
にゃめたま
@seiji_s
2026年3月13日

ヘッセ詩集
ヘッセ,
片山敏彦,
若松英輔
読み終わった
好きな詩
閑な思想、高原の夕暮、わが心の憂欝に与う、エジプト彫刻の一蒐集の中で、雨の日々、平和、幸福、編輯部からの手紙、新しい家に移る
わたしにとってこの本の解説部分が重要だったみたい
詩の読み方が分かったような気がする
以下自分用の抜粋メモ(長い)
"詩情とは、論理を超えて真実とつながろうとするはたらきだといってよい。詩情とは何かを語り尽くすことはできない。だがそれは確かに存在し、それにふれたとき人は、永遠や普遍といった実在を経験する。桁ちることのないものとの関係を深める必要があるとき、人は心底から詩情を求める。"
"人間が騒乱の中で、自らの居場所を破壊しているときも、天空の星々や野に茂る草々は存在の秘義を全身で表現していた。しかし人は、そのことに気が付かない。自然は人間とは異なる「コトバ」によって真実を語る。それは隠されてなどいない。人がそれを見過ごしているのである。"
"真に詩の可能性が開花した言葉は読む者を安易な「答え」になど導かない。むしろ、問いにおいてつながろうとする。詩に答えを求めてはならない。詩は明確な答えの境域を過ぎたところに胚胎する。そして、問いを胸にして詩集を繙くこと、それが詩との関係を深めるために必要な、もっとも重要な態度なのである。"
"まずはゆっくり読む。意味を追うのではなく響きを味わうようにして読む。理解しようとするのではなく、詩とつながろうと試みる。
詩は言葉で紡がれた絵でもある。私たちは時間さえあれば、慌てて絵について理解しようとはしないだろう。まず、それとつながり、何かを感じ、そこに顕現するイマージュを認識する。
ここで終わってもまったくかまわない。むしろ、そうした場合のほうが多いのかもしれない。その上で理解するべきことがあれば知の力を用いればよい。詩も同じである。まず、つながり、感じ、認識し、必要であれば理解する。詩との関係の深化に理解は必須ではない。"
"人が「神」と呼ぶもの、この「世界」も一つの象徴である。一本の花も一冊の本も一人の人間も、あるいは一つの想念すらも、真の大いなるものから発せられた象徴、つまり意味的実在なのである。あるとき円は、いくつかある図形の一つに過ぎない。
だが、それがある条件下で立ち現れるとき、それは完全を意味する象徴となる。心理学者のユング──ユングとヘッセにもつながりがあった──の言葉を借りれば、あるものが人間の魂に息づく「元型」と呼応するとき、それは象徴となる。"
"また、その人の死はその人にだけ訪れる。当たり前なことではないかというかもしれない。だが、このことこそ、その人の唯一性を保証している。私たちは誰かと競争したり、自分を誰かと比べる必要はない。人間は比べ得ないということをその本性とするのである。こういってもいい。私たちは自分を誰かと比べるとき、自分が誰であるかを見失う。"
"詩集を読むときは、そのすべてを受け容れる必要はない。時が経過しなくては関係を深められない詩というものもある。だが、もし自分への手紙のように感じられる作品があるなら、しっかりと受け止めておいたほうがよい。そう感じる理由を誰かに説明する必要はない。その人に宛てられた手紙には、その人にしか読み解けない秘められた文字がある。むしろ、そうした隠された言葉を見出せたとき、その詩は「魂への贈りもの」へと姿を変じる。"
"真の幸福を探したいと願うなら、幸福と呼ばれるものから少し距離を持たねばならない。それはどこまでも世にいう幸福であって、あなたが出会わなくてはならない幸福とは異なるものであるかもしれないからである。私たちは幸福とは何かを探究するまえに平安の本質を探さねばならない。
ここで「目的」と訳されている言葉を私たちは「目標」と呼ぶことがある。何かを目指すのは良い。しかし、それも一つのとらわれであることを私たちは忘れてはならない。ほんとうの幸せとは何かを達成したときに与えられるものであるより、自分が自分でいられるときに深く実感される「落ち着き」、すなわち安堵だというのである。"

