一年とぼける "到来する女たち 石牟礼道子・..." 2026年3月17日

到来する女たち 石牟礼道子・中村きい子・森崎和江の思想文学
「シスターフッド・イズ・グローバル」的発論からなる評論と言える。石牟礼道子・中村きい子・森崎和江、三者の作品を「思想文学」として捉え、その「交差性」を浮かび上げる。文学のみならず、社会背景や地理、また三者の「聞書き」によって語られる「階層」も含めた交差性が論じられている。 フェミニズム、ジェンダー論が前提とされているのは「はじめに」で明記されているが(むしろそれ故?)、上記の「シスターフッド〜」的発論から交差性を論ずるというのに危険性を感じていたが、予想通りというか予想以上というか、かなり「緊張感」のある評論となっている。 ジェンダー論が前提となっているという事で、論内における「交差性」とは≒インターセクショナリティと解しても大きな問題は無いと思う。インターセクショナリティとは、属性や理論に必ずしも回収され切らない「属性の不可」を表す語だが、それが「シスターフッド〜」的感覚、つまり無意識にも属性への単一性・同一性を求める指向と組み合わされる事によって、個としての属性の交差が多への従属に反転され接続される恐れは大きい。 また、「交差性」の強調による弊害として、ヘゲモニーの平準化の恐れもある。特に個の属性に関する交差性に留まらず、他者との関係性においても交差性を強調される場合、その危険は増す。その場合における交差性とは「影響関係」とも呼べるが、影響関係おけるヘゲモニーを「交差性」と称する事により、あたかも平準化した交換関係にあるかの様に錯覚する危険はある。 一例として、「聞書き」という行為において、「話す側」と「(聞いて)書く側」に交差性という単語を噛ませる事によって、「聞書き」とは影響の交換関係によって書かれた行為と美化される。しかし、実際にはヘゲモニーの不均衡が存在するのは明らかだ。どうあっても「話す側」は「書く側」の後景に置かれる。石牟礼・中村・森崎の三者がその不均衡に無頓着だったとは思わない。少なくとも同時代的にはその不均衡に敏感な書き手であったであろうとは思う。しかしそれは現代の視座においても免責され得る不均衡なのかは別となる。 森崎の言う「非所有の(非)所有」概念や権力への無志向を下敷きにする事でこれらの問題をクリアしたとしていたのかも知れないが、実際にはどうだろう。個人的には、これらの危険性を意識して乗り越えていたとは思えない。 論の「結」に至る部分については、上記の理由から感得出来ない部分が多かった。 しかし、筋道としての解説・概説は抜群に面白く、紹介されている各作品はもちろん参考文献に至るまで非常に魅力に映る。特に文献から批評性を掬い取る引用は見事で、この一冊を読むだけで「読みたい!」と思える本が何冊も生まれる。 最後に、個人的白眉として三章『連なり超えゆく世界を感受する-石牟礼道子『椿の海の記』』を挙げたい。全体の論調として交差性よりも著者の石牟礼への感応といった趣が強く、テクスト批評としても、また著者の一読者として石牟礼に向き合う態度としても非常に感銘を受ける。 「幾重にもからめとられて生きる人間は、いまこことは異なる別のどこかに、別の世界に逃れゆくことも、苦しみから離れ哀しみから解き放たれることも、おいそれとは叶うまい。その「逃亡を許されなかった魂」の苦しみと哀しみが文学となる。苦しみと哀しみを抱えた時に人は切実に文学を必要とし、そこに文学が生まれる(注釈略)。石牟礼において文学とは、そのような意味のものであるにちがいない。」(p.223) 章の最後半に紡がれている文章。この様な感受が可能な読者の、その文に価値がない訳はないのである。
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