シークレット・エージェント

1件の記録
- CandidE@araxia2025年10月2日読み終わった癖が強くておすすめしづらいが、おもしろかった。深みがあった。 ーーーーーー 以下ネタバレを含む。 ーーーーーー 『シークレット・エージェント』の前半は、正直つらい。コンラッド特有の緻密な描写は気怠く、興味を惹かれない人物たちが断片的に現れては消え、政治や思想のレイヤーだけが積み重なっていく。タイトルから期待するエンタメは一切なく、華も求心力もない。私の察しの悪さも手伝って、ドラマへの導線がまったく見えず、物語は湿った霧のなかで空転し続ける。ギブアップしなかった自分を褒めてあげたい。 しかし後半をとうに過ぎた11章を境に、すべてが反転する。爆発する。ヴァーロックとウィニー、そしてスティーヴィーと義母の小さな家族に焦点が収束し、前半の散漫が、読者のまともな期待と感覚を鈍らせるための緻密な下準備だったと気づいて、めっちゃびっくりした。感情投資に思わぬ利子がついた嬉しさと、遅い、もっとシュッとやれ、という苛立ちが同居する。この二律背反こそ、今回のコンラッドの巧みだと思う。 その終盤の凄味は、人が壊れる順序のリアルにある。夫は、妻が弟を失っても夫婦を続けられると思い込むほど家族に無理解で、その無自覚が機械じみたエージェント本来の冷酷さを露わにする。一方の妻は、弟と母への共依存から解き放たれた瞬間、反動で一気に流され、狂気へ傾く。そのとき周囲に頼れる人間はおらず、ろくでもないクズだけが寄ってくる。その必然のリアルは、社会の設計が生み出す環境悪の縮図だ。夫の無理解と妻の共依存が平穏の基盤であった。そのように、この世界の各人は自分の立場では合理的に、局所最適に振る舞うのに、俯瞰すると陳腐で怠惰で性悪で、誰ひとり全体の破滅を止められない。ウィニーの刃も、その後の転落も、悲劇であると同時に、そうなるよなー、と納得してしまう。哀しみが沁みる。この世に生きているのが嫌になるほどエグい。 結句、本書で描かれるのは、奇矯な悪人の悲劇ではない。愛する作法を知るに到らない普通の人々が、制度と惰性の歯車の中で少しずつ壊れていく過程だ。コンラッドは物語前半で読者を意図的に撹乱し、退屈で麻痺させたうえで、鈍刀の一撃を入れる。痛みは鋭くはないが、骨の髄まで響く。その疼痛の好き嫌いを超えて残るのは、凡庸が累積した果てに生まれる暴力の気配、そして地獄の温床である。 前半部への不満は消えない。マジでどうにかしてほしい。けれど、その停滞があったからこそ、後半の真っ暗な人間ドラマは容赦なく突き刺さった。苦行のあとに訪れる痛みと哀しみの法外な利息が、この小説の唯一無二の魅力だと思う。ずるい。だるい。でも、いやあ、意外に味わい深かった。