𓂋⟢˖⊹ ࣪ "肉体の学校" 2026年4月2日

肉体の学校
肉体の学校
三島由紀夫
三島っていいなー  いつまでたっても千吉は起きなかった。妙子は十一時ごろ店へ出ればよかったから、まだ時間は十分あったが、千吉と話をする暇も欲しかった。そこで接吻をして起すつもりで、千吉の寝顔をゆっくり眺めた。   彼の寝顔は、長い睫や、うっすらあいた口もとに、意外なほどの子供らしさを漂わせていた。こんな発見は、千吉にとって一等腹立たしいものにちがいない。妙子はじっと見詰めながら、こんな子供が一夜のあいだ、どうしてあれほどの強い支配権を自分に振ったのか、想像もつかなかった。  寝顔をもっとよく見るために、彼女は邪樫にカーテンをずらして、朝日がまっすぐに彼の顔に射し込むようにした。かすかな渋面が寝顔にあらわれ、眩しげに眉がしかめられたが、浮いた若い脂のために、朝日を受けたその顔は、黄金の浮影のように輝いた。  妙子は強く接動して、彼の顔を枕に深く押しつけた。彼はかわるがわる片目をひらいて、睨んで、 「よせよ。眠いんだ」  と言うのであった。 良すぎる 「又お芝居?」 「お芝居じゃない」とちらと上げた千吉の顔は汗ばんで、今まで見たこともないみじめな表情を示していた。 「お芝居なんかじゃない!妙子!俺が悪かった。たのむから、俺の人生をめちゃくちゃにしないでくれ。俺は永いこと、金持のきちんとした暮しにあこがれてきたんだ。もともと俺は、だらしのないことが好きでこうしていたわけじゃないんだ。 俺はきちんとしたかったんだ。考えてみろ。妙子。俺が金持の息子に生れていたら、何も浅間しいことなんかする必要はなかったんだ。嘘八百で固めることはなかったんだ。俺は室町の家へ行ったときから、あの家のとりこになったんだ。どうしてもあの家で、まともで豊かな生活をしたかったんだ。娘なんか問題じゃない。裏道やうしろ暗い生活がもういやになったんだ」 「そんならまじめに働らいて自分の力で偉くなればいいじゃないの」 「いじめるなよ。いじめるなよ、そんなに。俺にはこれしかやりようがなかったんだ。俺にできることはこれだけだったんだ」 「この人は今一番正直になっている。そして自分のやったことを、みんな自分の哲学のおかげだと言じている。その実、感覚の赴くままに動いたにすぎないのに。……ああ、でも何てみじめな正直さだろう。そんな風に決して考えないことが、この人の唯一の魅力だった筈なのに。この人は表札のない門の魅力を持っていた筈なのに、今自分で下手な字で、その表札の名前を書いてしまった。この人は現在だけに生きている筈だったのに、自分では計画どおりに運んできたつもりでいるんだわ。こんなに自分の美点を台なしにして、しかもそれに気がつかないなんて』 はじめて妙子の心に憐れみが生れた。それは彼女が千吉に対して一度も感じたことのない感情であり、千吉の不遜な魅力を保つために、彼女が自分に禁じてきた感情だった。今その禁が解かれたのだ。 ずっと嘘をついていた人の正直なところ
読書のSNS&記録アプリ
hero-image
詳しく見る
©fuzkue 2025, All rights reserved