
だむ
@p0se1-d0n
刻々と近づく定年の足音。秋は短く人生もまた(?)。積読をどこまで解消できるか。
- 2026年3月30日
骨の記憶 ジョン・ルーリー回想録ジョン・ルーリー,齊藤弘平読みたい - 2026年3月17日
さくらんぼジャム庄野潤三読み終わった庄野潤三のいわゆる「山の上の家」シリーズの一冊。なんていうことのない平凡な日々の出来事の記録が生のかけがえのなさを伝えている。私にとっては何か暖かなものに触れた感覚がありがたくしみじみとした懐かしさに誘われるように気が付けば古書店でこのシリーズを見かける度に買い集めることとなった。今回久しぶりにその世界に没入し考えたことを半ば私的な覚書としてまとめることにした。 この一連の物語の舞台は穏やかなようでいて実は出入りの激しい世界である。庄野夫妻のもとに頻繁に独立した子供たちが、嫁が、孫が、ご近所の方などが入れ替わり立ち代わり現れる。それに伴いプレゼントが、野菜や果物のお裾分けが、手作りのお惣菜が、畑で摘んできたバラが、お手製のワンピースなどが慌ただしく行ったり来たりを繰り返す。この人の移動、モノの移動が「山の上の家」の物語の中核をなすといってよい。言い換えればこの物語は贈答行為で結びついた人々のネットワークの記録である。では一連の贈答行為の始原は何だろうか。言うまでもなく庄野夫妻の婚姻である。婚姻とは二人の人間が互いに与え合い受け入れ合うこと(贈与と交換)に対する合意を意味する。この意味でここではネットワークが贈与・交換を生み出すのではなく贈与・交換がネットワークを生み出すのだと取り合えず押さえておきたい(ここで用いた「贈与」「交換」は経済学や文化人類学で用いられるような厳蜜なタームではない。)。そして「こんちゃん(庄野夫人:孫たちがおばあちゃんを呼ぶときの愛称)」の存在こそがこの血縁・地縁ネットワークを、人とモノの行き来を媒介し事実上繋ぎ止めている扇の要である。主婦の働きがネットワークの運動を裏から支えている。 ところでこの一連の「山の上の家」物語 を読み始めた頃疑問に思ったことがある。 これって小説なのだろうか? 小説であろうがなかろうが私には実はど うでもよくて十分にこの物語を楽しんで きたのであるが身辺のできごとをひたす ら描写していくというのはエッセイ・ 随筆じゃない? 語りは三人称ではなくかといって「私」 が前にでるような一人称でもない。 ただ山の上の世界を中心に起こったこと をたんたんとスケッチしていくのである。 主題からみればここには明らかにノイズがない、 外部がない、問いかけや切り込んでいく 力もない。そしてないことは問題にならない。 結論からいえばこのスケッチ文体こそが 「山の上」文学を成立させるカギとなる。 まず確認しておかなければならないが、 「山の上」文学も他の私小説と呼ばれる 文学同様実生活そのものではなくあくま でフィクションである。 このことを説明するのに私にはプラネタ リウムの譬えを用いるのがしっくりくる。 ドーム状の天井にはあまたの星が煌めい ている。解説者がスイッチを操作すると 今度はところどころ星が線で結ばれて いくつかの図形にグループ化されている のが認められる。あれがオリオン座、こ ちらはおおぐま座、おうし座はここに。 言うまでもないことだが個々に由来はあ れ星座はフィクションであり星々がその 名のもとに結集したわけではない。お望 みとあらば星と星を結びつける他の任意 の線を想定し同一空間にまったく異なっ た図形を想定することも可能である。 ある視点がグループを生みだすのだ。 「山の上」文学では庄野が自らの視点のもと 家族やご近所さんや知人等を自らの意思 に従い縦横に配置する。 それだけなら他の作家も同様である。ユニークなのはその際に至上命題となるのが「つくりも の」感を消失させようとすること、その結果「授かりもの」感が 醸し出されることである。 物語を「自然」と受け留めてもらうため に自らの手さばき(筆さばき?)をなる べく目立たせないことが要請される。 そのために 1.一定の距離を保つこと。接近し過ぎて も引き過ぎてもいけない。 2.一定のリズムをキープすること。 変化を企んだり弛緩させすぎてはいけな い。 3.「葛藤」や「謎」といった通常であれ ば小説世界の駆動力となるような要素は 持ち込まない。 4.反復をおそれない。 「山の上」文学において重要なのは表面 的にあらわれる相貌なのであり本質的に 「深さ」とは相容れない。 こう考えると庄野のスケッチ文体こそが この星座空間を立ち上げ維持していくた めになくてはならないものであることが よく分かる。 そうして庄野自身が、そして庄野に導か れた読者もまた安定して「山」の中に 憩うことができるのだ。 「山の家」とはまさに「父」による揺り 籠である。要として運動する妻と家父長的立ち位置 からスケッチすることによって統べる夫が結合している。 先に贈与・交換がネットワークを生み出すと書いた。贈与・交換がネットワークに先立つのだとすれば庄野はこの星座空間を生み出すために自分の何を差し出し何を手にすることになったのか。換言すれば何を犠牲にし何を押し進めたのか。そう問いかけても彼の文学的達成を毀損することにはならないと思うけれど。
- 2026年3月2日
日本史 5: キリシタン伝来のころルイス・フロイス,柳谷武夫「日本史」追記(ネタばれ含)。 この物語(東洋文庫版)のラストは新たに日本に派遣されることになったパアデレ達の航海の場面である。台風の話は何度も出てきていい加減予想つくでしょ!と思うのだけれどやはり今回も遭遇したのである。強い風に海は荒れ狂いイエズス会士と乗組員たちの不安は高まるばかりである。ついに帆がちぎれ舵が折れてしまう。もはやこれまでといよいよ覚悟を決めなければならない。そして自分たちのできる最善のこと、祈りと告白(懺悔)が始まる。ところが乗組員の中には勝手の分からないものもいる。 「はやく幾つか罪をお言いなさい。」 「ぱあでれ様、何も思いつきません。」 これではこちらが役割を全うできないと当惑したぱあでれは次のように問うた。 「あなた方はときどき嘘をついたことがありますか。」答えて曰く 「ぱあでれ様、私どもは決してほんとうのことを言ったことがありません。」 ・ ・ ・ 結構笑えません?これが生きるか死ぬかの際の会話であり「日本史」のクライマックスの一場面ですから。
- 2026年2月26日
日本史 5: キリシタン伝来のころルイス・フロイス,柳谷武夫読み終わったようやく「日本史」全5巻読了(かかったな〜)。きょうは織田信長にフォーカス。 フロイスの記述を追っていくと日本の風習を尊重してか身分のある人、有力者に対しては名前(通称や役職名を含む)に敬称を付している。公方「様」、和田「殿」、ダリオ高山「殿」という風に。礼儀として上下関係への配慮を踏まえていると言ってよいだろう。 ところがなぜか信長に対しては例外だったようで「尾張殿」とか「織田殿」といった表現は全5巻のどこにも見られない(はず)。「信長は」である。敬称の付加がフロイスの相手に対する好感度ないし重要性を表しているのだとすると上述の3人に対して様や殿をつけるのは当然としてもキリシタンに対して融和的な態度をとり事実フロイスらも庇護を求め援助をあてにした当の信長に対して敬称がないのはどうしたことだろう。逆に「デウスの敵」として名指されている西郷純尭に対してさえ(ときに抜けてはいるが)「諫早殿」と記載しているのにである。この辺の事情について、以下は文学的想像力を全開にしての妄想的な記述だけれども、やはりフロイスにとって信長は他の日本人とはまるで異なる傑出した存在として意識されていたのではないか。信長について一章を割き詳細に描写しているが、信長は「すぐれた理解力と明晰な判断力とを備え」「勇敢で驚嘆すべき司令官」であり人々は「絶対君主(ここアンダーライン!)に対するように彼に服従していた。」。そしておそらくフロイスをして戦慄せしめたのは仏教寺社勢力に対する容赦のない弾圧である。神仏より自分を上位に置く信長にとってみれば自分に歯向かい迷信に凝り固まった一団を成敗することなどものの数ではなかったのだろう。そしてそのことはある意味で「合理的」な選択の行使としてフロイスの目には映ったのではないか。フロイスにとって信長は二重の意味で「怪物」だった。一つにはすべてを焼き尽くさずにはいられない炎として。もう一つにはこの辺境の地で「真理」の体現者を任ずる自分たちに対して自らの常識を覆し予想もつかない遥かに「洗練された」世界を現出させる畏怖すべき司祭として(無論「日本史」のどこにもそんな記述はないが)。そうした存在に対してどこか腫れ物に触るように、適当な距離感を設定できなかったとしても不思議ではない。世界史的な流れでいえばヨーロッパの16世紀は宗教改革から主権国家成立への萌芽といった大きな変革の時代であり宗教の権威に対して世俗の勢力の勃興があらわになってくる時代である。信長に敬称を付さなかったからといって見たくない現実から目を背けることができるわけではない。信長を「絶対君主」になぞらえたフロイスはそのことの真の意味を理解し得ただろうか。(2026.2.26) - 2026年1月21日
日本史 2ルイス・フロイス,柳谷武夫読み終わった漸く2巻を読み終える(全5巻)。面白かったところ。キリスト教に触れて社会の上層でも下層でもキリスト教徒になろうとする人々が現れる。前者において、これはレアケースであったろうが、僧侶や城主の中にはキリスト教に帰依することを決意しながらも、自らの地位や身分、社会的役割の制約からキリスト教へ正面きって飛び込むことを躊躇したものがいた。そこで彼らが捻り出したのが内面と外面の使い分け(ホンネとタテマエ・・・この頃既に!/とっくに?)だった。つまり「デウス」の視点がすべてで人間の視点を認めないキリスト教=一神教に対してエリート層の一部にはなお一定の人間的領域を確保しようとする反応が見られたのだ。要するに彼らは究極的には「絶対者」より身分的秩序を包摂した「世間」乃至「社会」を怖れたのである。 一方、話の中で迫害を逃れ或いは新たな布教の機会を求めて「パアデレ」たちが活動していた土地を後にする場面が幾度もでてくる。すると既に洗礼を受けたその地の大勢のキリシタン達(ほとんどが「庶民」と言える人々である)が別れを惜しんでどこまでもどこまでもぞろぞろと後をついてくる、という描写がある。ただそれだけのことであるがここにかつてこの地に暮らしていた人々の最良の部分が現れていると言っては言い過ぎだろうか。そうした部分はある時期までこの国の人たちに確実に受け継がれていたように思われるが今日の「日本人」との繋がりは限りなく細く細くなっていくようである。
- 2026年1月3日
日本史: キリシタン伝来のころ (1) (東洋文庫 4)ルイス・フロイス読み始めた年始からタイムトラベルを敢行。イエズス会の一員に紛れ込んで16世紀の日本へといざいざ!まだ1巻の途中だが実に面白い。休みが足りないって!(2026.1.3) - 2025年12月28日
- 2025年12月18日
淋しいのはお前だけじゃない 市川森一シリーズ1 三草社市川森一シリーズ読みたい昨晩ドラマ「もしがく」の最終回を見た。ここは読書と本の場所だから詳細は専門の界隈に任せるが一言だけ感想・・悪くはないんだけど期待が高かっただけに・・・ ただ三谷氏自身がその影響を語っている市川森一作「淋しいのはお前だけじゃない」と比較せずにはいられない。 こう書いては身も蓋もないけれども、ともに「やりきれない現実をフィクションの力で乗り越えていこう」とする姿を描いているからだ。三谷氏の結末は希望を残しながらもほろ苦く、市川氏の方は「いい夢見たな」と西田敏行(素晴らしい俳優さんでした)が呟いた・・と記憶してるがさて合っているか?シナリオを読んでみたいな。 (2025.12.18) - 2025年12月16日
心より心に伝ふる花観世寿夫読み終わった「おお ! 神よ!」昔、新劇のベテラン俳優が若手に苦言を呈しているのを読んだ記憶がある―「狼よ」に聞こえる―(おお!が台本にどう記載されているかは知らないけれど)。 これを「セリフが下手」と片付けてしまってはいけない。西洋演劇とはまるで水源を異にする能の世界において、観世寿夫は、そして600年以上前に世阿弥は遥かに核心を摑んでいる。ここで乱暴に纏めてしまえば「実存」がなってないのである。演技とは。俳優とは。美しく力強い言葉があちらこちらに散りばめられている。世阿弥と観世寿夫の対話はローカルなものを突き詰めれば普遍に到達するというこの上ない見本だ。読了後改めてこの文庫本の口絵に採用された観世寿夫の写真を見る。ヒトはこういう風に「そこに居る」ことができるのだ! 花のように。 - 2025年12月11日
パウル・ツェラン詩文集パウル・ツェラーン,飯吉光夫読み終わったある時期ある人の書くものがどうしようもなく遺書に似てしまうということはありそうなことのように思える。それは生の側から眺めた自分の不在だけれどもここでは逆に自分がいなくなった場所からゆらゆらと言葉が立ち上がっているかのようだ。事実彼はある講演の中で語っている。「逆立ちして歩くものは、足下に空を深淵として持ちます。」・・・枝に残った数枚の葉が風に吹かれて揺れている。 - 2025年12月1日
ディアローグクレール・パルネ,ジル・ドゥルーズ,増田靖彦,江川隆男読み始めたフランス現代思想(今でもそういう風に言うのかな?)を読むのは30年ぶりくらい・・・昔はさっぱりだったが今はどうか。1,2章は比較的とっつき易いらしいからそこだけでも。年末に首をひねりながら珈琲を飲むのも結構な贅沢では。 - 2025年11月29日
影の獄にてL・ヴァン・デル・ポスト読み終わった「音声」に満ちた作品。地の底から太古の声が劈く。ジャワの熱帯ジャングルでは宇宙と無数の生物が織りなすざわめきが。アフリカの兄弟の神話語りを経て、戦中の奇跡的なロマンスを振り返る部屋の外の嵐。 人が此処でも其処でも生きて死んでいく。 「生を制度化する」恐ろしさに敏感な著者であればこそなし得た「音声の言語化」。 文章の美しさを求める人には勿論幅広く読み継がれていって欲しい作品です。 クリスマスにはまだ間に合いますよ。
- 2025年11月17日
- 2025年10月20日
世界のすべての七月ティム・オブライエン,Tim O'Brien,村上春樹読んでる古本市で購入。前の持ち主が挟んだのだろう、新聞の書評の切抜き2つ。この短い秋に、そして昔若者だった人にうってつけかと。
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