ちゃそす
@1000book_zautusu
2025年11月6日
現代倫理学入門
加藤尚武
かつて読んだ
15冊目。
現代にある日常的な倫理課題と向き合うことで、倫理学者の議論の入り口を覗き見るための一書。
「人を助けるために嘘をつくことは許されるか?」という問いに始まり、「他人に迷惑をかけなければ何をしてもよいか」といった本質的な問いに触れてゆく。
カントは厳格に道徳について定義しているが、厳格すぎるがゆえに普遍化が困難になっているという印象。「嘘をつくことはどんな状況下であっても悪である」という主張は正しいが、普遍化は難しい。やってよいこと=善、やってはいけないこと=悪であると人は認識しているが、現実には人を助けるためにつく嘘のような「やることが許される悪」があり、それが善である誤認される。こういった点が普遍化が困難な所以である。
真の道徳を普及させるには、強い拘束力が必要だ。悪は容易く、善は行い難し。愚者でも扱える道徳的基準を探求するのが倫理学なのだろう。
一方でベンサムの理論は現実的だ。人は利益のみを追求して生き、道徳的行為もすべて、長期的利益が得られるからこそ行われる。自己犠牲も、結局は本人がやりたいという意欲を満たすために行っているにすぎない。これは事実ではあると思うが、誰しもが長期的利益=道徳のために行動できるわけではない。
どうにも人の本性を理想的に捉えすぎている。
欲望に従って短期的利益を求めることはたやすいが、理性的に長期的利益を追求することは容易ではない。
ミルの自由主義でも、こういった点が課題になっているのだと理解した。
功利主義の欠点は全体の利益を計れないことであるが、「最小限の刑罰で最大限の抑止力を」という観点では矛盾がないように思える。もともとが罰則についての考えであったのを、善の定義まで拡張したことで破綻が起こっているのだろうか。
共時的価値観は、事実との乖離がある。個人の全ての行動はその個人以外のすべてに対して何らかの形で影響しており、独立した振る舞いは存在しない。
引用された大半の主義・主張は、この現実に則さない西洋の共時的価値観の中で生まれたからこそ、破綻が起こっているように思われる。
東洋の通時的価値観、「お天気さまが見ている」のような価値観の中に普遍的な道徳があるのか、という議論はあるのだろうか。既に通時的価値観のある社会では「倫理学」は不要だからこそ、そこから倫理てき思想が生まれない…ということもあるのだろうか。
全体を通して、倫理学の課題は最小限の拘束力で、最大の利益を生み出す社会的道徳基準を考えることなのだと解釈した。そのために倫理学者は、概念的な言葉を明確に定義し、普遍的に適応される文章を紡ぐ。 ただ、それが文章の難しさ、理解のしづらさを生み、倫理学への門戸を狭めているようにも感じた。
倫理とは大衆のための議論なのだから、大衆はもっと倫理学に関心があって然るべきであるが、こうした敷居の高さから、大衆が触れる機会を損失しているようにも思える。 本書には「入門」の文字があるが、全体的に難解な文章が多く、何度も読み返したり、調べたりしながら読み進める必要があった。
もともとが放送大学の教材として書かれた本とのことで、説明が簡略化されているのは仕方がないのかもしれないが、正直なところ、もう少し一般にわかりやすく書けないものかと思わずにはいられなかった。
こういった倫理学者の悪癖とも言える習性からは、道徳的基準は知的な一部の人間が決めればよい、という潜在的な選民思想のようなものをどうしても感じてしまう。
実際に、道徳、正義、善について深く考える中で、「自分ほど道徳を考えている、道徳的な人間はいないだろう」というエゴイズム的錯覚に陥ってしまうこともあるのだろう。人はエゴイズムからは逃れられない。
ベンサムの主張の正当性が皮肉にも垣間見えた瞬間であった。
本書をなんとか読破したが、まだぼんやりとした輪郭でしか倫理学をつかめていない。
他にも倫理学の本を読んだ上で、再読してみようと思う。
(追記)
ふと、倫理とはなんのためにあるのかを考えた。
人は社会という「協力関係」を形成することを生存戦略としている。この協力関係から外れる「例外」を一度許せば、解釈は拡大し、社会への信用が低下し、やがて社会は崩壊する。この「例外」を排斥しようとする働きが、倫理なのかもしれない。
