戦場で書く 火野葦平のふたつの戦場

戦場で書く 火野葦平のふたつの戦場
戦場で書く 火野葦平のふたつの戦場
渡辺考
朝日新聞出版
2020年6月5日
1件の記録
  • noteでつけてる読書日記からの転載です 渡辺孝『戦場で書く 火野葦平と従軍作家たち』(NHK出版)を読んだ。 「NHKスペシャル 従軍作家たちの戦争」と「ETV特集 戦場で書く〜作家 火野葦平の戦争〜」のディレクターがその取材記をまとめた本。今日の日記はその本のまとめとして長い。 1907年生まれの火野葦平は陸軍兵として中国の杭州に出征中の1938年、『糞尿譚』で第六回芥川賞を受賞している(現地での授賞式には小林秀雄がプレゼンター役でやってきた)。分隊長だった火野はその後、報道班に引き抜かれ、「徐州作戦」をモデルに『麦と兵隊』を書き上げ、のちの『土と兵隊』、『花と兵隊』と合わせ兵隊シリーズはは300万部を越えるベストセラーになる。従軍兵が書いた小説がヒットした影響もあって、38年にはペン部隊が発足。菊池寛、林芙美子、岸田國士などスター作家が参加して戦場を視察している。この頃にも検閲はあったけど、のちの太平洋戦争中にははっきりと戦争協力のための読み物以外は発売できなくなったようだ。1942年には日本文学報国会が発足。この会の事業は「愛国百人一首」や「大東亜戦詩集・歌集」をつくること、そして大東亜文学者大会の開催。第一回には300人以上の文筆家が参加している。弾圧をおそれて参加したひとが多かっただろうが、この本で言及されているペン部隊の物見遊山的な感じ、作家として戦争を目撃できることへの昂ぶりのようなものを考えると、会のなかには国という大きなものに対して"役に立てている実感"に舞い上がっていたひとも相当いたんじゃないかなと思う。 火野は報道班として従軍を続けながら中国とのメディア戦(ビラを撒いたりスピーカーで訴えたり)に参加したり、太平洋戦争がはじまるとフィリピンで捕虜教育をしたり今で言うZINEみたいなのを作って「日本兵の善良さ」を訴えようとしたりし、インパール作戦にも報道部員として参加。ろくに食糧がなく兵士たちが餓死していく様を目撃している(彼らは食糧がないので甘みを感じられるダイナマイトをたべたりしていたらしい)。そうした状況に火野は憤るが、それは戦争そのものや国にではなく部隊の司令官と「英米」に向けられている。 火野葦平はかなりのメモ魔で、二十冊以上の手帳が残っている。この本はその手帳を頼りに火野が戦中に歩んだアジア各国の道のりを著者が実際にたどりながら火野にとっての戦中と戦後というふたつの戦争を見ていく。戦後も火野にとっては「戦争」状態だった。兵隊シリーズが大ヒットし国民的作家になったために、戦後は一転、非難の対象となり世間から戦犯扱いを受けるようになる。実際、菊池寛らとともに公職追放され(追放の理由は兵隊三部作以後の、太平洋戦争時の著作による)、それが解ける1950年まではいわゆる文壇での活躍はなさそう(解けてからは後ろ指をさされつつも世の中にまた受け入れられていったっぽい)。 軍国教育を受けて育ち、かなり国粋主義っぽい火野だけど、これを読む限りその根底には文学者っぽい人間愛があって、たとえ戦後に元兵士たちからさえ非難されても彼らへの同情と共感を捨てきれない感じは、たくさんの作家が戦争協力については沈黙するか一転して態度を変えたその時代にあっては一本筋が通っているように思える。でもこれは今が未来だから思えることかもしれない(前にも日記にこういうことを書いた気がする)。当時に生きていたら感情として"無理"だったかもしれない。戦中戦後のとにかくポジションが大事な感じはかなりSNS的だなと思う。炎上状態だった火野は自己を見つめ続け、戦後十年が経ち再びアジア各国を旅し、戦争の愚かさをはっきりと明言する。 けれども、自身をモデルに戦前、戦中、戦後を舞台とした1000枚を越える大長編『革命前後』を書き終えたあと1960年1月23日に自殺。遺書では芥川龍之介の遺言である「或る漠然とした不安」を引き合いに出している。 たぶん、としか言えないけど人気作家にならなければ、火野葦平が優れた作家ではなければこうはならなかったんだよなあ。 『革命前後』の抜粋を『戦場で書く』から孫引き↓ 「惨禍と人間の破壊には、いかなる理由も弁解もはねのける恐ろしい罪がある。どんな戦争でも人間は戦争などをしてはならないのだ。それは勝利や敗北にかかわりのない人間の祈りでなくてはならない。 妄動は無価値であったろうか。昌介は胸を張る。一瞬一瞬の正直な実感こそが、人間の行動の中で信じられる唯一のものではあるまいか。真実には盲目であり、虚空に向かって感動したとしても、それは尊ばるべきではあるまいか。滑稽と暗愚との中にこそ、人間がいるのではないか。戦争も、国家も、歴史も、なにがなにやらわからない。革命の名の下に大混乱がおこっているが、その中で信じられるのは人間の、自分の、自分一人の実感だけだ。」 いい文章で感動する(『革命前後』は新版が入手可能だけど表紙が好きじゃないんだよなあ) 『戦場で書く』の感想として、火野葦平と石川達三の対比がとてもおもしろかった。 石川達三は朝日新聞派遣の従軍作家として南京事件を題材に日本兵の残虐さを描いた『生きている兵隊』を『中央公論』に発表し(その大部分は伏せ字だったが)発禁処分になり、取り調べを受けている。これは火野が徐州作戦に参加する少し前のこと。石川は判事から「国民は我が軍の軍紀の厳粛なることを信じているのであって、かようなことを書いたら日本軍人に対する信頼を傷つける結果にならぬか」と問われ、石川は「それを傷つけようと思ったのです。だいたい国民が、出征兵を神のごとくに考えているのが間違いで、もっと本当の人間の姿を見、その上に真の信頼を打ち立てなければだめだと考えておりました」とこたえている。こうした批判を公の場で口にできたひとは本当に少数だっただろう(『生きている兵隊』事件では石川は逮捕されず、『中央公論』の編集長だった雨宮庸蔵が引責辞任している。このひと美術家の雨宮庸介さんと関係あったりする?)。とてもかっこいいけど、その後石川は『生きている兵隊』での「汚名」を返上しようと従軍作家として戦地に赴いたりしている。この時代のひとで、たとえ批判的ではあっても"国が好き"以外の態度のひとって本当に見たことがない。それだけ個人と国のムードが近ったということか。 火野葦平と石川達三は『中央公論』昭和14年12月号で対談しているらしいのでなんとかして読んでおきたい。 『戦場で書く』はよく調べられているいい作品だなというか、時系列を追いながら複数の証言をたたみかけていくスリリングさはドキュメンタリーをつくるひとの仕事だなあと思う。気になったのは語り口で、「〜に違いない」に持っていくのがかなり早いなと感じた(ナレーション的というか)。記者的な役割のひとがしている「大衆性」の出し入れみたいな手つきって、あれってどこまで自覚的でどこまで無意識なんだろう。勝手な想像だけど、「大衆性」という半透明な膜を常に自分にかけているうちにそれが喰い込んだりとかあるんだろうか。「大衆として聞く」ための自分になっていくというか。
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