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ちゃそす
@1000book_zautusu
1000冊読むのが目標です。
  • 2026年5月27日
    マーダーボット・ダイアリー 下
    マーダーボット・ダイアリー 下
    47−48  かつて、統制システムのエラーにより警備対象である人々を殲滅した警備ボットの”弊機”は、システムをハッキングすることで自由になった。それでも、”弊社”の下で顧客を警備する日々を続けていた。  ある日、顧客が巻き込まれた事件によって、”弊機”は統制システムをハックした暴走ボットであることが顧客にバレてしまう。襲いかかる危機を切り抜け、”弊社”からも解放されて真に自由の身となったが──?  とても面白かった。普段は進んだページ数を見て「これだけ読んだな」となるところ「あとこれしか残っていない」と思いながら読み進めた。  SFにはアンドロイド、ロボット、サイボーグ、人造人間など様々な形態があるが、”弊機”は構成機体という、ロボットをベースに生きた人間のクローンパーツを組み合わせた、逆サイボーグのような存在なところがまず新鮮だった。それでいて、人間が苦手なのに連続ドラマ視聴に耽溺することが好きという個性的なキャラクターがとても魅力的だ。  勤務中も「早くドラマが見たい」とぼやいたり、ことあるごとに「これはドラマでいうところの──」とメディアの知識を披露したりと、ボットユーモア溢れる語り口がとても面白い。人が苦手なのに関心はあって、時に努めて人のフリをする。人外の持つ人間っぽさと非人間らしさそれぞれがとても味わい深い。  自由になって命令を受けることのない状況で「非人間であるボットは人とどう関わっていけばいいのか」というテーマ、人が嫌いなのに仕事でなくても護るべき対象として認識していたり、メディアが好きなのは人と関わらずに人のことを知れるからだったりと矛盾する内面を抱えているところを、ASDの人に関心があるのに上手く関われないところと重ねて見てしまったところが正直ある。  だからこそボットは人間になりたがっているというのは人のエゴで、むしろ人間になんてなりたくないと思っている、というのはマーダーボット自身のアイデンティティであり、人とは違う存在としてのアンサーに思えた。そのセリフには勇気をもらった。  ごちゃごちゃとあれこれ述べたが、とどのつまり私は人外がヒトのフリをしているのが大好物なのである。  これから続編を大事に読もうと思う。
  • 2026年5月27日
    マーダーボット・ダイアリー 上
    マーダーボット・ダイアリー 上
  • 2026年5月25日
    カブーム!
    カブーム!
    46    全ての子供達に遊び場を!  カブームは、アメリカの各地に遊び場を建設する非営利団体だ。創設者ダレルの、これまでの経緯を語った一冊。  すごくアメリカンというか、ヒロイックなノリを全体から感じた。とにかく成功の部分が厚く語られ、困難や失敗にはあっさりとしか触れられない。そもそも活動そのものからアメリカ的な文化背景を感じた。  企業からのファンドを得て慈善事業をする非営利組織、というのは日本ではあまり見られないモデルのように思える。これも「持つものが持たざる者に施す」という宗教・文化観から来るものなのだろうか。日本だと、全員が社会に対して責任を負っている、という感覚で、一方向の施しみたいなものはあまり見られないような気がする。  カブームの思想では、一方向の施しでは持続性がない、という点が重要視されている。コミュニティ主導で遊び場作りを推進していくことで成功体験を与え、今後もコミュニティが活発に運営されるきっかけを作ることが主題だ。作るものが遊び場なのは、子供がコミュニティの中心であるから、という見方もできる。実際、ただ与えられただけの遊具は管理されず、荒廃していくという。 「遊び」というと娯楽のようなニュアンスを感じるが、子供にとっての遊びとは、全身と五感を最大限活用して世界を知ろうとする働き、これから歩む現実世界のシミュレーションであり、子供にとってなくてはならないものだ。だからこそ子供はどんな場所でも遊ぼうとするし、危険なエリアで子供が亡くなってしまうような事態がアメリカでは問題になっている。一方で日本では荒廃した公園が麻薬密売所になるようなことも、子供を守るために親が子供を外に出さないようなこともなく、国や市町村によって公園が建築・維持され、どこでも安全に遊ぶことができる。今までなんとなく通り過ぎていた公園は、日本の公共福祉の賜物なのだとわかった。  こういった、日本に根付いた公共意識が、これからもずっと守られていけば良いと思う。
  • 2026年5月5日
    ハサミ男
    ハサミ男
    43  ハサミ男の三人目の犠牲者。彼女の喉元に手が届くと思ったその時──彼女は何者かに殺された。ハサミ男を模倣する何者かの手によって。なぜ、私 (ハサミ男)以外に彼女を殺す必要があったのか?    堀之内が登場した時、私は思った。「お前が犯人だな?」  何せ、見た目は好青年、気さくで、優秀。そんな人物が、実は……というのが私は大の好物なのである。なので半ばコイツが犯人であってくれという願望も込めつつ、彼が犯人であるという疑いの下読み進めた。  そして若手警官磯部。堀之内に見染められたおっちょこちょいな彼から、私は松田を連想した。キラと判明したライトを撃つ光景も思い浮かべた。そう、私はデスノートが大好きなのである。  堀之内があえて磯部を選んだのも、彼が最もアホで扱いやすそうだとかなんだとか考えたのかもしれないと思った。そしてその予想は的中した。  堀之内によるハサミ男の精神分析で、2丁目のハサミについて言及されていないことが刑事から指摘されるのだが、その時私は「やはりコイツなのか……?」と半ば確信した。  堀之内目線、2丁目のハサミは本物のハサミ男からのある種のメッセージのように思え、相当不気味で気が気でなかっただろうことを思うと笑えた。こいつ、相当焦っているはずだぜ。  そうして私は堀之内とハサミ男にライトとLのような対立構造を感じながら、わくわくと読み進めた。    そして堀之内とハサミ男との対面シーン。部屋の死体に驚く堀之内。 「たかがそんなことで人を殺すなんて、あなたは頭がおかしいんじゃないか」  ハサミ男にこう言われ、逆上する堀之内。  最高。  そして磯部くんの登場。私の想像通り、ライトと松田のような展開に。自分を撃たせようとするハサミ男に怯える堀之内もよかった。犯罪者心理の深淵を直接覗いたのは初めてだったのかもしれない。 「わたし」が女性であることは意外だったが、特段重要なことには思えなかった。ハサミ男が自身の精神に興味がないように、私もハサミ男が何者なのかに興味はなかった。ただ堀之内がハサミ男と対面してどうするのか、というところだけが私の関心を惹いた。  なので堀之内が部屋にやってきて、私が望んだ通りの反応をしてくれて嬉しかった。優位に立っている (と本人は思っている)はずが本物のサイコに掻き回されるところ、ちゃんと内心でノンキャリア組を見下していたところ、女子高生と本気で恋愛しちゃうところ、煽り耐性の低さ、賢い割に迂闊なところ、全部が素敵だ。最初に想像したエリートに擬態する殺人者像とは違ったが、「ホンモノを前に打ちのめされるニセモノ」として完璧な振る舞いをしてくれたと思う。  ミステリーには苦手意識があった。それは謎を解く動機に共感できないと読むのが辛いからだ。ただ本書は「殺人鬼が模倣犯を追う」という分かりやすい動機があるので読むのが苦にならなかったし、堀之内が真犯人だと早い段階で気がつけたことでより楽しく読み進めることができた。本書をきっかけに気が向いたら他のミステリーも試してみようと思った。
  • 2026年4月30日
    旅のラゴス
    旅のラゴス
    45  南を目指して、ラゴスは旅をする。 顔真似、壁抜け、卵道、銀山の奴隷狩り・・・ なぜ南を目指すのか。なぜ旅をするのか。旅とは何なのか。 一生涯の旅を描く物語。 始め、超能力のある不思議な世界を旅する話で、独立したエピソードからなる短編集のような話なのかと思ったが、読んでみると舞台はSFで、ラゴスの生涯の旅を刻んだ連作長編だった。 旅の愉快さと危険、出会いと別れが繰り返し描かれた先でたどり着いた南の国で、ラゴスの目的とこの世界の成り立ちが明らかになる。 出会う人物は皆、現実の人間のようなリアルさはないのに、妙に生き生きと感じた。比喩も風景描写もコンパクトなのに、ラゴスの目を通じて豊かな世界を感じることができる。  生物として人は本来、一所に定住せず、流浪する生き物だという。読み終わってなんとなく、散歩に出かけたくなる。そんな作品だった。
  • 2026年4月28日
    給料はあなたの価値なのか
    給料はあなたの価値なのか
    44  給与を決めるのは職業の特性でも、あなたの労働力としての価値でもない。 では、給与をはどのようにして決まるのか。 「権力」「模倣」「慣性」「公平性」 この四つの観点から、給料に関する神話を紐解いていく。 雇用主も、労働者も、等しく「成果に応じて賃金を支払う (受け取る)べき」であり、「成果に応じて賃金を支払っ (受け取っ)ている」と考えている結果が本書では示されている。 だが、その成果はどうやって測れば良いのだろうか。 生産力?売上?契約数? わかりやすいものもある。だが、それは本当に個人の成果と言えるのだろうか。 どの成果も協力や連携といった相互作用下において得られたものに他ならないとしたら、一体どうやって個人の成果を切り分ければ良いのだろうか。 契約件数が給与と直結する営業は、他をフォローすることや、顧客の利益軽視するかもしれない。 このように単一視点での評価はこういった社員同士を協力させるよりもむしろ競わせ、協力や連携によって生まれるはずだった生産力を損なう結果につながってしまう。 事業の発展における個人の成果とは、定量的測定できるものではない。 では個人の能力によって給料が決まらないのだとしたら一体どうやって私たちの給料は決まっているのか?それは、4つの要素によって決まる。 一つ目は「権力」。 権力者、つまり雇用主によって賃金は決められる。低い賃金は労働者と雇用主の間に対立を生み、幾重もの交渉を繰り返した末に双方の妥協する賃金に収まっていく。そうして労働者が屈した、あるいは勝ち取った賃金はそのまま受け継がれていく。これが「慣性」だ。そして新たに生まれた企業は既存企業の賃金を参考にして自社の賃金を決める。これが「模倣」。最後に雇用主は同等の仕事に従事する労働者間の賃金格差をなるべく小さくしようとする。それが「公平性」だ。この4つの力学によって給料は決定しているのだと本書では主張している。 中でも特に「権力」と「公平性」に筆者は注目している。 ステークホルダーとして株主が重要視するべきという動きにより経営者の報酬が株式に連動するようになったことで、株主資本主義が訪れた。これにより、経営者は従来の経営者企業モデルで重視された社会的責任、つまり従業員や顧客サービスへの還元よりも、株主への責任を重んじるようになった。 本書でも資本主義のダークサイドと書かれていたように、私はここに金融の悪辣さを見た。金融的な尺度だけで物事を測ると、企業活動は利益の奪い合い、つまりゼロサムゲームのように見えてしまう。だが、幸福はゼロサムゲームではない。従業員の賃金、顧客へのサービス、地域社会への責任は、株主利益と必ずしも対立するものではないはずだ。 金融の、利益を総撮りして”勝者”になろうとする働きは、一方でたくさんの敗者を生み出す。サービスの価格を上げ、従業員の賃金を削り、結果株価が上がったとして、本当にそれで良いのだろうか。 世間の幸不幸は巡り巡って必ず自分のところにやってくる。そういう世の中の法則を株主資本主義の動きは全く無視しているように思えて、私はそれを好ましくないと感じた。 話が逸れたが、この株主資本主義がアメリカで賃金が上がらない要因の一つであるという。経営者が従業員の給料を上げることに対する株主の制裁が、経営者の判断を難しくしている。 この解決手段として、取締役会に従業員も参加するべきだという考えがある。全ステークホルダーに向けて説明責任を果たすことが、経営者企業モデルへの回帰につながると考えられている。 「公平性」に関しては、日本のサラリーマンにとって興味深いことがたくさん書かれていた。 同じ業務をしている二人の間に給与格差があったとき、低くもらっている方は不公平だと感じ、会社へ同等の給料にするよう訴えるだろう。だが、自分が他よりも少ない給料をもらっていることを知らなければ行動を起こすことはない。つまり「公平性」のためには、従業員全員の給与を知ることが重要である。 アメリカでは従業員が給与について話すことを企業が禁ずることを違法としている。それでも守らない雇用主が多いのは、情報が従業員へ給与交渉のための力を与えるからだ。 日本ではそういった規則はないが、なんとなく給与に関して話すことをタブーとする空気がある。だが自分の給与が、昇給が、評価が正当なものなのか、自分の給与だけでどう判断できようか。もっと従業員間で気軽に給与について話せるような環境があれば、組合への参加意識や交渉力ももっと増すのではないだろうか。 私たちは給与を自分の価値と結び付けて、低い給与は自分の評価を反映していると思うからこそ、給与について話しづらさを感じるのだと思う。 だがこの本に書かれている「給与は個人の評価によるものではなく、単純に需要と供給によるもの、あるいは社会的な力と政治的権力によるのものである」という主張は、私たちがもっと給与についてオープンに話し、正当な給与額とは何かについて考えることを助けるだろう。今日本では給与の伸び悩みが問題になっているが、今の給与体制をただ受け入れるのではなく、そもそも今の給与額は「権力」と「模倣」、「慣性」によるもので、正当な根拠などどこにもないのだということを念頭に置いた上で、一人ひとりが考えていかなくてはならない。本書はそのきっかけをくれた。
  • 2026年4月17日
    こころ
    こころ
    42  鎌倉の海で出会った「先生」。「私」はこの「先生」に妙に惹かれ、ついて回った。  けれども「先生」、に時折差し込む暗い影の正体が、「私」には遂に分からずにいた。  父が床に伏せて国元に帰ったある日、先生からの手紙が届く。そこにある一文を見て、「私」は国元を飛び出した。手紙には、「先生」の生涯の記録が書き綴られていた。 「この手紙があなたの手に落ちる頃には、私はもうこの世には居ないでしょう。とくに死んでいるでしょう」  国語の教科書にあったことは覚えていたが、読んでみてどこが教科書で抜粋された部分だったのかは結局分からず仕舞いだった。あらすじとセットで抜粋があった気がしたが、読み終わってみて「それだけで分かるかよ!」という気持ちと、「いや、名作に触れる機会を作りたかったのか」という気持ちとが半々ずつある。授業をきっかけに全部通しで読もうとする子もいるのだろうから、やっぱり作品に触れる機会を作るのは大事だろう。かくいう私は授業で習ってから十数年経って、漸く手に取ったわけだが。  やっぱり、先生と遺書パートが最も印象に残っている。死に至る自己矛盾とその苦しみについて、人間の芯が自壊するその有様について、その鮮明な描写が立体的に脳裏に浮かぶ。特に印象的なのは次の一文だ。  ”もう取り返しがつかないという黒い光が、私の未来を貫いて、一瞬間に私の前に横たわる全生涯を物凄く照らしました。”  先生の運命が決定する残酷な瞬間の悪感、予感、悪寒を読み手に刻みつける、凄まじい文章に感じた。そして先生がやはりKに引き寄せられるように同じ道を辿って行く悲痛さから、目が離せなかった。    生きようとする力と、死の誘惑との対立、葛藤、苦しみ。散る桜が美しいように、自殺には人を惹きつける儚さがあるように感じる。  もっと早く死ぬべきだのに何故今まで生きていたのだろう。  この一文からは、ボロボロに擦り切れ、苦悩で塗り固められて丸まった胎児が浮かんだ。八方塞がり。出口はない。それでも、自殺とは死にたいから死ぬのではなくで、生きてゆこうとする心の働きが前に進もうとする時、死ぬ以外他に道がないからその道を選ばざるを得ないのだと思った。生きるために、死ぬ。どうしようもない矛盾とわかっていても、他に手段はない。 「私」はなぜ筆を取ったのだろう。あれから、「私」の人生には何があったのだろう。「先生」の経験を受け取って、それからどうしたのだろう。「先生」の血潮は、新しい命として「私」の筆に宿っている、ということなのだろうか。
  • 2026年4月4日
    ジャガー・ワールド
    41  太陽が昇り、沈み、また昇る。生き物が生きていく上で犠牲が必要なように、宇宙の運行にも犠牲を必要とする。  人々は、生贄の心臓を火に焚べる。神聖な戦いを神に捧げる。太陽が再び昇ることを願って。  とある国が滅びる時、生贄の運命から逃れた者たちは、それぞれの思惑の中で生き、死んでいった。  複数の登場人物の視点から物語は語られる群青劇として物語は進む。後半、キャラクターたちの運命が交わることで、物語は加速していく。  元生贄の少年、元生贄の最強戦士、生贄の運命から逃れた最高神官、家を追われ、生贄にされかけた元王子。  生贄文化を中心に、物語は動いていく。  アステカ文明に似ているな、と思ったが、マヤとアステカは時代は異なるものの地理的にかなり近い、ということで類似性に納得した。  レリィの言ったことを理解していたのは結局カザム・サクだけで、民衆には何も伝わっていなかった描写が心を打った。そのカザム・サクも、文字を占有したがったウェラス族の審判によって死に至る。時代の価値観を変容させる意見には保守的な力が働くのは当然だが、それにしてもかなり打ちのめされている。二人の蒔いた種はどこかで芽吹くのだろうか。現実世界では渡来したスペイン人によってマヤ文明は滅ぼされたことを考えると、カザム・サクの思い描いた生贄廃止と文字の共有による強固な国は生まれなかったのかもしれない。何にせよ、この先どうなるのかは読者の想像に委ねられる。  生贄、というと現代の価値観では壮絶な感じがするが、当時の価値観の中では合理的な理由によって行われているのであり、だからこそ自分がその対象になるでもしない限りは疑問もなかなか抱けないだろう。だからこそ生贄の運命から逃げる者たちは、そうでない人々よりも自分で考え、行動することができた。  世界の空気やそこで暮らす人々がミニマムな描写で生き生きと描かれる、今までにない作品だった。
  • 2026年3月25日
    三体3 死神永生 下
    三体3 死神永生 下
    39〜40  面壁計画という荒唐無稽な計画の偉大な功績により、地球文明は三体文明の侵略を抑制することに成功する。  それから、人類にとって平穏な日々がしばらく続いていた。しかし、それは同時に再び人類の傲慢を肥大化させることとなる。  航空宇宙エンジニアである程心は、PDC戦略情報局への所属をきっかけに、地球文明の命運を握る数奇な運命に巻き込まれていく。  三体文明の侵略、という問題を解決することが前作の主目的であり、その目的が達成された後の世界はどうなるんだろう。羅輯はどうなったんだろう。という疑問を抱きながら本書を読み進めると、物語は危機紀元初期、面壁計画の裏で進行していた階梯計画の描写から始まる。  計画の裏で羅輯の影がちらつく中、階梯計画は当初思い描いていた通りには進まないまま、程心の冬眠によって時代が進む。  前作とは違って様々な時代で物語が動くので、冬眠で各紀元を渡り歩く程心は、新時代に対する新鮮な思いを読者と共有する役割を持つ。  最初に程心が目覚めたのは抑止紀元の終盤。そこで、羅輯が再び登場する。執剣者。ダモクレスの剣を支える者。  「敵と相対する時大切なのは、相手の目を睨みつけることだ」  羅輯は約50年もの間、三体文明の目を見つめ続けていた。壁に向かい続ける真の面壁者となった。  本来快楽主義者であるはずの羅輯の、三体2終盤以上に磨きのかかった姿が見られて感激した。  3では快楽主義者の一面が、今度こそ逃れられない終焉を前にした時の落ち着きようとして活かされ、より魅力的で頼り甲斐のあるキャラクターになっているのは嬉しかった。  主人公の程心は時代と運命に翻弄される博愛主義者だ。  そして彼女の愚かさと言い換えられるかもしれないほどの純粋さと博愛精神が、この物語を動かす。  彼女の愚かしさは人類自身の愚かしさでもあり、一難去ってまた一難、といった具合に、何度危機を前にしても一枚岩にはなれない人間らしさは前作からご存命。一度や二度の危機じゃ人は変わらない。変わったのは、章北海の蒔いた、地球から旅立った人類だけのようだ。地球から切り離されると、人は5秒で全体主義に変貌する。個人的に「新技術によって人がどう変化するのか」というのがSFの醍醐味の一つだと思っているので、人の変わるところ、変わらないところそれぞれが描かれているのがよいと思った。  程心と雲天明はまさに天の川を挟んで交流する織姫と彦星のようであった。星と物語をプレゼントするロマンチックさと、その裏側にある冷たい現実。そして最後に彼のプレゼントした小さな宇宙。  ずっとすれ違い続ける二人は織姫と彦星のようだ。最後、AAと雲天明の残したメッセージは時の偉大さと人の儚さを感じさせた。  筆者はおそらく絵が好きなのだろう。前作から絵画の比喩が文章で何度も使われている。とうとう本作では宇宙が巨大な一枚の絵になってしまった。二次元化攻撃のアイデアは、筆者の趣味の影響が大いにあるのだと思う。本作の影響で、今後ゴッホの月夜を見たときに二次元化宇宙を想像してしまいそうだ。  私はあまりSFを読んだことはないのだけれども、次元や光について、比較的新しいの物理学的知見が盛り込まれていている点が新鮮だった。科学が進むほどにSFの枠もどんどんアップデートされていくのかもしれない。  智子の壁は現実にはないわけで、もしかしたら更なるブレイクスルーがこの数十年で起こるのかもしれない。今まさに、AIによるブレイクスルーが起きている。私たちが生きているうちにホーアルシンゲンモスケン産のものを手にする日は来る可能性もあるかもしれない。
  • 2026年3月9日
    三体3 死神永生 上
    三体3 死神永生 上
    メモ "地獄とは、地面の下ではなく空の上にあることを知っている" "不真面目で無責任な男だった羅輯は、半世紀にわたって壁に向かい続ける真の面壁者となった"
  • 2026年3月5日
    三体2 黒暗森林 下
    三体2 黒暗森林 下
    37〜38冊目(上下セット)。  約400年後、異星の三体文明がやってくる。地球文明を滅ぼしに──。  敵文明は遥かに高度。智子によって地球文明の進歩は封じられ、地球上全ての情報は筒抜け。  打つ手無しかと思われたが、それでも人類は諦めなかった。  面壁計画。  選ばれた4人の代表の、人類すら欺かんとする、孤独な戦いが始まる。  三体人は思念で直接コミュニケイトするため嘘や偽りという概念がない、というのは2で新たに明かされた設定だ。その隙をついて人類が立案した起死回生の一手が面壁計画だ。智子は人類の思考までは読み取ることができない。そして、三体人には策略や謀略が理解できない。  誰にも計画内容を明かすことなく、個人の脳内で三体文明に対抗する計画を立案、実行する。これが計画の概要だ。  対して面壁者に対抗するため三体文明の刺客、破壁人が計画を明かそうと裏で暗躍する。    主人公の羅輯は国連にも、彼自身にも本当の理由はわからないまま面壁者に選ばれる。鍵は三体文明が唯一脅威と見做している、葉文潔から聞いた1つの理論。  理論の一端を垣間見たその時、彼は彼自身の破壁人でもあると理解する。彼自身が、彼自身の計画を理解しなければならない。  彼は快楽主義者で、いわゆる「ダメ人間」な一面のあるところが読者の共感を誘うが、一方ではちゃんと優秀で、面壁者としてお尻に火が着くと途端に有能な働きを見せるのは「やる時はやる」理想型の主人公でもある。  上巻の終盤に彼が動き出してから、そして下巻にその結果が現れてから、物語は加速する。三体文明が何を恐れているのか、なぜ人類に知られてはまずいのか。その答えは面壁計画によって最後まで隠され続ける。  面壁者の計画は読者にも明かされない、まさにブラックボックスなところが本作の面白さの1つに感じた。    章北海はサブ主人公のようなポジションで覚悟と信念に染まった魅力のあるキャラクターだ。  彼は人類にとって重要な役割を果たし、最終的には「暗森理論」の裏付けとなる事件に立ち会うことになる。そして独断で導き出した結論から、彼は自ら面壁者のように振る舞い、読者を驚かせた。  上巻の前半にあった「二人が最も接近したのはこの瞬間が……」といった文章から、どこかで羅輯との接点が生じて物語が大きく動くものと期待したが、最後まで2人が直接交わることがなかったのは少し残念だった。  結果章北海の考えは正しく、人類文明はどうあがいても技術的に三体文明には勝てないことが判明する。水滴を確保するロボットアームの描写はまるで猿がスマートフォンを拾っているように思えて、三体文明の嘲笑が聞こえてくるようであった。  作中で人類社会は悲観や、混乱、楽観、絶望などコロコロと顔色を変えて忙しそうにしている。  こういったSFで「共通の敵を前に団結する人類」というファンタジーが突拍子なく出てくると個人的に興醒めするのだが、本作では三体文明という共通の敵が現れてもなお政治や陰謀の尽きない人類らしさが描かれてよかった。こういったところに、もしかしたら中国人ならではの政治に対するシビアな視点が現れているのかもしれない。  黒暗森林理論はフェルミのパラドックスへの解答の1つとして本作の重要テーマとなっている。  個人的にはゲーム理論のようにも感じた。  理論の重要なファクターである猜疑連鎖は、葉文潔自身が経験したものでもあり、全ての始まりである前作の文革描写との繋がりが見られる点が美しい。SFとしてのアイデアと中国人ならではの感性が融合した、今までにない作品なのだと感じた。
  • 2026年3月5日
    三体2 黒暗森林 上
    三体2 黒暗森林 上
  • 2026年2月28日
    皇国の守護者(8)
  • 2026年2月28日
    皇国の守護者(7)
  • 2026年2月28日
    皇国の守護者(6)
  • 2026年2月28日
    皇国の守護者(5)
  • 2026年2月28日
    皇国の守護者(4)
  • 2026年2月28日
    皇国の守護者(3)
  • 2026年2月28日
    皇国の守護者(2)
  • 2026年2月28日
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