイベント出店の店番中に読了。 前にも読んだことがあったけど、久しぶりに読み直した。 やはり島田さんの文章がとても好きだ。優しさが滲み出ている。 今自分の年齢が、島田さんが夏葉社を立ち上げた時と同じ、33歳。(正確には8月で)だからかもしれないが、今この本読み直して、余計に心に沁みた。 この本を読み終えると、夏葉社から出ている本をたっぷり時間をかけてゆっくり読んでみたくなる。 島田さんの仕事観は、今どんな状況に置かれている人にも灯台のような光を投げかけてくれると思う。将来が不安で仕方ない人、現状に満足できていない人、あるいは今の仕事に満足できている人にとっても。 お金よりも前に、自分が必要とされること、自分を必要としてくれる人のために動きたいと思うこと、これがあらゆる仕事の最も根源的なところにあるのではないかという。 世の中にはお金や成績や、さまざまな価値基準によって数値化されるもの以上に、数値化不可能な価値はたくさんあって、言葉にできないもの、なんてことないような思い出とか、感情の動きとか、そういうものが「仕事」のスタート地点にはあるという。 島田さんの優しさの裏にある悲しみや孤独、不安、そうしたものもひりひりと伝わってくるけど、だから余計に優しさが沁みる。嘘がないと感じる。 若松英輔さんが『悲しみの秘儀』などの中で、「かなしみ」は「悲しみ」とも書くし、「愛しみ」とも書く、ということを書かれているけど、島田さんの文章からはまさにそれを感じる。 従兄との夏休みの思い出が本当にきれいで、こちらまで泣きそうになる。夏葉社という名前、本当に素敵だなあ。従兄弟の家族たちと海岸で服を燃やすシーンはありありと映像が浮かんできて小説のよう。 夏葉社の事業計画書の、その経験に裏打ちされた具体性、シンプルさは揺るぎなくて、お手本にしたい。 いろいろ文章が良すぎて引用したらキリがないのだけど、いくつか今気になったものを。 「これだったらまず大丈夫だろう、というような手堅い企画も、得てして売れない。 思うに、読者はすでに評価が定まっているような既知のものよりも、生活にほんのすこしの風穴を開けてくれるような、あたらしいものを望んでいるのだ。それは、自分のことを考えてみると、よくわかる。」p.166 「あたらしいものは古くなるし、古いものはあたらしくなる。けれど、まれに、いつまでも新鮮で、あたらしい姿のままのものもある。それが優れた仕事というものだろう。」p.168 →「古くてあたらしい仕事」! 「ぼくが本屋さんが好きで、本が好きなのは、それらが憂鬱であったぼくの心を支えてくれたからだ。それらが強い者の味方ではなく、弱者の側に立って、ぼくの心を励まし、こんな生き方や考え方もあるよ、と粘り強く教えてくれたからだ。 それは本だけではない。音楽や映画やアニメーション。喫茶店や中古レコード屋さんや映画館。 こうしたものは、人生を支えてくれる。それは既に力ある人たちの権力を補うものではなくて、そうでない人たちの毎日を支える。 それらは特効薬のような効果はないかもしれないが、本ならば一冊の本を読み終える時間を、映画ならば一本の映画を観るという豊かな時間を、喫茶店であれば一杯のコーヒーを飲む時間を提供するものとして、読むもの、観るものに、夢を与える。 それは、夢を叶えるという意味での夢ではなくて、日常とは異なる世界で時間を過ごすという意味での、文字通り、夢を見る時間だ。 現実の世界だけでは、ときどき、たまらなく苦しい。逃げる場所もないようにみえる。それは、スマートフォンでニュースを見ていても、SNSを見続けていても同じだ。 けれど、現実に流れる時間とは別の、もうひとつの肥沃な時間を心のなかにもつことができれば、日々はにわかにその色を取り戻す。 本を読むことは、音楽に耳を澄ませることは、テレビの前でスポーツに熱中することは、現実逃避なのではない。その世界をとおして、違う角度から、もう一度現実を見つめ直すのだ。あるいは、そうした虚構のフィルターをとおして、悲しみやつらいことを時間をかけて自分なりに理解するのだ。 必要なのは、知性ではなく、ノウハウでもなく、長い時間だ。現実に流れる時間とは異なる時間を、自分以外のどこかに求めること。そうすることで、生きることはだいぶ楽になる。素晴らしい作品は、いつまでも心のなかから消えず、それは内側から生活するものを支える。」p.183-184 →この部分は深く頷きながら読んだ。自分の本屋でも異なる時間の流れを大事にしたい。 - 2026年7月5日
読み終わった一気読み。 映画の中の映画、「七人の侍」がどのように生み出されたか、詳しく知ることができた。 スピルバーグやジョージ・ルーカスがこの映画から多大な影響を受けていることは有名。スピルバーグは映画作る前に必ず「七人の侍」を見返しているらしい。 ストーリーを追いながら「このシーンではこのような撮影だった」「黒澤明はこんな指導をした」という形でエピソードが紹介されていくので、「七人の侍」を一から振り返ることもできる。 トルストイの『戦争と平和』、ファジーエフの『壊滅』、ドボルザークの「新世界」、江戸時代の剣豪伝などが下敷きになっているという。 勘兵衛の最初の見せ場、赤子を立てこもり犯から救出するシーンはほとんどこの剣豪の話のままだという。宮口精蔵の果し合いのシーンは塚原卜伝のエピソードらしい。 凄まじいまでの作り込み、周到な準備、過酷な撮影環境、徹底したリアリズムの追求、納得がいくまで撮影を続ける粘り強さ。付き合ったスタッフや役者の人たちは相当大変だったろうけど、やはりそれを率いた黒澤明の胆力は凄すぎる。 勘兵衛や菊千代が好きすぎて、撮影が終わる時にもう彼らと会えなくなることが何よりも寂しかったという。演じた役者には会えても、そのキャラクターは映画の中だけに生きている。 いま猛烈にもう一度観たい。DVDあるからまた観よう。 - 2026年6月26日
多読術松岡正剛読み終わった読書の神様みたいな人の書いた読書術。 セイゴオさんの頭の中はどんなネットワークができていたんだろうか。覗いたらたぶん網目が細かすぎて、ボウっと光って、眩しいくらいだったんだろうな。 「本に攫われたい」という気持ちで本を読んできたそう。 読書にはリスク、リスペクト、レコメンドの3Rの要素があるという。 セイゴオさんが本を本当にリスペクトしているのが伝わってくる。 良い本と巡り会うのはせいぜい三割五分くらいがいいところ。とにかくたくさん、より好みせずに読む。 活字中毒になる。本と一口に言ってもいろんな本があるので食事のようにいろいろ読み比べて味の違いを楽しむ。読書を食事のように。 「読む」という行為は複合的な行為で頭の中では書いたり、編集したりととても創造的な行為。読者もその本の完成にとっては必要不可欠。その本がどのように読まれてきたか、の歴史の流れの中に自分も加わるということ。 一番最上の読書は、著者の個人全集を読むこと。 本というのは、文字を通じて「意味」の交換をしている。あらゆるものが読書になりうる。 本と本を関連づける。本は最低3冊のつながりの中で読むようにする。 速読に囚われてはいけない。関連する本をずっと読んでいたら自然と速くなる。「読む」にもいろんなスタイルがあって、いろいろギアチェンジしながら読む。読書は平均的な読み方をするわけではない。場所を変える。タイプの違う本を読む。集中度を変える。昔の人の本の読み方も参考に(池田草庵の「掩巻」、本を少し読んだら立ち止まって自分の脳内ですぐにトレースし直す。「慎読」は読んだことを独り占めしない、人と共有する) 個性は「好み」に現れる。何になりたいかは、「好み」に現れる。「好み」を多様化させる。平均化させない。 読書に効用を求めすぎない。読書は「伏せられたものが開いていく」過程の作業。本は「わかったつもり」で読まない。「無知から未知」へ変わるだけ。なんだって役に立つんだから焦って「役に立つ」本を求めすぎない。むしろ本は「毒にもなる」。劇薬の可能性もある。読書はリスクを伴う。だから面白い。毒にも薬にもならないような読み方をしない。そこには本に対するリスペクトが大事。免疫学のように、非自己的なものを時々取り入れる。そうしなければ自己の輪郭もわからない。 尊敬している人に本をお勧めしてもらうことも大事。 世界中の本は「書物の海」「テキストの森」を脈々と形成していて、繋がっている。クリステヴァの「インターテクスチュアリティ」。本の中から別の本にタコ足配線のように線を出す。そのタコ足がぎゅっと集まっているような「キーブック」を見つけると一気に本の世界が広がる。 などなど。とても面白かった。 本が大好きな人の話はなんでも面白い。 - 2026年6月22日
あとに出た『生き抜くための数学入門』が素晴らしかったので、こちらの前作も読んだ。どちらかというと、こっちの本の方が実践的な内容というか、実際に算数の問題を解きながら考える内容で、『生き抜くための〜』はより一般化した考え方の話がメインだったと思う。話も算数から数学になってより本格的だったし、話の広がり方でいえばやはり『生き抜くための〜』の方が感動的で面白かったけど、こちらの本も実例を元にどうやって「とは」「なぜ」を考えるのかをおさらいできて、基礎練という感じがしてとてもおもしろかった。 受験勉強ぶりに紙とペン用意して算数の問題解いたけど、強制されてやるのではない算数の勉強は本当におもしろい! 多くの人が最初に算数や数学につまづくポイントであろう「わり算」「分数」「比」「割合」の考え方を中心に話がすすむ。文章題を算数の言葉に「ホンヤク」するとか、何を求めればいいのかをまず最初に確認するとか、算数以外の場面でもとても大事な考え方。 2003年の有名な東大の入試問題、「円周率が3.05よりも大きいことを証明せよ」は、ほとんど中学生までの数学の知識があれば解ける問題であることも納得。 「そもそも○○ってなんだっけ?」「なんでこうなるの?」と考えるクセをつけることは、算数以外の場面で、この人生をハッピーに生きるために必須の習慣。 算数が苦手だった大人に一押しの本。『生き抜くための〜』とセットでおすすめしたい。めちゃくちゃ面白かった! - 2026年6月19日
隠された奴隷制 (集英社新書)植村邦彦読み終わった「奴隷制がなければ、資本主義はなかった。近代資本主義世界システムが成立するためには、奴隷制プランテーションは不可だった。そして今もなお、「自由な労働者」というヴェールに覆われた「隠された奴隷制」がなければ、資本主義は成り立たない。それが、私たちがこれまで生きてきた世界、世界史的現在なのである。」p.212 資本主義の成立過程を追っていくとそこには、奴隷制が切っても切り離せない存在として見えてくる。 それは現在においても変わらない。資本主義は奴隷制なしでは成立しないからだ。しかしあまり表立っては見えてこない「隠された奴隷制」である。 ロックやモンテスキュー、ルソーやヴォルテールの啓蒙思想の頃からアダム・スミスを経て、ヘーゲル、マルクス、そして現代のジェームズCスコットやデイヴィッド・グレーバーにまで至る思想の系譜も概観することができる。 そうかそういう文脈だったのか!と大きな見取り図ができたような。 スコットの『ゾミア』も読まねば。 隠された奴隷制から逃れるには、「底流政治という言葉で私が念頭に置いているのは、だらだら仕事、密猟、こそ泥、空とぼけ、サボり、逃避、常習久勤、不法占拠、遊能といった行為である。」とスコットが述べることが参考になる。表立った反抗よりも、目立たないところで、アンダーグラウンドでしれっとサボる。逃避する。くだらない場所からサッと離れる。 グレーバーも読みたい。 「わたしたちがわたしたち自身を所有しているということは、奇妙なことに、わたしたち自身に主人と奴隷の役割を同時に割り当てることなのだ。「われわれ」は(財産に対して絶対的権能を行使する)所有者であると同時に(絶対的権能の対象である)所有される事物でもある。古代ローマの世帯は、歴史のもやのうちに忘却されたどころか、わたしたち自身についての最も基本的な概念のうちに保存されている」 『負債論』からこの部分が引用されていた。 グレーバーの面白いのは資本主義の中には隠された奴隷制以外にも、隠されたコミュニズムも存在していて、それによっても資本主義が支えられていると指摘したこと。「基盤的コミュニズム」と呼ばれる。 「資本主義というシステムそのものを全面的に変革することは、もちろんかんたんなことではない。しかし、資本主義そのものが今では危機的状況にある。資本主義の終焉が始まっている。 そうした状況の中で、資本主義的賃金労働に従事することは、ますます苛酷なものになるだろう。部分的には、奴隷制はますます強化されていくだろう。それに抗って、今までとは違う働き方を模索すること、地域の中で身近な人びとと協同する暮らし方を構築すること、分子状の小さな拠点からネットワークを構築すること。それもまた、一つの階級闘争である。 その先に、何を目指したらいいのか。私たちが奴隷ではなくなること、それは、私たちが自分の時間の主人公になること、「自由な時間」を手に入れることができるようになることだ。」p.250 本書の結論として述べられるのは、労働時間を短縮することから始めようということ。必要な時間を超えて長い時間働くことをやめる。やめさせる。それが奴隷制から逃れるための第一歩であると。 - 2026年6月16日
新版 いくさ世を生きて真尾悦子読書会に向けて読了。 戦後33年(昭和53、1978)に、著者の真尾さんが沖縄に行き、人づてに沖縄戦の記憶を留めている女性たちと会い、その一人一人の重い口から戦争の記憶を聴き取った記録。 戦後33年ということは、沖縄戦で亡くなった大勢の人たち(沖縄県民の4人に1人が亡くなったと言われている)の33回忌に当たる年。沖縄ではこの年どこの墓場でも最後の焼香が行われていた。(沖縄の言葉で終わり焼香=「うわいすうこう」が第1章のタイトル) 一人一人の女性たちの語る記憶は本当に生々しくて、戦後30年以上が経ってもなお昨日のことのように覚えているのが伝わる。映像だけでなく、臭いや音、振動、温度、感情など全て。 「沖縄戦に遭った人たちは、当時を思い出す、などという生易しいものではなくて、現在もまだ硝煙の臭いから抜け出せないでいる。戦後どころか、まだ戦争が終わっていない感じがしたのである。」 (p.48) この本の中で真尾さんが話を聴いた女性はほんの数人だけど、その数人の話だけでも沖縄戦が現実にどのようなものだったのか、県民の4分の1が犠牲になったという数字を知っているだけでは想像できない部分、戦場のリアルを窺い知ることができる。読んでいるこちらにまで血の匂いがしてきそうな気配がする。 艦砲射撃によって地面に大きな穴が空いて、水が溜まれば大きな池のようだったとか、そこは泳いで渡れないから迂回するしかなかったとか、照明弾が上がった時に足元が見えるので移動して、そのすぐ後に来る砲撃に当たらないのはもう運でしかなかったとか。 文字だけでは絶対にわかりきらない、その場にいたものでしかわからないものの方が多いのだと思うけど、それでも、もう十分に地獄だ。読んでいるだけでも。 女性たちの語りは真尾さんの筆によって本当に目の前で話を聞いているかのような臨場感。沖縄の方言混じりで。 女性たちの語る戦争の時の記憶と、それを聞く真尾さんの33年後の現代沖縄の情景とが交互に行き来する構成で、バランスがいい。 ものすごく重たい話が続くのだけど、この構成のおかげで最後まで読むことができた。しかし、戦争中の人たちはいつ終わるともわからない地獄の中を生きていたのだ、とも想像する。 本土の方では、戦後30年が経過したあたりから、「もう戦後ではない」ということが言われ、異常ともいえる歪な高度経済成長が急速に成し遂げられた。しかし、特に沖縄では、戦争が終わらなかった。沖縄の中でもさらに女性たちにとっては過酷な時代が続いた。あとがきにほんの一瞬だけ登場する「トシちゃん」などその一例だ。悲し過ぎてやりきれない。トシちゃん一人だけでなく、他にもこうした女性たちが数えきれないほどいるのだろう。現在に至るまで、米兵による暴力事件はずっと続いている。 本土の人こそ、平和な時代しか知らない人こそ、この本を読むべきだと思う。戦争が何をもたらすのか。有事になった時に人はどのようになってしまうのか。 二度とこんなことが誰の身にも起きてはならない。 しかし、現在進行形で、パレスチナで、レバノンで、ウクライナで、他にも知らないだけで多くの国々で同じようなことが起きていることを知っている。日本の中でも戦争まではいかなくても、地獄のような環境で生きている人、悲惨な事件は起きる。 どうすれば止めることができるのだろうか。 文庫版解説の中で、元アメリカ兵と沖縄の女性が対話によって心を通わすことができた事例をひいて、戦争を防ぐためにはなによりもまず対話であることが改めて示される。本当にそれしかないと思う。 - 2026年6月7日
読み終わったよりみちパン!セシリーズはどれを読んでも面白いことで定評があるが、この本もその例に漏れず素晴らしく、めちゃくちゃ面白かった!中高生の頃にこの本を読んでいたらもっと数学が好きになれていたかもしれない。 数理論理学の研究者として活躍する新井さんも元々は大の数学嫌いで、苦手だったという。そんな新井さんだからこそ、なぜ数学が苦手になってしまうのかもよくわかっているし、数学が面白くなるコツもよくわかっている。 数学を学ぶことで身につくのは、「とは」と「なぜ」を考える力。「とは」を考えるとは、まず物事の定義を決めてから考えること。「なぜ」を考える力とは、物事の論理を順序立てて組み立てる力。 数学はたしかに算数レベルのもの以上のものは実生活で使う機会はほとんど無いと言っていい。だからといって数学を学ぶのは無意味かというと全く違う。それは、現実離れしている数学だからこそ、抽象的な概念を頭の中であれこれ考える力が身につき、「とは」と「なぜ」を問う力を鍛えることができる。「社会」とか「国家」とか「善」「悪」とかも現実にはどこにも存在しない概念。異なる意見や習慣を持っている多様な人たちと共同で生活するうえで、争いごとが起きないように、あるいは起きた時にも、まずは「○○とは●●と定義する」というところから擦り合わせることから話し合いをしなければどこまで行っても話が平行線のまま、ということになってしまう。 なんらかの契約を結ぶときとか、怪しげなビジネスなどに引っかからないためにも「なぜ」を問う力は必要。 この本は、まず「かけ算とは何か」という、あまりにも当たり前なような顔をしているところから問い直すところからはじまる。かけ算は改めて考えてみるとよくわからないことだらけ。マイナスをかけるってどういうこと?なぜマイナスとマイナスをかけるとプラスに?は定番な問いだけど、かけ算の筆算や割り算の筆算がなぜああいうメカニズムで成立するのかとか、改めて考えたこともなかったことを一から丁寧に探っていく。ものすごくクリアにかけ算の本質的なものがみえてくる。しかもその「かけ算らしさ」は理論が発達するにつれてどんどん基本性質を保ちつつ変わってもいくという。行列同士のかけ算とか。 それまで当たり前のように受け入れていたものが全く違うものとして捉えられるようになる。 「円周率とは?」という問いから、あの有名な東大の入試にも使われた、円周率が3以上4以下であることの証明もスッキリ導くことができる。(とても気持ちいい) そして話はだんだん高度な内容のものになっていくが、それらの考え方の基礎となっているものは小学生や中学生レベルの驚くほどシンプルで単純なものであることも順を追っていくとよく見えてくる。高校数学の微積分がなぜ画期的だったのかとか、傾きってなんだったのかとか、三角関数って一体何を表しているのかとか、全部訳のわからないままに無理やり暗記してきたものたちがとてもクリアに見えてくる。それらは本当は全部教科書に書いてあったことだと思うのだけど、この本はとてもわかりやすい語り口と例えで理解できるように書かれている。あの、博士が愛した数式も、そうやって出てきた式なのか!と目からウロコ。最終的には「自然数」という概念を人間が完全な形で把握することは原理的に不可能であるというところまで行き着く。 数学を学んでいくと人間の理性、論理的思考力には限界があるということが見えてくる。数学入門というところから、とんでもない地点にまで行き着くことができる。中学生でも高校生でも順を追っていけば理解できる形で。なんてすごいんだ。 この本読んで、もう一度数学をやり直してみたくなった。あと新井先生の他の著書も読んでみたい。 - 2026年6月5日
南方熊楠・萃点の思想〈新版〉松居竜五,鶴見和子読み終わった図書館で借りてきて読了。 南方熊楠の思想について彼の人生を追いながらわかりやすく紹介している。 南方熊楠(1867ー1941)は、鶴見和子さんが紹介するまではほとんど世に知られることがなかった人物だったそう。 南方熊楠の生涯と仕事について鶴見さんは以下の5つの特徴をあげている。 ①柳田國男とともに、日本民俗学の創始者となるが、民俗学に留まらずに人文・社会科学と自然科学との接点で仕事をしたこと。(人文・社会・自然科学を横断) ②生涯大学などの教育、研究機関には属さずに在野にあり続けたこと(学校嫌いの大学者) ③若い頃のアメリカ、カリブ海、イギリス放浪の経験と、日本に戻ってきてからは和歌山県田辺に住んで死ぬまでほとんど外には出なかったこと、そして辺境の地から、『ネイチャー』『ノーツアンドクィアリーズ』へ英文論文を投稿しつづけたこと ④イギリスで培った自然・社会科学の方法論と、大乗仏教を基盤とする東洋の思想を格闘させ、「南方曼荼羅」と呼ばれる独自の学問モデルを生み出したこと ⑤神社合祀令によって山野がどんどん潰されていく中で先頭に立って環境保護活動に動いたこと これらが南方熊楠の生涯を追って見えてくるという。 そこには、「民俗学と粘菌学、自発的、自律的な研究と強制的他律的な教育、漂泊と定住、大乗仏教と近代自然科学、学問と社会的実践、という異質なものの間の対立と、それらの間に新しい結びつきを創り出すための強烈な意志と、執念深い努力」という共通点が見出せるとし、そこに南方熊楠の創造性のカギがあるという。 創造性とは、「考えの新奇な組合せ、ないしは異常な結合」で、「その組合せまたは結合は、社会的ないしは理論的な価値をもつか、または他者に対して感情的な衝撃を与えるもの」という心理学者フィリップ・ヴァーノンの定義を紹介し、まさしく熊楠はそうした創造性を発揮している。 「南方曼荼羅」は、仏教学者の中村元さんが命名したことはこの本で初めて知った。 西欧自然科学の方法は、物事の因果関係を一対一で対応づけて考える因果律に基づくものだが、世の中のことはそうした因果律だけではわからないことがたくさんある。因果律は必然性を持つが、世の中には偶然性による動き、結びつきもたくさんあるからだ。仏教では、そうした偶然性を「縁」として、因縁として捉えられてきた。 南方曼荼羅は、こうした必然性と偶然性を同時に捉える方法のモデルだという。1903年の土宜法竜に宛てた手紙の中であの有名な曼荼羅の図が書かれている。 萃点というのは、この曼荼羅図の中で多くの必然性と偶然性の網目が重なるポイントのこと。そうしたポイント(萃点)を見つけることができればいろいろな物事の関係性を理解できるという。萃点は中心にずっとあるわけではなくてその時々で移りゆくもの。そうした萃点を捉えるのは直感的なものなのだろうか。偶然と必然が重なるところ。物事が大きく動く時というのもそうした時だと思う。 - 2026年5月31日
ピーター流らくらく学習術 (岩波ジュニア新書 293)ピーター・フランクルつづけてピーターフランクルさんの本を一気読み。 12ヶ国語を操り、大道芸もプロで、世界的な数学者でもあるピーターフランクルさんがどのように学習してきたかを紹介した本。 まずなによりも、「楽しい」と感じることが重要だという。本来人間というのは、子どもを観察していればわかるように、新しい物事に対して興味関心を強く持ち、それらをひとつひとつ習得していくことに喜びを感じる生き物。それを阻害するようなものを取り除いて、強制ではなく、自分から知りたいと思う気持ちを持つことが大事だという。それがなければ何も学ぶことはできない。 一番実用的だと思ったのは、ピーター流「ざるそば式記憶法」。ざるそばは、ざるの上にそばだけが残り、水分は下に落ちる。人間の記憶というものも、これと似ていて、そばのように、一つの物事を他の物事との関連性とともに、長いそばのようにしておくと、記憶のざるの上にちゃんと残ってくれる、というもの。例えば英単語でも、単語だけを覚えるようなやり方はすぐにざるを通り抜けてしまうが、一つの単語を発音、イメージ、例文、語源、似ている言葉、反対の意味の言葉、なども一緒に覚えることでうまく記憶することもできるし、相乗効果的に他の言葉もくっついて覚えることができる。これは語学だけでなく、さまざまなところで使えるだろう。たとえば人の顔と名前も、その人と会った時の天気、場所、相手がどんな服を着ていて、どういう経緯でその人と会ったか、名前の由来を聞いたり、どんな漢字を使うか、どんなあだ名があるか、なども一緒に覚えておくと忘れにくい。歴史の勉強も、哲学も、化学や物理も、数学も、全部関連させるように、教科の壁もこえて関連づけて覚えた方がいい。ひとつの物事からどれだけ長い関連性の線を延ばすことができるか。 日本の教育や政治の仕組みなどについても、杓子定規なやりかた、すべてにおいて自分ひとりでは判断できないような組織のあり方、柔軟性を失ったやり方は変えるべきだという提言もされている。この本が書かれたのは約30年前。どれだけ変わっただろうか。私服OKな企業も増えたとはいえ、まだまだ旧態依然とした組織も多いだろう。旧いのが全てだめだと言うわけではなく、悪いやり方なのに変えようとしないとか、疑問に思わず「これはそういうもんだから」という謎の理由で続けている習慣とか、そういうものもまだまだ多いんじゃないか。日本みたいに資源がない国では、一番に投資すべきは人、教育で、優秀な研究者をどんどん育てる方がいい、ということも言われているが、真逆のことをやり続けていると思う。スポーツ選手の育成には熱心な面があるのに、それを学問の分野でもやるべきだ、と。 - 2026年5月29日
ピーター流生き方のすすめ (岩波ジュニア新書)ピーター・フランクル読み終わった数学者であり、大道芸人でもあるピーターフランクルさん。 彼の人生経験をもとに、豊かにたのしく主体的に生きるためのヒントをさまざまな角度から提示してくれる良い本。中高生くらいをメイン読者に想定して描かれていると思うけど、こういった本はもちろんすでに十分に大人になった人にとってもすばらしい本となる。自分の人生のあり方を見つめ直すきっかけになるからだ。いつから始めたって遅くない。もちろん早ければ早いほどいいに越したことはないのだが。 まだスマホが登場する前の本だけど、この時からすでにピーターさんは人々がデジタルデバイスによって自分の時間が細切れにされ、自分の人生を主体的に生きるという姿勢から遠ざかってしまうことを危惧されていた。何かする前にまず30秒時間をとって、自分がいま本当にやるべきことはこれだろうか、と考える時間を作る、という「30秒ルール」はいまも、いまだからこそ有効な方法だろう。 ほかにもさまざまな具体的なヒントがたくさん。すべてピーターさんの実体験をもとに書かれているのでとても具体的だし、実効性がある。 ピーターさんは何事にも興味関心を持って、次から次へと興味の網の目を広げていく。関連性を見つけていくこと、それが学ぶことの楽しみだという。 日本をとても好きなピーターさんだからこそ、ピーターさんが日本に住み始めてから日本の人々がどんどん余裕がなくなって楽しくなさそうに生きる人が増えてきているのをとても嘆いているのが伝わってくる。自分の国を好きになることは、じぶんの 国の悪いところに目をつぶることではなく、むしろ好きだからこそ失敗の歴史や改善点をしっかり見つめることが大事だという。 - 2026年5月24日
働くということ 「能力主義」を超えて勅使川原真衣読み終わった自分が自営業を選んだのは、「能力主義」が嫌だったからなんだ、と納得できた。 でも自営業だろうと、能力主義の問題はずっとつきまとってくるので、組織のなかで働いていない自分にとっても得るところの多い一冊だった。 能力に応じて成果に差が生まれるというのは出自によって差をつける身分制などと比べれば平等な制度のように映るが、しかしその個人の能力というものも結局は運や偶然、出自によってかなり差がついてしまうもので、つまり個人にはどうしようもできない面も多々あるので完全に平等とはいえない。 それに能力というのもかなり曖昧な概念で、個人の能力だと思っているものも、それを可能にするさまざまな環境要因とか、ケアしてくれる人のこととか、さまざまな条件が揃った中で生じるもので、個人でどうにかするには限界がある。にもかかわらず、社会はひとりひとりが能力を上げていくことが大事だと説き、人々もそれを自明なことのように受け入れているが、それによって社会全体の余裕がなくなっているようだ。 能力主義とは人を孤独な修行へと向かわせるようなものだが、勅使川原さんは、個人の能力よりも、各人が各人の特性にあったところで、それぞれの持ち味を発揮し、組織としてスムーズに動けるようになることの方が大事で、個々人の能力を高めるよりも、すでにあるものをいかに活かし、シナジーを起こしていくかの方が大事なのでは、そっちの方がいろんな人にとっても生きやすいのでは、という提案をしている。レゴの例えがわかりやすかった。教育もそのような方向になっていけばいいと思うし、社会全体がそういう方向にいってほしい。 - 2026年5月23日
覚醒のネットワーク上田紀行著者の31歳の時のデビュー作だったということをあとがきで知った。本たくさん出されてる方だけど、これが原点だったんだ。 初版は今から37年前の1989年。だけど、全く色褪せていないどころか、今こそとても大事なことが書かれていると感じた。 国際情勢もめちゃくちゃだし、国内の政治もめちゃくちゃだし、環境問題も解決どころかどんどん悪化しているし、毎日毎日暗くなるようなニュースばかりで、自分にできることなんてたかがしれていて、もう何しても無駄かもしれない、間に合わないかもしれない、と絶望したくなるような世の中だが、この本では、「私」と「世界」がひとつづきなもので、目の前にあるものこそが世界で、自分も世界の一部なのだから、すなわち自分自身のなかに世界を癒す道筋が必ずある、むしろそこからしか始まらない、という当たり前なようでいて、実際には忘れてしまいがちなことを思い出させてくれる本だった。 holyとかhealとかの語源がwhole(全体の、完全な)から来ているということから、局所的に思えるものも実際には全体に繋がっていて、つまり局所的に何か切り出してきて解決したように思えても、全体としては全く解決していないような解決方法では意味がなく、つまり常に地球規模の意識を持ちつつ、行動は具体的に、think globally, act locally. が大事であると。local、局所的に思えても、それが全体への意識が向いてなされたのであれば必ず全体にも作用し、つながり合っているという感覚。だからまず目の前のことひとつひとつから。 自分という意識も、自己即世界であるという意識を持てれば、自分さえ良ければそれでいいという意識とか、他人との比較で自己を規定する必要もなくなり、開かれた自己意識でいることで他の人とも同じ「いのち」として、人だけでなく動植物、場合によっては無機物に対してすらもそうした同朋意識が持てるようになれば、その瞬間から見える世界や行動ひとつひとつが変わっていくだろう。 「私」という殻に閉じこもりそうになったらまた読み直して再び開きたい。 あとがきや解説でも言われているように、ニーチェの『ツァラトゥストラ』のような本。スリランカの悪魔祓いのフィールドワークをしているときに天啓のように「書きたい」という気持ちが起こり、わずか3週間でこの本の元になる原稿を手書きで書き上げたという。その経緯もニーチェとそっくり。もちろん、バタイユにも、岡本太郎にも通じる本だと思う。 - 2026年5月14日
ヴィジュアル版 沖縄文化論岡本太郎読み終わった今月の読書会の課題本。前に読んだのは随分前でなんとなく断片的に記憶しているだけだったので、ほぼ初めて読んだような感覚。こんなに面白い本だったか。 岡本太郎のあのギョロっとした鋭い目で沖縄のさまざまなものを観察するとこんな風に写り、また考えるのか、ということが生き生きと伝わってくる。太郎の目の内側から沖縄を見ているような。ごく短い滞在期間にその目は驚くほど深いところまで沖縄の底に流れているものを見つけ出す。外間守善さんの解説にも書かれているように、まさに「天才的な直感と直観の確かさ」によるものなんだろう。 20代のほぼ10年間を1930年代のパリで生活し、第一線で活躍する芸術家や哲学者たちと深く交流し、マルセル=モースから人類学を直接学び、オセアニアを専門に研究していたというバックボーンがそうした直感を裏付ける。日本列島の中には大陸由来のものだけでなく、南方由来の文化、海人の文化が色濃く残っていることを沖縄滞在を通じて確認していったようだ。折口信夫や柳田國男とも通ずる視点。この本の冒頭には柳田國男の「山の人生」が引用されている。太郎は沖縄滞在において発見した「痛切な生命のやさしさ」という印象をこの物語にオーバーラップさせて、この本を始めている。 琉球諸島は長い歴史のほとんどを抑圧の歴史として歩んできた。特に離島の生活の貧しさ、苦しさはとてつもない。想像もつかない。その貧しさの中で生活の「余剰としての」文化や芸術など生まれる余裕などなかった。しかし「生きるために」人々は苦しみや悲しみ、怒りや希望を歌や踊りに託して伝えてきた。生きるための芸術。毎年のように襲ってくる台風に備えて、「美しくつくろう」などと思って作ったわけではない、珊瑚礁のゴツゴツした石を無造作に積み上げただけの石垣にもそうした「生きるための芸術」の美しさを太郎は発見する。他にも沖縄のどこにでも自生している植物を使って編んだクバ笠やアダン葉の柄杓、籠、ポーチなどにも。漁に使うクリ舟にも太郎の目は吸い寄せられている。いわゆる琉球文化として紹介される琉球王朝の王宮とか紅型とかそういったものにはほとんど関心を寄せずに。それらは洗練された工芸品としての魅力はたしかにあっても、民衆が生きるうえではあまり関係がない余剰の芸術として太郎には捉えられたのだろう。 「ここにはまるで別な天体であるかのような透明な空間の広がりと、キラキラした時間の流れがある。(中略)私の予想しなかった、人間の生き方の肌理。──現代生活のカレンダーによって画一化され、コマ切れにされた時間とその連続。自然に対する畏怖と歓喜をうしなって無感動に測られる空間。そのような生の条件とはまさに異質だ。 そして、それがかえってわれわれ日本人の根源的な生き方にふれてくる。現代日本は己れの実体を見失っている。こういう根源的な時間と空間をどのように現代と対決せしめるか、ということが実は日本文化の最も本質的であり、緊急な課題なのではないだろうか。」p.22「沖縄の肌ざわり」より 民衆の「貧しいながら驚くほどふてぶてしいほどの生命力」を太郎はそうした生活の中に生きる芸術、文化の中に見出した。そしてそれらの奥底にある「何もないということの凄み」を久高島の聖地御嶽で「発見」し、強烈に揺さぶられる。何もないことの清らかさと豊かさに。人間が原初に持っていた神々との直接的な交わりの記憶がそのまま継承されている姿に。 そしてそれは近代化が進み、画一化された時間の中で生きる「本土の一億総小役人」のような顔をした人たちが忘れてしまったものではないかと。 1972年に、沖縄は本土復帰を果たす。しかし岡本太郎は「本土復帰にあたって」という文章の中でそれを本当に喜ぶべきことなのか、と留保する。沖縄が沖縄独自のものとして持っていた豊かな時間感覚、文化を投げ捨て、「本土並み」になどなってはいけないと忠告する。むしろ沖縄復帰の問題は、本土に生きる人間にとってこそ大きな問題とならなければならないともいう。 「本土の一億総小役人みたいな小ぢんまりした顔つきにうんざりした人は、沖縄のような透明で自然なふくらみ、その厚みのある気配にふれて、自分たちが遠い昔に置き忘れてきた、日本人としての本来の生活感を再発見すべきなのである。」 「沖縄の人に強烈に言いたい。沖縄が本土に復帰するなんて、考えるな。本土が沖縄に復帰するのだ、と思うべきである。そのような人間的プライド、文化的自負をもってほしい。」(ともに「本土復帰にあたって」より) 岡本太郎の流れるような文体、次々と視点が移り変わって、話題も移り変わって、ポロッと飛び出る江戸っ子らしい呟きや軽口に笑いながら、また太郎が感じていたであろう沖縄の透明な風が身体の中を吹き抜けていくような感覚を味わいながら楽しく読める一冊。優れた沖縄文化論であり、日本文化論でもある。 - 2026年5月5日
モモミヒャエル・エンデ,大島かおり読み終わった店でやってる読書会に向けて読了。読むのはたぶん3回目。 何度読んでもその度に発見があるし、読んでよかったと感じる本。読んでいる時間が「豊かさ」そのものであると感じられるような本。 最初に読んだときは第一部が長く感じられてなかなか読み進まないことに焦れったさを感じていたが、それこそ自分の中に「灰色の男」が潜んでいたのだと思う。 2度目以降に読むと、この第一部こそが物語の中でもとても大事なもので、物語の最後に行き着くハッピーエンドの続きとしても読める。この物語は円環構造のようになっていて、だから何回読んでも、むしろ何回か繰り返して読むことを前提に作られていると思う。のちに出てくる時間の国へ通じる道で、ゆっくり進むほど速く進む道が出てくるが、この物語もそのようにしてゆっくり読むほど、あっという間に読み進めることができるということをエンデは意図したのではないかと思う。 モモの「ほんとうに聴く」ことができる能力は、なかなか身につけられるものではないが、モモの姿を通してそれがどのようなものかを想像することはできる。 ベッポの言葉がやはり何度読んでもいい。日頃ときどきこの言葉を思い出す。 第二部から灰色の男たちが暗躍しはじめ、それまでのモモの周りの豊かな時間がどんどん奪われ始めてからはページを繰る手が止まらない。床屋のフージーさんのところで灰色の男が使う詐術のカラクリに、渦中にいたら気づけるかどうか。時間に利子などつくわけがないと、常識的に判断することができるか。灰色の男が「無駄だ」と指摘する行動全てが逆に豊かさそのものであると逆説的に気づかせてくれる重要な場面でもある。 ベッポやジジも次々と灰色の男たちに侵食されていく様子は痛々しい。左官屋のニコラやファストフード店となったニノの店の非人間的な働き方も。 やはり12章の時間の国の場面がこの物語の白眉だろう。黄金色のパンとチョコレートのおいしそうなことと言ったら!カシオペイアが全編通してかわいい。隠れたもう一人の主人公でもあると思う。マイスターホラが語る時間についての秘密。「あなたは死なの?」というモモの問いかけにたいする返答が意味深い。灰色の男たちはほかならぬ人間自身が生み出したものであることも語られる。 ホラが「星の時間」の存在を語るが、実際に自分の人生を振り返ってみてもたしかにそのような特別な瞬間というのはごく稀に訪れている気がする。 「あの人たち、いったいどうしてあんなに灰色の顔をしているの?」 「死んだもので、いのちをつないでいるからだよ。おまえも知っているだろう、彼らは人間の時間をぬすんで生きている。しかしこの時間は、ほんとうの持ち主から切りはなされると、文字どおり死んでしまうのだ。人間というものは、ひとりひとりがそれぞれのじぶんの時間を持っている。そしてこの時間は、ほんとうにじぶんのものであるあいだだけ、生きた時間でいられるのだよ。」 (第12章より) モモが時間とは一種の音楽のようなものだと気づく場面。最初の第一部で、宇宙の耳たぶのような円形競技場跡でモモが毎晩星たちの音楽を聴いていた場面と繋がる。 「あの音楽はとってもとおくから聞こえてきたけど、でもあたしの心の中のふかいところでひびき合ったもの。」(同) 「時計というのはね、人間ひとりひとりの胸の中にあるものを、きわめて不完全ながらもまねて象ったものなのだ。光を見るためには目があり、音を聞くためには耳があるのとおなじに、人間には時間を感じとるために心というものがある。そして、もしその心が時間を感じとらないようなときには、その時間はないもおなじだ。」(同、ホラの言葉) 「話すためには、まずおまえの中でことばが熟さなくてはいけない。」(同) そのほかにもいろいろこの章はハッとするような言葉がたくさん出てくる。 その後第3部はハラハラドキドキの展開で一気に読み進める事ができる。灰色の男たちが自滅していく場面は人間の欲深さとか執着心とか利己心とかそういうものが凝縮された感じで、見ていて痛々しい。最後に納得したように「これでいいんだ」と呟きながら消えていったさいごの灰色の男の言葉はなぜ。 短いあとがきの中で、エンデはこの物語をある夜行列車の中で向かいに座った不思議な男から聞いた、という設定でこの物語を終える。その男は「この物語は過去に起こったことのように話しましたが、これから起こることとして語ってもよかったのですよ」ということを語る。まさしく、いま世界中に灰色の男たちが暗躍しているように思えてならない。自分の生活を振り返ってみても、「盗まれた」としかいえないような時間の経ち方をしていることが多々ある。特にスマホを触っているときはすさまじい。灰色の男が子どもたちに与えていた「完全無欠なビビガール」なんてまだかわいいと思えるくらいに、この小さな「完全無欠な板」はおそろしい。かといって投げ捨てることもできない。あのモモでさえ、ビビガールから意識を逸らすのには苦労していたのだ。 そう感じている人が多いのだろう、近年もまた『モモ』がとてもよく売れているという。今年は日本語版が出て50周年だという。はやくこの物語が「過去に起こったこと」で終わる日がくればいいと思う。いや、たぶん終わることはないのだろうな。また何度でも繰り返すのだろう。その度にこの物語は力強く、カシオペイアのように導いてくれるにちがいない。 - 2026年2月24日
読み終わった2024年の兵庫県知事選での事例を軸に、今選挙ではSNSでの動きが選挙結果を大きく左右することを示し、そこに潜む危険性や、どうすればそうした流れから自立して自分の頭で考えることができるのかを吉本隆明の思想をもとに考える一冊。 「SNSの情報に流されるリテラシーの低い大衆が選挙結果を歪めて、ポピュリズム政治家が台頭し、その結果大衆自身の生活を圧迫し、敵を外部に求めるようになり、やがては国家を戦争に向かわせて、破滅に招くだろう」とつい思ってしまうが、これも一つのストーリーであって、冷静さが必要だ、と釘を刺されるような内容だった。 もちろん、今の政治の流れはよくないと思っている。しかしその批判の方法を間違えると、全く意味がないどころか、さらなる事態の悪化を招きかねない、という冷静さが必要だ。 有効な抵抗の方法を探るためにも、まずは自分がストーリーの奔流から抜け出て、冷静さを取り戻さなくてはならない。そのためには、まず「敵」を知ることだ。どういうメカニズムが働いていて、どういうところに危険があるのか、なぜ人々はそうした危険な流れの中に飛び込んでしまうのか、なぜ抜け出しにくいのか、を見つめることが重要だ。 そこから、脱出の糸口も見えてくる。 SNS選挙に不安や恐れを抱く人、危機感を持つ人ほど、この本を読んで一旦冷静さを取り戻すことが必要だと思う。吉本隆明の方法は、ソクラテスの方法にもつながる。哲学の原点に立ち返り、常に疑う。何を知らないのか、を知っていなくては。(テミスの不確かな法廷) - 2026年2月17日
苦手から始める作文教室津村記久子図書館で一気読み。 小説家の津村さんが一から一緒に作文の書き方を教えてくれる。日々エッセイという作文の仕事もこなす津村さんだからこその実践的な内容でいろいろメモしたいことばかり。 小説家だから作文が得意というわけではなく、いつもすらすら書けたらいいのにと思いながら仕事をしているという。 津村さんはとにかくよくメモを取るそうである。 テレビで見かけたらレシピから、その日やることリストやら、天気のことやら、気になったニュース、部屋に小蝿が飛んでいること、などなんでも。その場でメモをしなければすぐに忘れてしまうようなことをメモしているという。そしてこのメモがなければ、津村さんは小説の仕事も、エッセイの仕事も全くできなくなるだろうという。 以下印象に残っている文章を引用。 書くことで、自分を支える。 自分もなるべくメモを取るようにしていきたい。 "自分の考えたことを書き留める行動は、自分という人間を内側から支えることにつながります。それは、自立という状態にもつながってます。その状態は、いつもいつも誰かにそばにいてもらって話を聞いてもらったり、話を整理してもらったり、話をほめてもらったり、話をほめてもらえないからといって怒ったり悲しんだりすることをせずにいられる状態でもあります。" p.47 「第4章 メモを取ろう」より。 "見栄を張れることも文章のよいところではありますが、文章を書くことは、さえない「本当のこと」「普通のこと」をみがいて光らせることも可能にします。さえない「本当のこと」「普通のこと」が光って見えるということは、「本当のこと」「普通のこと」であっても「それでいいんだ」と思えることでもあります。わたしは文章を書くことを通して、「普通のこと」も本当であればそれほど悪くないんだと思えるようになりました。" p.73「第6章 伝わる文章ってどんなもの?」より。 - 2026年2月17日
チャンスユリ・シュルヴィッツ,原田勝読み終わった名作絵本『よあけ』などの作者である、ユリ・シュルヴィッツ(本来の発音ではウリ・シュルヴィッツの方が近いため、作中では「ウリ」と表記)が、幼少期を振り返って綴った一冊。 ウリはポーランドで生まれ、一家はユダヤ人だったため、ナチスの迫害から逃れるためポーランドからソ連に逃れた。その難民生活の中で味わった様々な苦痛。慢性的な食糧不足。難民に対する迫害、病気など、読んでいると本当に苦しくなる。 しかし、その苦しい生活の中でもウリを救ったのは絵を描くことだったという。絵を描くことで自分を支えたウリはその後フランスを経て、アメリカに移り住み、絵本作家として活躍していくことになる。 この物語の始まりはウリ4歳の頃。1939年にナチスがポーランドに侵攻を開始し、第二次世界大戦が始まった時。それから終戦まで6年間、ウリが10歳になる頃までのことを中心に描かれる。ちいさな子どもの目線に立つことで見えることがある。あとがきで明らかになることだが、父が残していた手記も参照しながら、この物語を作ったという。 図書館の児童書コーナーで見つけたけど、大人にこそ読んでほしい一冊。児童書なのでとても読みやすいし、一つ一つのエピソードが細かく分けて日記のように綴られていくのでどんどん読める。絵本作家らしく、イラストも豊富。冒頭のエピソード、住んでいたアパートが爆撃され、階段の途中に大穴が空き、梯子をそろそろと伝いながら降りるエピソード、そして中庭で配給を待つ人たちのもとに降りかかった悲劇から、一気に引き込まれる。 ユリ・シュルヴィッツの絵本もこの本を読んでから読むと違う印象を受けるかもしれない。 - 2026年1月31日
中村哲濱野京子読み終わった図書館で借りてきて一気に読了。 NHKオンデマンドで新プロジェクトXの中村哲の回を観て、前々から中村さんの本は読みたいと思っていたが、いよいよ読もうと思い、まずざっくりと知りたかったので、児童書コーナーに行って、伝記を借りてきた。2019年に亡くなったばかりの方がもう伝記になるのは早すぎる気もするが、(著者の方もそう書いていた)彼の業績や人柄など考えれば当然だ。しかしだからこそ余計にもっと長生きして活躍して欲しかった。 ちょっと内容から逸れるが、小学生向けの伝記の本って素晴らしいなと思う。その人のことをざっくりと知りたいという時に、こんなに便利な本はない。よくまとまってるし、本当に予備知識ゼロで読める。文字も大きいし、写真資料なども豊富で読みやすい。とにかく読みやすい。だけど内容はしっかり校閲が入っていて正確。児童書の伝記コーナーの本を片っ端から読むというのもやってみたい。大人こそそれをやるべきだと思う。児童書を舐めてはいけないと思う。 中身に戻ると、中村哲さんの原点には、昆虫好きな少年の心がある。昆虫を通った人は環境問題にも敏感になるし、自然が好きになるし、多様性の重要さも肌身で感じるのだろう。それが原点にあるから、人間中心的な見方から距離をとって考えることができる。また人間も地球で生きるさまざまな生物群の中の一つの種族という認識があるからか、国籍や宗教などの壁を乗り越えて、「人間」という視点であらゆる人と接することができるのではないか。 母方の伯父が火野葦平だったというのはこの本で初めて知った。中村哲の文才はここからきているのかも。幼い頃から火野葦平に可愛がられて、本もよく読んでいたらしい。本を読みすぎて小さい頃のあだ名は「ご隠居さん」だったらしい。 ペシャワールにいくことになったのは37歳の時。用水路建設を始めたのは56歳頃。それまでは無医者地域に診療所を開く活動をしていた。 ソ連やアメリカなどの大国に翻弄され続け、中村さんの活動もその動きに翻弄され続ける。スタッフがテロ組織に連行され殺害されたり、盗みがあったり、さまざまなことに翻弄されながらも「命を何よりも大切に」という指針はブレず、活動を続ける。その活動を支援する輪もどんどん広がる。 この本で中村哲さんの人生の概要は大掴みに知ることができたので、中村哲さん自身の本も読んでいきたい。 - 2026年1月24日
水中の哲学者たち永井玲衣読み終わった少しずつゆっくり読んでいた本をようやく読了。 噂に違わず本当にいい本でした。 普通だったら見逃してしまうような日常の些細な出来事、ポロっと出た誰かの一言、忘れかけていた記憶、気を抜けばするすると自分の手から逃れてしまうようなものに、迷いながら、戸惑いながら言葉で輪郭を与えていくような文章。 上から目線ではなく、一緒の地平にたちながら、まさに哲学対話そのものを体験できるような本。 気が抜けているような文章かと思いきや、切れ味はかなり鋭くて、言葉も的確で、自分ではうまくモヤモヤして言葉にならないようなことも、比喩を巧みに用いながら、モヤモヤしたものに言葉で輪郭を与えてくれる。しかしその輪郭はカッチリしたものではなくて常に揺れ動いていて、ちょっと視点をずらすと全く違う姿を見せるようなものでもあり、そのことに対しても一緒に驚きながら、それでも問うことをやめない。哲学の入り口としてとても優れた一冊だと思う。 「哲学はすべてのひとに関係する。すべてのことにかかわることができる。重要でないと思われているものも、哲学対話では考えることができる。むしろ、普段は忘れられているようなものや、問われもしないようなことに耳を澄ませる。そしてまた同時に、議論の場で取るに足らないとされ、話を聞かなくてもいいとみなされているひとの話にも耳を澄ませる。人間を、ただの血の詰まった袋ではなく、宇宙の質量を持つサイコロとして扱う。ともに知を愛するために、本当の意味でともに哲学をするために。」p.88 「こわい」より。
読み込み中...