
萌英
@moenohon
2025年3月16日

医者の父が息子に綴る 人生の扉をひらく鍵
中山祐次郎
読み終わった
言い換えると、優しさとは、他者の持つ、自分とは異なる考え方や感じ方を尊重し、想像すると
いうことなのだ。
いち医学生だった僕に何かができるわけではない。逆に、僕にできることはなんだろうかと考え、悩み抜いた未に出た答えが「たくさんお話をすること」だったのだ。それ以外なかったとも言えるけど。
あの患者さんとたくさんお話をしたおかげで、僕は優しさの正体に気がついたのだ。
それからは、患者さんにお会いするたびに、そして患者さんだけでなく新しく友達に出会うたびに、いつも「相手の気持ちを本気で考える」ことをやるように心がけている。いつもいつもうまくいくわけじゃないけどね。
「来年死んでしまうとしたら、君は今何をしますか?」すると、湧き上がるものがあるはずだ。
僕はこの魔法の質問をしょっちゅう自分に投げかけている。そして、きちんと自分の夢中にまっすぐ歩めるように軌道修正しているのだ。
もしこのマジック・クエスチョンで何も思わなかったなら、次の質問がある。これらに答えてほしい。
「来年目が見えなくなってしまうとしたら、今年どこで何を見たい?」「来年外に出かけられなくなってしまうとしたら、今年どこに行きたい?」
「来年何も食べられなくなるとしたら、何を食べたい?」「来年誰にも会えなくなるとしたら、今年会っておきたい人は誰?」
答えから、君が本当に見たいものや行きたいところ、食べたいものや会いたい人がわかるはずだ。
君はもしかしたらまだ考えたことがないかもしれないが、実は人間の死亡率は100%なのだ。これを書いている僕はいずれ死ぬ。そして読んでいる君もまた、必ずいつか死ぬのである。
この「人生の締め切り」が来る前に、やりたいことをやっておかねば。僕はそう思い、この本を書き始めたんだ。伝える前に死んでしまったら、何も伝えられないからね。
丸坊主になって勉強をした浪人の2年間、勉強し続けて無数の試験に合格し続けた医学部の6年。ここまで来て、医者にならない選択肢はない。
他の学部と異なり、医学部は入った時から医者になるべく職業訓練を受け続けるのだ。
「絶対に落ちることのできない試験」
そんな恐怖が、僕ら6年生を覆っていた。
僕は、朝は6時から、夜は23時まで桜ヶ丘にある医学部キャンパスの自習室にいた。
そして週末には必ず息抜きのため飲みに行った。殺気立った同級生と行っても息が詰まるので、鹿児島銀行勤めの友人と高校教師の友人とよく行ったものだった。酒を飲んだ翌日にも、必ず6時には勉強を始めた。
あっという間に12月が終わり、新しい年がやってきた。
僕が医者になるか、浪人になるかが決まる年だ。
恒例の年末年始の帰省はせず、僕は鹿児島で勉強し続けた。落ちるわけにはいかなかった。
1000を超える病気。それらの原因や症状、治療法を、自作のゴロで頭に叩き込んだ暗記は苦手だったが、そんなことは言っていられない。
「それではここで、解答をやめてください」
2007年2月19日。大きな体の試験官の太い声で、ついに3日間にわたる医師国家試験が終わった。
500問、合計16時間と15分。僕は心も体も芯からくたびれていた。この試験のために半年の間、毎日16時間ほど勉強をし続けてきた。
黒いスーツの女性が解答用紙を回収している。
頭に浮かんだのは、「大きな災害や病気、事故にあわずに試験を受けられたことへの感謝」だった。
もし大きな地震が起きたら、もし感染症が流行したら、もしホテルから試験会場までのバスが事故を起こしたら。
「医学的知識」の高い山頂に、僕はいた。一度転げたら、もう二度と到達できないだろう高み。大学での実習をし、無数の試験を受け、さらに勉強しけてやっとたどり着いた高み。
すべてのタイミングが揃い、なんとか奇跡的に登りきれたのだ。
どんな仕事も、人とつながっている。「あの人に任せれば大丈夫」という評価を少しずつ積み重ねてたどり着いた高さが、君ができる一番大きな仕事なのだ。
僕は、南日本新聞のエッセイを全力で書いた。1ヶ月に1本を書くために、丸々1ヶ月ずっと考え続けたこともあった。
そうしたら、ありがたいことに「ベスト・エッセイ2023』という本に選出してもらえたし、鹿児島の財界人が集まるところで講演する機会ももらえた。さらに鹿児島の本屋さんでは、僕の小説が出るたびに大変な数を陳列してもらえるようになったのだ。
小さな仕事の先にしか、黄金の果実はないことを知ってほしいと思う。
自分の目というフィルターを通して、起きていることを見て、自分の頭で判断する。何が正しいかわからないこの世界で、必ず自分の目で見ること。
そのためには、世界のあちこちに旅行しなければいけない。生まれ育った場所が違い、目と肌の色が違う人がどんなことを考えているのか。直接会って、君が話すんだ。そうしなければ、正しく理解をすることはできない。
そのために共通の言語を学ぶ必要がある。
つまり外国語を学ぶのだ。
上司が、「中山はこれだけ頑張っている、やらせないわけにはいかない」と思わざるを得ないような熱意だ。その熱意を示すにはどうすればいいだろうか。単純なことだ。
僕は朝一番に来て誰よりも雑用をし、夜は一番最後まで残って後輩の指導をした。そして日中の空いた時間には必ず自分の業務と直接は関係ない手術を見学した。さらに、手術ではない仕事、学会発表や論文作成といった仕事も全力でやった。
その頃、僕はそういう仕事を人の3倍やろうと思っていたし、実際に3倍くらいやっていたと思う。
そのためには夜遅くまで病院のデスクでパソコンに向かったし、休日も遊びに行かずひとり病院にいたのだが。
かくして、僕は歴代の若手外科医で初めて、腹腔鏡の大きな手術を執刀させてもらった。
怖いベテラン外科医が患者さんをはさんで向かいに立ち、僕は執刀医の位置でメスを持った。
「ここ切って」
「ここつまんでひっぱって」
言われた通りに動くのみだ。手は震えこそしなかったが、肩には信じられないほど力が入っている。
手先の器用さも、人体の構造の理解も足りない。
まさに「ここ掘れワンワン」手術だった。執刀と言っても、9割以上はベテラン外科医が行ったのだ。
それでも、手術を執刀した事実に僕の頭は沸騰した。大興奮のまま赤い顔で研修医室に戻ると、
「すごいじゃん!」「よっ、外科医!」
と拍手喝采だった。研修医室の窓からはよく晴れた空が見えた。
外科医として、小さな一歩を僕は歩み始めていた。
僕は、貯金はゼロだったが、お金を「自己投資」していた。
僕が医者になって3年目から9年目までの間、世の同世代の医者の年収の半分の額しか病院からもらわなかった。だが、僕は授業料だと思っていた。世界トップレベルの外科医から手取り足取り手術を教えてもらえるのだ。毎年何百万円を誰かに払っているつもりだった。
いつかきっと取り返せるだろうし、取り返せなくたって何千万円かの支払いで、僕は外科医としての階段を一度飛ばしで駆け上がることができるのだ。それは苦にならなかった。悩む僕に、外科の同期の医師は、「たった2年でこの病院から何か学んだつもり?」
と煽っていた。また別の同期は、
(同じところにずっといるとダメになる、澱んだ水たまりみたいに」
と言った。
当時もっとも信頼していた2学年上の本多という先輩外科医に相談したら、医局に入ったら年功序列、すべて順番待ちになる。中山の能力や努力と関係なく成長スピードが決まる。階段を一段飛ばしで上がりたいなら入っちゃダメだ。先のことは、また考えればいい」
と言った。
この一言で僕は医局に入らないことに決めた。
まるで「暗闇でジャンプ」するような気持ちだった。着地ができなければそれでゲームオーバー。
でも、前にも言ったように、「選択」とは、何かを選ぶことではない。選んだ選択肢があとから「やっぱり大正解だったな」と言えるように、人が休んでいる間におそろしいほどの努力をして現実世界を捻じ曲げることだ。
僕はその覚悟を持って、医局に入らないことを自分で決めた。
「先のことはまた考えればいい」という先輩の言葉は背中を押してくれた。
それでも、修了証をもらうと涙が出た。
果たしてそれから16年が経った。
僕は、最初の5年くらいは「なんでも人の3倍やろう」と決めた。2倍じゃ、抜きん出ることはできない。一日は24時間しかないから、僕は人の倍のスピードでやり、さらに人の倍の時間をかけた。手術の練習も、同僚が1時間やるなら僕は2時間、という具合だ。
自分の外科医としての技術を評価することは簡単ではないが、おそらく僕の技術は抜きん出ていると思う。厳しい環境で人の3倍を続けたのだから、当たり前だと思っている。
神輿に担がれていることを忘れてはならない。
僕はいただいた技術を目の前の患者さんの手術をすることで還元し、同時に全国の外科医の教育のために教科書を書いたり講演をしたりしている。加えて、医局に入り、地道に地域の医療に身を捧げながら外科医として踏ん張る医師たちを心から尊敬している。
僕みたいな利己的な人ばかりでは、この世界は成り立たないのもまた事実である。
恐ろしい会議は週に2回開催された。そのたびに腹を壊した。3年間続けると、最後のほうは不機嫌な外科医の質問を軽くかわせるようになった。
僕は、外科医として長い階段を一段ずつ登って行ったのだ。
ここで、人の何倍も、と気軽に言ったが、だいたい僕のイメージだと3倍は必要だ。人の2倍やっている人はけっこういるからだ。
たとえば、テニスのサーブの練習を人が2時間やるのなら、4時間ではたいしたことはない。でも、6時間やれば大きな差になり、「そんな人はほとんどいない」レベルになる。
勉強だって同じだ。単語帳の暗記を、2周するところ、4周やる人間はいるが、6周やる人はまずいない。
僕は消化器外科専門医試験という、合格者の平均年齢が40歳の試験勉強を33歳の頃めちゃくちゃやった。これを覚えれば受かるという教科書を、本当に6周やった。試験会場では100分の試験を30分で解き終わり、一番に会場を出た。わからない問題はなかった。
まだまだ駆け出しの新人といった扱いは変わらない。だが、雑用はできるようになった。
後輩外科医の指導、自分の手術修業、そして学会発表や論文執筆など、かなりの仕事量になり僕は毎晩23時まで医局で仕事をしていた。
超過勤務手当などない。タイムカードさえなく、実際には月28日ほど出勤していたが「月15日しか勤務していないことにせよ」というでたらめな東京都の労務管理だった。
医者3年目が終わりに近づいた1月、僕は下町の救命センターに勤務した。
当直という恐ろしい業務がある。
これは、朝8時から夕方5時まで働き、そのまま夜中の勤務が5時から翌朝8時まで続くというものだ。しかもヘトヘトになった翌朝に帰れるわけではない。そこからまた夕方5時まで働く、36時間ぶっ通しの労働である。
救命センターの当直の夜は過酷だった。
高度救急救命センターの名前の通り、この世でもっとも生命の危機に瀕した人が運ばれてくる。夜中に運ばれてくる人のうち、半数はCPA、つまり心肺停止状態であった。
「ホットライン」と呼ばれる置き型の白い電話がけたたましく鳴り、そばにいた僕はパッと受話器を取る。
「こちら••病院救命センター」
「お願いします、CPAの搬送依頼です。患者は87歳男性・・・・・」
ノートにメモをしていた僕は言葉をさえぎり「受け入れます」と言う。
「ありがとうございます、10分で到着です」
受話器を置くと、僕は大きい声で「CPA、10分後です!」と叫び駆け出す。
同期のキツネ顔がにっと笑って後ろをついてくる。
僕の記憶力は人よりはるかに悪いが、人からかけられため言葉はすべて記憶していて、心の宝箱に入れている。しょっちゅうそれを取り出しては眺め、甘いチョコレートを食べるみたいにして悦に入るのだ。
いつ死ぬかわからないが、100%死ぬことが決まっているこの世界で、君は何をして、誰を愛するのか。
今はまだよくわからないかもしれないけど、この問いは一生懸命に考えてほしいと思う。
死とは、「生きる」を鮮やかにする最高のトリガーだからだ。
僕は、来年死ぬかもしれない。今何か重大な病気にかかっているわけではないけれど、真剣にそう思っている。だからこの本を作ったのだ。
僕が死んでしまっても、君たちに伝えられるように。
立派になるかならないか、高い技術を持つか持たないかは自分しだい、とよく言われてだがそんなことはない。いかに厳しい環境に身を置くか。いかにアウェーな場所で奮闘するか。これが成長の鍵になる。
京都大学時代の師である福原俊一先生は「他流試合をせよ」といつも言っていた。なるほど、いつも自分の居心地の良いところにいると、成長はないよ、という意味だろう。
自分で操縦することはない大型豪華客船を降り、僕は小さい舟に乗りかえたのだ。
そして、フルタイムで働きつつ育児家事に加え介護、さらには夫のグチまでを聞く超人の妻に、心からの花束を贈りたい。
令和6年5月23日 茅ヶ崎駅前のスターバックスにて
