
鷲津
@Washizu_m
2026年4月6日
男どき女どき
向田邦子
わたしの本棚
Iにはもうひとつの思い出があります。運動会の時でした。Iは徒競走に出てもいつもとびっきりのビリでした。その時も、もうほかの子供たちがゴールに入っているのに、一人だけ残って走っていました。走るというより、片足を引きずってよろけているといったほうが適切かもしれません。Iが走るのをやめようとした時、女の先生が飛び出しました。
名前は忘れてしまいましたが、かなり年配の先生でした。叱言の多い気むずかしい先生で、担任でもないのに掃除の仕方が悪いと文句を言ったりするので、学校で一番人気のない先生でした。その先生が、Iと一緒に走り出したのです。先生はゆっくりと走って一緒にゴールに入り、Iを抱きかかえるようにして校長先生のいる天幕に進みました。ゴールに入った生徒は、ここで校長先生から鉛筆を一本もらうのです。校長先生は立ち上がると、体をかがめてIに鉛筆を渡しました。
愛という字の連想には、この光景も浮かんできます。
今から四十年もまえのことです。
テレビも週刊誌もなく、子供は「愛」という抽象的な単語には無縁の時代でした。
私にとって愛は、ぬくもりです。小さな勇気であり、やむにやまれぬ自然の衝動です。「神は細部に宿りたもう」ということばがあると聞きましたが、私にとっての愛のイメージは、このとおり「小さな部分」なのです。

