masaya "歩き旅の愉しみ" 2026年4月6日

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@masaya
2026年4月6日
歩き旅の愉しみ
歩き旅の愉しみ
ダヴィッド・ル・ブルトン,
広野和美
歩くことは、強い意味で「存在する」ことだ。 それは”存在する(exister)”の語源である"ex-sisteresが、「決まった場所から遠ざかる」「自分の外に出かける」という意味であることからも想起される。小径や散策路を探し求めて歩くのは、現代のポストモダン社会の基本的な価値に対する一種の「揶揄」でもある。 ひとつの道は必ず別のいくつかの道に通じ、その道はさらに別のいくつかの道につづくが、どの道に進むかは、どこまでも旅人の主体性にゆだねられている。ひとつの大陸上に何本もの道が巨大な蜘蛛の巣を張り巡らせ、その糸は絡み合い、数えきれないほど交差する。道行く者は何千回となく、どの道に進むべきか決めなくてはならない。あちらの道よりもこちらの道がいいと選びながらも、その道がどこに向かうかはわからない。選ばなかった道は、二度と姿を現さないだろう。交差点は、異なる方向に向かう二本か三本の道が交わる場所というだけではない。そこでは、どちらに進むかを選択し、チャンスをつかんでみせるという強い意志を示す必要がある。 あるルートを選ぶことは、ほかのすべてのルートを無視することだ。それでもやはり、見捨てたルートに進んでいたら、どこに向かっただろうかと、一末の哀愁のようなものを感じる。もしこの道を進んだなら、人生を輝かしいものにしてくれる何かに出会えたかもしれない。もしあの道を行けば、最悪の状況に突き進んだことだろう。いやいや、そんなことはなかっただろう、などと。 私たちの人生は、実現したことよりも、逃した幸運のほうがずっと多い。どんな選択にも、犠牲がともなう。ほかの道でなくこの道を進むと決めたために、何を失ったのか。いかにも素晴らしそうに見えたほかの目的地でなく、この目的地に行くと決めたがために、何を失ったのか。あるいは何を得たのかは、決してわからない。 ひどく迷って危険な状況に陥っている人を除き、GPSは歩き旅の哲学に反する。GPSは道をルートに変え、道そのものよりも目的地を優先させ、道を解体して単なる味気ない通路に変えてしまう。GPSは自然の詩情あふれる風景を消し去り、道の情報を一連のデジタルデータに変換する。しかもデータが表示される画面を見つめることで、周囲の風景や雰囲気を気にも留めなくなる。GPSは移動を「道という概念を失くしたユーティリティ」に変えてしまい、もはや道に迷うことはなくなる。道を尋ねたり、思いもかけない場所を見つけたりすることもない。あらゆる空想を徹底的に排除して、ルートを進むのは「ひたすら画面を見つめる目」が行うからだ。自分で進む方向を決める満足感は消え失せる。進む道はモデル化され、歩く者は受け身になり、何も率先して行おうとはせず、ツールの指示に従うだけだ。もはやほかの通行人と力を合わせることなどなく、誰もが他人に無関心なまま、自分の「泡」の中に閉じこもる。 そのうえ地図や直感に頼るのをやめてGPSに任せれば、経路を記憶しようとしなくなり、画面にばかり注意を向けて、周囲の風景に目を向けなくなる。空間が立体感のないイメージで表示され、目的地までの一区画しか把握できない。 リュックは、要するに、背後に残してきた住まいの象徴だ。旅の途上で無防備にならないために必要なものが入っているだけでなく、我が家にはほかのもの、持ってくることのできなかったものがすべてある、ということを思い出させてくれるのだ。 日本人の宇宙観によると、人間は自然の中に含まれている。人間は自然の構成要素のひとつだが、支配する立場では決してない。岩山、滝、木、天変地異などの中に宿るパワー、それが神であるととらえる。富士山は、その最も生き生きとした表出だ。自然は無気力ではない。自分なりのやり方で呼吸をし、見て、聞いて、感じて、人が通れば目を覚ます。 このようなアニミズム仰においては、人間の務めは周囲の環境の秩序を乱すことなく、調和しながら生きることだ。
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