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中村
中村
@boldmove33
  • 2026年3月31日
    タイミングの社会学
    フィリピン・マニラの貧困世界を生きる人びとを対象としたエスノグラフィーである。筆者は弱い立場にあるかれら特有の経験——待機する時間、解釈労働、疲弊——を書く。これらは筆者が調査を通じて練り上げた地に足のついた概念であることがよく分かる。エスノグラフィーを書くこととは特定の対象世界を記述するだけでなく概念を洗練させること(p. 358)、理論的に考えるとはディテールを捉えること(p. 152)、社会学をするとは癖=過程性を捉えること(p. 379)といった筆者の研究における立脚点に関する洞察が面白かった。 >待機するということは期待することだ。期待しない人間は、待機することがない。しかし待機する人間は、事態の成り行きを確定する決定権が、自分にはないことを思い知ることになる。待機することは、ゲームに自らが囚われることである。(p. 81) >「惜しかったなあ、もうしこしでお前、拳が大ケガになってたのに。うわー残念だわ」。やさしさの溢れる瞬間である。真剣に応答するのではない。茶化すのである。そして、茶化せば茶化すほど、それが深刻な事態であったことがわかる。(p. 121) >ボクシング・キャンプでの何気ない会話には、自家用車を持つこと、素敵な女性と結婚すること、周りの人びとが自分に注目してくれること、こうした明るい将来が語られる。注意が必要なのは、こうした夢は必ずしも個々人の心理的次元から生まれるものではないことである。そうではなく、ボクシング・キャンプの構成員によって集団で語られ享受されていくものである。すなわち、集団的な夢としてである。[……]ボクシング・キャンプに入門し、そこで集団的な夢が享受されることによって、初めて〈かつての自己〉が否定的価値づけを帯びたものとして取り出される。貧困体験そのものではなく、呼び覚まされた貧困体験なのである。ここに見られるのは、客観的事実としての過去ではなく、ボクシング・キャンプの日常を基点に対象化された過去である。そして、この対象化された過去の貧困を動員することで、ボクシング・キャンプの日常が成立するのである。(pp. 144–147) >社会学が理論を必要とするのは、一般性の高い説明モデルを構築するためではなく、人びとの「ものの見方」に分け入るためであると私は考えている。理論は、説明のための図式としてではなく、人びとの実践に分析的に入り込むための道具としてある。一般性の高い説明モデルを構築するためではなく、人びとの実戦の豊穣さを言語化する武器としての社会学の可能性が、そこには賭けられている。(p. 152) >だが、こうしたインフォーマリティ理解の問題点は、フォーマリティ/インフォーマリティを二律背反的なものとして捉えている点にある。前者が国家の官僚的手続きを経たもの、後者がそうでないもの、とみなす二分法である。[……]むしろ、法的には白黒つけないこと、「グレー経済」であること自体が重要なのであり、そのグレーをグレーなまま認める国家が存在することによって、インフォーマリティが現実化している。(pp. 176–177) >文化資本の働きについて、詳しく「知っている」のは、それを所有することで特定の世界を優雅に「生きている」者たちではなく、それを無所有であるがゆえに状況を必死に解釈しなければならない、はみ出し者たちの側であることが分かるだろう。優雅ではなく、ぎこちないからこそ、見えるものがある。つまり、文化資本論とは、それを所有する者たちの卓越化の理論を示す議論であると同時に、そうして卓越する人びとが、まさに卓越するがゆえに構造的盲点を併せ持つということを指し示す議論なのである。(p. 215) >貧困世界を生きることは、解釈労働を強いられることである。「他者の感情を読むスキルは、いくぶんかは労働者階級の仕事の内容がもたらしたものである。要するに、富裕な人びとは解釈労働の方法を学ぶ必要がない。というのも、他人を雇い入れて解釈労働をやらせればよいからである」(グレーバー 2020:308)。繰り返すが、その解釈労働の過酷さを告発するだけでは足りない。その解釈労働を通じて練り上げられた人びとのものの見方を敷衍することで、中心に立っていては構造的盲点になるものを照らし出すことが重要だ。そうして見えてくるものがあるからこそ、貧困世界に生きる人びとの視座「から」エスノグラフィーを書く必要がある。(p. 223) >私はこれまで、質的社会調査法でよく言われるところのコード化——ここの事例記述を類似した項目ごとにまとめる作業——をおこなったことがない。コード化することは、ディティールを削ぎ落とすことだからだ。良質な調査を実践する調査者のフィールドノートには、現場のさまざまなディテールがしっかりと記録されている。ディティールを一般化し、そこから理論モデルを打ち立てるのではない。ディティールを捉えること自体が、直に理論的な作業なのである。(p. 224) >習慣化することによって、私たちは物事に対応する。農村からマニラに出てきた若者は、スクオッター地区で生活をはじめると、最初はいちいち考えて、物事に対応しなければならない。だが慣れてくると(あるいは習うことが積み重なってくると)、それらをいちいち考えることなく、スムーズに日常生活を回すことができるようになる。習慣化を通じて、生活は回りだし、時間の流れも淀みなくなっていくのである。(p. 260) >このように見通すならば、時間—空間の圧縮とは、輸送に関わる人間たちの労働に、ますます依存する社会的条件ができあがることである。そしてそれは、この人間たちの労働が、根本的な対抗力を構成しうる可能性を持つことだ。だからこそ為政者たちは、この輸送に関わる労働者たちを徹底的に蔑み、低賃金で働かせるのである。「資本主義社会においては、社会の根幹を支える労働であればあるほど蔑視される」(池田 2021:26)ことは、ここにおいても一貫している。かれらがストライキをおこせば、為政者は圧倒的な暴力装置を使って、かれらを強制的に職務に就かせるだろう。(pp. 272–273) >主要道路は、中央から地方に向かって敷かれる。決してその逆ではない。この方向性は重要だ。[……]それらを必要とするのは、原理的には中央であって、地方ではない。首都=資本(capital)が空間的障壁をなくすために高速道路や幹線道路ができあがるのであって、地方が望んでそれができあがっるわけではない。むしろ地方から見れば、中央が計画した道路網に強引に組み入れられていく従属性こそが際立つ経験であると言えるだろう。(p. 278) >強制移住を余儀なくされた住人からすれば、必要なのは「雇用(employment)」であって、「起業(enterprise)」ではない。国家住宅庁にとってマイクロファイナンスと企業家モデルは、移住者を見捨てることを正当化する論理として好都合である。(p. 312) >機会を待ち侘びて待機する。だが、結局のところ、その機会は訪れない。あるいは機会が訪れたと思ったときには、すでに世界は変質していて、もはやそれは機会と呼ぶに足る内実を備えてはいない。貧困世界を社会学する際のひとつの課題は、世界に能動的に働きかけようとしても、その働きかけが気を逸してしまうことを宿命づけられている人びとの痛苦を言語化することであるだろう。(p. 329) >都市開発においては労働者を必要とする——建設労働者や清掃労働者などを想起せよ——一方で、その労働者たちの居住区は遠隔地化されている。この空間的乖離を埋めるのが、労働者による長時間通勤なのである。そうして、一日一六時間、家を空ける労働者が生み出されるのであり、そこではもはや職場での労働時間ではなく、通勤時間と労働時間の総時間が一日に占める割合こそが問題になる自体が登場する。(p. 338) >自分の行動が世界の変化を引き起こすのであれば、人は行動することの意義を理解することができる。しかし自分の行動が世界の変化とは無縁であることを知ったとき、人は状況に絶望するだろう。そして自分とは異なった者に、世界の変化をもたらすことを信託し、その信託した結果が自己に還元されることを待ち望むだろう。疲労が自分の行動と世界の変化との連動性を自覚している者が骨折り仕事に従事するなかで生まれるものであるのに対して、疲弊は両者が切断されているという無力さを思い知るなかで生じる。(p. 354) >エスノグラフィー研究のねらいは、特定の対象世界を記述するだけでなく、その記述に即した概念を洗練されることにある。そして、そうして編み出された概念を、別の事例に転置してみながら、概念を汎用性を備えたものに仕立て上げることが重要になる。ただその際に注意が必要なのは、上空を飛行するような概念を作ったり、当てはめたりするならば、エスノグラフィー研究は台無しになる点だ。語呂遊びをあえてするなら、「台座」となるフィールドのディテールを含み込んだ範囲での概念かが必要なのであり、それが無くなるような上空飛行をしないこと——「台無し」にしないこと——が求められるのである。(p. 358) >癖の社会学とは、からだを動かし、呼吸し、思考する個人が、まさにその運動の過程において登場させる個性=共有性を捉えるものである。よってそれは、文字化されながらも、無時間化を超え出るような過程性を伴う。昆虫の観察学にたとえるならば、採取する蝶を、数で示すのでもなければ、一匹ずつピン留めするのでもなく、蝶を飛んでいる状態において理解することといえるだろう。癖に注目することは、こうした過程性を確保することなのではないか。この時点において私たちは、人びとがそれぞれ生きていることの重みと家庭への感受性を外さないで、社会学を開始することができるように思われる。(p. 379) >エスノグラフィーを書くことは、事態にどうしようもなく巻き込まれる人びとが見届けている世界を、その傍で垣間見る——覗き見るのではなく——ことから始まる。自分の人生でありながら、決して思い通りにはならず、まるで劇場のスクリーンのようにさまざまな出来事が進んでいく。そうした「スクリーンの人生」において、人びとが「どうなるのか」と見届け、そして僅かの隙を探って「どうするのか」と身構えている世界を書き残すことは、私にとって重要な実践であり続ける。(pp. 391–392)
  • 2026年3月11日
    沖縄社会論
    沖縄社会論
    本書は、打越正行が気骨のある社会学者であったことを記録していると同時に、彼が優れた人格の持ち主だったことを示す証跡となっている。フィールドノーツからは彼が調査対象者たちから愛されていたことが伝わってくるし、解説からは同業者たちからも愛されたことが読みとれる。すばらしいフィールドワーカーでとても憧れる。こんな仕事ができる人になりたい。 >佐藤にとってフィールドワーク至上主義は、調査票中心主義とともに、避けるべき調査態度である。そしてそれを避けることで、調査対象者と一定の距離をとり、さまざまな調査方法で対象に迫るとする「恥知らずの折衷主義」を提唱する。それはある特定の視点や態度に固執しないという点で多様であり、また柔軟なものであるが、つかえる部外者という安定的な地点からの定点観測的なものの見方となっている。(p. 74) >巻き込まれながら調査する理由は、そうしないと私たちが立てた仮説のことしか分からないからである。社会調査は、調査者が想定したことを確かめに行くだけではなく、私たちがまだ知りえていない世界に魅力を感じ、またそれを見落とすことに恐れながら調べることでもある。(p. 88) >打越は、自分をおとす。相手をおとすのではなく、自分をおとすことで交流を深めることを、打越は反射的におこなうことができる。そうして自分をおとすことで、相手を上に置く序列をつくりだし、やりとりを展開していく。これがパシリとしての参与観察の基本構図だ。(p. 104) >製造業がほとんどない沖縄では、合法的に中間層にたどり着くルートはほぼ閉ざされており、非合法的な手段でそこを抜けるルートしかない。それゆえに、暴力団に入ったり、刑務所に行ったり、また地元から消息不明となる若者も出てくる。(p. 155) >日本社会の経済成長は、大雑把に述べると地方の農村出身者が都市に向かい自ら安定的に働き、その結果賃金が上昇し、今まで手の届かなかった電化製品を手に入れ、より安定した地位を得るといった循環を何度も経験した。(p. 184) >暴力は当の本人がまったく統制できない行動でもなく、ある社会の興奮状態で起こる聖なる行為でもない。それは文明化された現代でも、いつでもどこでも誰でも行使しうる世俗的な行為のひとつである。その意味で、私たちはまだ完全には文明化されていないはずだ。そのうえで必要なことは、暴力という行為を理解することである。(p. 321) >後輩に追いつかれることの恐怖にもとづく暴力は、現在の沖縄の建設業だからこそ現れるものである。製造業であれば、先輩は次の技術段階やより高い給与、そして後輩にはつけない地位につくことができる。他方で宮城は追いつかれ、そこであたかも自身と浩之がフラットな関係にあるような態度をとるということは、宮城にとって屈辱的なものとして映った。(p. 344) >仲間になること。一員になること。実際にそのメンバーになること。それは、感覚や信念までも共有すること、同じ考え方をすること、単に装うのでもなく演じるのでもなく、「実際に」その一員となるということだ。つまり、参与観察の果てにあるのは、自分が他者になっていくことである、ということを、打越正行は身をもって示したのだ。(p. 403) >私たちは当事者にはなれない。そのことはいまでも変わらない。しかし打越の調査実践を20年ほども身近で見てきて、私たちは当事者にはなれないけれど、「関係者」にはなれるかもしれない、と思うようになった。打越にとって沖縄はもう、他人ごとではなくなっていた。(p. 409)
  • 2026年2月27日
    海をあげる
    海をあげる
    本書に収録されている「美味しいごはん」というエッセイがほんとうに素晴らしくて読むたびにさめざめと泣いてしまう。特に終盤の娘、風花に呼びかけるような語りは美しい。 >風花。今日、お母さんがあなたに教えたものは、誰にも自慢できない、ぐちゃぐちゃした食べものです。それでもそれなりび美味しくて、とりあえずあなたを今日一日、生かすことができて、所要時間は三分です。(p. 30)
  • 2026年2月27日
    地元を生きる
    地元を生きる
    初めて沖縄を旅行することになったので本書を手に取った。これは沖縄を調査地に選んだフィールドワーカーたちによる論文集である。これまで沖縄やその土地で生まれ育った人びとを理解するために使用されてきた「沖縄的共同体」という概念が必ずしも現実を反映していないと指摘し、社会格差という切り口から照らすことで沖縄的共同体の多面性を明らかにしようと試みている。岸による方法論の整理や打越の生き生きとした記述、上間の強い問題意識に駆動される文章が美しかった。 >基地依存型輸入経済という枠組みが戦後復興の初期条件となり、その帰結として、戦後沖縄は零細サービス業中心の産業構造を形成するに至った。そして復帰以降は、財政依存型の経済へシフトしていった。一方で、零細サービス業は中心の産業構造は、九〇年代以降も大きくは変わっておらず、依然として、沖縄の経済的特性の中核を占める。(p. 12) >しかしくり返すが、従来の研究は、共同性の性質とその変化、あるいはその機能に議論が集中してきた反面、社会的な地位が異なる人びとが、それぞれの日常生活において共同性をどのように経験しているのかという問いを十分には採用してこなかったのではないだろうか、社会的位置が異なれば、そこで生きられる日常生活やその経験のない実も異なるとする見方は社会学の知的伝統である。(p. 49) >しかし、生活史調査における語りが、聞き手と語り手の相互作用で「つくられる」というときの「つくられる」という言葉の意味は、「恣意的」ということをまったく意味しない。語りが語り手と聞き手からつくられるからといって、私たちはいかなる場合においても、どんな語りでも、自由につくれるわけではないし、相互作用のプロセスによって思わぬ展開になることはあっても、そこで語られた語りが現実と何の接点もないということも意味しない。いくら調査の現場の相互作用において共同的な達成がみられたとしても、語りを「無」からつくりだすことはできないのだ。(p. 63) >沖縄的な文化は、幼少の頃から慣れ親しんで身体化されてきているものではなく、むしろ大人になってから、イベントのために、習い事的に習得されるものなのである。(p. 98) >そんなに詳しくは自分で考えてるわけじゃないけど。イチャバリバチョーデーっていう言葉、あれも最近出てきて、沖縄にも定着したんだけど、要するに出会ったら兄弟の如くという。なぜ人と接するのに(家族主義的な)兄弟をイメージしなきゃいかんのだという(笑)。そのアナロジーを使わないと、人と接することができない、みたいなわけでしょう、逆にいうと。いままであんなこと言わずとも、適当に接して交流したはずなのに。あれを本土で、プラスイメージでどんどん宣伝していうから、沖縄の人も、われわれはそういうもんだと、なんか自分たちでもそう言い始めた。あの言葉自体が新しい言葉だし。(p. 123) >タカヤを中心とする若者集団のメンバーは、学歴や経済資本が相対的に乏しく、沖縄の脆弱な経済構造に規定されながらも、与えられた条件内で自らにとって常に「ベストな選択」を模索し、行為を決定してきた。その帰結が、ネットワーク重視の経営実践であり、共同体への没入なのである。没入そのものを無批判に肯定するべきではないが、一方で、〈やりがい〉の搾取という言葉では片づけることができない若者たちの社会的現実を、地域的なコンテクストとの関連で捉え返し、共同体への没入状況を地域内在的に理解する必要があることも、また確かなのである。(p. 261) >この三名の人間関係は、同じ中学で、そのときから変わっていなかった。地元社会から空間的に排除された彼らは、日常生活においてよく暴力をふるっていた。[......]彼らは、沖縄共同体的からの空間的な排除に加えて、沖縄的共同体で積み重ねられていくライフステージからの時間的な排除も経験している。このように、アジトや沖組といった沖縄的共同体から、空間的にそして時間的に排除される過程を、ここでは〈共同体からの排除〉として描いた。(p. 337) >ここからは春菜が、自分の育った環境や自分が起きたことを、ふたつの解釈の方法で納得しようとしていることがわかる。そのひとつは、過去の出来事があったからいまの自分になったと捉えることで、過去の出来事を肯定的に捉えようとするやり方である。そしてもうひとつは、自分の身に起こってしまった体験は、人生という長い時間のなかでは、おそらくすべての人が体験することであり、自分はただ若いうちに体験したにすぎないとして、了解しようとするやり方である。そうしたふたつの解釈の方法で、自分に起こった出来事を捉えることによって、自分に起きたことがらの原因は、家族や過程環境にあるのではないと春奈は考えようとしている。(p. 423) >私たちがまず手がけなくてはならないのは、子どもが自身の生活を話すことをできるようにすることだ。自分の家族のなかで起こっていることを、自分の寂しさをどうにかしてもらえるはずだという信頼感を子どもたちのなかに育むことなくしては、子どもの困難は発見すらなされない。春奈はかつて沈黙していた子どもだった。そして私たちの隣には、いまなお沈黙している無数の春奈たちがいるはずである。(p. 434)
  • 2026年2月22日
    平和と愚かさ
    筆者は YouTube やウェブ記事において本書の主題を「平和とは考えないことである」として示していたが、じっさいには(あたりまえだが)複数のテーマや論点が重なる著作になっていた。東浩紀の著作を読んだのはこれが初めてだったが、刺激的でおもしろかった。「加害者による数の暴力=忘却と被害側による意味の再付与=記憶」(p. 206)の共謀が加害の愚かさを後景化させること、犠牲者意識ナショナリズムをはじめとする「被害の物語」はかならず「敵」の存在を必要としてしまうこと、村上春樹論もおもしろかった。人文学を経験科学(=自然科学と社会科学)と対置させ、その意義をテーマパークの運営業務と顧客対応になぞらえて、幻想の訂正をすることと結論づけているのも圧巻だった。 >平和への志向と反戦運動は似ているようで本質的には異なる。平和は考えないことで定義されるが、戦時には考えないことは端的に意味を持たなくなる。戦争について考えないからといって、戦争が止まるわけではないからだ。むしろ戦争を止めるためには、平和ボケとはまったく逆に、現実の政治に深く入り込み、戦争を推進する勢力と厳しく対峙する態度が必要になってくる。その対立の姿勢こそが反戦と呼ばれるものである。(p. 27) >かつてナショナリズムといえば英雄や勝利の物語(加害の物語)が中核になった。しかしいまでは、自分たちは弱者で、犠牲者で、だから正義なのだという訴え(被害の物語)のほうが中核になってきている。博物館のテーマパーク化は、そんな国家意識の変容のわかりやすい表れでもある。(p. 87) >平和は詩でつくられる。詩は愚かだ。暴力的でもある。しかしその愚かさを失ってしまえば、ぼくたちは結局のところ永遠の戦いに閉じ込められるだけだろう。心の傷は、賢さではけっして癒されないからである。(p. 159) >けれども、そこでほんとうに記憶すべきものは、まさに加害者たちが、犠牲者を数に変え、固有性を奪い、交換可能な実験材料として、だれをいつ殺してもいいし殺さなくてもいい、そのような徹底した無関心に達していたことのおそろしさにあったはずなのである。その無関心こそが、彼らを悪をなすことを可能にしたのだから。けれどもそのおそろしさは、被害者が害を物語化し、悪に意味を与えた瞬間に消えてしまう。つまり、この問題においては、数の暴力に意味で抵抗するという、前述の構図そのものが機能しないのだ。加害者による数の暴力=忘却と被害側による意味の再付与=記憶は、むしろ共謀して、数による加害という無意味の意味を見えなくしてしまうのだから。(p. 205–206) >けれども、おそらくは悪については、加害と被害の二項対立ではなく、三項鼎立で考える必要があるのだ。加害者、あるいはより広く加害の文化の継承者は、井戸に潜ることではじめて、加害を忘却するのでも、また被害者の物語に身を委ねるのでもなく、加害そのものの愚かさを記憶し続けることができるのではないか。それが、僕が本論で明らかにしようとしてきたことだ。(p. 231) >けれども同時にぼくは、人類はどうせけっして賢くならないだろうとも思う。人類はこれからも戦争をするだろう。事故も起こすだろう。虐殺すら繰り返すかもしれない。個人はたしかに賢くなる。けれども群れは賢くならない。なぜならば群れはつねに若返り続けるからである。新しく愚かな個体が補充され続けるからである。それは希望であるとともに人類の限界である。いかなるイノベーションが生まれたとしても、人類が人類であるかぎり、その条件は変わることがない。(p. 325) >リゾートを享受する客のほとんどは、ほかのどこかで他者に奉仕し、対価として金銭を獲得した人々だ。つまりフルタイムで動物なわけではない。ここに現代社会の重要な特徴がある。ひとはときに人間になり、ときに動物になる。同じ人間があるときは裏方となり、あるときは客となる。それは裏返せば、現代社会では搾取するものと搾取されるものを実体的に区別できないということを意味している。ある局面で搾取されているひとも、ほかの局面では搾取する側にまわっているかもしれない。階級が分かれているわけではない。いま左派が力を失っているのは、そのような変化に対応できていないからだ。(p. 461) >けれども消費者的—生産者的二重体の時代においてはそうはいかない。そもそもテーマパークが幻想であることはみな知っている。裏方の苦労もみな知っている。そのうえでみな幻想を楽しみにして生きている。そんな状況において、この世界は嘘だという左派や陰謀論者の言葉はとても単純で幼稚に響く。なるほどテーマパークは嘘だろう。世界は幻想だろう。しかし、そもそも人間に、世界を幻想で覆う以外にいったいなにができるというのか。それこそがいま多くの人が感じていることであり、そして消費者的—生産者的二重体の時代のもっとも本質的な問いだ。(p .475–476)
  • 2026年2月11日
    叫び
    叫び
    早野ひかるが話す内容が記述的な内容で歴史的な事実にすぎないのと対照的に、マイクを握った先生は規範的な主張をスピーチしていたのが印象に残った。てか先生もそんなに大したことを言っていない。早野が思い切った解釈をし続けている。そういう作品に読めた。小説を読むのは難しい。
  • 2026年2月6日
    置き配的
    置き配的
    印象的なタイトルや筆者のポッドキャストでの軽快な語り口に惹かれて手に取ってみたが難解で苦労した。豊富な事例を使いながら「置き配的」という概念について紹介されていたが、俺がその概念枠組みで世界を見ることができるほど理解しきれなかった。他方で、「置き配的なものをひっくり返す糸口をそれぞれの角度から探ってきた(p. 244)」という後半はおもしろく読めた。特に、アクター・ネットワーク理論を主題とした「ポジションとアテンション」がよかった。単なる理論ではなく、歴史や社会に埋め込まれた理論として、必然的に登場した理論として、ANT が描かれており勉強になった。自己注意機構(生成 AI)、アテンション・エコノミー、注意欠如(ADHD)を並置できる「注意の時代」における「ポジション」について、透明で変更不可能な理論としての ANT とそれを運用することで見えてくる「立ち姿」について。 >アマゾンが置いたという事実を持ち帰るために荷物を運ぶように、人々は言ってやった・言われたという事実を持ち帰り自陣にアピールするために、ハッシュタグ、引用リツイート、スクリーンショットといった諸々の引用の技術を駆使する。その意味で「置き配的」とは、コミュニケーションを偽造した内向きのパフォーマンスである。(p. 42) >「尊い」、「推し」といった言葉が、判断基準を自分の外にズラすことによる感想の回避であるとすれば、ユーチューブのコメント欄等でよく見るようになった、文末に「(語彙力)」や「(伝われ)」と書き付ける仕草はいわばその逆側から、ブラックボックスとしての内面性の提示がそのまま内面性のちょうたつにもなるようなもってまわった回避の形式だ。感想はいまや、「もしも私に語彙力があったなら伝えられただろうもの」という、反実仮想を介してしかその存在を認められないかのようだ。(p. 65) >しかし同時に、われわれは自分の世界が宗教のようなものに取り囲まれていると考えがちであり、そうした「陰謀」に自身の世俗的安定が脅かされていると感じがちである。そして大変やっかいなことに、情報インフラによって強化されるこの脅迫の構造自体が、われわれの主体性の構成要素として食い込んできている。誰かの陰謀なしには私でいられなくなりつつある。少なくとも論理的にいって可能な応答はふたつある。世俗性の複数性を定立すること、あるいは、自分で陰謀を企てること。(p. 80) >むしろいまは主義やイデオロギーであふれかえっている、というより、それらを他者に投影し相手を陰謀論じゃとみなすことによってしか、それらの外に出られなくなっている。つまり、イデオロギーや主義は掲げるものではなく誰かに貼り付けるものであり、そうすることで誰もがおのれの中立性を保っているのだ。[......]だとすると、一見ナショナリズムや環境問題などの「大きな物語」が復古したかのように思える現状において起こっているのは、つねに私以外の誰かの大きな物語に対する私の小ささ、弱さにおいてしか、われわれはわれわれの実存を安定させることができなくなっているということだ。(p. 166) >しかしひとつの理論が構築される現場には、ひとりの人間がものを考えるときの具体的な手触り、その時間の厚み、そのサイズ感も同時に刻まれているはずであり、図書館に敷き詰められたアーカイブの具体性と差し迫った急務の具体性とは別に、理論に固有の具体性があるはずだ。(p. 168) >非常に微妙な、しかしきわめて重要なことだが、これらの質問表のなかでいずれかの選択肢を選ぶことと、そのような質問票をつきつけられ続けること自体の違和感を思考することは両立するし、真にポジションの外を考えるということはその両立可能性を考えることである。(p. 169) >概念は理論を構築する手段であると同時に、そのプロセスの具体性が刻まれる場でもある。理論はどこまで行っても抽象的だが、概念は具体的な言語的実体であり、また、テクストという物質と同一視されるわけでもない。したがって概念は手を離れるものであり、ひとつのテクストから異なる理論を引き出す「解釈」と呼ばれてきた実践は、概念のこの二重の「手離れ」によってこそ可能となる。(p. 179) >書く者がただ「書き写す」ことを試みたとしても、読む者は勝手にそれ以上の思考を幻視する。思考とはひとりの人間の頭のなかにあるではなく、言葉が可能にするこのネットワークとして実現される。しかしそれは「ポジション」のネットワークではなく、書かれたものから透かし見られる、書く者の「スタンス」のネットワークである。(p. 180)
  • 2026年1月14日
    回転木馬のデッド・ヒート
    ティーンエンジャーの頃に親しんでいた村上春樹作品を読み返そうという試み。本作は友人からのおすすめ。実家の自室に置いてあった。これには、「ハンティング・ナイフ」を除いて、作者が聞き取りをした相手の話を元に執筆している(という体の)短編が収録されている。回転木馬というのはわれわれが身を投じている「システム」のことを指す。それは資本主義経済だったり消費社会だったりする。もっと個別具体的かつ文脈依存的な場合もある。相手に追いつくことはなくて、抜け出すこともできない。特に「雨やどり」という作品を気に入った。「セックスが山火事みたいに無料だったころ」(p. 142)ってすごすぎる。 >僕の体の中にはそれを拡大して切り刻んでしまいたいという欲求がどんどん大きくなっていくのがわかりました。そして、それを押えきることは僕の意志の力では不可能でした。ちょうど口の中で舌がどんどんふくらんで、しまいには窒息してしまうのと同じようなかんじです。それはなんといえばいいのか、セクシュアルな感情であり、それと同時に非セクシュアルな感情なんです。まるで液体みたいに僕の中の暴力性が毛穴から浸みだしてくるようなそんなかんじなんです。そういうものを止めることはたぶん誰にもできないんじゃないかと僕は思います。そんな暴力性が僕の体の中にひそんでいたなんてそれまで僕自身も認識できなかったんです(「野球場」p. 156)
  • 2025年12月26日
    なぜ人は締め切りを守れないのか
    「なぜ人は締め切りを守れないのか」という問いに対して、本書は、「私たちの〈生きている時間〉と〈締め切りの時間〉がいつもずれているから」と応答する。時間は普遍のものではない。特定の制度や装置(=〈時計〉)によってデザインされる政治的なものである。その代表例が「プロジェクト」であり、これこそが〈締め切りの時間〉を作り出していると筆者は論じる。 俺はほとんど仕事のないプロジェクトに配属されて、毎日が退屈で苦しい。プロジェクトそれ自体の終わりは見えているが、業務の締め切りが緩やかすぎて、俺の〈生きている時間〉に追いついていない。労働者にとってこの事態はひじょうに喜ばしいことなのに、自分の成長を実感できない。それが苦しい。視点を変えれば、これまで俺は外部から与えられたプロジェクトによって、成長させてもらえていたとも言える。筆者の提案する「プロジェクトいじり」(p. 129)は今の俺にとって有意義な提案だった。あと、「丁寧な暮らし動画で映される暮らしは、どうみても嘘である」(p. 141)と言い切っていておもしろかった。なお本書で展開される議論の一部は、難波優輝(2025)『物語化批判の哲学』と重なる。セットで読むとよさそうだ。 > 本当は大切な誰かとゆっくり時間を過ごすべきなのに、あるいは趣味に没頭したいのに、スマホの通知に呼び出された経験がある人は多いだろう。それは価値あることを優先したのではなく、期限を、ひいては締め切りを優先してしまったのである。(p. 70) > 全ての仕事が、誰がやっても同じになるよう分解され、交換可能な状況でこそ、資本は労働者に対して強い立場になる(あなたの代わりはいるのだから)。他方で、労働者としては、自分にしかできない仕事を持っていることは、会社と交渉する際の心強い武器となる。資本と労働者は、労働過程をめぐって、知識や経験を賭けた攻防を行っているのである。(p. 113) > だから、プロジェクトの時間に巻き込まれたとき、私たちはいち早く情動を信頼することが大切だ。プロジェクトから退散するなら、早ければ早い方がいい。(p. 128) > 「迷惑がかかる」[......]この種の発言は、言い方はそれぞれ違えど、ただ「暴走したプロジェクトの皺寄せをみんなで被ろう」と言っているにすぎない。一見、誰か関係者のことを思いやっているようでいて、実は人間よりプロジェクトが優先されているだけだ。人間がさき、プロジェクトはあと、なのだ。(p. 132)
  • 2025年12月23日
    人はなぜ結婚するのか
    結婚とは、他人と支援関係を含む共同生活を構築することであり、近代化の成熟に伴い内部化——すなわち、結婚にあたってその当事者がコントロールできない外部的要素の影響が小さくなること——を強めていると論じている。二者関係の取り決めの中でお互いがその気になって生活をしていくのが結婚である、ということだ。主張が一貫しており、論点も整理されていたからとても読みやすかった。 > 結婚でも子を持つことでも、私たちはその選択を、人生の他の事柄、周囲の人間関係から離れたところで、言ってみれば「真空」のなかで、自分たちの「価値観」に基づいてポンと行うわけではない。私たちの選択は、私たちが置かれた個々の複雑な、しばしば困難な状況に埋め込まれたなかで行われる。したがって、そもそも選択ができなかったり、選択の結果予想できなかった困難に直面したり、不安に悩まされることは現代人にとって当たり前の状態である。(p. 192) > 家族を持つことがそれだけで幸せだという前期近代の固定的モデルが有効性を失い、さまざまにある幸福のなかに家族生活が内部化(オプション化)していく。すると、パートナーを決める上で「一緒にいて楽しい」という要素も重視されるようになっていく。逆に言えば、この要素を提供できない人は、成人の共同性から排除される。(p. 203)
  • 2025年12月6日
    ビジネス人類学の教科書[第2版]
    "ビジネス人類学者になるということそれ自体は、ビジネスへの賛否を表明するものではない。問題の解決や、古くからある現実に対する新たな視点に光をあてる対話へ積極的に関わろうとする意思を表明することである。"(p. 158)/"エスノグラフィーが表すものはコミットメントである。"(p. 49)/ビジネス人類学(ないし産業人類学)がどのようなアプローチや学術的態度からビジネス現象を理解しようとしているかについて知ることができた。人類学を特徴づける手法として「全体論」的な視点が強調されていた。定性的手法に基づく経営学や組織論とどのような違いがあるのかについて知りたかったが、それらと人類学的な全体論の差異を学ぶことができなかった。実証主義的なマーケティング・リサーチと解釈主義的なエスノグラフィーという対比は典型的すぎた。ていうか、経営学における定性的研究がビジネス人類学的な手法を援用していると理解したほうが適切なのかもしれない。あと、アメリカで初めて社会学部を開設したのがシカゴ大学って初めて知った。
  • 2025年10月12日
    親密性の変容
    親密性の変容
    難解で、全く分からなかった!/“今日、自己は、すべての人にとって再帰的自己自覚的達成課題となっている——過去、現在、未来の多少とも連続的な統合なのである。”(p. 51)/“二人がいろいろな問題で一緒になって育んでいく共有の歴史は、必然的に他の人たちを締め出し、他の人たちは、一般化された「外部世界」の一部となっていく。排他性は信頼を保証するものではないが、それにもかかわらず、排他性は、信頼感を触発する重要な要素となるのである。”(p. 207)
  • 2025年10月10日
    悪魔情報
    悪魔情報
    926: 名無しさん:2022/05/05(木) ByTheWayキタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!!!!
  • 2025年9月30日
    闘争領域の拡大
    闘争領域の拡大
    "コンピュータ技術者という僕の仕事は要するに、照合すべきもの、合致させるべきもの、合理的判断の基準を増やすことだ。なんの意味もない。はっきりいって、ネガティブなものでさえある。“(p. 104)
  • 2025年9月4日
    習得への情熱
    習得への情熱
    "プロセスこそが何よりも大切だという考えを持ったこと(……)について本人たちは、エゴにとらわれることなく学ぶことだけに専念している証拠だと主張するかもしれないが、本当のところは、自分自身と向き合うことを避けていることへの言い訳にすぎない。"(p. 57)/台湾での試合の一挙手一投足を描写できるのってすごすぎる。/"僕はチェスと文学を学びながら、一個のリュックサックとノートだけを持って世界を旅した。"(p. 88)/ここ羨ましすぎる。/機能的な実用書であると同時に美しいナラティブをもつエッセイだった。
  • 2025年7月30日
    物語化批判の哲学 〈わたしの人生〉を遊びなおすために
    “物語化はしばしば他人の理解をもたらすものとして称賛されるが、しばしば他人の容易なパターン化に墜落していく。理解できないことを無理に「理解しようとしない」勇気や、物語に還元できない断片的な声を「断片のまま」受容する想像力が、物語的不正義を抑止する新たな美徳となるだろう”(p. 44)
  • 2025年7月17日
    欲望する「ことば」 「社会記号」とマーケティング
    “男性の間では「女が(自分たち)男を癒す」というイメージが、女性の間では「消費が女を癒す」というイメージが、分化して成立していたといえそうです。”(p. 37)
  • 2025年7月16日
    移動と階級
    移動と階級
    “なぜなら、地方移住への関心の高まりは、自己責任思考と競争が高まる新自由主義社会において、社会的に弱い立場に置かれた人たちが生き延びるための、“せざるをえない移動”にもなりつつあるからである。”(p. 100)
  • 2025年6月7日
    なぜ人は自分を責めてしまうのか
    "私も含めて、この世に生きているかぎり、誰に対しても加害をせずには生きていけません。いつも誰かを傷つけているんです。それを自覚してるかどうか。「加害者にも被害者にもなりたくありません」なんて、ムリだし、ありえない。昨今流行りのスローガンほどムカつくものはないですね。"(p. 95)
  • 2025年6月1日
    依存症
    依存症
    "しかし仕事という大人にとっての一大事業も嗜癖になる可能性があるということは、我々がよく言う「働くよろこび」とは一体何かということについて示唆する点がありはしないか。嗜癖的な会館は当然そこに含まれるだろう。だとすれば資本主義社会において働くとは基本的に嗜癖的行為なのだということではないだろうか。"(p. 159)/"あらゆる関係性が二者間で閉じられた時、嗜癖と化していく可能性をはらむ時代になっていると考えるべきだろう。その閉鎖的二者関係は閉鎖的であるがゆえに拘束的でもある。"(p. 165)
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