Reads
Reads - 読書のSNS&記録アプリ
詳しく見る
句読点
句読点
句読点
@books_qutoten
島根県出雲市の本屋句読点です。
  • 2026年8月21日
    チッソは私であった 水俣病の思想 (河出文庫)
    ものすごい本だった。緒方さんの生い立ち、水俣病闘争で最前線で闘っていた頃のこと、そこから一人離脱し、「狂って」過ごした期間を経てたどり着いた「チッソは私であった」という境地とそれからのこと。水俣から東京まで木造船で命懸けの航海をしたこと、石牟礼道子さんとのこと。全編にわたって、緒方さんの熊本弁混じりの語りことばで綴られる。読書したというよりも、目の前に緒方さんがいて、その言葉をじっと座って聴いているかのようなそんな読書体験だった。 「一体この自分とは何者か。どこから来てどこへゆくのか、である。それまでの、加害者たちの責任を問う水俣病から自らの「人間の責任」が問われる水俣病へのどんでん返しが起きた。そのとき初めて、「私もまたもう一人のチッソであった」ことを自らに認めたのである。それは同時に、水俣病の怨念から解き放たれた瞬間でもあった。その大逆転は、マグマの圧力が高まりやがて火山の爆発、噴火に至るように必然的な運動であり、私といういのちのビッグバンであったように思う。幼少から背負わされた「課題としての水俣病は、我が内なる精神の運動であった」。今後も精神運動としての活火山でありたいと思っている。」(「はじめに」より。) どんなことが語られたかということは短い言葉でまとめることもできるけれど、それでは絶対に伝わり切らないものがある。ひとつひとつの言葉がすべてつながり合っているから、その流れの中でしか理解できないことがある。頭で理解しても仕方がない。すぐに言葉にはできない心の動き、言葉によって心が「ぐわんと揺れた」と感じること。じっくりと最後まで耳を傾けることでしか伝わってこないものがある。 何度も読み直すことになるだろうと思う。その度にいろいろなことがまたわかってくるだろうと思う。 世の中のさまざまな理不尽なことに対しての怒りや恨みでいっぱいになっている人、どうすればいいのか道を見失いそうな人、もう何やったって無理だと絶望しそうになっている人、そういう人が読んだらきっといろいろ気づくことがあると思うし、勇気ももらえると思う。怒りや恨みを火山のマグマのように高めていき、中途半端なところで妥協しないで、爆発させて、社会が忘れさせようとしてもずっと記憶し続け、終わりがない問いに変えて向き合い続けていくことの勇気を。 最後の栗原彬さんとの対談で、それまで語られてきたことが全部繋がっていく感覚をぜひ味わってほしい。 水俣には是非とも行かねばと思う。緒方さんが彫った石仏に会いに行かねば。
  • 2026年8月14日
    憲法という希望
    憲法という希望
    武田砂鉄ラジオマガジンなどでお馴染みの憲法学者、木村草太さんの講演録を元にした憲法入門。とてもわかりやすくて勉強になった。憲法についてはいろいろ本読んで勉強したつもりだったけど、この本で初めて得られた視点も多くて、また一段階深く憲法のことを考えられるようになったと思う。 10年前に出されている本だけど、10年前もそうか、安倍政権下でいろいろと不穏な動きがずっと続いていたんだな、もしかしたら今の高市政権以上に危なかったのかもな、とも思う。今も相当だと思うけど。だから尚更今読んでもいろいろ響くものがあった。 全部で4章構成になっており、第1章で、憲法とはそもそもどういう存在か、どういう性質のものかの大枠が説明される。続く第2章、3章では夫婦別姓の問題、辺野古基地移設の問題を例に挙げながら、憲法をどのように使いこなしていけばよいのかを紹介する。そして4章でクローズアップ現代などの司会として活躍した国谷裕子さんをインタビュアーに、それまでの議論のおさらいと補足事項が対談の形で示される。 まずそもそも憲法とはどういう存在か。木村さんは国家権力がよくやりがちな失敗を再び繰り返させないためのリストであるという。その三大失敗は「無謀な戦争」「人権侵害」「権力の独裁」。だから憲法ではこれら3つの失敗に対処するための「軍事統制」「人権保障」「権力分立」が憲法の柱になる。 第二章では、夫婦別姓の問題が中心だが、むしろここでは訴訟をするときに、イデオロギーで頭が固まってしまうとうまくいかないので、冷静に落ち着いて分析して、自分のどのような権利が制約されているのか、誰と誰の間に区別があるのかをしっかりと見定めることで制度の合理性について問う必要があると述べられる。 第3章もとてもおもしろかった。辺野古基地建設はなんらの法的根拠がなく、閣議決定のみに基づいているが、それは地方自治を定めた憲法92条に反するのではないか、という視点から考えている。そして92条とともに重要になるのが住民投票を定めた95条。 当時の安倍政権にこの点を問いただすと、「安全保障や基地建設に関する問題は国が考えるべきことで地方自治体の仕事ではないから、地方がいちいち口をだすな」という内容の答えが返ってきたという。「法律もなにもなしに、強権的な手法で、閣議決定のみで基地を作っても良い。地方自治体の権限はすべて排除されてよい」と考えていることが明るみになる。本当に恐ろしいことだと思った。そして2026年現在、辺野古基地建設は止まることなく続けられている。 「私たちにとって憲法とは、「人権が尊重され、よき統治がなされる社会を作ろう」という希望を実現するために存在します。そうした希望は、人間が人間らしく生きていくために不可欠なものです。決して贅沢な望み、わがままな願いではありません。  しかし、権力者に憲法を守らせるのは簡単ではありません。権力の座に就けば、自分たちの邪魔をする人を排除したくなるものです。権力者が自ら進んで人権を保証し、権力分立を進めていくなどということを期待できないことは、歴史が証明しています。  憲法を守らせるのは、究極的には私たち国民です。私たち一人ひとりが、権力者に憲法を守るように求めていかねばならないのです。もちろん、訴訟で判断を示すのは裁判所ですし、政府の行動に関する憲法チェックをしているのは内閣法制局です。しかし、究極的には国民一人ひとりが憲法を理解し、権力者が不当なことをしている時に、「それは許されない」という声を上げていかなければ、裁判所だって内閣法制局だって、権力者の側に引き寄せられていってしまいます。」p.108 日本の教育では、道徳教育よりも、法学教育が必要だとする木村さん 「道徳はもちろん大切です。しかし道徳は、究極的には人によって考え方が分かれてしまうものです。個人が一人ひとり真摯に向き合って、どうするのがよいのだろうかと考えていくべきものです。それを教育の現場で行おうとしても、教師が望むよい子像を押し付けることになりかねません。  これに対して法律は、そうした道徳も含めた価値観が人によって分かれてしまうところで、最低限すべての人が守らなければならないラインがどこにあるのかを、国民の代表である国会が議論して決めたものです。ですから、まずはそれをしっかりと理解すべきだろう、というのが私の考えです。」p.154
  • 2026年8月12日
    ナウシカ考
    ナウシカ考
    今月末の『風の谷のナウシカ』読書会に向けて読了。とても面白かった!よくある考察系の本とは一線を画している。『ナウシカ』を軸に、権力の問題、文字と権力の問題、二元論的世界観の克服、などさまざまなテーマが引き出されてくる。物語論としてもとても面白い。なにか創作する人にとってこの本はさまざまなヒントを与えてくれる本だと思う。この本を読むともう一度『ナウシカ』を最初から読み直したくなる。 民俗学者の視点から、さまざまな文献なども引用しながら、マンガ版の『ナウシカ』を読解していく。宮崎駿本人ですら明確に意識していなかったであろうことまで、ひとつひとつ丁寧に拾い上げてゆく。宮崎駿はこの本を読んではじめて自分で原作を読み直したらしい。どこかのインタビューで「自分はこんなこと一切考えることなく描いていた」と漏らしていたのを読んだ。作者以上に読み込むことは可能なのだ。 『ナウシカ』前史として、幻のデビュー作『砂漠の民』や、『ナウシカ』執筆とほぼ同時期に描いた『シュナの旅』などとの関連性を引きながら論考が始まる。『シュナの旅』は単体として非常に濃密に完成されたモノローグ的作品。この作品に宮崎駿の世界観がかなり凝縮されている。 王や権力についての問題について長年考えてきた赤坂さん。「風の谷」の姿にもその視点から迫る。「風の谷」は王をいただく部族集団ではあるが、国家的な権力を拒否している。ピエール・クラストルを引きながら、「貧しいけれど、平和な部族社会」「王国とはいえ、強大な権力を帯びた王は不在であり、あくまで国家という忌まわしきものが出現することに抗う社会」だという。 宮崎駿の物語は必ず「マレビト」の不意の訪れから始まるという指摘には確かに、と思った。主人公自身が「マレビト」となって別の世界に紛れ込むパターンもある。(もののけ姫など) 「ナウシカはいかなる他者にたいしてであれ、命令する者ではない」p.66 言われてみれば確かにそうなのだ。 ナウシカの名前の由来はギリシャの叙事詩「オデュッセイア」に登場する同名の姫から。血まみれの航海者であったオデュッセウスを恐れることなく助けて、後には吟遊詩人として諸国を放浪したという。 そしてもう一つの源泉は日本の古典『堤中納言物語』の「虫めづる姫君」。 この二つの源泉が見事に融合して生まれたのが「ナウシカ」。 「ナウシカはひとつの混沌である」p.98 清浄/汚濁を明確に切り分けて、「清浄」の世界だけで生きていくことを拒む。自身のうちにも「汚濁」や「闇」があり、それらなしでは人間は人間たりえないことを見抜く。オーマは破壊の象徴、虚無でもありながら、その名前は「無垢」を意味する古エフタル語であった。作中におけるオーマの立ち振る舞いはまさしくそのもの。 「清浄や汚濁をともの一身において引き受けるとき、人ははじめて穢れの呪縛を超えてゆくための、たしかな一歩を踏みだしているのではないか。みずからの内に堆積する穢れに気づくことによって、二元論の罠からの脱出を果たす」p.157 この清浄/汚濁を一身に引き受けるというテーマは後の宮崎作品においても重要なテーマ。「もののけ姫」や「千と千尋の神隠し」など。 「火の七日間」「千年前」など、この作品では神話的な数字が頻出する。キリスト教的な世界観と通ずるところがあるが、明確に異なるのは、キリスト教的世界観は善悪の二元論的世界観で、最終戦争ののちに善が勝つという物語だが、『ナウシカ』はそれにたいして真っ向から挑む。 「目的のある生態系・・・その存在そのものが生命の本来にそぐいません」というナウシカの言葉。 「墓所の主は、世界をあきらかな境界線で分かち隔てて、みずからを光や希望の側に置き、自身の提示する未来へのプログラムに自発的に隷従することをもとめる。そうした世界を分断する境界のラインを、ナウシカは認めない」p.272 映画版の「ナウシカ」では、むしろ、「清浄」の側にナウシカが立ち、「腐海」も実は「清浄」の側だった、世界もそこに向けて良くなっていく、という感じの世界観だったように思うが、漫画版はそれと真逆。漫画版は驚くほどに血みどろで、ぐちゃぐちゃで、混沌としている。もちろん映画版は映画版で素晴らしいし、傑作であるのは間違いないけど、あくまでも漫画版とは別の作品であると思ったほうが良さそうだ。この物語をたった2時間の映画にまとめろというのは無理だろう。漫画という形態だからこそ表現できた世界観。 「みずからの内なる闇や穢れや虚無を、生存の避けがたい条件として認めるからこそ、ささやかな生への希望を耕し、受け入れることを学んでゆく。二元論の廃棄こそがくりかえし試みられている。どこかに絶対的な中心や神の座を設定したうえで組み立てられる透明な二元論のなかに、ほかならぬ虚無や闇は潜んでいる。」p.272 この二元論に抗するナウシカ、という視点を得た時に、緒方正人さんの『チッソは私であった』が想起された。水俣病の患者でありながら、水俣病を産んだ「文明の罪」の側に自分もいると気づき、背負い直した緒方さん。 『ナウシカ考』の中では、水俣病や東日本大震災、コロナ禍などの現代社会における問題との接続については多く語られることはなかったが、深いところでかなり密接に繋がっていることだと思う。次は『チッソは私であった』を課題本に読書会をやりたい。 終章において、赤坂さんはこの『風の谷のナウシカ』を多声的=ポリフォニー的な物語であるとし、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』などと同種の物語であると論ずる。それくらいの人類に対しての大きな贈り物であると。 物語全体が《大きな対話》である。モノローグ的に全体を概観するような視点はなく、全ての登場人物たちが独自に動き、作者のコントロール下にすらない。物語がそれ自体として動いてゆく。 最後に引かれていたロレンス『黙示録論』のなかの言葉 「書物のもたらす真の愉悦は、それを何度でも読みかえし、そのたびにそれが以前とは異なったものであることを知り、他の意味に、すなわち意味の別次元に出あうことのうちにあるのだ。」 は、まさしくこの『風の谷のナウシカ』にも『ナウシカ考』にも当てはまる言葉だと思う。何度も読みかえしたい。
  • 2026年8月10日
    孤独の研究
    孤独の研究
    古本買取でたまたまやってきてパラっと見たら、パスカル『パンセ』、グレン・グールド、ニーチェ、ショーペンハウアー、ピュリツァー、アミエルの日記、モンテーニュ、ソロー、プルースト、と興味ありすぎる人たちについて紹介しながら「孤独」について書いている本だとわかり、一気に読了。学生時代に出会いたかった一冊。 ニーチェの『ツァラトゥストラ』は「いかにすれば人間は創造的でありうるかということを述べた散文詩のようなもの」とズバッと紹介していて、そうか!と納得した。 グレングールドは名前は知っていたけど、エピソードとか、考えていたこと、そしてなにより木原さんがグールドのことが本当に好きで、いくら書いても書き足りないというくらいに魅力的に書いていて、気になりすぎてYouTubeで聴きながら読んだら本当に凄すぎて、クラシック音楽に今まであまり関心なかったけど、これを機にハマるかも、と思えた。メルカリですぐにグールドのCDを2枚買ってしまった。 『アミエルの日記』は全く知らなかったけど、気になりすぎて探してみたい。今は絶版で古本でも結構高い。どこかの古本屋で埃かぶってるやつを激安でゲットできたらいいな。 そしてモンテーニュの『エセー』はやはり買って手元に置いてすこしずつ読んでみたい。プルーストの『失われた時を求めて』も全巻セットで手元におきたい。 この本で紹介されている人たちはだいたい親の莫大な遺産を相続してそれで好きなように孤独な生活を謳歌できた人たちであるが、参考にできることは多々ある。ピュリツァーやハワードのような強迫観念に縛られて孤独に閉じこもるようなあり方に陥らないようにだけは注意したい。(この二人の例を入れて孤独讃歌になりすぎないようにバランスとっているところもこの本のよかったところ。ピュリツァーとハワード特殊すぎるだろ!と思ったけど、独裁的な人、トランプとかプーチンとかも基本的に人を信用していないんだろうな、と想像できた。我が国の恥ずかしすぎるあの女首相も。) この本の一番最後、著者がこの本を書くことになった経緯について書いていて、奥さんが数年前に癌で亡くなっていたとのこと。なるほど、そうだったのか、と納得。自分自身のために書いていた側面もあったのだろう。 プルーストを紹介するところの文、「失われた時間はけっして消え去ったわけではないこと、それは記憶のなかに当時そのままに保存されていること、そして失われたと思っていた時間を取りもどすことによって「なんとも言えぬ快感」が与えられることをプルーストは発見した。」p.189 「失われた時を取りもどすことによって、人間は「時間のそと」に出ることができるのである。この見出された不滅の時間のなかでは、孤独に苦しむことはないのだ。」p.190 などはまさしく自分自身に向けて書いたと思う。 たまにこういう本が古本買取でやってくるから古本屋は楽しい。 著者のことについて調べていたら、もう一冊読みかけている『天才の勉強術』(新潮選書)の著者でもあって、そちらも読み進めたくなった。
  • 2026年8月7日
    考えて、考えて、考える
    考えて、考えて、考える
    一気読み。藤井さんは幼い頃からかなりの負けず嫌いで負けると手がつけられないくらいに泣いていたらしい。 将棋は相手の駒を自分の駒として使えるようになるところが一番の面白いポイントで、それがあるために終盤になるまでどういう展開になるのか読めないらしい。だから、最後の最後まで気を抜かないということを意識しているという。最後の最後にフッと気を抜くと負けるらしい。 将棋界ももういまやAI無しでは考えられないくらいに棋士の人たちは研究につかっているらしい。藤井さんも自作PCでかなり高性能のAIで研究しているという。 丹羽さんのバイブルだというロマンロランの『ジャンクリストフ』は読んでみたい。 藤井さんは勝負に勝つか負けるかよりも、「最善の一手を考える」ことに集中しているという。
  • 2026年8月4日
    保守と大東亜戦争
    戦争を10代後半から20代、あるいはそれ以上で経験した保守論客の人たちの残した書籍などを紹介しながら、保守本流の人たちほど、戦前日本が突き進んだ超国家主義、侵略戦争に批判的だったことを紹介。竹山道雄の『ビルマの竪琴』まだ読んだことないから読まねば。山本七平の『「空気」の研究』は前に読んだときは難しすぎてほとんど理解できなかったのだけど、もう一度読み直さなきゃ。林健太郎と小堀桂一郎の論戦を紹介するくだりでは、小堀に対して読んでいるこちらまではらわたが煮え繰り返るような思いをした。林さんよくこんなネトウヨの元祖みたいな人と粘り強く対話を続けたなと思った。 今「保守」を名乗る人たちは実質では全く保守ではない人たちも多い。本当の保守本流の政治家の層が分厚くなって、庶民のために政治をする人たちに国の運営をになって欲しい。
  • 2026年7月27日
    ムーン・パレス
    ムーン・パレス
    夏休みにゆっくり時間をかけて読んだ。良質な映画を10本まとめて観ているような、そんな濃密な小説。 まさかそことそこがそう繋がるのか!という驚きもあるし、それがめちゃくちゃご都合主義かと思いきや、本当にそういうミラクルなこともあるかもなあと思わせる書き方。月のイメージが至る所に出てきて、(書き出しからそう)、重要なモチーフとしてずっと連続している。世代を越えて相似形のことが起きていたり、それをつなぐものもやはり月。パズルが気持ちいいくらいにハマる感じ。かといってやりすぎ感もない。それは単純なハッピーエンドとはいかない終わり方で、良いことも悪いことも全部平等に訪れるから。途中で終わってたら「ああいい話だった」で終わってたかもしれないのに、その続きでさらにひっくり返される。 エフィングと雨の中最後のミッションを果たすシーンなどはもう本当に映像を見ている感じだった。というか全編にわたって映像がすごく浮かんでくる。 他の作品もどんどん読みたくなった。
  • 2026年7月9日
    ベルクソン~人は過去の奴隷なのだろうか
    ずっとベルクソンのことが気になり続けている。創造的進化(エラン・ヴィタール)とか「純粋持続」とか、大学受験の倫理で単語となんとなくの、ほんとうに付け焼き刃的な断片的な知識はあったものの、本当にその面白さを理解したとは言えなかったベルクソン。小林秀雄が熱心にベルクソンのことを書いていたり、ドゥルーズもかなり影響を受けていたり、ニーチェや実存主義との関わりなどなど、いろいろベルクソンを中心に考えると繋がっていきそうな気配がする、と思って、いよいよベルクソンを読んでみようかと思い、まず手に取った一冊。今書いてて気づいたけど岡本太郎の彫刻作品に「エラン」という作品があったのを思い出した。岡本太郎もパリできっとベルクソンの本読んだりしただろうな。太郎の「芸術は爆発だ」「瞬間瞬間に生きる」と「純粋持続」は同じことを言っているのだと思う。 金森修さんの書き方はとても親しみやすくまずSF映画の話から。「マイノリティ・レポート」や「トータル・リコール」観てみたい。 ベルクソンは自然科学によってあらゆることが分析可能で数値化できる、というような考え方が広まっていく同時代の風潮に対峙して自分の考えを固めていった。自然科学的な知識も相当に研究していたそう。だけどベルクソンが到達したのは、人間の意識は究極的には分析しきれないということ。 普段なにも意識しないときは、人はふつう空間的な時間の捉え方をしているという。しかし本当に時間は空間的(数量的、計量的)に捉えられるのかというと、そうではない時間の流れ方、時間という言い方すらも間違っているかもしれない、時間なんてものから超越した、「純粋持続」というしかない流れがあるという。明確に前と後に切り分けることもできず、輪郭もなく、互いに外在的でもない、ぐちゃぐちゃに混ざり合った、質的な多様性。 外で流れている一般的な時間、計量可能で、分節可能で、後先もはっきりしている時間の流れ方とは全く別の、普段は全く見ることも感じることもない、時間の本当の姿、そうしたものがどんな人の中にも流れている、と。そうした本当の時間の流れの中にいるとき、外の時間の感覚とは全く違う体験ができると。 なんとなくわかるようで、わからない、わかりそうと思った途端にすぐ逃げていってしまうような。でもそういう「本当の時間の流れの中にいる」という体験は何回かしてきている気もする。まさに「時間を忘れる」感じ。それは外の時間、空間的な時間を忘れて、純粋持続の中にいる、ということなんだと思う。面白い本を読んでいる時とか、話が盛り上がって「もうこんな時間か」と時計を見てびっくりするときみたいに。 まだわかったようでわからない感じで、この本の面白さもなかなか言葉にはできないけど、繰り返し読んで、またベルクソン本人の書いた原書にも挑戦してみて、少しずつ深めていきたい。
  • 2026年7月5日
    古くてあたらしい仕事
    昨日のイベント出店の店番中に読了。 前にも読んだことがあったけど、久しぶりに読み直した。 やはり島田さんの文章がとても好きだ。優しさが滲み出ている。 今自分の年齢が、島田さんが夏葉社を立ち上げた時と同じ、33歳。(正確には8月で)だからかもしれないが、今この本読み直して、余計に心に沁みた。 この本を読み終えると、夏葉社から出ている本をたっぷり時間をかけてゆっくり読んでみたくなる。 島田さんの仕事観は、今どんな状況に置かれている人にも灯台のような光を投げかけてくれると思う。将来が不安で仕方ない人、現状に満足できていない人、あるいは今の仕事に満足できている人にとっても。 お金よりも前に、自分が必要とされること、自分を必要としてくれる人のために動きたいと思うこと、これがあらゆる仕事の最も根源的なところにあるのではないかという。 世の中にはお金や成績や、さまざまな価値基準によって数値化されるもの以上に、数値化不可能な価値はたくさんあって、言葉にできないもの、なんてことないような思い出とか、感情の動きとか、そういうものが「仕事」のスタート地点にはあるという。 島田さんの優しさの裏にある悲しみや孤独、不安、そうしたものもひりひりと伝わってくるけど、だから余計に優しさが沁みる。嘘がないと感じる。 若松英輔さんが『悲しみの秘儀』などの中で、「かなしみ」は「悲しみ」とも書くし、「愛しみ」とも書く、ということを書かれているけど、島田さんの文章からはまさにそれを感じる。 従兄との夏休みの思い出が本当にきれいで、こちらまで泣きそうになる。夏葉社という名前、本当に素敵だなあ。従兄弟の家族たちと海岸で服を燃やすシーンはありありと映像が浮かんできて小説のよう。 夏葉社の事業計画書の、その経験に裏打ちされた具体性、シンプルさは揺るぎなくて、お手本にしたい。 いろいろ文章が良すぎて引用したらキリがないのだけど、いくつか今気になったものを。 「これだったらまず大丈夫だろう、というような手堅い企画も、得てして売れない。 思うに、読者はすでに評価が定まっているような既知のものよりも、生活にほんのすこしの風穴を開けてくれるような、あたらしいものを望んでいるのだ。それは、自分のことを考えてみると、よくわかる。」p.166 「あたらしいものは古くなるし、古いものはあたらしくなる。けれど、まれに、いつまでも新鮮で、あたらしい姿のままのものもある。それが優れた仕事というものだろう。」p.168 →「古くてあたらしい仕事」! 「ぼくが本屋さんが好きで、本が好きなのは、それらが憂鬱であったぼくの心を支えてくれたからだ。それらが強い者の味方ではなく、弱者の側に立って、ぼくの心を励まし、こんな生き方や考え方もあるよ、と粘り強く教えてくれたからだ。 それは本だけではない。音楽や映画やアニメーション。喫茶店や中古レコード屋さんや映画館。 こうしたものは、人生を支えてくれる。それは既に力ある人たちの権力を補うものではなくて、そうでない人たちの毎日を支える。 それらは特効薬のような効果はないかもしれないが、本ならば一冊の本を読み終える時間を、映画ならば一本の映画を観るという豊かな時間を、喫茶店であれば一杯のコーヒーを飲む時間を提供するものとして、読むもの、観るものに、夢を与える。 それは、夢を叶えるという意味での夢ではなくて、日常とは異なる世界で時間を過ごすという意味での、文字通り、夢を見る時間だ。 現実の世界だけでは、ときどき、たまらなく苦しい。逃げる場所もないようにみえる。それは、スマートフォンでニュースを見ていても、SNSを見続けていても同じだ。 けれど、現実に流れる時間とは別の、もうひとつの肥沃な時間を心のなかにもつことができれば、日々はにわかにその色を取り戻す。 本を読むことは、音楽に耳を澄ませることは、テレビの前でスポーツに熱中することは、現実逃避なのではない。その世界をとおして、違う角度から、もう一度現実を見つめ直すのだ。あるいは、そうした虚構のフィルターをとおして、悲しみやつらいことを時間をかけて自分なりに理解するのだ。 必要なのは、知性ではなく、ノウハウでもなく、長い時間だ。現実に流れる時間とは異なる時間を、自分以外のどこかに求めること。そうすることで、生きることはだいぶ楽になる。素晴らしい作品は、いつまでも心のなかから消えず、それは内側から生活するものを支える。」p.183-184 →この部分は深く頷きながら読んだ。自分の本屋でも異なる時間の流れを大事にしたい。
  • 2026年7月5日
    黒澤明と「七人の侍」 (朝日文庫 つ 11-1)
    一気読み。 映画の中の映画、「七人の侍」がどのように生み出されたか、詳しく知ることができた。 スピルバーグやジョージ・ルーカスがこの映画から多大な影響を受けていることは有名。スピルバーグは映画作る前に必ず「七人の侍」を見返しているらしい。 ストーリーを追いながら「このシーンではこのような撮影だった」「黒澤明はこんな指導をした」という形でエピソードが紹介されていくので、「七人の侍」を一から振り返ることもできる。 トルストイの『戦争と平和』、ファジーエフの『壊滅』、ドボルザークの「新世界」、江戸時代の剣豪伝などが下敷きになっているという。 勘兵衛の最初の見せ場、赤子を立てこもり犯から救出するシーンはほとんどこの剣豪の話のままだという。宮口精蔵の果し合いのシーンは塚原卜伝のエピソードらしい。 凄まじいまでの作り込み、周到な準備、過酷な撮影環境、徹底したリアリズムの追求、納得がいくまで撮影を続ける粘り強さ。付き合ったスタッフや役者の人たちは相当大変だったろうけど、やはりそれを率いた黒澤明の胆力は凄すぎる。 勘兵衛や菊千代が好きすぎて、撮影が終わる時にもう彼らと会えなくなることが何よりも寂しかったという。演じた役者には会えても、そのキャラクターは映画の中だけに生きている。 いま猛烈にもう一度観たい。DVDあるからまた観よう。
  • 2026年6月26日
    多読術
    多読術
    読書の神様みたいな人の書いた読書術。 セイゴオさんの頭の中はどんなネットワークができていたんだろうか。覗いたらたぶん網目が細かすぎて、ボウっと光って、眩しいくらいだったんだろうな。 「本に攫われたい」という気持ちで本を読んできたそう。 読書にはリスク、リスペクト、レコメンドの3Rの要素があるという。 セイゴオさんが本を本当にリスペクトしているのが伝わってくる。 良い本と巡り会うのはせいぜい三割五分くらいがいいところ。とにかくたくさん、より好みせずに読む。 活字中毒になる。本と一口に言ってもいろんな本があるので食事のようにいろいろ読み比べて味の違いを楽しむ。読書を食事のように。 「読む」という行為は複合的な行為で頭の中では書いたり、編集したりととても創造的な行為。読者もその本の完成にとっては必要不可欠。その本がどのように読まれてきたか、の歴史の流れの中に自分も加わるということ。 一番最上の読書は、著者の個人全集を読むこと。 本というのは、文字を通じて「意味」の交換をしている。あらゆるものが読書になりうる。 本と本を関連づける。本は最低3冊のつながりの中で読むようにする。 速読に囚われてはいけない。関連する本をずっと読んでいたら自然と速くなる。「読む」にもいろんなスタイルがあって、いろいろギアチェンジしながら読む。読書は平均的な読み方をするわけではない。場所を変える。タイプの違う本を読む。集中度を変える。昔の人の本の読み方も参考に(池田草庵の「掩巻」、本を少し読んだら立ち止まって自分の脳内ですぐにトレースし直す。「慎読」は読んだことを独り占めしない、人と共有する) 個性は「好み」に現れる。何になりたいかは、「好み」に現れる。「好み」を多様化させる。平均化させない。 読書に効用を求めすぎない。読書は「伏せられたものが開いていく」過程の作業。本は「わかったつもり」で読まない。「無知から未知」へ変わるだけ。なんだって役に立つんだから焦って「役に立つ」本を求めすぎない。むしろ本は「毒にもなる」。劇薬の可能性もある。読書はリスクを伴う。だから面白い。毒にも薬にもならないような読み方をしない。そこには本に対するリスペクトが大事。免疫学のように、非自己的なものを時々取り入れる。そうしなければ自己の輪郭もわからない。 尊敬している人に本をお勧めしてもらうことも大事。 世界中の本は「書物の海」「テキストの森」を脈々と形成していて、繋がっている。クリステヴァの「インターテクスチュアリティ」。本の中から別の本にタコ足配線のように線を出す。そのタコ足がぎゅっと集まっているような「キーブック」を見つけると一気に本の世界が広がる。 などなど。とても面白かった。 本が大好きな人の話はなんでも面白い。
  • 2026年6月22日
    ハッピーになれる算数 (よりみちパン!セ 9)
    あとに出た『生き抜くための数学入門』が素晴らしかったので、こちらの前作も読んだ。どちらかというと、こっちの本の方が実践的な内容というか、実際に算数の問題を解きながら考える内容で、『生き抜くための〜』はより一般化した考え方の話がメインだったと思う。話も算数から数学になってより本格的だったし、話の広がり方でいえばやはり『生き抜くための〜』の方が感動的で面白かったけど、こちらの本も実例を元にどうやって「とは」「なぜ」を考えるのかをおさらいできて、基礎練という感じがしてとてもおもしろかった。 受験勉強ぶりに紙とペン用意して算数の問題解いたけど、強制されてやるのではない算数の勉強は本当におもしろい! 多くの人が最初に算数や数学につまづくポイントであろう「わり算」「分数」「比」「割合」の考え方を中心に話がすすむ。文章題を算数の言葉に「ホンヤク」するとか、何を求めればいいのかをまず最初に確認するとか、算数以外の場面でもとても大事な考え方。 2003年の有名な東大の入試問題、「円周率が3.05よりも大きいことを証明せよ」は、ほとんど中学生までの数学の知識があれば解ける問題であることも納得。 「そもそも○○ってなんだっけ?」「なんでこうなるの?」と考えるクセをつけることは、算数以外の場面で、この人生をハッピーに生きるために必須の習慣。 算数が苦手だった大人に一押しの本。『生き抜くための〜』とセットでおすすめしたい。めちゃくちゃ面白かった!
  • 2026年6月19日
    隠された奴隷制 (集英社新書)
    「奴隷制がなければ、資本主義はなかった。近代資本主義世界システムが成立するためには、奴隷制プランテーションは不可だった。そして今もなお、「自由な労働者」というヴェールに覆われた「隠された奴隷制」がなければ、資本主義は成り立たない。それが、私たちがこれまで生きてきた世界、世界史的現在なのである。」p.212 資本主義の成立過程を追っていくとそこには、奴隷制が切っても切り離せない存在として見えてくる。 それは現在においても変わらない。資本主義は奴隷制なしでは成立しないからだ。しかしあまり表立っては見えてこない「隠された奴隷制」である。 ロックやモンテスキュー、ルソーやヴォルテールの啓蒙思想の頃からアダム・スミスを経て、ヘーゲル、マルクス、そして現代のジェームズCスコットやデイヴィッド・グレーバーにまで至る思想の系譜も概観することができる。 そうかそういう文脈だったのか!と大きな見取り図ができたような。 スコットの『ゾミア』も読まねば。 隠された奴隷制から逃れるには、「底流政治という言葉で私が念頭に置いているのは、だらだら仕事、密猟、こそ泥、空とぼけ、サボり、逃避、常習久勤、不法占拠、遊能といった行為である。」とスコットが述べることが参考になる。表立った反抗よりも、目立たないところで、アンダーグラウンドでしれっとサボる。逃避する。くだらない場所からサッと離れる。 グレーバーも読みたい。 「わたしたちがわたしたち自身を所有しているということは、奇妙なことに、わたしたち自身に主人と奴隷の役割を同時に割り当てることなのだ。「われわれ」は(財産に対して絶対的権能を行使する)所有者であると同時に(絶対的権能の対象である)所有される事物でもある。古代ローマの世帯は、歴史のもやのうちに忘却されたどころか、わたしたち自身についての最も基本的な概念のうちに保存されている」 『負債論』からこの部分が引用されていた。 グレーバーの面白いのは資本主義の中には隠された奴隷制以外にも、隠されたコミュニズムも存在していて、それによっても資本主義が支えられていると指摘したこと。「基盤的コミュニズム」と呼ばれる。 「資本主義というシステムそのものを全面的に変革することは、もちろんかんたんなことではない。しかし、資本主義そのものが今では危機的状況にある。資本主義の終焉が始まっている。 そうした状況の中で、資本主義的賃金労働に従事することは、ますます苛酷なものになるだろう。部分的には、奴隷制はますます強化されていくだろう。それに抗って、今までとは違う働き方を模索すること、地域の中で身近な人びとと協同する暮らし方を構築すること、分子状の小さな拠点からネットワークを構築すること。それもまた、一つの階級闘争である。 その先に、何を目指したらいいのか。私たちが奴隷ではなくなること、それは、私たちが自分の時間の主人公になること、「自由な時間」を手に入れることができるようになることだ。」p.250 本書の結論として述べられるのは、労働時間を短縮することから始めようということ。必要な時間を超えて長い時間働くことをやめる。やめさせる。それが奴隷制から逃れるための第一歩であると。
  • 2026年6月16日
    新版 いくさ世を生きて
    読書会に向けて読了。 戦後33年(昭和53、1978)に、著者の真尾さんが沖縄に行き、人づてに沖縄戦の記憶を留めている女性たちと会い、その一人一人の重い口から戦争の記憶を聴き取った記録。 戦後33年ということは、沖縄戦で亡くなった大勢の人たち(沖縄県民の4人に1人が亡くなったと言われている)の33回忌に当たる年。沖縄ではこの年どこの墓場でも最後の焼香が行われていた。(沖縄の言葉で終わり焼香=「うわいすうこう」が第1章のタイトル) 一人一人の女性たちの語る記憶は本当に生々しくて、戦後30年以上が経ってもなお昨日のことのように覚えているのが伝わる。映像だけでなく、臭いや音、振動、温度、感情など全て。 「沖縄戦に遭った人たちは、当時を思い出す、などという生易しいものではなくて、現在もまだ硝煙の臭いから抜け出せないでいる。戦後どころか、まだ戦争が終わっていない感じがしたのである。」 (p.48) この本の中で真尾さんが話を聴いた女性はほんの数人だけど、その数人の話だけでも沖縄戦が現実にどのようなものだったのか、県民の4分の1が犠牲になったという数字を知っているだけでは想像できない部分、戦場のリアルを窺い知ることができる。読んでいるこちらにまで血の匂いがしてきそうな気配がする。 艦砲射撃によって地面に大きな穴が空いて、水が溜まれば大きな池のようだったとか、そこは泳いで渡れないから迂回するしかなかったとか、照明弾が上がった時に足元が見えるので移動して、そのすぐ後に来る砲撃に当たらないのはもう運でしかなかったとか。 文字だけでは絶対にわかりきらない、その場にいたものでしかわからないものの方が多いのだと思うけど、それでも、もう十分に地獄だ。読んでいるだけでも。 女性たちの語りは真尾さんの筆によって本当に目の前で話を聞いているかのような臨場感。沖縄の方言混じりで。 女性たちの語る戦争の時の記憶と、それを聞く真尾さんの33年後の現代沖縄の情景とが交互に行き来する構成で、バランスがいい。 ものすごく重たい話が続くのだけど、この構成のおかげで最後まで読むことができた。しかし、戦争中の人たちはいつ終わるともわからない地獄の中を生きていたのだ、とも想像する。 本土の方では、戦後30年が経過したあたりから、「もう戦後ではない」ということが言われ、異常ともいえる歪な高度経済成長が急速に成し遂げられた。しかし、特に沖縄では、戦争が終わらなかった。沖縄の中でもさらに女性たちにとっては過酷な時代が続いた。あとがきにほんの一瞬だけ登場する「トシちゃん」などその一例だ。悲し過ぎてやりきれない。トシちゃん一人だけでなく、他にもこうした女性たちが数えきれないほどいるのだろう。現在に至るまで、米兵による暴力事件はずっと続いている。 本土の人こそ、平和な時代しか知らない人こそ、この本を読むべきだと思う。戦争が何をもたらすのか。有事になった時に人はどのようになってしまうのか。 二度とこんなことが誰の身にも起きてはならない。 しかし、現在進行形で、パレスチナで、レバノンで、ウクライナで、他にも知らないだけで多くの国々で同じようなことが起きていることを知っている。日本の中でも戦争まではいかなくても、地獄のような環境で生きている人、悲惨な事件は起きる。 どうすれば止めることができるのだろうか。 文庫版解説の中で、元アメリカ兵と沖縄の女性が対話によって心を通わすことができた事例をひいて、戦争を防ぐためにはなによりもまず対話であることが改めて示される。本当にそれしかないと思う。
  • 2026年6月7日
    生き抜くための数学入門 (よりみちパン!セ)
    よりみちパン!セシリーズはどれを読んでも面白いことで定評があるが、この本もその例に漏れず素晴らしく、めちゃくちゃ面白かった!中高生の頃にこの本を読んでいたらもっと数学が好きになれていたかもしれない。 数理論理学の研究者として活躍する新井さんも元々は大の数学嫌いで、苦手だったという。そんな新井さんだからこそ、なぜ数学が苦手になってしまうのかもよくわかっているし、数学が面白くなるコツもよくわかっている。 数学を学ぶことで身につくのは、「とは」と「なぜ」を考える力。「とは」を考えるとは、まず物事の定義を決めてから考えること。「なぜ」を考える力とは、物事の論理を順序立てて組み立てる力。 数学はたしかに算数レベルのもの以上のものは実生活で使う機会はほとんど無いと言っていい。だからといって数学を学ぶのは無意味かというと全く違う。それは、現実離れしている数学だからこそ、抽象的な概念を頭の中であれこれ考える力が身につき、「とは」と「なぜ」を問う力を鍛えることができる。「社会」とか「国家」とか「善」「悪」とかも現実にはどこにも存在しない概念。異なる意見や習慣を持っている多様な人たちと共同で生活するうえで、争いごとが起きないように、あるいは起きた時にも、まずは「○○とは●●と定義する」というところから擦り合わせることから話し合いをしなければどこまで行っても話が平行線のまま、ということになってしまう。 なんらかの契約を結ぶときとか、怪しげなビジネスなどに引っかからないためにも「なぜ」を問う力は必要。 この本は、まず「かけ算とは何か」という、あまりにも当たり前なような顔をしているところから問い直すところからはじまる。かけ算は改めて考えてみるとよくわからないことだらけ。マイナスをかけるってどういうこと?なぜマイナスとマイナスをかけるとプラスに?は定番な問いだけど、かけ算の筆算や割り算の筆算がなぜああいうメカニズムで成立するのかとか、改めて考えたこともなかったことを一から丁寧に探っていく。ものすごくクリアにかけ算の本質的なものがみえてくる。しかもその「かけ算らしさ」は理論が発達するにつれてどんどん基本性質を保ちつつ変わってもいくという。行列同士のかけ算とか。 それまで当たり前のように受け入れていたものが全く違うものとして捉えられるようになる。 「円周率とは?」という問いから、あの有名な東大の入試にも使われた、円周率が3以上4以下であることの証明もスッキリ導くことができる。(とても気持ちいい) そして話はだんだん高度な内容のものになっていくが、それらの考え方の基礎となっているものは小学生や中学生レベルの驚くほどシンプルで単純なものであることも順を追っていくとよく見えてくる。高校数学の微積分がなぜ画期的だったのかとか、傾きってなんだったのかとか、三角関数って一体何を表しているのかとか、全部訳のわからないままに無理やり暗記してきたものたちがとてもクリアに見えてくる。それらは本当は全部教科書に書いてあったことだと思うのだけど、この本はとてもわかりやすい語り口と例えで理解できるように書かれている。あの、博士が愛した数式も、そうやって出てきた式なのか!と目からウロコ。最終的には「自然数」という概念を人間が完全な形で把握することは原理的に不可能であるというところまで行き着く。 数学を学んでいくと人間の理性、論理的思考力には限界があるということが見えてくる。数学入門というところから、とんでもない地点にまで行き着くことができる。中学生でも高校生でも順を追っていけば理解できる形で。なんてすごいんだ。 この本読んで、もう一度数学をやり直してみたくなった。あと新井先生の他の著書も読んでみたい。
  • 2026年6月5日
    南方熊楠・萃点の思想〈新版〉
    図書館で借りてきて読了。 南方熊楠の思想について彼の人生を追いながらわかりやすく紹介している。 南方熊楠(1867ー1941)は、鶴見和子さんが紹介するまではほとんど世に知られることがなかった人物だったそう。 南方熊楠の生涯と仕事について鶴見さんは以下の5つの特徴をあげている。 ①柳田國男とともに、日本民俗学の創始者となるが、民俗学に留まらずに人文・社会科学と自然科学との接点で仕事をしたこと。(人文・社会・自然科学を横断) ②生涯大学などの教育、研究機関には属さずに在野にあり続けたこと(学校嫌いの大学者) ③若い頃のアメリカ、カリブ海、イギリス放浪の経験と、日本に戻ってきてからは和歌山県田辺に住んで死ぬまでほとんど外には出なかったこと、そして辺境の地から、『ネイチャー』『ノーツアンドクィアリーズ』へ英文論文を投稿しつづけたこと ④イギリスで培った自然・社会科学の方法論と、大乗仏教を基盤とする東洋の思想を格闘させ、「南方曼荼羅」と呼ばれる独自の学問モデルを生み出したこと ⑤神社合祀令によって山野がどんどん潰されていく中で先頭に立って環境保護活動に動いたこと これらが南方熊楠の生涯を追って見えてくるという。 そこには、「民俗学と粘菌学、自発的、自律的な研究と強制的他律的な教育、漂泊と定住、大乗仏教と近代自然科学、学問と社会的実践、という異質なものの間の対立と、それらの間に新しい結びつきを創り出すための強烈な意志と、執念深い努力」という共通点が見出せるとし、そこに南方熊楠の創造性のカギがあるという。 創造性とは、「考えの新奇な組合せ、ないしは異常な結合」で、「その組合せまたは結合は、社会的ないしは理論的な価値をもつか、または他者に対して感情的な衝撃を与えるもの」という心理学者フィリップ・ヴァーノンの定義を紹介し、まさしく熊楠はそうした創造性を発揮している。 「南方曼荼羅」は、仏教学者の中村元さんが命名したことはこの本で初めて知った。 西欧自然科学の方法は、物事の因果関係を一対一で対応づけて考える因果律に基づくものだが、世の中のことはそうした因果律だけではわからないことがたくさんある。因果律は必然性を持つが、世の中には偶然性による動き、結びつきもたくさんあるからだ。仏教では、そうした偶然性を「縁」として、因縁として捉えられてきた。 南方曼荼羅は、こうした必然性と偶然性を同時に捉える方法のモデルだという。1903年の土宜法竜に宛てた手紙の中であの有名な曼荼羅の図が書かれている。 萃点というのは、この曼荼羅図の中で多くの必然性と偶然性の網目が重なるポイントのこと。そうしたポイント(萃点)を見つけることができればいろいろな物事の関係性を理解できるという。萃点は中心にずっとあるわけではなくてその時々で移りゆくもの。そうした萃点を捉えるのは直感的なものなのだろうか。偶然と必然が重なるところ。物事が大きく動く時というのもそうした時だと思う。
  • 2026年5月31日
    ピーター流らくらく学習術 (岩波ジュニア新書 293)
    つづけてピーターフランクルさんの本を一気読み。 12ヶ国語を操り、大道芸もプロで、世界的な数学者でもあるピーターフランクルさんがどのように学習してきたかを紹介した本。 まずなによりも、「楽しい」と感じることが重要だという。本来人間というのは、子どもを観察していればわかるように、新しい物事に対して興味関心を強く持ち、それらをひとつひとつ習得していくことに喜びを感じる生き物。それを阻害するようなものを取り除いて、強制ではなく、自分から知りたいと思う気持ちを持つことが大事だという。それがなければ何も学ぶことはできない。 一番実用的だと思ったのは、ピーター流「ざるそば式記憶法」。ざるそばは、ざるの上にそばだけが残り、水分は下に落ちる。人間の記憶というものも、これと似ていて、そばのように、一つの物事を他の物事との関連性とともに、長いそばのようにしておくと、記憶のざるの上にちゃんと残ってくれる、というもの。例えば英単語でも、単語だけを覚えるようなやり方はすぐにざるを通り抜けてしまうが、一つの単語を発音、イメージ、例文、語源、似ている言葉、反対の意味の言葉、なども一緒に覚えることでうまく記憶することもできるし、相乗効果的に他の言葉もくっついて覚えることができる。これは語学だけでなく、さまざまなところで使えるだろう。たとえば人の顔と名前も、その人と会った時の天気、場所、相手がどんな服を着ていて、どういう経緯でその人と会ったか、名前の由来を聞いたり、どんな漢字を使うか、どんなあだ名があるか、なども一緒に覚えておくと忘れにくい。歴史の勉強も、哲学も、化学や物理も、数学も、全部関連させるように、教科の壁もこえて関連づけて覚えた方がいい。ひとつの物事からどれだけ長い関連性の線を延ばすことができるか。 日本の教育や政治の仕組みなどについても、杓子定規なやりかた、すべてにおいて自分ひとりでは判断できないような組織のあり方、柔軟性を失ったやり方は変えるべきだという提言もされている。この本が書かれたのは約30年前。どれだけ変わっただろうか。私服OKな企業も増えたとはいえ、まだまだ旧態依然とした組織も多いだろう。旧いのが全てだめだと言うわけではなく、悪いやり方なのに変えようとしないとか、疑問に思わず「これはそういうもんだから」という謎の理由で続けている習慣とか、そういうものもまだまだ多いんじゃないか。日本みたいに資源がない国では、一番に投資すべきは人、教育で、優秀な研究者をどんどん育てる方がいい、ということも言われているが、真逆のことをやり続けていると思う。スポーツ選手の育成には熱心な面があるのに、それを学問の分野でもやるべきだ、と。
  • 2026年5月29日
    ピーター流生き方のすすめ (岩波ジュニア新書)
    数学者であり、大道芸人でもあるピーターフランクルさん。 彼の人生経験をもとに、豊かにたのしく主体的に生きるためのヒントをさまざまな角度から提示してくれる良い本。中高生くらいをメイン読者に想定して描かれていると思うけど、こういった本はもちろんすでに十分に大人になった人にとってもすばらしい本となる。自分の人生のあり方を見つめ直すきっかけになるからだ。いつから始めたって遅くない。もちろん早ければ早いほどいいに越したことはないのだが。 まだスマホが登場する前の本だけど、この時からすでにピーターさんは人々がデジタルデバイスによって自分の時間が細切れにされ、自分の人生を主体的に生きるという姿勢から遠ざかってしまうことを危惧されていた。何かする前にまず30秒時間をとって、自分がいま本当にやるべきことはこれだろうか、と考える時間を作る、という「30秒ルール」はいまも、いまだからこそ有効な方法だろう。 ほかにもさまざまな具体的なヒントがたくさん。すべてピーターさんの実体験をもとに書かれているのでとても具体的だし、実効性がある。 ピーターさんは何事にも興味関心を持って、次から次へと興味の網の目を広げていく。関連性を見つけていくこと、それが学ぶことの楽しみだという。 日本をとても好きなピーターさんだからこそ、ピーターさんが日本に住み始めてから日本の人々がどんどん余裕がなくなって楽しくなさそうに生きる人が増えてきているのをとても嘆いているのが伝わってくる。自分の国を好きになることは、じぶんの 国の悪いところに目をつぶることではなく、むしろ好きだからこそ失敗の歴史や改善点をしっかり見つめることが大事だという。
  • 2026年5月24日
    働くということ 「能力主義」を超えて
    自分が自営業を選んだのは、「能力主義」が嫌だったからなんだ、と納得できた。 でも自営業だろうと、能力主義の問題はずっとつきまとってくるので、組織のなかで働いていない自分にとっても得るところの多い一冊だった。 能力に応じて成果に差が生まれるというのは出自によって差をつける身分制などと比べれば平等な制度のように映るが、しかしその個人の能力というものも結局は運や偶然、出自によってかなり差がついてしまうもので、つまり個人にはどうしようもできない面も多々あるので完全に平等とはいえない。 それに能力というのもかなり曖昧な概念で、個人の能力だと思っているものも、それを可能にするさまざまな環境要因とか、ケアしてくれる人のこととか、さまざまな条件が揃った中で生じるもので、個人でどうにかするには限界がある。にもかかわらず、社会はひとりひとりが能力を上げていくことが大事だと説き、人々もそれを自明なことのように受け入れているが、それによって社会全体の余裕がなくなっているようだ。 能力主義とは人を孤独な修行へと向かわせるようなものだが、勅使川原さんは、個人の能力よりも、各人が各人の特性にあったところで、それぞれの持ち味を発揮し、組織としてスムーズに動けるようになることの方が大事で、個々人の能力を高めるよりも、すでにあるものをいかに活かし、シナジーを起こしていくかの方が大事なのでは、そっちの方がいろんな人にとっても生きやすいのでは、という提案をしている。レゴの例えがわかりやすかった。教育もそのような方向になっていけばいいと思うし、社会全体がそういう方向にいってほしい。
  • 2026年5月23日
    覚醒のネットワーク
    著者の31歳の時のデビュー作だったということをあとがきで知った。本たくさん出されてる方だけど、これが原点だったんだ。 初版は今から37年前の1989年。だけど、全く色褪せていないどころか、今こそとても大事なことが書かれていると感じた。 国際情勢もめちゃくちゃだし、国内の政治もめちゃくちゃだし、環境問題も解決どころかどんどん悪化しているし、毎日毎日暗くなるようなニュースばかりで、自分にできることなんてたかがしれていて、もう何しても無駄かもしれない、間に合わないかもしれない、と絶望したくなるような世の中だが、この本では、「私」と「世界」がひとつづきなもので、目の前にあるものこそが世界で、自分も世界の一部なのだから、すなわち自分自身のなかに世界を癒す道筋が必ずある、むしろそこからしか始まらない、という当たり前なようでいて、実際には忘れてしまいがちなことを思い出させてくれる本だった。 holyとかhealとかの語源がwhole(全体の、完全な)から来ているということから、局所的に思えるものも実際には全体に繋がっていて、つまり局所的に何か切り出してきて解決したように思えても、全体としては全く解決していないような解決方法では意味がなく、つまり常に地球規模の意識を持ちつつ、行動は具体的に、think globally, act locally. が大事であると。local、局所的に思えても、それが全体への意識が向いてなされたのであれば必ず全体にも作用し、つながり合っているという感覚。だからまず目の前のことひとつひとつから。 自分という意識も、自己即世界であるという意識を持てれば、自分さえ良ければそれでいいという意識とか、他人との比較で自己を規定する必要もなくなり、開かれた自己意識でいることで他の人とも同じ「いのち」として、人だけでなく動植物、場合によっては無機物に対してすらもそうした同朋意識が持てるようになれば、その瞬間から見える世界や行動ひとつひとつが変わっていくだろう。 「私」という殻に閉じこもりそうになったらまた読み直して再び開きたい。 あとがきや解説でも言われているように、ニーチェの『ツァラトゥストラ』のような本。スリランカの悪魔祓いのフィールドワークをしているときに天啓のように「書きたい」という気持ちが起こり、わずか3週間でこの本の元になる原稿を手書きで書き上げたという。その経緯もニーチェとそっくり。もちろん、バタイユにも、岡本太郎にも通じる本だと思う。
読み込み中...