うーえの🐧 "奇のくに風土記" 2026年3月23日

奇のくに風土記
⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️ 「声なき声に耳を澄ます、優しくも不思議な命の交歓」 人間関係に疲れ、ふと立ち止まりたくなった時。あるいは、世界の喧騒から少しだけ距離を置きたいと感じた時。木内昇が紡ぎ出す『奇のくに風土記』は、そんな私たちの心に静かに、そして確かに沁み込んでくる特別な一冊です。 物語の舞台は、江戸時代の紀州藩。緑深く、どこまでも山々が連なるこの地は、古くから神仏や得体の知れない「あやかし」が息づく場所でした。主人公の十兵衛(のちの実在の本草学者・畔田翠山)は、人との関わりや会話が極端に苦手な、不器用な少年です。しかし、彼には誰にも言えない秘密がありました。それは、「草木や花と自在に言葉を交わすことができる」という不思議な力です。 人間の言葉よりも、足元にひっそりと咲く名もなき花の声に耳を傾ける十兵衛。孤独なはずの彼の日常は、ある日、山で「天狗(てんぎゃん)」と遭遇したことを境に、少しずつ奇妙な熱を帯びていきます。精霊や化生(けしょう)たちが引き起こす面妖な出来事の数々。亡き父が植物の蔓を伝ってあの世からひょっこり現れるなど、思わずクスリと笑ってしまうようなユーモアと、背筋がすっと伸びるような自然への畏怖が、本作では見事なバランスで同居しています。 この物語の最大の魅力は、ただの時代ファンタジーにとどまらない「命への深い眼差し」にあります。草木も、あやかしも、そして人間も。  「みなそれぞれ与えられた姿を全うしたいと願っておる。それは人も草花も変わらぬ」 作中で語られるこの真理は、十兵衛の成長を促すだけでなく、現代を生きる私たちの心をも静かに揺さぶります。著者の木内昇は、端正で美しい日本語を駆使し、紀州の豊かな自然——作中で「美(う)っつい奇のくに」と呼ばれる世界——を鮮やかに描き出しました。ページをめくるごとに、湿った土の匂いや、頬を撫でる山風、木漏れ日の温もりが立ち上ってくるかのようです。 人との対話につまずき、草木に救いを見出していた少年が、恩師や不思議な存在たちとの交歓を経て、やがて他者と、そして自分自身とどう向き合っていくのか。その不器用でひたむきな歩みは、読む者に深い安らぎと、明日を生きるための小さな光を与えてくれます。 ファンタジーでありながら、確かな土の匂いと命の温もりを感じさせる傑作。心静かに、じっくりと活字の世界に浸りたい夜に、ぜひ手に取っていただきたい一冊です。読後、道端に咲く一輪の花や、公園の木々が、昨日までとは少し違って見えてくるはずです。
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