だむ "さくらんぼジャム" 2026年3月17日

だむ
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2026年3月17日
さくらんぼジャム
庄野潤三のいわゆる「山の上の家」シリーズの一冊。なんていうことのない平凡な日々の出来事の記録が生のかけがえのなさを伝えている。私にとっては何か暖かなものに触れた感覚がありがたくしみじみとした懐かしさに誘われるように気が付けば古書店でこのシリーズを見かける度に買い集めることとなった。今回久しぶりにその世界に没入し考えたことを半ば私的な覚書としてまとめることにした。 この一連の物語の舞台は穏やかなようでいて実は出入りの激しい世界である。庄野夫妻のもとに頻繁に独立した子供たちが、嫁が、孫が、ご近所の方などが入れ替わり立ち代わり現れる。それに伴いプレゼントが、野菜や果物のお裾分けが、手作りのお惣菜が、畑で摘んできたバラが、お手製のワンピースなどが慌ただしく行ったり来たりを繰り返す。この人の移動、モノの移動が「山の上の家」の物語の中核をなすといってよい。言い換えればこの物語は贈答行為で結びついた人々のネットワークの記録である。では一連の贈答行為の始原は何だろうか。言うまでもなく庄野夫妻の婚姻である。婚姻とは二人の人間が互いに与え合い受け入れ合うこと(贈与と交換)に対する合意を意味する。この意味でここではネットワークが贈与・交換を生み出すのではなく贈与・交換がネットワークを生み出すのだと取り合えず押さえておきたい(ここで用いた「贈与」「交換」は経済学や文化人類学で用いられるような厳蜜なタームではない。)。そして「こんちゃん(庄野夫人:孫たちがおばあちゃんを呼ぶときの愛称)」の存在こそがこの血縁・地縁ネットワークを、人とモノの行き来を媒介し事実上繋ぎ止めている扇の要である。主婦の働きがネットワークの運動を裏から支えている。 ところでこの一連の「山の上の家」物語 を読み始めた頃疑問に思ったことがある。 これって小説なのだろうか? 小説であろうがなかろうが私には実はど うでもよくて十分にこの物語を楽しんで きたのであるが身辺のできごとをひたす ら描写していくというのはエッセイ・ 随筆じゃない? 語りは三人称ではなくかといって「私」 が前にでるような一人称でもない。 ただ山の上の世界を中心に起こったこと をたんたんとスケッチしていくのである。 主題からみればここには明らかにノイズがない、 外部がない、問いかけや切り込んでいく 力もない。そしてないことは問題にならない。 結論からいえばこのスケッチ文体こそが 「山の上」文学を成立させるカギとなる。 まず確認しておかなければならないが、 「山の上」文学も他の私小説と呼ばれる 文学同様実生活そのものではなくあくま でフィクションである。 このことを説明するのに私にはプラネタ リウムの譬えを用いるのがしっくりくる。 ドーム状の天井にはあまたの星が煌めい ている。解説者がスイッチを操作すると 今度はところどころ星が線で結ばれて いくつかの図形にグループ化されている のが認められる。あれがオリオン座、こ ちらはおおぐま座、おうし座はここに。 言うまでもないことだが個々に由来はあ れ星座はフィクションであり星々がその 名のもとに結集したわけではない。お望 みとあらば星と星を結びつける他の任意 の線を想定し同一空間にまったく異なっ た図形を想定することも可能である。 ある視点がグループを生みだすのだ。 「山の上」文学では庄野が自らの視点のもと 家族やご近所さんや知人等を自らの意思 に従い縦横に配置する。 それだけなら他の作家も同様である。ユニークなのはその際に至上命題となるのが「つくりも の」感を消失させようとすること、その結果「授かりもの」感が 醸し出されることである。 物語を「自然」と受け留めてもらうため に自らの手さばき(筆さばき?)をなる べく目立たせないことが要請される。 そのために 1.一定の距離を保つこと。接近し過ぎて も引き過ぎてもいけない。 2.一定のリズムをキープすること。 変化を企んだり弛緩させすぎてはいけな い。 3.「葛藤」や「謎」といった通常であれ ば小説世界の駆動力となるような要素は 持ち込まない。 4.反復をおそれない。 「山の上」文学において重要なのは表面 的にあらわれる相貌なのであり本質的に 「深さ」とは相容れない。 こう考えると庄野のスケッチ文体こそが この星座空間を立ち上げ維持していくた めになくてはならないものであることが よく分かる。 そうして庄野自身が、そして庄野に導か れた読者もまた安定して「山」の中に 憩うことができるのだ。 「山の家」とはまさに「父」による揺り 籠である。要として運動する妻と家父長的立ち位置 からスケッチすることによって統べる夫が結合している。 先に贈与・交換がネットワークを生み出すと書いた。贈与・交換がネットワークに先立つのだとすれば庄野はこの星座空間を生み出すために自分の何を差し出し何を手にすることになったのか。換言すれば何を犠牲にし何を押し進めたのか。そう問いかけても彼の文学的達成を毀損することにはならないと思うけれど。
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