
綾鷹
@ayataka
2026年4月8日
人を殺すのは「災害」ではない。
いつだって「忘却」なのだ――。
東日本大震災の最前線に住み込み、現地の人々と共に暮らしながら、小さな声に耳を傾け続けた日々。
家族全員を失った女性、直後に授かった新しい命、児童や教員の死に苦悩する学校関係者、親友のカメラマンの死……。
朝日新聞に掲載され、大反響を読んだ「南三陸日記」の続編とも呼べる震災ルポルタージュ。
東日本大震災からもう15年も経つのか。。
当時、津波で流される被災地の様子をテレビで見て衝撃を受けたが、今となってはほとんど思い出すこともなくなっていたので、3.11から少し時間が空いてしまったがこの本を。
大切な人が亡くなり、住んでいた場所も失い、大きな悲しみを抱きながら生きていくとはどのようなことか。。
テレビの映像で見るだけでは実感が湧かないが、個人の物語を知ることで少しでも苦しみが心に刻まれる。
亡くなった娘の口から土をかき出してあげることしかできなかったと泣く母親のシーンは涙が止まらなかった。
また、この本の節々に著者の「ジャーナリズムとは何か」という葛藤が見られることも、この本を魅力的にしている。
大きな目的のためには犠牲にしなければいけないものもあるということは正しいかもしれないが、それでも相手や自分の思いを大切にする意思を貫く著者に好感を持った。
・頻繁に見る夢の続きを、私は現実の過去として記憶している。泥に埋まった子どもの遺体を足元に見たとき、私は体の芯から声を絞り出すようにして泣いた。そしてその直後、「なぜ我々はこの子を逃がしてやることができなかったのか」と周囲をぐるりと見渡したのだ。
近くに壊滅した小学校や低層造りの病院が見えた。多くの避難民が津波に飲み込まれた海抜わずか数メートルの避難所が見えた。安全地帯の高台へと続く細くて険しい階段が見えた。津波の到来を見えにくくする、高くて不格好な防潮堤の残骸が見えた…・・・・。
そして、そんな命を守るべきはずの無数の人工物のなかで、私は「メディアはこれまで一体何を伝えてきたのだろう」と絶望した。今目に映っているすべては、先人たちの告を十分に語り継いで来ることができなかった、メディアによって作り出された光景ではなかったかー。
人を殺すのは「災害」ではない。いつだって「忘却」なのだ。
そう思えた瞬間、私は自分が何をすべきかを明確に理解できるようになったし、あの日の夢を見ることを恐れなくなった。
・正午過ぎ、消防団員たちは昼食を取るため避難所に戻るというので、私は彼らに礼を言って一人で病院を目指すことにした。途中、農地だったとみられる場所で三〇代の女性が地面に一人うずくまって泣いているのに遭遇した。声を掛けても、反応がない。不安になってしばらくその場に立ち尽くしていると、女性は私に向かって震える声で話し始めた。
昨日、幼い娘がここで見つかった。泥に埋もれていたのを親類の一人が見つけてくれた。
自分がやってあげられたのは、いつも歯磨きのときにしているように、娘を膝の上に寝かせ、口の中の泥をかきだしてあげることだけだった・・・・・・。
私は黙ってその女性の話を聞いていた。そして次の瞬間、私はなぜか目の前の女性の話を記事にできないかと考え、彼女に名前や年齢を尋ねようとした。
女性は頭を左右に振って抵抗するように激しく泣いた。そんな女性の拒絶反応を見て、私は自分が何をしているのかがわからなくなった。
私は何のためにここに来ている?一体ここで何をしている?
・二〇一一年七月三一日、水も電気も止まったままの校舎の二階にそれぞれの高校の制服を着た三〇人の「卒業生」たちが集まった。何もかもがあの日のままで静止した風景の中で、代表の卒業生は周囲のすすり泣く声にかき消されながら、次のような答辞を読み上げた。感動的なスピーチなので、割愛しないで掲載したい。
「三月一一日、私たちは卒業式を翌日に控えて最後の中学校生活を過ごしていました。中学三年間を振り返ってみると、数えきれないほどの思い出があります。しかし、そんな楽しい時間も千年に一度といわれる大津波が変えてしまいました。
午後二時四六分、突き上げられるような揺れ。全校生徒が校庭へと避難し、先生が「もっと高い所に逃げろ』と指示を出した直後、まだ高い所に逃げきれていない生徒や地域の方がいるのに、津波は容赦なく押し寄せてきました。建物が、車が、そして人が流されていくのを見て、涙も出ず、一睡もできず、夜が明けたとき、私の目の前にはまるで現実とは思えないような光景が広がっていました。あの美しかった戸倉の町は何一つない平地になり、残っているものといえば人々の悲しみでした。
私は親類を亡くしました。小さい頃から私を可愛がってくれた私の大切な存在でした。
今でもふとその人のことを思い出します。親類、先生、先輩、後輩、私の大切な人たちの命が奪われました。家や思い出ならこれから新しく作っていける。しかし、人の命だけはいくら帰って来て欲しくても、もう二度と帰っては来ません。私は生かされたこの命を決して無駄にはしません。
この震災で私たちの生活は大きく変わりました。私は親元を離れ、高校の避難所で生活していました。私も含め、卒業生三〇人はそれぞれ新しい生活を送っています。今こうしてみんなに会え、卒業式を迎えられたこと、これほど嬉しいことはありません。この日を迎えることができたのも先生方、保護者の方、そしてみんなのお陰です。
これから先、またくじけてしまいそうな困難にぶつかるかもしれません。しかし、こんな大きな震災を乗り越えた私たちなら大丈夫です。もしだめだと思ったら誰かに手を借りてもいいから、これからの将来悔いのないように生きましょう。それがこれからを生きる私たちの使命だと思います」
・それでも、フリースクールを主宰する飴屋は暗い顔一つ見せずに、子どもたちと一緒に歌を歌ったり、ろくろで陶芸作品を作ったりしながら、自らの中に震災の意味を見いだそうとしていた。
「最近、色々なことを考えます」と飴屋は私にこんな打ち明け話をしてくれた。「農災の記憶をどうやって子どもたちに引き継いでいくか。被災地の子どもたちはたぶん、この経験を一生忘れないでしょう。問題は東京や大阪といった都会で暮らす子どもたちです。彼らは近い将来、必ず忘れる。震災がテレビやパソコンを通じて頭脳にインプットされているからです。日頃からゲームや映画でショッキングな映像を見慣れている彼らにとって、画面を通じてインプットされる情報はリアリティーを持ち得ず、あっという間に忘れ去られてしまう」
・<子どもたちには無理のない範囲で、ありのままの被災地を見せた方がいいー)
そう自然に思えるようになったのは、被災地で出会った教師や親たちの影響が大きかった。南三陸では彼らの多くが子どもたちに対し、今回の災害を悪夢として回避するのではなく、実際に自分たちに起こった出来事としてしっかりと受け止め、そこから何をすればいいのか、自らの頭でしっかりと考えるよう指導していた。あるいは、そうするしか他に方法がなかったのかもしれない。多くの児童・生徒が身内や友人を亡くし、故郷というアイデンティティーを失っていた。生まれ育ったこの町をどうすればいいのか、これからどうやって生きていけばいいのか、現実を現実として正面から受け止め、それを嚥下しなければ、前に進むことができなかったのだ。
そしてそれは同時に、被災地の子どもたちだけに限定されることではないように私には思えた。東日本大震災が引き金となって次々と浮上してきた問題はーんなに爆小化して考えてみてもー被災地だけに留まる性質のものでは決してなかった。幾重にも沈み込むプレートの上に連なる列島で、次なる災害にどう備えるのか。国家予算の何倍もの負債を背負った借金国家で、復興資金をいかに捻出するのか。石油も石炭も持たず、産出国からも遥かに遠い極東の島国で、将来のエネルギーをどう確保するのか。それらの問いに対する答えを今後、国民の一人ひとりが自らの責任によって選択していかなければならないのだとすれば、その前にどうしてもその「土台」となる現実を自らの中に取り込んでおく必要がある。
・風間は根っからの冒険家であり、俳優やアナウンサーのように人前で上手に話ができる人間ではなかったが、何回目かの「がれきの学校」のなかで、彼が子どもたちの前で披露した話が忘れられない。彼は若い頃にバイクで到達した北極点や南極点と目の前の被災地との共通点について、子どもたちの前でこんなふうに話して聞かせた。
「北極や南極に行くとね、自分がいかにちっぽけな存在かっていうことがわかるんだ。そこでは自然は大きくて、強くて、もう絶対的なんだ。でもね、東京とかそういう都会で暮らしていると、なんだか人間が急に偉くなって、自然を制圧したみたいな、そんな勘違いをしちゃう。これが危ないんだなあ。だってさあ、人間は今も自然をまったく制圧できてなんかいないんだぜ。だから自然は時々、どっちが強いのか、人間に見せつけにくる。地震や津波や台風が襲ってきたとき、人間は絶対に自然には勝てないことを思い知らされるんだ。じゃあ、僕らはどうすれば良いんだろう?自然におびえて暮らす?コンクリートの家を造ってその中に隠れる?」
国間は困ったような顔つきの子どもたちを見回して笑った。
「大事なことはね、いつだって『逃げる』ってことなんだよ。危なくなったら一目散、スタコラサッサと逃げちまう。でも逃げるためには、日頃から大自然に触れて、自然の怖さやその前触れを十分に知っておくことが必要なんだ。雨が降ったら川はどうなるのか、地震が起きたら山はどうなるのか、津波が起きたら海はどうなるのか。自分の目で見て確かめて、もし自然が襲ってきたときに、しっかりとそこから逃げられるようにしておく。人間は自然には絶対に勝てない。それを知っているから逃げるんだ。自然の怖さは自然のなかでしか学べない。コンピューターゲームじゃ絶対に学べないことなんだぜー」
・婚姻届を提出する日の前夜、智史は照れながらエリカに言った。
「俺たち明日から夫婦なんだなあ」
翌日、激震の直後にメールが入った。
「大丈夫か」
その四文字が最後のメッセージになった。
エリカは涙をポロポロとこぼし、時折嗚咽を漏らしながら一生懸命感情を吐露した。
「本当は、辛くて、辛くて、何度も死のうと考えました」とエリカは私に言った。
「でも、その度に、お腹の子が『生きよう、生きよう』って蹴るんです」
・事実、子どもが生まれてくるということは、何だかとっても忙しいことだった。私が山奥の実家を訪れる度に、周囲がどんどん慌ただしくなっていくのが手に取るようにわかった。江利子は会う度に「私たちは生まれてくる赤ちゃんに『生かされている』のよ」と話していたが、本当にその通りだと私も思った。江利子は家族四人の全員を失い、エリカは結婚したばかりの夫を亡くしている。それなのにーーという表現が正しいかどうかは別としてーーエリカの出産が近づくにつれて、周囲は「今はそのことは後回しだ」という雰囲気になり、エリカも、江利子も、そしてエリカの母親の台子までもが、「もうすぐ生まれるからね」と徐々に気合が入っていくのだ。新しい命の誕生が周囲にこれほどまでに影響を与えることに、私は畏怖のようなものを抱かずにはいられなかった。
・江利子は助産師の腕から生まれたばかりの乳児を受け取ると、「ありがとう、ありがとう」と二度繰り返し、「こんにちは。おばあちゃんだよ」と顔を最大限近づけて言った。
乳児が困ったように泣き出すと、江利子は「おお、おお、泣くな、泣くな」と笑顔であやし、「可愛い、可愛い」と愛おしそうに乳児の頬を人さし指でさすった。
分娩室の片隅で、私は無心でシャッターを切り続けた。紅潮した新生児や歓喜に沸く二人のおばあちゃんの姿を写真に収めた後、出産を終えたばかりのエリカの表情を押さえておこうとレンズを振った。瞬間、その分娩台上に広がっていた光景の凄まじさに、私は思わず息を飲み込んだ。
そこには出産したエリカの頭を挟むようにして、亡くなった智史の黒色の位牌と黒枠の顔写真がそれぞれ両側に飾られていたのだ。桃色の分娩台のシーツの上で、その二つの黒い物体は明らかに「異物」として浮き上がって見えた。
あまりにも凄絶な出産風景だった。
エリカは新婚七日で無念のうちに亡くなった新郎の遺影を見つめながら、この世に新しい命を産み落としたのだ。まるで「死」と「生」を交換するように。
・「復興」という言葉は極めて残酷な「行政用語」である。たとえ行政がインフラやシステムを元通りに直したとしても、そこで亡くなった人たちは戻ってこないし、大切な家族を失った人たちの心が癒やされることもない。それなのにーあるいはそれを承知で一行政は「復興」という名の打ち上げ花火を上げ、人々に「前を向け」「過去は忘れる」と煽る。比較的被害が軽微だった大多数の人たちがそれらの空気を歓迎し、大切な家族や家を失った少数派の人たちがその流れから取り残されようとしていた。遺族たちはただ戸惑いながら、その場に立ち尽くし、江利子もエリカも当時はまだ生きる場所を求めて暗闇の中を必死にさまよい歩いているような時期だった。
・かなり個人的な見解を記せば、新聞社やテレビ局といった大手メディアはこれまで、記者の実力を多分にその情報処理能力によって評価しすぎてきたように思う。官公庁から提鉄される発表をいかに早く、そして正に記事にできるかが記者の「実力」を測る大きな判断材料の一つになっていたし、その傾向は今後もどんどん強まっていくだろうというのが関係者の一致した見方でもあった。メディアの経営状況が一様に悪化していくなかで、編集部門はこれまでのようにはたくさんの記者を抱え込めなくなってきている。限られた記者の数で従来通りの紙面を作ろうとすれば、必然的に情報処理能力の高い「優秀」な記者を発表の多い主要官公庁に張り付け、「記事」を大量生産せざるを得なくなってしまう。
時間はかかるが、人の心のひだを描けるような書き手は次第に地方へと追いやられ、やがて読み手が思わずホロリとなるような温かい記事が全国面から姿を消した。
そんな「非効率」な記者たちが震災後、急に息を吹き返したように見えたのは、単に読者が震災を機に温かい記事を求め始めたからではなく、被災地ではあらゆるシステムが崩壊していたため、「優秀」な記者たちがどんなに効率良く取材をすすめようと思っても、その手法がうまく機能しなかったからである。
「優秀」な記者たちは通常、真っ先に組織の頂点に突き刺さる。そこにはすべての情報が集約されているだけでなく、記者が欲している情報だけを選別して提供してくれるという報道者としては極めて便利な「メリット」があるからだ。当然、それらの情報の多くは提供者側の意思や意図によって事前の「選別」を受けるため、世論を誘導するための情報操作につながるという危険性をはらんでもいた。
ところが、被災地に一歩足を踏み入れると、それらの手法がまったく役に立たないことに気づく。町役場や察署の幹部に挨拶に行っても、彼らはその日の遺体の搬送数や今後
建設が予定されている仮設住宅の数くらいの情報しか持ち合わせていない。記者が取材しなければいけない内容はーつまり読者が今最も求めている物語は一町で暮らしている「普通の人々」の中にこそ眠っているのだ。
日頃から報道対応に慣れている官公庁の幹部ではなく、取材を受けることがまったく初めてという「普通の人々」といかに接し、どのように震災時の経験や未来への不安を語ってもらうか。そのとき、取材者は初めて自分に与えられている武器が自らの人間性しかないことを思い知る。数十の人に聞いて初めてわかる悲しみがある。避難所を一カ所ずつ訪ね歩いていくことでしか見えてこない不条理がある。そんな「非効率」な手法を繰り返すことでしか、被災地では記事を書くことができなかったのだ。
・赴任前はどこに住むかもわからなかったため、東京・国立の借家を出発する際には取材の参考となりそうな読み応えのある書籍を数冊、自宅の本棚から厳選してバックパックに詰め込んできていた。私が選んだのは、『開高健全集第一一巻』と『向田邦子全集第一巻に、そして近藤紘一の『目撃者』だった。
過去を恥ずかしげもなく告白すれば、私はこの三作家への偏愛の中で青春期を過ごした。
開高を読んで世界の奥行きを知り、向田の言葉で人を愛することの切なさを知った。近藤の優しさに憧れて新聞記者を目指し、三作家ではないものの、外岡秀俊の『北帰行』を読んで朝日新聞社に入社した(外岡は当時、朝日新聞社で編集委員を務めていた)。
私が偏愛した三作家には二つの共通点が存在していた。一つは戦争という「非日常」の中で人々の「日常」を描こうとしたこと。もう一つはいずれも六〇歳前に亡くなっているということだった。近藤は四五歳で胃がんに倒れ、向田は五一歳で飛行機事故に遭い、開高は食道がんを患い五八歳で他界している。前者は大きなものは小さなものによってしか描けないのだという職業的真理を、後者は命というものの有限性を、青春期の私に教えてくれた。
・まともなことは何一つ考えることができなかった。三〇分以上泣き続けた後、(彼)が何度も口にしていたあるフレーズがふと胸に浮かんだ
<悩んだら、なぜその職業を選んだのかを考えろー>
それは生前、<彼>が事あるごとに私に教えたフレーズだった。職業を選ぶことは、すなわちどう生きるかを選ぶことだ。自分にとって大切なものは何か、最後まで失いたくないものは何か。もし人生で迷ったら、なぜその職業を選んだのかを考えろーと。
社会部長から被災地赴任の打診を受けたのは、彼)の死を知った数日後だった。部長からは岩手か福島を勧められたが、私は「南三陸町で」と希望を伝えた。そこが<彼)の出身地であり、二人で何度も魚釣りや山菜採りに出掛けた思い出の場所だったからだ。
<彼)はよくこんなふうに故郷を語っていた。
「いい町なんだ、海も人も穏やかでー」
私は職業記者として、<彼)が命がけで守ろうとした風景を、しっかりと後世に書き残そうと思ったのだ。
