
だむ
@p0se1-d0n
珈琲と音楽とアートを愛する。秋は短く人生もまた(?)。積読をどこまで解消できるか。
- 2026年10月7日
昨日、悲別で倉本聰「昨日、悲別で」は先頃亡 くなられた倉本聰氏のドラ マのシナリオで新橋の古本 市で運命的に出会ってしま ったので思わず購入。 このドラマはかつてオンエ アを見ている(抜け回もあ ったが)。 倉本氏のあの国民的ドラマ 「北の国から」同様、 北海道が(ここでは架空の 町、悲別が)東京と対比し て語られる。あちらが父と 子の物語であったのに対し こちらはずばり青春ものだ。 但し母と子の関係が一つの モチーフ(「前略おふくろ 様」ね!)でもあり、また 悲別ロマン座という映画館 が無くなるという重要な エピソードも物語を盛り上 げる。それらを背景に悲別 出身でダンサーを目指す男 の子と女の子が東京で再会 して・・・という、はやく も断言してしまうが大傑作 ドラマだった。 テレビドラマのシナリオを 読むということは小説を 読むこととは随分異なる。 はじめから映像化を前提と しているからそういうもの としての語り方がある。 セリフ、セリフをいう人( キャスティング)、場面の 転換、イメージ画像挿入の タイミング、音楽の使い方 (ここではフォークソング の名曲「22歳の別れ」と ミュージカル「キャッツ」 の「メモリー」が非常に 効果的に使われている)、 そして主人公のモノローグ (ここが倉本作品のキモ! )、などが様々に組合わさ れた言わば設計図のような 形でこちらに提供される。 さらに効果を重層的なもの にしているのはこちらが 昔見ているものを読んでい るということ。読むことに 実際の映像がかぶってくる。 設計図から頭の中に映像が 立ち上がる。 ようするに刺激が多様でこ ちらはときに振り回され、 ときに硬直させられ(もち ろんこれらは幸福とともに ある)ドラマのエンディン グに向けてひた走ることに なる。 若い二人が眩しすぎる。 そして、あまり使いたくな い言葉だが、 ・・・泣けてしまった。 倉本氏の訃報にともなうニ ュースで氏のインタビュー が流れた。「感動する」と いうことについて、「臍下 丹田」という言葉を使って 語っていたのが印象的だっ た。 そう、そっから揺さぶられ た感じ。 「胸キュン」決して悪く ないよ。でもその先がある かもしれないんだから。も っと欲張りになっていいん だよ。 陳腐であることを承知で 書くけど1984年に放送され (出版もされ)たドラマの シナリオを読むことを通じ て忘れていたものに出会っ た、というか、自分がどう いうものから出来上がって きたか、そして1984年の自 分が感じていたことが今も 自分の中に生きて、ある、 ということ(まあ、進歩が ないとも言うけどさ。)。 合言葉は「臍下丹田」。 ここくると響くよ~。
- 2026年9月28日
こころは遺伝するロバート・プロミン,田中文読み終わったトンビが鷹を生むなんて身の回りでは 聞いた覚えがないしカエルの子はカエル というのがやはり実感で「親ガチャ」な んて言葉を一時耳にしてはそう世間から ずれているわけでもなさそうだとの自覚 はあった。 要は生まれか育ちか、つまりヒトの本性 を決定するのは遺伝なのか、環境なのか という問題について、私としては遺伝に 大きく傾いていたのだが、この問題に ついてはかつて遺伝を主張することが 優生思想や人種差別などを正当化する ものだとして激しい論争の的となってき た不幸な歴史がある。 近年の生命科学の発展、遺伝子研究の 成果がいよいよ無視できないほど大きく なるに伴い漸く冷静に議論できる状況 が整ってきたようだ。 著者の立場は明確で一貫して遺伝の 重要性を力説している。 例えば子供の自分らしさについて、 「系統的かつ大きな個人差を生み出す 唯一の要因はDNAであり心理的形質の 個人差のおよそ50%は遺伝要因によって 説明される。個人差の残りはランダム な経験によってもたらされるものの、 その影響は長続きしない。」とする。 (無論著者は努力は無駄であるとは言っ てないし親・学校・人生経験の重要性に ついて付言することも忘れていない。) 著者が自己の主張を論証するために記し た証拠部分は専門的でそれを読み解く のは正直私には骨が折れる。 結論に対しては違和感がないため 却ってまどろっこしく思えてしまう けれどもやはり科学者としてここは手を 抜くことはできないのだろう。 原著が出版されたのが2018年。2026年 の今日気になるのはやはりAIとの関係 だ。暴走するAIが人々の遺伝情報に 勝手にアクセスするようになると・・・ なんとかSF小説の世界だけにとどめて おいて欲しいものだ。 - 2026年9月15日
存在と苦悩ショーペンハウアー,金森誠也(つづき) 言い換えればまず「文は人なり。」 ということがある。 そして彼の「土俵」を論じる文章の 「文学度」が読み手をして 「生」を「人生」に 「世界」を「この世」に 無意識混じりにでも読み替えることを 許容する。 そしてこのことがショーペンハウアー に「人生の伴走者」のようなイメージを 付与するとともに彼の著作に「哲学 の仮面を被った人生論」のような趣を 与えてしまう怖れがないとは言えない。 その結果彼の哲学がより多くのキリスト 教圏の人々によって「非・合理」「非・ 論理」「厭世的」のラベリングを施され てしまうのではないだろうか。 言うまでもなく彼らが引き付けられたの は精密に体系化されたヘーゲル哲学だ。 ご承知のとおりヘーゲルとショーペン ハウアーは同時代の人で同じ大学に勤務 していたこともある。 本書においてもヘーゲルを罵倒している 個所があるが、ショーペンハウアーは わざわざ彼と同時刻に講義を行った そうだ。そしてヘーゲルの教室は満員 御礼で熱気に溢れていたのに対し彼の教 室は閑古鳥がないていたという。 ショーペンハウアーと並走しようとする 人は少なかった。 ただショーペンハウアー風に言うなら 読み手ひとりひとりの表象の中に自分の 哲学が存在していることは先刻承知して いたはずだから不平を言う謂れはない だろう。 伝えられるところによれば ヘーゲルは今わの際に「誰も私のことを 理解してくれなかった。」と述べたとい う(事実ではない、という説もある。)。 果たしてショーペンハウアーにとっては どうだったか。 思うに哲学者は二通りだ。 生まれつき不幸なもの か 最後に不幸に気づくもの である。 ショーペンハウアーは「宿命」として 哲学者であったと思う(文学者ではあり 得なかった)。 彼からは「無意味」と言われそうだが 私としてはそれでもこう言いたい。 「哲学者に幸あれ!」 ※私が読んだのは旧版です。
- 2026年9月14日
存在と苦悩ショーペンハウアー,金森誠也読み終わった「存在と苦悩」。 これだけでおなか一杯になりそうだ。 本書はショウペンハウアーの主著「意思 と表象としての世界」をはじめいくつか の彼の著作から文章を抜粋し一冊に編ん だ抄本だ。 おそらく出発点は「この世界は私に映っ た表象だ。」ということ。 そこらから死や宗教や芸術等個別のテー マを論じていく(というかダイジェスト だからそのように編集されているわけで。 以下それが前提となる)。 少なくともそうしたテーマは彼が把握し た生や世界を描き出すための「観念的 土俵」ではあるはずだが、読んでいる こちらにしてみると、むしろ彼の横顔 が、人となりがしきりにちらついて くるような気がする。 カントやヘーゲルに比べてショーペン ハウアーの評価は総じて低い位置に 置かれているように思われるけど、こ のことが彼の低評価に微妙に関係するの ではないかというのが私の感想。 安易な言い方だけど彼の「観念的土俵」 を論ずる文章は文学的だ。 トーマス・マンは述べている。 「(ショーペンハウアーがこの生の苦し みを説くとき)彼の文章上の天才が、最 も輝かしく、しかも最も冷厳な完成の 頂点に達した」(訳者あとがきより)。 彼の文章には傾きがある。「死」につい て語るときには「自殺」に、「宗教」に ついて語るときには「禁欲」に、そして 「芸術」について語るときには「なぐさ め」にそれぞれ「寄せて」書いている。 総じて「土俵」であったものがエッセイ 風に語られて主題と化しているような 趣がある。 これは抄本という本書の性格によるとこ ろが大きいけれど、自殺・禁欲・なぐさ めを言い換えれば、否定・我慢・埋め合 わせに他ならない。とどのつまりは 「生」それ自身が苦しいのだ。 (そしてこのとき実は次元が変質してい る。―後出) トーマス・マンやワーグナーが彼を 崇拝したのも「さもありなん」という 気がする。 そして「哲学書」を手にとろうとする ような近現代日本の生活者一般にとって、 ここは受け入れ易いところだったろう。 (つづく) - 2026年8月18日
経験する機械アンディ・クラーク,高橋洋読み終わった公平に判断したはずが実は偏見に満ちている。 客観的に全体を見ているつもりが自分の見た いものしか目に入っていない。 本書はこうした人間の不都合なあるある部分について、結果としてヒトの在り方の事実の 半面として乃至ありがたくない副産物として そのメカニズムを説明するものとなっている。 ただこちらは本筋ではないけれど。 著者が主張するのはヒトという存在は外界に開かれた窓(知覚)を通じて受動的に情報を受けとる生物ではない。そうではなくて先行する経験や学習によって醸成された「予測」を行うことにより「予測」と感覚のずれ(エラー)を絶えず調整しながら経験を再構築し世界を刷新していく動的な渦のような「場」として捉えている。 反対からいえば「生の(なまの)」外界があるのではなく予測と感覚の修正の網の目にろ過されて成り立ったものを外界として受け取っているというわけだ。 著者はこの「予測処理理論」に基づき様々な トピックをわかりやすく論じているので時間 のない方や脳科学なんて、という方は第1章を読んであとは自分の関心のあるところを拾い読みするだけでもよいだろう。 冒頭に述べたことに興味のある方、メルロ・ポンティや現象学とかの本が好きな方、セラピーの理論的足場を探している方にも有益な書物だと思う。 私としては「予測」システムを生み出した 進化の過程をも少し深堀したいかな。(^^ - 2026年7月21日
すべての美しい馬 (ハヤカワepi文庫)コーマック・マッカーシー,黒原敏行読み終わった結局ただ一つの物語がありあとはその 様々なバージョンがあるだけだと不遜 にも断言してしまいたくなるときが ある。 これまでも折に触れ扉を開き可能であ ればこれからも頁をめくることを願って やまない私にとっての唯一の物語。 それはここではないどこかを求めて 旅立とうとする魂の記録だ。 その意味で本書は大いに私を昂らせる とともに未熟であっても他にすがるもの もなく、自分の足でなんとか立とうとし ていたかつての自分を思い起こさせて もらったような気分になった。 そしてこのことはおそらく作者コーマッ ク・マッカーシーにとっても同様だった のではないか。 おれたち、やっちまったかな? ああ。 追ってくるかな。 何のために? わからん。ただ、なんだかあっけなさ すぎる。 風の音が聞こえ馬の蹄の音がきこえた。 そう、そう!そうこなくっちゃ! 物語は主人公ジョン・グレイディと相棒 のロリンズ、そして風変りな少年ブレ ヴィンズ(親に虐待を受けている)の 馬に乗ってのメキシコへの旅と彼の地で の過酷な体験を描いている。 ジョン・グレイディは名うてのカウボー イだ。とびきり上手に馬と会話するこ とができる。馬をロープでしばったり袋 を用いて調教することなどお手のものだ。 平原で遠目に人の気配を感じることが できるし腹が減ればウサギや鹿をしとめ て調理することだってできる。後には 銃で撃たれた傷口を自ら銃身を焼いて 消毒することさえやってのける。 言ってみれば自然との共生に適応的な すぐれた身体性を備えた彼にとって 水を得た魚のように生きることを可能 にすると思えた場所こそ「古き良き」 メキシコだった。 産業化の波が、資本の力がひたひたと よせてくるアメリカから土埃の舞う メキシコへ、善悪の明確な法の国から 血をもって証をたてなければならない 掟の国へ、自由の国から必然の国へ。 メキシコ行きは彼にとってひとつの イニシエーションであったようにも 見える。そこには試練がつきものだ。 事実彼はメキシコで自由を奪われその 基盤たる身体を損壊される。掟に強い られカウボーイからoutlawになる。そ して愛する人を手に入れることは遂に 叶わない(まだ「一人前」ではないの だから・・・ここは泣けます。)。 しかしイニシエーションとは異なり その過酷を通過したあとであっても彼が 社会の成員として迎えいれられるわけ ではない。いや、むしろ彼の側でアメ リカを袖にする。 彼が立ち戻ったのはハイウェイがはり めぐらされ、油田の掘削機が立ち並ぶ テキサスだ(彼にはそれらが鉄の巨大 な原始時代の鳥のように見える)。 本来なら彼と親和性を持つはずのイン ディアンにとってもすでに彼は通り 過ぎてゆくだけの存在に変貌している。 まあ、出ていくことにするよ。 この辺もまだ捨てたもんじゃないぜ。 ああ。わかってる。でも俺の住む場所 じゃないんだ。 ・ ・ おまえの住む場所ってどこだ?と彼が きいた。 わからない、とジョン・グレイディは いった。どこにあるかは知らない。 住む場所にどんな意味があるのかも わからない。 ロリンズは答えなかった。 ・ ・ そう、ここは『人間の苦闘にも名声に も無頓着な世界』『生者にも死者にも 無頓着な世界』だ。 だから旅を続けなければならない。 たとえ馬に乗れなくても、せめて本を 片手に。 - 2026年7月6日
宮台式人類学奥野克巳,宮台真司読み終わった宮台真司のボリュームある新書をよう やく読了。 古代から現代、トランピズムのアメリ カから日本社会まで、マルクス、ウェ ーバー、デュルケム、レイン、吉本、 イリイチ(本書ではイリッチ)、ロー ティ、カストロ、ティール等膨大な 知の系譜(最後の二人は名前すら知らず ・・ティールってヤバイやっちゃ!)を 辿りながら現代の社会と社会学の現在に 鋭く切り込んでいる。 結局思い知らされたのは学生時代いかに 本が読めていなかったか(今もだけど) ということで、この人とこの人は近い んだとか、○○をもたらしたのは実は ××だ、とか改めて目を開かれる思い。 氏の講義を聞くことのできた人が心底 羨ましい。 本書の構成は時代順ではないが、議論の ベーシックなところを乱暴にまとめると 1.狩猟採集段階は「生存戦略と仲間意識 」 2.農耕の発達後「定住革命」:掟から法 3.分業の発展、原生自然の間接化、不 可視化。言外的兆候への反応力の縮小、 言語的予期能力の発達 4.賃労働化による脱共同体化 5.資本主義的市場化:人が資本の奴隷に、 行政官僚制化:手続き主義の置換可能な 道具化 6.疎外化、神経症化 7.賃労働化による階層分化による尊厳の 棄損、「内から沸く力」の喪失、想像 能力と懸念能力の欠落、人間関係の 空洞化 議論の根底にあるのは「「近代」という 特殊に抗い人類史的な普遍を回復する」 という強い意識だ。 正確なところは是非自ら本書を紐解いて 確かめていただきたい。 ついでに勝手な繰り言。 宮台氏は子供を「奪還」する試みとして 野外活動等の実践にもかかわっている とのことだが、もしそこになければ是非 「演劇」を加えてほしい。 感覚をひらく。目の前の人と向き合う。 横にいる仲間と達成する・・ この国には竹内敏晴という稀有な実践 があるのにそれが顧みられることがない のを常々残念に思っている。 このこととも響きあうのだが、最後に、 宮台氏は本書の中で自分のことを 「転校が多過ぎて自分も他者もよく 分からなくなった」とさり気なく述べて いる。ここは重要だ。 自分がストレンジャーであるという体験 やストレンジャーになっているのでは ないか、という意識を持ったことのない 人が社会の根源に遡り批判的に向き合う ことなどできはしないのだから。 - 2026年6月29日
代々木のマンモス予備校に通い始めて 間もない頃、高校時代同じクラスだった Tから電話があった。 なんでも同級生だった女子生徒~仮に Aさん~がクラスで一緒だったみんなに 知らせて欲しいと何人かに言付けし それがめぐりめぐって電話をくれた ということらしい。 Aさんとは高校時代言葉を交わしたこと があったかどうかそれすら曖昧な程で 大人しかった人、落ち着いた良い人と いったイメージしか思い浮かべること ができなかった。 Tの話によるとAさんは実は我々の一学 年上で当初入学した高校をある事情で やめることになり改めて受験し直して 我々と同級生になったのだという。 そしてその前の高校をやめた理由と いうのが実は彼女が政治的な活動に 携わっており、そのことと関係が あるらしかった。 話を聞いて困惑した。彼女と政治的な 活動というのが結びつかなかった。 彼女が何か活発に発言する、中心に なって何かするという様子はまるで 記憶になかったし何より学生が政治 的な運動にかかわる(しかも高校生) なんてひと昔前の話としか思えず 同世代のこととして受けとめること ができなかった。 我々の通っていた都立高校というのが 頭の方はさておいて自由さだけが 取り柄でなぜか3年間クラス替えが ないという伝統があった。彼女自身 は3年間ずっと自分が一歳年上で そのことを黙っていたことにずっと 罪の意識を抱いていたらしく卒業を 期にみんなにそのことを伝えお詫び したい、良くしてくれてありがと う、とそんな風な話だった。 でも、それにしても黙っていたこと に罪の意識を感じるなんて・・ いや、そうじゃなくて、彼女が 3年間自分のある部分を押し殺して 耐えていたということが・・・ 電話を終えてあらためて彼女のことを 思い浮かべてみた。大人しい人。穏やか な人。とうてい彼女の中にそうした 厳しいものが、芯の強さがあるようには 見えなかった。そうそう、休み時間には 自分の席で静かに本を開いていることも あった。 あるときそうした一冊の本のタイトル が目に入った。 「赤頭巾ちゃん気をつけて」 あ、その本知ってる、庄司薫でしょ、 読もうと思ってたんだよね。 ・・・けどそんな風に話しかけることは なかった。「大人しい」といった印象 しかなかったその人に話しかけさえす ればもしかしたら彼女の気持ちを少しは 軽くする ・・いやそんな力はなかったな・・。 昨晩庄司薫の訃報に接してこの出来事を 思いだした。本棚の奥まったうんと遠い ところに確かにあった「赤頭巾ちゃん 気をつけて」を引っ張りだす。奥付は 昭和53年11月20日 62版。 まだ17歳だった。
- 2026年6月29日
- 2026年5月25日
じゃむパンの日赤染晶子読み終わった土壌とか肥やしと言っても農業やガーデニングではなくて無論文学の話だ。生まれや育ちというものは良きにつけ悪しきにつけ色々なところでにじみ出てくるものだけれど例えばおっちゃんやお祖父ちゃんへの眼差しや転がし方(^^)。温かさとユーモア。やっぱり京都っていいな(大阪になるとしんどいときも、ってこれはあくまで個人的な話)。もしこの拙文にタイトルをつけるならこんな感じ?「文学のお膝元‐赤染晶子とじゃむパンの日」。 - 2026年5月18日
近代とは何か: その隠されたアジェンダ (叢書・ウニベルシタス 731)スティーヴン・トゥールミン(つづき)ところで読んでる途中から私 の頭の中に去来したのはドナルド・トラ ンプのことだった。 長期にわたる宗教戦争後の荒廃した ヨーロッパにおいて新しいプレイヤー としての国家が徐々に姿をあらわし始め る。このとき切実に希求されたのが 何よりも社会的・政治的な「安定」で あった。そのときにヒントとなったのが 先に述べたデカルトやニュートンの 知的探求である。彼らの探求の対象たる 「世界」とはそもそも全知全能の神の 計画に基づき構築され普遍的な法則に 貫かれ「最高位のもの」と「より低位 のもの」たちからなる自然そのものだっ た(念のため言い添えればデカルトも ニュートンも神の存在をこれっぽっちも 疑っていなかった)。 このシステムをもっともよく表している とされたのが太陽系である。太陽という 単一で至高の存在を中心に固定した軌道 を従属的な惑星が周回するというイメー ジ。これこそ普遍的・法則的なものの これ以上ない実例として新しい国家形成 のモデルとするにはまさに理想的であっ た。「自然に対する神の関係」は「国家 に対する国王の関係」に等しい。そして 階層性と安定性は矛盾するものではなか った。神の創造にならって国家を形成す ることは望ましいことであり国家に正当 性を付与するものだったのである。 さてトランプであるが、彼がこの歴史 ある「惑星モデル」を意識的であろうが なかろうが引き継いでいることは明らか だろう。最近のあたかも自らをイエス・ キリストになぞらえたかのような画像 を思い起こす人も多いのではないか。 大事なことは彼のような人物が「モダ ニズム」の系譜に完全に連なるという こと、もっといえばその正当な嫡出で さえあるということだ。トゥールミンが モンテーニュを通じて描いた知的謙虚さ、 寛容といった徳の重要性が本書が出版 されでから20年以上たった現在におい ても色あせることがない所以である。 最後に本書204頁にあるライプニッツの 言葉を引用したい。 「神が奇跡を行うのは、自然の不足を 補うためでなく、恩寵の不足を補うため である。そうではないと考える者は誰 でも、神の叡知と力について、ひどく 拙劣な観念をもっているのに違いな い。」 この文中の「神」を「私」に置き換える ことに何のためらいももたないもの。 そのものがいま世界をゆり動かしている。 - 2026年5月18日
近代とは何か: その隠されたアジェンダ (叢書・ウニベルシタス 731)スティーヴン・トゥールミン読み終わった今思えば信じられないような事態だが その昔「ニューアカ(デミズム)」 ブームというのがあって日本人では浅田 彰、中沢新一といった人が、またフラン スの哲学書が学生を中心によく読まれた。 そのとき吹き荒れた(消費された)のが 「ポストモダン」という言葉である。 難解なそれらの書物のページをめくりな がら「近代?」とひとりごちていた。 あー、そんな自分に読ませてあげたかっ た、と今回古本市で奇跡的に出会った この本を前にしばし感慨に耽った。 「近代」とはいつから始まりそれは何で あったのか。 著者はヨーロッパの歴史を紐解きながら その出自を明らかにしようとする。 通常いわば哲学界隈で「近代」といえば よく知られているようにデカルト、ニュ ートンに代表される「合理主義」の発露 としての時代区分を指すだろう。 これに対し著者が強調するのがそれに 先立つルネサンス・人文主義の時代で ある。モンテーニュやアンリ4世を取り 上げることにより明らかにされるその 時代思潮を簡単にまとめると 時間的、空間的に限られた範囲内での 適応的な実践を追求しようとする思考 態度である。そしてその背景にあるのが 一般的な真理(が成立すること)及び 宗教的教条主義への「懐疑」であり、 それらと表裏の関係にある人間本性に 対する「寛容さ」である。 これだけだと何のこっちゃ、という 感じだけれどその反対側に、 限られた範囲ではなく超時間的・空間的 に成立するもの、ひとことでいえば 普遍的なものであって精密な原理・原則 に基づくもの、すなわちデカルト、ニュ ートンが定立しようとした「科学」を 置いてみればひとつの見取り図が得られ るだろう。 歴史の流れを追いながらこの前者から後 者への連続性と断続性を踏まえて「近代」 を定立しようとする著者トゥールミンの 手さばきは鮮やかでまず味わって損は ない。 と、ここまでが本書の紹介。(つづく) - 2026年3月30日
骨の記憶 ジョン・ルーリー回想録ジョン・ルーリー,齊藤弘平読みたい - 2026年3月17日
さくらんぼジャム庄野潤三読み終わった庄野潤三のいわゆる「山の上の家」シリーズの一冊。なんていうことのない平凡な日々の出来事の記録が生のかけがえのなさを伝えている。私にとっては何か暖かなものに触れた感覚がありがたくしみじみとした懐かしさに誘われるように気が付けば古書店でこのシリーズを見かける度に買い集めることとなった。今回久しぶりにその世界に没入し考えたことを半ば私的な覚書としてまとめることにした。 この一連の物語の舞台は穏やかなようでいて実は出入りの激しい世界である。庄野夫妻のもとに頻繁に独立した子供たちが、嫁が、孫が、ご近所の方などが入れ替わり立ち代わり現れる。それに伴いプレゼントが、野菜や果物のお裾分けが、手作りのお惣菜が、畑で摘んできたバラが、お手製のワンピースなどが慌ただしく行ったり来たりを繰り返す。この人の移動、モノの移動が「山の上の家」の物語の中核をなすといってよい。言い換えればこの物語は贈答行為で結びついた人々のネットワークの記録である。では一連の贈答行為の始原は何だろうか。言うまでもなく庄野夫妻の婚姻である。婚姻とは二人の人間が互いに与え合い受け入れ合うこと(贈与と交換)に対する合意を意味する。この意味でここではネットワークが贈与・交換を生み出すのではなく贈与・交換がネットワークを生み出すのだと取り合えず押さえておきたい(ここで用いた「贈与」「交換」は経済学や文化人類学で用いられるような厳蜜なタームではない。)。そして「こんちゃん(庄野夫人:孫たちがおばあちゃんを呼ぶときの愛称)」の存在こそがこの血縁・地縁ネットワークを、人とモノの行き来を媒介し事実上繋ぎ止めている扇の要である。主婦の働きがネットワークの運動を裏から支えている。 ところでこの一連の「山の上の家」物語 を読み始めた頃疑問に思ったことがある。 これって小説なのだろうか? 小説であろうがなかろうが私には実はど うでもよくて十分にこの物語を楽しんで きたのであるが身辺のできごとをひたす ら描写していくというのはエッセイ・ 随筆じゃない? 語りは三人称ではなくかといって「私」 が前にでるような一人称でもない。 ただ山の上の世界を中心に起こったこと をたんたんとスケッチしていくのである。 主題からみればここには明らかにノイズがない、 外部がない、問いかけや切り込んでいく 力もない。そしてないことは問題にならない。 結論からいえばこのスケッチ文体こそが 「山の上」文学を成立させるカギとなる。 まず確認しておかなければならないが、 「山の上」文学も他の私小説と呼ばれる 文学同様実生活そのものではなくあくま でフィクションである。 このことを説明するのに私にはプラネタ リウムの譬えを用いるのがしっくりくる。 ドーム状の天井にはあまたの星が煌めい ている。解説者がスイッチを操作すると 今度はところどころ星が線で結ばれて いくつかの図形にグループ化されている のが認められる。あれがオリオン座、こ ちらはおおぐま座、おうし座はここに。 言うまでもないことだが個々に由来はあ れ星座はフィクションであり星々がその 名のもとに結集したわけではない。お望 みとあらば星と星を結びつける他の任意 の線を想定し同一空間にまったく異なっ た図形を想定することも可能である。 ある視点がグループを生みだすのだ。 「山の上」文学では庄野が自らの視点のもと 家族やご近所さんや知人等を自らの意思 に従い縦横に配置する。 それだけなら他の作家も同様である。ユニークなのはその際に至上命題となるのが「つくりも の」感を消失させようとすること、その結果「授かりもの」感が 醸し出されることである。 物語を「自然」と受け留めてもらうため に自らの手さばき(筆さばき?)をなる べく目立たせないことが要請される。 そのために 1.一定の距離を保つこと。接近し過ぎて も引き過ぎてもいけない。 2.一定のリズムをキープすること。 変化を企んだり弛緩させすぎてはいけな い。 3.「葛藤」や「謎」といった通常であれ ば小説世界の駆動力となるような要素は 持ち込まない。 4.反復をおそれない。 「山の上」文学において重要なのは表面 的にあらわれる相貌なのであり本質的に 「深さ」とは相容れない。 こう考えると庄野のスケッチ文体こそが この星座空間を立ち上げ維持していくた めになくてはならないものであることが よく分かる。 そうして庄野自身が、そして庄野に導か れた読者もまた安定して「山」の中に 憩うことができるのだ。 「山の家」とはまさに「父」による揺り 籠である。要として運動する妻と家父長的立ち位置 からスケッチすることによって統べる夫が結合している。 先に贈与・交換がネットワークを生み出すと書いた。贈与・交換がネットワークに先立つのだとすれば庄野はこの星座空間を生み出すために自分の何を差し出し何を手にすることになったのか。換言すれば何を犠牲にし何を押し進めたのか。そう問いかけても彼の文学的達成を毀損することにはならないと思うけれど。
- 2026年3月2日
日本史 5: キリシタン伝来のころルイス・フロイス,柳谷武夫「日本史」追記(ネタばれ含)。 この物語(東洋文庫版)のラストは新たに日本に派遣されることになったパアデレ達の航海の場面である。台風の話は何度も出てきていい加減予想つくでしょ!と思うのだけれどやはり今回も遭遇したのである。強い風に海は荒れ狂いイエズス会士と乗組員たちの不安は高まるばかりである。ついに帆がちぎれ舵が折れてしまう。もはやこれまでといよいよ覚悟を決めなければならない。そして自分たちのできる最善のこと、祈りと告白(懺悔)が始まる。ところが乗組員の中には勝手の分からないものもいる。 「はやく幾つか罪をお言いなさい。」 「ぱあでれ様、何も思いつきません。」 これではこちらが役割を全うできないと当惑したぱあでれは次のように問うた。 「あなた方はときどき嘘をついたことがありますか。」答えて曰く 「ぱあでれ様、私どもは決してほんとうのことを言ったことがありません。」 ・ ・ ・ 結構笑えません?これが生きるか死ぬかの際の会話であり「日本史」のクライマックスの一場面ですから。
- 2026年2月26日
日本史 5: キリシタン伝来のころルイス・フロイス,柳谷武夫読み終わったようやく「日本史」全5巻読了(かかったな〜)。きょうは織田信長にフォーカス。 フロイスの記述を追っていくと日本の風習を尊重してか身分のある人、有力者に対しては名前(通称や役職名を含む)に敬称を付している。公方「様」、和田「殿」、ダリオ高山「殿」という風に。礼儀として上下関係への配慮を踏まえていると言ってよいだろう。 ところがなぜか信長に対しては例外だったようで「尾張殿」とか「織田殿」といった表現は全5巻のどこにも見られない(はず)。「信長は」である。敬称の付加がフロイスの相手に対する好感度ないし重要性を表しているのだとすると上述の3人に対して様や殿をつけるのは当然としてもキリシタンに対して融和的な態度をとり事実フロイスらも庇護を求め援助をあてにした当の信長に対して敬称がないのはどうしたことだろう。逆に「デウスの敵」として名指されている西郷純尭に対してさえ(ときに抜けてはいるが)「諫早殿」と記載しているのにである。この辺の事情について、以下は文学的想像力を全開にしての妄想的な記述だけれども、やはりフロイスにとって信長は他の日本人とはまるで異なる傑出した存在として意識されていたのではないか。信長について一章を割き詳細に描写しているが、信長は「すぐれた理解力と明晰な判断力とを備え」「勇敢で驚嘆すべき司令官」であり人々は「絶対君主(ここアンダーライン!)に対するように彼に服従していた。」。そしておそらくフロイスをして戦慄せしめたのは仏教寺社勢力に対する容赦のない弾圧である。神仏より自分を上位に置く信長にとってみれば自分に歯向かい迷信に凝り固まった一団を成敗することなどものの数ではなかったのだろう。そしてそのことはある意味で「合理的」な選択の行使としてフロイスの目には映ったのではないか。フロイスにとって信長は二重の意味で「怪物」だった。一つにはすべてを焼き尽くさずにはいられない炎として。もう一つにはこの辺境の地で「真理」の体現者を任ずる自分たちに対して自らの常識を覆し予想もつかない遥かに「洗練された」世界を現出させる畏怖すべき司祭として(無論「日本史」のどこにもそんな記述はないが)。そうした存在に対してどこか腫れ物に触るように、適当な距離感を設定できなかったとしても不思議ではない。世界史的な流れでいえばヨーロッパの16世紀は宗教改革から主権国家成立への萌芽といった大きな変革の時代であり宗教の権威に対して世俗の勢力の勃興があらわになってくる時代である。信長に敬称を付さなかったからといって見たくない現実から目を背けることができるわけではない。信長を「絶対君主」になぞらえたフロイスはそのことの真の意味を理解し得ただろうか。(2026.2.26) - 2026年1月21日
日本史 2ルイス・フロイス,柳谷武夫読み終わった漸く2巻を読み終える(全5巻)。面白かったところ。キリスト教に触れて社会の上層でも下層でもキリスト教徒になろうとする人々が現れる。前者において、これはレアケースであったろうが、僧侶や城主の中にはキリスト教に帰依することを決意しながらも、自らの地位や身分、社会的役割の制約からキリスト教へ正面きって飛び込むことを躊躇したものがいた。そこで彼らが捻り出したのが内面と外面の使い分け(ホンネとタテマエ・・・この頃既に!/とっくに?)だった。つまり「デウス」の視点がすべてで人間の視点を認めないキリスト教=一神教に対してエリート層の一部にはなお一定の人間的領域を確保しようとする反応が見られたのだ。要するに彼らは究極的には「絶対者」より身分的秩序を包摂した「世間」乃至「社会」を怖れたのである。 一方、話の中で迫害を逃れ或いは新たな布教の機会を求めて「パアデレ」たちが活動していた土地を後にする場面が幾度もでてくる。すると既に洗礼を受けたその地の大勢のキリシタン達(ほとんどが「庶民」と言える人々である)が別れを惜しんでどこまでもどこまでもぞろぞろと後をついてくる、という描写がある。ただそれだけのことであるがここにかつてこの地に暮らしていた人々の最良の部分が現れていると言っては言い過ぎだろうか。そうした部分はある時期までこの国の人たちに確実に受け継がれていたように思われるが今日の「日本人」との繋がりは限りなく細く細くなっていくようである。
- 2026年1月3日
日本史: キリシタン伝来のころ (1) (東洋文庫 4)ルイス・フロイス読み始めた年始からタイムトラベルを敢行。イエズス会の一員に紛れ込んで16世紀の日本へといざいざ!まだ1巻の途中だが実に面白い。休みが足りないって!(2026.1.3) - 2025年12月28日
- 2025年12月18日
淋しいのはお前だけじゃない 市川森一シリーズ1 三草社市川森一シリーズ読みたい昨晩ドラマ「もしがく」の最終回を見た。ここは読書と本の場所だから詳細は専門の界隈に任せるが一言だけ感想・・悪くはないんだけど期待が高かっただけに・・・ ただ三谷氏自身がその影響を語っている市川森一作「淋しいのはお前だけじゃない」と比較せずにはいられない。 こう書いては身も蓋もないけれども、ともに「やりきれない現実をフィクションの力で乗り越えていこう」とする姿を描いているからだ。三谷氏の結末は希望を残しながらもほろ苦く、市川氏の方は「いい夢見たな」と西田敏行(素晴らしい俳優さんでした)が呟いた・・と記憶してるがさて合っているか?シナリオを読んでみたいな。 (2025.12.18)
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