
yu
@meeea01
2026年3月14日
さようなら、オレンジ
岩城けい
読み終わった
良かったです。と安易に言ってよいものかは悩みますがそれ以外の言葉が見つかりません。
読了したばかりで、まだ言葉が熱々で触れられないため、手に取れる温度になってからまた追記したいと思う。
本文も勿論、小野正嗣さんの解説もとても素敵でした。
あと改めて思うのが、一冊本を読むと著者や登場人物の思考様式をコピーしてしまうので、その人のような文体や言葉選びや比喩を使ってしまうなということ。
頭の中にある辞書内の言葉の組み合わせを、読んだ本に影響されて、編集する自我が変容する。
小説の中の人物に引き出された新しい自分との邂逅。
これもまた物語に、書物に触れることの一つの楽しさなのかもしれない。
もっと出会いたい。いろんな人に。そしてその人から引き出され、新しく変容していく自分に。
今だからこそ読まれて欲しい作品でもある。
また読み返したいと思います。
以下、引用。
p39-40
そして、外国語を学んでみて初めて、気づかされたことのなんと多いことか。話すこと聞くこと、つまり音声は社会生活の実地に学び、特に精神的肉体的に歓び、もしくは痛みをともなうときに強い感情と結びつき、耳や舌に永遠に刻印されます。
しかし、読むこと書くこと、つまり思考の支えになる言語を養うことは個人的でしかも、彼もしくは彼女の頭の中でさまざまに形を変え繁殖します。それは、胸の底の奥深くに言葉の種を撒くことに似ています。若いときは易しいことだというのに、歳を重ねると硬くなった土を掘り起こすことは、困難なことになり得ます。若くもなくたくさん年を重ねているわけでもない今、読むという視覚的な入力だけでなく、拙いながらも書くという出力の行為にすがり、心という土壌に言葉の森を育てることをいつの日にか実現させてみたいです。
p171 解説
よく考えれば、文化や言語の差異があろうがなかろうが、自己と他者の距離は絶対的なものだ。わたしは絶対にあなたにはなれない。あなたがわたしになれないように。
だが、「違う」からこそ、あなたを知りたいと思う。距離がなければ、心を重ね合わせる努力はいらない。想像力を働かせる必要もない。距離があるからこそ、人は他者に歩み寄ることが、手を差し出することができる。そうやって束の間であれ、他者になることができる。それが言い過ぎなら、他者のなにがしかを掴み、しかし奪うことはなく、ただ掴んだという記憶を抱えたまま再び自己に戻る。そのとき、自己はもう以前と同じ自己ではない。書かれた言葉を通して、自分とは異なる存在の生をくぐり抜け、新しい自分になること。書くことはそういうことだ。小説を読むこともまたそのような行為のはずだ。サリマの書いた作文がサリマを変えたばかりではなく、それを読んだ「私」のなかでも深い感動とともに何かが変わり、どうしても書けなかった物語の扉が開かれたように。そして、「私」によって書かれることになるその物語を読むとき、わたしたち自身のなかできっと何かが変わるはずだ。
その物語にどこで出会えるのか?『さようなら、オレンジ』を読み終えた者だけがそれがどこにあるのかを知っている。


