中村 "タイミングの社会学" 2026年3月31日

中村
中村
@boldmove33
2026年3月31日
タイミングの社会学
フィリピン・マニラの貧困世界を生きる人びとを対象としたエスノグラフィーである。筆者は弱い立場にあるかれら特有の経験——待機する時間、解釈労働、疲弊——を書く。これらは筆者が調査を通じて練り上げた地に足のついた概念であることがよく分かる。エスノグラフィーを書くこととは特定の対象世界を記述するだけでなく概念を洗練させること(p. 358)、理論的に考えるとはディテールを捉えること(p. 152)、社会学をするとは癖=過程性を捉えること(p. 379)といった筆者の研究における立脚点に関する洞察が面白かった。 >待機するということは期待することだ。期待しない人間は、待機することがない。しかし待機する人間は、事態の成り行きを確定する決定権が、自分にはないことを思い知ることになる。待機することは、ゲームに自らが囚われることである。(p. 81) >「惜しかったなあ、もうしこしでお前、拳が大ケガになってたのに。うわー残念だわ」。やさしさの溢れる瞬間である。真剣に応答するのではない。茶化すのである。そして、茶化せば茶化すほど、それが深刻な事態であったことがわかる。(p. 121) >ボクシング・キャンプでの何気ない会話には、自家用車を持つこと、素敵な女性と結婚すること、周りの人びとが自分に注目してくれること、こうした明るい将来が語られる。注意が必要なのは、こうした夢は必ずしも個々人の心理的次元から生まれるものではないことである。そうではなく、ボクシング・キャンプの構成員によって集団で語られ享受されていくものである。すなわち、集団的な夢としてである。[……]ボクシング・キャンプに入門し、そこで集団的な夢が享受されることによって、初めて〈かつての自己〉が否定的価値づけを帯びたものとして取り出される。貧困体験そのものではなく、呼び覚まされた貧困体験なのである。ここに見られるのは、客観的事実としての過去ではなく、ボクシング・キャンプの日常を基点に対象化された過去である。そして、この対象化された過去の貧困を動員することで、ボクシング・キャンプの日常が成立するのである。(pp. 144–147) >社会学が理論を必要とするのは、一般性の高い説明モデルを構築するためではなく、人びとの「ものの見方」に分け入るためであると私は考えている。理論は、説明のための図式としてではなく、人びとの実践に分析的に入り込むための道具としてある。一般性の高い説明モデルを構築するためではなく、人びとの実戦の豊穣さを言語化する武器としての社会学の可能性が、そこには賭けられている。(p. 152) >だが、こうしたインフォーマリティ理解の問題点は、フォーマリティ/インフォーマリティを二律背反的なものとして捉えている点にある。前者が国家の官僚的手続きを経たもの、後者がそうでないもの、とみなす二分法である。[……]むしろ、法的には白黒つけないこと、「グレー経済」であること自体が重要なのであり、そのグレーをグレーなまま認める国家が存在することによって、インフォーマリティが現実化している。(pp. 176–177) >文化資本の働きについて、詳しく「知っている」のは、それを所有することで特定の世界を優雅に「生きている」者たちではなく、それを無所有であるがゆえに状況を必死に解釈しなければならない、はみ出し者たちの側であることが分かるだろう。優雅ではなく、ぎこちないからこそ、見えるものがある。つまり、文化資本論とは、それを所有する者たちの卓越化の理論を示す議論であると同時に、そうして卓越する人びとが、まさに卓越するがゆえに構造的盲点を併せ持つということを指し示す議論なのである。(p. 215) >貧困世界を生きることは、解釈労働を強いられることである。「他者の感情を読むスキルは、いくぶんかは労働者階級の仕事の内容がもたらしたものである。要するに、富裕な人びとは解釈労働の方法を学ぶ必要がない。というのも、他人を雇い入れて解釈労働をやらせればよいからである」(グレーバー 2020:308)。繰り返すが、その解釈労働の過酷さを告発するだけでは足りない。その解釈労働を通じて練り上げられた人びとのものの見方を敷衍することで、中心に立っていては構造的盲点になるものを照らし出すことが重要だ。そうして見えてくるものがあるからこそ、貧困世界に生きる人びとの視座「から」エスノグラフィーを書く必要がある。(p. 223) >私はこれまで、質的社会調査法でよく言われるところのコード化——ここの事例記述を類似した項目ごとにまとめる作業——をおこなったことがない。コード化することは、ディティールを削ぎ落とすことだからだ。良質な調査を実践する調査者のフィールドノートには、現場のさまざまなディテールがしっかりと記録されている。ディティールを一般化し、そこから理論モデルを打ち立てるのではない。ディティールを捉えること自体が、直に理論的な作業なのである。(p. 224) >習慣化することによって、私たちは物事に対応する。農村からマニラに出てきた若者は、スクオッター地区で生活をはじめると、最初はいちいち考えて、物事に対応しなければならない。だが慣れてくると(あるいは習うことが積み重なってくると)、それらをいちいち考えることなく、スムーズに日常生活を回すことができるようになる。習慣化を通じて、生活は回りだし、時間の流れも淀みなくなっていくのである。(p. 260) >このように見通すならば、時間—空間の圧縮とは、輸送に関わる人間たちの労働に、ますます依存する社会的条件ができあがることである。そしてそれは、この人間たちの労働が、根本的な対抗力を構成しうる可能性を持つことだ。だからこそ為政者たちは、この輸送に関わる労働者たちを徹底的に蔑み、低賃金で働かせるのである。「資本主義社会においては、社会の根幹を支える労働であればあるほど蔑視される」(池田 2021:26)ことは、ここにおいても一貫している。かれらがストライキをおこせば、為政者は圧倒的な暴力装置を使って、かれらを強制的に職務に就かせるだろう。(pp. 272–273) >主要道路は、中央から地方に向かって敷かれる。決してその逆ではない。この方向性は重要だ。[……]それらを必要とするのは、原理的には中央であって、地方ではない。首都=資本(capital)が空間的障壁をなくすために高速道路や幹線道路ができあがるのであって、地方が望んでそれができあがっるわけではない。むしろ地方から見れば、中央が計画した道路網に強引に組み入れられていく従属性こそが際立つ経験であると言えるだろう。(p. 278) >強制移住を余儀なくされた住人からすれば、必要なのは「雇用(employment)」であって、「起業(enterprise)」ではない。国家住宅庁にとってマイクロファイナンスと企業家モデルは、移住者を見捨てることを正当化する論理として好都合である。(p. 312) >機会を待ち侘びて待機する。だが、結局のところ、その機会は訪れない。あるいは機会が訪れたと思ったときには、すでに世界は変質していて、もはやそれは機会と呼ぶに足る内実を備えてはいない。貧困世界を社会学する際のひとつの課題は、世界に能動的に働きかけようとしても、その働きかけが気を逸してしまうことを宿命づけられている人びとの痛苦を言語化することであるだろう。(p. 329) >都市開発においては労働者を必要とする——建設労働者や清掃労働者などを想起せよ——一方で、その労働者たちの居住区は遠隔地化されている。この空間的乖離を埋めるのが、労働者による長時間通勤なのである。そうして、一日一六時間、家を空ける労働者が生み出されるのであり、そこではもはや職場での労働時間ではなく、通勤時間と労働時間の総時間が一日に占める割合こそが問題になる自体が登場する。(p. 338) >自分の行動が世界の変化を引き起こすのであれば、人は行動することの意義を理解することができる。しかし自分の行動が世界の変化とは無縁であることを知ったとき、人は状況に絶望するだろう。そして自分とは異なった者に、世界の変化をもたらすことを信託し、その信託した結果が自己に還元されることを待ち望むだろう。疲労が自分の行動と世界の変化との連動性を自覚している者が骨折り仕事に従事するなかで生まれるものであるのに対して、疲弊は両者が切断されているという無力さを思い知るなかで生じる。(p. 354) >エスノグラフィー研究のねらいは、特定の対象世界を記述するだけでなく、その記述に即した概念を洗練されることにある。そして、そうして編み出された概念を、別の事例に転置してみながら、概念を汎用性を備えたものに仕立て上げることが重要になる。ただその際に注意が必要なのは、上空を飛行するような概念を作ったり、当てはめたりするならば、エスノグラフィー研究は台無しになる点だ。語呂遊びをあえてするなら、「台座」となるフィールドのディテールを含み込んだ範囲での概念かが必要なのであり、それが無くなるような上空飛行をしないこと——「台無し」にしないこと——が求められるのである。(p. 358) >癖の社会学とは、からだを動かし、呼吸し、思考する個人が、まさにその運動の過程において登場させる個性=共有性を捉えるものである。よってそれは、文字化されながらも、無時間化を超え出るような過程性を伴う。昆虫の観察学にたとえるならば、採取する蝶を、数で示すのでもなければ、一匹ずつピン留めするのでもなく、蝶を飛んでいる状態において理解することといえるだろう。癖に注目することは、こうした過程性を確保することなのではないか。この時点において私たちは、人びとがそれぞれ生きていることの重みと家庭への感受性を外さないで、社会学を開始することができるように思われる。(p. 379) >エスノグラフィーを書くことは、事態にどうしようもなく巻き込まれる人びとが見届けている世界を、その傍で垣間見る——覗き見るのではなく——ことから始まる。自分の人生でありながら、決して思い通りにはならず、まるで劇場のスクリーンのようにさまざまな出来事が進んでいく。そうした「スクリーンの人生」において、人びとが「どうなるのか」と見届け、そして僅かの隙を探って「どうするのか」と身構えている世界を書き残すことは、私にとって重要な実践であり続ける。(pp. 391–392)
読書のSNS&記録アプリ
hero-image
詳しく見る
©fuzkue 2025, All rights reserved