

CandidE
@araxia
読書記録を主として。読めるときに読む。読めるうちに読む。
- 2025年8月23日世界を揺るがした10日間ジョン・リード,伊藤真読み終わった紀行文を読むノリでいけるだろうと踏んだら、これは革命だった(当たり前である) 正直、普通に読むのが難儀。ゆえに、まずは巻末の「ロシア革命関連年表」をじっくり眺め、わからない用語や歴史の文脈を押さえてから本文に進むことを推奨したい。 で、それでも、なんというか、文章がただ私の中を通過するばかりで、読後に残ったのは、よくわからない熱情のみ。この世のものでありながらこの世のものではない、夢と悪夢の摩擦熱。 本書には、リード自身の偏向や記録の粗が少なくない。たとえば文字の読めない兵士の検問で危うく銃殺されかかる場面は、机上ではなく弾丸の径内で書いた証左と言えるが、感情が不自然なほど抑えられていることに首をかしげざるを得ない。この本文に散見される非識字の兵士よる検問は、識字問題を強調するモチーフとして、革命の倫理的正当性と情報の解像度の高さを二重露光で示すと同時に、著者自身をヒロイックに演出する装置のように見える。ここに疑念が生じるが、それでも革命への情熱の迸りは、ある種の甘美である。この危うい二面性が、本書の魅力だと思った次第。 革命の熱に、誰よりも深く魅せられた若きジャーナリストによる、生々しく、主観に彩られた記録文学。
- 2025年8月23日ガルシン短編集 赤い花ガルシン読み終わったなんというか、普通に現代っぽい短編集、という印象。 収められていたのは、赤い花、四日間、アッタレーア・プリンケプス、めぐりあい、信号、ナジェジュダ・ニコラーエヴナ。どれも面白い。 『赤い花』は、内容としてゴーゴリ『狂人日記』とチェーホフ『六号室』の間に位置する感じの作品。『アッタレーア・プリンケプス』は、訳文の雰囲気も合わさって、宮澤賢治っぽい。
- 2025年8月22日地下室の手記フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフス,安岡治子読み終わった読書計画ではもう少し先の予定だったが、レーモントフ『現代の英雄』を読んだ勢いで、余計者の系譜として読みたくなった。相変わらずめっちゃ面白い。 当訳は、これまで読んだ中で最も、冒頭の主人公が理知的で自意識にも制御が効いているように感じた。これはこれでインテリという背景に整合しており、好印象だった。全体に分かりやすく、すっきりとしてとても読みやすい。文章のドライブ感も、人間としてイってしまった感じも、十分に味わえる。素晴らしい。 ただその分、他訳に比べてねっとりした低域は控えめで、自意識の諸刃の食い込みや神経症的な濁り、あの全てがガンギマったどうしようもない切迫感はやや希薄。良くも悪くも、一生後を引く猛毒は和らいでいるように思われた。読後感は一長一短。二、二が四。
- 2025年8月21日現代の英雄レールモントフ,高橋知之読み終わった余計者の系譜として読む。本人の手紙以降、エンジンがかかってきて楽しめた。 ーー 『では幸福とは何か? 十分に満たされたうぬぼれのこと』 巻末の解説も読み応えがあって素晴らしい。
- 2025年8月20日狂人日記ニコライ・ゴーゴリ読み終わった何度も読んできたけれど、今回については狂気の内部整合がやけに気になり、明日は我が身、と切実に思ってしまった。 私たちは主観を生きている。思考は当人の中では筋が通っている。だからこそ、全人類はいつでも狂気に片足を突っ込んでいるのであり、やはり明日は我が身。 くわばら、くわばら。
- 2025年8月19日
- 2025年8月18日
- 2025年8月18日
- 2025年8月17日大尉の娘プーシキン,坂庭淳史読み終わった後にトルストイやドストエフスキーにも影響を与えた、史実(プガチョフの乱)を土台にフィクションを織り込んだロシア歴史小説の雛形。普通に面白かった。そして同時に考えたのは、召使いのこと。チェーホフの『桜の園』。 『大尉の娘』のサヴェーリイチは、主人に忠実でありながら諫め役として働く、いわば外部の良心。対してチェーホフ『桜の園』のフィールスは、解放後に取り残された旧体制の象徴で、誰にも聞かれない独白とともに舞台に取り残される。その言葉には、チェーホフ自身の遺言の響きがある。突き刺さる。 すなわち『大尉の娘』は、主従関係が機能していた前史を描き、『桜の園』は、その余波の中で貴族世界が終幕へ傾く時節を描く。プーシキンは召使いに倫理の声を託して歴史を具体化し、チェーホフはその系譜の終点で、最後の言葉を召使いに託して旧世界に弔鐘を鳴らした。 こうして十九世紀ロシア文学が私の中で一本の線として結ばれる。チェーホフの遺言で完成したその連関が、実に感慨深い。
- 2025年8月16日スペードのクイーン/ベールキン物語アレクサンドル・セルゲーエヴィチ・プーシ,望月哲男読み終わった巻末の「読書ガイド」がすごく充実している。これは必見!プーシキンの生涯、ロシアの地図、詳細な作品解説が相当な分量で続く。さすがはロシア文学のビッグバン=プーシキンという扱いであった。 とりわけ検閲に関する記述から、時代の渦中でいかにプーシキンが命を張った文人であったかが伝わる。あっぱれ! また、賭博や決闘について、両者に通底するロシア的な気風が言語化されていて面白い。その濃厚なエッセンスはドストエフスキーへ直結している。すなわち、抑圧的な秩序=偶然のゲームとしての社会に抗って、賭博や決闘が自己発現のこの上ない舞台となる。 以下、その引用。 「偶然に翻弄される賭け事とは、渾身の力でリスクに立ち向かい、勝利も敗北も平然と受け入れる高級な快楽であるとともに、ちょうど決闘と同じように、抑圧的な社会にあって個人の自由な選択や裁量が保障される、数少ない自己発現の舞台でもあった。「規律正しい国家体制」の諸原則と、実際の社会を貫く恩寵やえこひいきといった恣意的な原理の交錯が、社会自体を一つの偶然のゲームとしていたとすれば、賭博はそれに対抗するもう一つのゲームだった。一枚のカード(=偶然)に大金を賭けてリスクを勝利へと結びつけようとする賭博者は、不可知の運に意志の力で対抗しようとする雄々しい闘士である。賭博熱は決してプーシキン個人の抱えていた特殊な問題ではなく、時代の精神の兆候であり、決闘と同じく公的には禁じられていながら、多くの貴族がそこにこそ生命の燃焼の場を見出していた。賭博の場は人間の真価を問われる自己表現の舞台であって、だからこそ、勝負の負債は何をおいても清算しなければならなかったのだ。」
- 2025年8月15日桜の園/プロポーズ/熊アントーン・パーヴロヴィチ・チェーホフ,浦雅春読み終わった『桜の園』をチェーホフの遺言として読む。不条理や無力を笑いに引き受けよ、と。 もし過去を一日だけ完全再生できるなら、1904年1月17日(ロシア旧暦。新暦では1月30日)、モスクワ芸術座での初演、44歳の誕生日と作家生活25年を兼ねた祝賀に立ち会いたい。祝辞を受けながら咳き込む作家の姿を一目見たい。 44歳の逝去は、現代基準では早すぎるかも知らない。けれども当時を思えば、結核を抱えながらその歳まで書き続けたこと自体、相当にタフであり稀有だ。やりきれたかどうかは当人のみが知る。ただ、死の直前まで戯曲を仕上げ、初演を見届けたことは、職業作家としてひとつの到達点を迎えたと言えよう。この演目を作者は喜劇と主張し、演出は悲劇と志向した。その捩れも踏まえた悲喜交々の瞬間を一読者としてライブで祝福したい。涙ではなく乾いた笑みを浮かべて。 我々の寿命や医療の行方はわからない。それでもチェーホフより長く生きられるのなら、『桜の園』に至るまでの、もう一冊分の時間がある。人生の不条理や無力を、慎ましい喜劇として受けとめる修練の日々と共に。軽やかに。
- 2025年8月14日ワーニャ伯父さん/三人姉妹アントーン・パーヴロヴィチ・チェーホフ,浦雅春読み終わった人生に意味がほしい。もっと優しくされたい。できるなら、今からでも取り返したい。 年齢や立場は違えど、これらは誰もが抱く願望で、単なる現実逃避とは違う。生存本能の副産物として、精神安定装置の役割を果たす希望であり、その希望は副作用の強い、手近な人生の鎮痛剤だ。おかげで、私は今日もまた、生き延びてしまう。 本書に収められた両作品は、田舎で時間がドロドロと溶けていく人々を描く。『ワーニャ伯父さん』は中年の自己憐憫を、『三人姉妹』は若き夢の緩やかな腐敗を扱っている。 その『ワーニャ伯父さん』の自己憐憫は、読み手の年齢を残酷に測る装置として、正義が加齢とともに変質する真理を、いやでも浮かび上がらせる。一方、『三人姉妹』は夢の腐敗を通して、皆が同じ場所で足踏みしている、というぬるま湯の連帯感に浸らせる。どちらも、やるせなさと切なさを心に残し、しみじみと痛飲したい気分になる。 チェーホフは、日常の凪と内面の焦燥、そして時空の滑りが交錯する舞台に、ごく普通の人生を現出させる。そこに劇的な転覆はない。だからこそ、刺さる。痛い。辛い。 「未来の世界では、人びとは気球に乗って飛びまわり、ジャケットの形も変わり、ひょっとすると、第六感なんてものを発見して、その能力を大いに発展させているかもしれません。でも、生活のほうは相も変わらず大変で、謎だらけで、それなりに仕合わせなものなんでしょうね。千年経ったって人間は相変わらず、『ああ、生きてくのがつらい!』と溜息をついてることでしょう。それに、死を怖がって、死ぬのをいとう気持ちも変わらないでしょうね」――『三人姉妹』より 今日も、なんとか生き延びた。慢性的な人生への不満は、明日直視しよう。いや、明日はまた忙しい。今度の休みの日にでも。 「モスクワへ、モスクワへ、モスクワへ!」――『三人姉妹』より 生きていればきっと意味がある、って本当ですか? それは、現状維持の受動的な自己欺瞞ではありませんか? 体裁を繕うのはやめて、死に物狂いで、モスクワへ行っちゃいませんか?
- 2025年8月13日
- 2025年8月12日自省録(マルクス・アウレーリウス)マルクス・アウレーリウス,神谷美恵子読み終わった他人の愚かさと如何に付き合うか、自分の欲望と老いをどう扱うか、不確実な未来にどう向き合うか、死の不可避性をどう呑み込むか。時代も地位も関係なく繰り返される人間の因果。 孤独が孤独で洗われる。清められる。依存したくなる、取り扱い注意な思想。
- 2025年8月12日
- 2025年8月11日
- 2025年8月10日
- 2025年8月10日読み終わった今回読んだ、光文社古典新訳文庫の3つのモーパッサン短編集の中で、相対的に個人的に最も面白いセレクションであった。主に後期の作品。 ーーーーーー 「ぼくが神をどう思っているかわかるかい。人間には窺い知ることのできない、奇怪な造物機関だ。一匹の魚が海中にいくつもの卵を産みつけるように、神は無数の世界を虚空に撒きちらす。神は創造する。それが神の職務であるからだ。ところが、神は自分のつくり出すものについてはなにも知らない。愚かしいまでに多産ではあるが、みずからが撒きちらした種子によって生みだされた物の、あらゆる種類の組み合わせについては自覚していない。人間の思考は、神の生殖行為からたまたま生まれた、幸運な小事件だ。局地的で、つかのまの、予期しなかった偶発事なんだ。地球とともに消えてなくなる運命にあるが、あらたな組み合わせが永遠に反復されることによって、ここか、あるいはべつの場所で、なんらかの形で復活するかもしれない。われわれは、知性というこのちょっとした偶発事のおかげで、われわれのためにつくられてはいないこの世界で、とても不自由な思いをしている。この世界は、思考する生き物をうけいれ、住まわせ、やしない、満足させるようにはつくられていなかったからだ。われわれが真の洗練された文明人であるとすれば、いわゆる神のおぼしめしというやつとたえず戦わねばならないのも、まさにその知性のせいなのさ」ー『あだ花』より引用
- 2025年8月9日
- 2025年8月8日読み終わったバルザックやスタンダールと比べ、ここまで時代が下るといよいよ小説は現代的。モーパッサンは、街角のスナップショットといった感じ。その編集感が量産型現代短編小説の雛型。 表題作、『脂肪の塊』『ロンドリ姉妹』も良かったが、個人的には、『散歩』が救いがなくよかった。が、ある種、若い作家が描く老人の絶望の型としてはありがちなのかも知れない。 ーーーー 「世の中には、悪い星のもとに生まれた人間がいるものだ。そう考えると、にわかに目のまえの厚いヴェールがとり払われたかのように、自身のかぎりなく惨めな生活が、単調で悲惨な生活がまざまざと目に浮かんだ。過去も、現在も、そして未来も惨めな暮らしがつづくのだ。最近の暮らしは過去の暮らしとなんら変わるところはない。自分のまえには何もないし、うしろにもない。自分の周囲にも、心のなかにも、そしてどこにも、何ひとつとしてないのだ。」ー『散歩』より引用
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